宇治川
物語の背景 寿永二年(1183)7月に平家を都から追い落とし、京に入った木曽(源)義仲であったが、西海から東上した平家に備中の水島の合戦に大敗。平家は旧都福原に拠点を構えて都を窺う。そして義仲が後白河近臣の排除を狙って後白河の宮殿・法住寺殿を焼き打ちし、近臣を排除したことで、後白河法皇との対立は決定的に。 二人の対立の根本は、後白河が故高倉の第四皇子を皇位につけようとし、義仲は故高倉宮以仁王の子・北陸宮を皇位につけようとしたことにある。義仲は、近衛―二条―以仁王と続く王統を正統なものとし、後白河を非正統とした。これでは対立は根源的であり抜き差しならない。 法王は源頼朝と手を結び、このため義仲は平家と手を組み、後白河・頼朝と対決する道を選択。だが、平家は義仲の信義を疑ったために、平家が東上するまえに、義仲追討のために頼朝が送った追討軍が京に迫る。しかも義仲が法王と対立したことで彼の正統性が失われ、付き従ってきた信濃・北国の武士の多くが見限り、数万あった義仲軍がわずか数千に。この状況下で戦われた宇治川の合戦。搦め手軍の戦を描いた句。
頼朝軍の大手三万五千(源範頼)は東海道を行き、宇治川のほとり瀬田で800余騎の義仲軍(今井四郎兼平)と対峙。搦手二万五千(源義経)は、伊勢・伊賀経由で京に向かい、宇治川のほとり宇治で500余騎の義仲軍(仁科・高梨・山田次郎)と対峙。 時は、寿永三年(1184)1月20日(新暦なら3月4日)。増水した宇治川を渡ることは容易でなかったが、治承四年(1180)の合戦の例にならった畠山庄司次郎重忠軍500余騎が先陣として馬筏を作って渡ろうとしたところに、脇から騎馬武者二騎が踊り出でて、川に突っ込んでいった。川幅約150m。 梶原源太景季と佐々木四郎高綱。
この句の中心は二人の先陣争いにある。 物語の中心・先陣争い
増水した宇治川を、敵陣を前にして馬で渡ることはとても危険なことであった。
集団で渡っても危険なのに、たった一騎で突っ込むことは極めて危険な行為であった。 では、なぜ梶原・佐々木はたった一騎で敵に突っ込む無謀な争い(先陣争い)をしたか? それぞれの想いと対立
佐々木高綱(?−1214)は、宇多源氏秀義(1112−1184)の四男で母は源為義の娘。秀義は源氏累代の家人。保元平治の乱では源義朝軍に属して戦ったが、義朝が平清盛に敗れて敗死したあとも平家には従わず、本領近江国佐々木荘を失う。そして奥州藤原氏の下にいる伯母を訪ねて奥州に下る途中に、相模の国の渋谷荘の住人・渋谷氏の勧めでここに止まり、渋谷氏の娘を娶ってここで暮らした。
梶原景季(1162−1200)は、武門平氏の祖・高望王の五男・良文を祖とする鎌倉氏の一族。当主で父の景時(?−1200)は石橋山合戦に敗れて岩屋に隠れた頼朝一行を見逃し、この伝手で頼朝旗下にはいり、頼朝に重用される(侍所別当)。一の谷合戦で500余騎を率いた大名。嫡男景季は無謀な先陣争いをする必要はない。 二人の宇治川先陣争いは、頼朝の寵愛を巡る近臣間のメンツをかけた決死の戦いであった。
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