宇治川

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物語の背景

  寿永二年(11837月に平家を都から追い落とし、京に入った木曽(源)義仲であったが、西海から東上した平家に備中の水島の合戦に大敗。平家は旧都福原に拠点を構えて都を窺う。そして義仲が後白河近臣の排除を狙って後白河の宮殿・法住寺殿を焼き打ちし、近臣を排除したことで、後白河法皇との対立は決定的に。

  人の対立の根本は、後白河が故高倉の第四皇子を皇位につけようとし、義仲は故高倉宮以仁王の子・北陸宮を皇位につけようとしたことにある。義仲は、近衛―二条―以仁王と続く王統を正統なものとし、後白河を非正統とした。これでは対立は根源的であり抜き差しならない。

  法王は源頼朝と手を結び、このため義仲は平家と手を組み、後白河・頼朝と対決する道を選択。だが、平家は義仲の信義を疑ったために、平家が東上するまえに、義仲追討のために頼朝が送った追討軍が京に迫る。しかも義仲が法王と対立したことで彼の正統性が失われ、付き従ってきた信濃・北国の武士の多くが見限り、数万あった義仲軍がわずか数千に。この状況下で戦われた宇治川の合戦。搦め手軍の戦を描いた句。

  頼朝軍の大手三万五千(源範頼)は東海道を行き、宇治川のほとり瀬田で800余騎の義仲軍(今井四郎兼平)と対峙。搦手二万五千(源義経)は、伊勢・伊賀経由で京に向かい、宇治川のほとり宇治で500余騎の義仲軍(仁科・高梨・山田次郎)と対峙。
 しかし軍勢の少ない義仲軍は、瀬田橋も宇治橋も橋板を外していた。

  時は、寿永三年(1184120日(新暦なら34日)。増水した宇治川を渡ることは容易でなかったが、治承四年(1180)の合戦の例にならった畠山庄司次郎重忠軍500余騎が先陣として馬筏を作って渡ろうとしたところに、脇から騎馬武者二騎が踊り出でて、川に突っ込んでいった。川幅約150m

  梶原源太景季と佐々木四郎高綱。

  この句の中心は二人の先陣争いにある。
 句の後半は畠山重忠(
11641205)軍の奮戦の様と義仲軍の敗退の様を描く。

物語の中心・先陣争い

  増水した宇治川を、敵陣を前にして馬で渡ることはとても危険なことであった。
 当時の馬は今の馬に比べて小型である。通常は馬の前足のつま先から肩口までの高さが四尺。120pと少し。だから増水すれば馬の脚が立たず、泳がすしかなくなる。
 佐々木四郎が乗った生食は大馬であったが、それでも肩口までの高さは四尺八寸、145.44p。今の馬よりもまだ小さい。梶原の馬も同様であろう。
 川幅は約150m。増水した川では馬の脚も立たないため、馬を泳がして渡るしかないが、馬の力が弱ければ増水した川に押し流され、重い30sもある鎧を着た武者は、そのまま流され溺れ死ぬ危険がたかかった。だからこそ、畠山がやろうとしたように、500もの騎馬武者が、馬を極めて接近させて馬筏とし、その塊の力で川水の勢いを弱めて渡ろうとした。だがこれでも大串のように、流されてしまうものもある。
 そして対岸の敵陣からは雨あられと矢が射かけられるわけだから、畠山重忠がそうであったように、馬の頭を射られて馬が跳ね上がり、武者が川中に振り落とされる危険もあった。また武者が少しでも顔を上げれば、兜の眉廂の下を射ぬかれて絶命しかねない。

  集団で渡っても危険なのに、たった一騎で突っ込むことは極めて危険な行為であった。
 しかも無事渡河できても、敵は500余騎。敵陣の真っただ中にわずか一騎で飛び込むわけだから、見方が続いて大軍で渡河してこないかぎり、敵の取り込められて討死する危険も高い。
 また、すでに先陣は畠山と決まっていたのに、これを無視して突っ込む。これは明らかな軍令違反でもある。従って、たとえ成功しても後程軍令違反で処罰される危険もあった。

  では、なぜ梶原・佐々木はたった一騎で敵に突っ込む無謀な争い(先陣争い)をしたか?

  それぞれの想いと対立

  佐々木高綱(?−1214)は、宇多源氏秀義(11121184)の四男で母は源為義の娘。秀義は源氏累代の家人。保元平治の乱では源義朝軍に属して戦ったが、義朝が平清盛に敗れて敗死したあとも平家には従わず、本領近江国佐々木荘を失う。そして奥州藤原氏の下にいる伯母を訪ねて奥州に下る途中に、相模の国の渋谷荘の住人・渋谷氏の勧めでここに止まり、渋谷氏の娘を娶ってここで暮らした。
 彼の四人の子息・定綱・経高・盛綱・高綱は伊豆に流罪となった源頼朝の家人となって仕え、頼朝挙兵時からその手足となって彼を支えた。このため佐々木四兄弟は頼朝近臣として重用されたが、近江の本領は失ったまま。しかも父秀義と五男・義清は頼朝挙兵時に平家方についたために処罰を受け、四兄弟の戦功でかろうじて許された状態。
 高綱は頼朝秘蔵の名馬生食を賜ったので、この名馬を梃に宇治川先陣を切ることで本領を取り戻そうとしたのではなかろうか?

  梶原景季(11621200)は、武門平氏の祖・高望王の五男・良文を祖とする鎌倉氏の一族。当主で父の景時(?−1200)は石橋山合戦に敗れて岩屋に隠れた頼朝一行を見逃し、この伝手で頼朝旗下にはいり、頼朝に重用される(侍所別当)。一の谷合戦で500余騎を率いた大名。嫡男景季は無謀な先陣争いをする必要はない。
 景季が生食を賜ることを強く願ったのに頼朝はこれを受け入れず、別にこれを願ったわけではない高綱に生食を与えた頼朝の態度は(「生食の沙汰」)、佐々木兄弟贔屓と受け取られ、面目を失った景季は高綱の先陣を阻止せんとしたのではないか? 

  二人の宇治川先陣争いは、頼朝の寵愛を巡る近臣間のメンツをかけた決死の戦いであった。