敦盛最期

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<主な登場人物>

平敦盛(たいらのあつもり):(?―1184

  平清盛の異母弟の平経盛の末子。一の谷の合戦で討たれたとき16歳と伝えられる。従(じゅ)五位下に叙せられたが官職についていなかったので無官大夫(むかんのたゆう)とよばれた。事績としては確かなことは何も残っていないが、能や幸若舞でも題材とされて後世に残る。幸若舞「敦盛」は、かの織田信長の愛した舞として良く知られる。

 ※参考:幸若舞「敦盛」の熊谷直実出家の場面の詞書

  「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」

●熊谷直実(くまがえなおざね):(?−?)

 武蔵国大里郡熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠とした武士。「熊谷系図」では直実の祖父は平盛方と言い、関東に基盤を築いた平貞盛の六代の孫という。勅勘をうけて関東に下向し息子の直貞から熊谷郷を拠点にしたと伝える。直実は、保元の乱・平治の乱では源義朝旗下として戦ったが、その後は平氏に仕え、治承41180)年の頼朝挙兵の折には討伐軍の大庭景親に従って頼朝と戦う。その後御家人となり、治承4 (1180) 年の常陸国佐竹氏の討伐、寿永3 (1184) 年の源義仲との戦い、同年の一ノ谷の戦いなどで、常に先陣を切って活躍して、熊谷郷を本領として安堵された。しかし長年母方の叔父の久下直光との領地争いに悩み、建久3(1192)年、久下直光との所領争いに敗れ出家する(「吾妻鏡」1125日条)。以後は法然の弟子・蓮生として活動し、承元2(1208)年、京都東山草庵にて没する (「吾妻鏡」1021日条)。「熊谷系図」は68歳と伝えるが、彼の出家後の事情を詳しく記した『法然上人絵伝』(全48巻・1307年着手10年後完成)の第27巻によると、上品上生の往生を発願する「自筆請願状」を著した元久元年(1204)5月13日には67歳と伝え、死亡したのは、建永2(1207)年9月4日で場所は熊谷の館と伝える。「自筆請願状」から換算すれば、70歳である。

<戦の経過>

源氏方が、義仲・頼朝と仲違いして京の東で戦う間に、平家は讃岐国屋島から摂津国福原へ兵をすすめ、旧都福原を拠点とし、西は一の谷に城郭を構え、東は生田の森を大手の木戸口とし、西国14か国の兵10万余騎を入れて都を伺っていた(「樋口被討罰」)。

寿永3 (1184) 年2月4日。源氏は大手生田森口に5万余騎(大将軍源範頼)、搦め手一の谷に1万余騎(大将軍源義経)を派遣し、東西から攻めようとした。義経が搦め手一の谷に向かったことを知った平家は、北方三草山のふもとに3000の兵を出したが打ち破られ、義経が山の手から攻めてくることもあると判断して、1万余騎を一の谷の山の手鵯越の麓に配置して、決戦を待った。

 

<物語のあらすじ>

合戦は7日の早朝、搦め手一の谷に源氏方の熊谷・平山が5騎で突っ込んだことから始まり(「一二之懸」)、土肥二郎実平率いる7000余騎が続き、大手生田の森では河原兄弟が2騎で突っ込んで討ち取られたことに気付いた梶原平三景時勢500騎を先頭として(「二度之懸」)大手5万余騎が乱入。両軍互いに譲らぬ激戦の最中、鵯越を越えて平家本陣に乱入した義経軍3000の為に平家勢は混乱を極めて敗走。算を乱して沖の船目指して退却した。乱戦の最中で退却する平家軍を追いながら良い敵に会って手柄を上げることを狙っていた熊谷直実の目の前に、良き鎧を着て良き馬に乗った大将軍と思しき平家の武者がただ一騎、ざっと馬を海に乗り入れ、沖の船目指して馬を泳がせた。熊谷が「敵に後ろを見せるな。戻れ」と呼びかけた所その武者は馬を戻し、浜辺で熊谷と一騎打ち。難なく組み伏せて敵の首を討とうとした熊谷だったが・・・・・。息子直家とほぼ同年の若武者と知って心は乱れ、一度は見逃そうとして果たせず、やむなく若武者の首を取ったものの、武家の所業の無残さ悲しさに心痛め、彼が後に武士を捨てて出家する遠因になったと、「平家物語」は語る。

<物語の聞きどころ>

 若武者を討つか見逃すか迷う熊谷と敦盛の応答。そして敦盛を討ってしまってからの熊谷の懊悩。その熊谷の心の動きが「折声」という特徴的な節で切々と語られる。

※参考覚一本「平家物語」の異本、「120句本平家物語」や、元の「平家物語」に近い長編ものがたりである「延慶本平家物語」や「源平盛衰記」では、敦盛の首実験のあと熊谷は、その父平経盛の心情を慮って、敦盛の首と衣装や鎧などを笛とともに添え状を付けて、沖の平家の軍船に送り届けたとあり、熊谷の「添え状」と、これに対する経盛の「返牒」が載せられている。

※参考2:覚一本「平家」や120句本「平家」など語りのテキストでは、敦盛の腰に笛が指されているのを見つけた熊谷が「暁に城で管弦していたのはこの人か」と慨嘆するだけで、その管弦の場面は「一二之懸」でも語られていないが、「源平盛衰記」では、熊谷・平山・成田など都合8騎が一の谷の城の門前に集まったとき、「城の内を聞けば、櫓の上に伎楽を調べ管弦し、心を澄まして遊ばれけれ」と記し、寄せての者ども皆でこれを静かに聞いたとき熊谷が言った言葉として「上臈都人は情け深く心も優しきかな」という「平家」で敦盛の腰に笛を見たとき熊谷が言った言葉を挙げている。きっとこれが本来の記述であろう。