知章最期・浜軍

平家物語topへ 琵琶topへ

<主な登場人物>

◆平知盛(11521185

  平清盛の子。母は時子。同母の兄が宗盛。異母兄が重盛。平治1 (1159) 8歳で従五位下となり、永暦元年(1160年)9歳で武蔵守、仁安3年(1168年)15歳で従四位上となり昇殿を許される。治承3年(1179年)28歳の時には、正三位・左兵衛督となり、寿永元年(1182年)31歳で、従二位・権中納言となる。典型的な有力貴族の息子の昇進の道。しかし兄とは異なり一貫して平家軍団の棟梁として動き、幾たびかの戦いの先頭に立つ。文治元年(1185年)の壇ノ浦の合戦にて入水。

<戦の経過>

寿永3 (1184) 年2月7日早朝。戦は搦め手口一の谷に源氏方の熊谷ら5騎が討ち入り(「一二之懸」)、続いて大手生田森口でも源氏方の河原兄弟や梶原らを先頭に討ち入って(「二度之懸」)始まった。しかし、両軍互いに譲らず源平相乱れて乱戦となり、どちらが勝つともわからなかったが、そこに山の手の鵯越を越えて大将軍源義経率いる3000余騎が討ち入ると平家陣は大混乱となり、本陣は総崩れとなって沖の船目指して逃げ出した(「坂落」)。このため乱戦の中で多くの平家の武将が討ち死にした。

注:ちなみに最近の歴史研究では、山の手鵯越から平家本陣に突っ込んだ武将は義経ではなく、多田行綱などの摂津源氏であると、当時の軍注状を記した公家の日記などから判断されている。そして突っ込んだ平家本陣とは一の谷の城郭ではなく、和田岬の西側にある旧都福原ではないかと。なぜなら現在でも地名として残っている鵯越は福原の背後の高尾山の麓。それほどの急斜面ではなく、昔から和田岬に至る街道が山越えをする坂道であった。摂津源氏軍は生田の森と一の谷から攻めかかった源氏軍と防戦必死の平家軍の戦の狭間で、山越えで平家本陣が置かれた旧都福原をついたのではなかったかと考えられている。この合戦の帰趨を決めた大手柄が義経のものとされたのは、戦のあとで頼朝方の京都駐在の責任者となった義経が、多くの公家たちと付き合う中で、搦め手軍を束ねていたのが自分だとの根拠から、行綱の手柄を横取りしてしまった可能性も指摘されている。

 

<物語のあらすじ>

 平家の武将が次々と討たれる中で、大手口の大将軍平知盛は息子武蔵守知章と郎党の監物太郎頼方3騎で沖の助け舟目指して馬を渚に歩ませていたところ、武蔵国の児玉党とおぼしき軍勢に囲まれ、大将を守ろうとした知章と頼方は討死してしまう。その間に屈強の名馬・井上黒に乗っていた知盛は沖の船に逃れて一命を助かったのだが、「親を助けんと子が敵と組むのを見ながら、いかなる親であっても、子を助けずして自分だけ逃れることはありえない。いざとなれば命は惜しいもので、人の上に立つ身としては恥ずかしい」とさめざめと泣いた。

<物語の聞きどころ>

 息子知章らと郎党の奮戦と名馬井上黒の活躍でかろうじて生きながらえた知盛が、自分を助けようとした息子を見殺しにして逃れたことを嘆き悲しむ様とその心根が、逆に自分を救ってくれた名馬井上黒が敵方の手に渡ることを恐れた家臣が射殺そうとしたのを、「自分の命を守ってくれたものを殺すことはありえない」と強く制止して助けた場面との対比で描かれている。

注: 最近の歴史研究では、この一の谷・生田の森合戦の平家方総大将は、知盛ではなくて、弟の重衡だったのではないかと考えられている。公家の日記などに残る軍注状には知盛の名が出てこないからだ。平家都落ちの前の近江における源氏軍と平家軍の戦いの際に平家軍を率いて出陣した知盛だったが、持病が悪化して戦の最中に京に退き、大将軍を弟の重衡に後退している。以後知盛は戦の場に出ていなかったのではないか。一の谷・生田の森合戦の際には戦に参加せず、沖の大舟の中にいたのではないかと考えられている。したがってこの親子の情を詠った名場面は、平家物語作者の創作ではなかったか。平家物語は、本来は重衡が率いていた平家軍を全部知盛指揮と書き換え、そうすることで彼を悲劇の大将軍と描きあげることで、最後の壇ノ浦合戦での彼の死を、より劇的なものとする効果を狙ったのではないかと。