河原合戦

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▼主な登場人物

●源義仲:11541184 源義朝の弟・義賢の次男。母は遊女某。幼名、駒王丸。2歳のとき父が源義平(義朝の長男)に殺されたのち、乳母の夫中原兼遠に木曾で育てられ、木曾次郎と称した。治承4 (1180) 年以仁王 の令旨に応じて挙兵。寿永2 (83) 年、越中礪波山に平維盛の率いる追討軍を破り、追撃して京都を占領。寿永3年(84)源義経、範頼の率いる追討軍のため近江粟津で敗死。 

源義経:11591189 義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれ、幼名は牛若丸、また九郎御曹子と称された。父が平治の乱(1159)で敗死し、やがて公卿の藤原長成(母常盤の再再嫁先)の扶持によって鞍馬寺に預けられる。のち脱出して奥州に赴き、奥州藤原秀衡の庇護下で成長。兄頼朝が治承4(1180)年に挙兵したのに呼応して、駿河国黄瀬川に奥州から駆けつけた。やがて頼朝の代官として寿永2(1183)年末から畿内近国に派遣され、義仲追討(寿永31月)、一の谷に拠る平氏追討(2月)で戦功をあげ、検非違使・左衛門尉となって九郎判官と称された。さらに文治1(1185)2月には讃岐屋島から平氏を追い出し、3月には平氏を長門壇の浦で滅ぼした。だが頼朝の承認を得ず任官し後白河法皇に重用されたことから頼朝と不和となり、平泉に逃れたが、庇護者の藤原秀衡死後に、文治5年閏430日、秀衡の跡を継いだ藤原泰衡に急襲され、衣川館で自殺。

塩屋(塩谷)五郎維広:?−1189 武蔵七党の一角を占める児玉党の本宗家3代目児玉武蔵権守家行の次男、児玉二郎家遠が、武蔵国児玉郡塩谷郷若泉庄の塩谷(現在の埼玉県本庄市児玉町塩谷)の地を父から与えられ、子孫が土着して塩谷を名乗ったことから始まる。この初代家遠の子。奥州合戦(奥州藤原氏を滅ぼした合戦)にて戦死。

勅使河原五三郎有直:?−? 武蔵七党のうち丹党に属す。本貫地は武蔵国賀美郡勅使河原(埼玉県児玉郡上里町)。祖は秩父基房の子直時という。1184年(元暦1)直時の孫有直は鎌倉方として木曽義仲と合戦、89年(文治5)奥州藤原氏追討にも従軍した。

 

<物語のあらすじ>

 寿永3120日、宇治・瀬田の敗戦を聞いた義仲は院御所に参内したものの「奏すべきこともなし」と退散し、六条高倉の愛妾の元に。鎌倉勢がすでに京に入ると聞いて出陣し、上野の住人那波太郎勢と合流して六条河原へ。そこで義経勢の先陣・塩屋、勅使河原らと激戦に。合戦の最中に義経は供の六騎とともに合戦を抜け出して院の御所に参内。院の命に従い、義経勢が院の御所を警護。木曽義仲は迫りくる鎌倉勢の中、手勢を引き連れて駆け回り、粟田口・松坂を抜けて一路今井兼平のいる瀬田を目指した。この時には主従七騎となっていた。

 

<聞きどころ>

合戦の話なので、基本は「口説」「素声」で淡々と経過を述べ、合戦場面は「拾」という軽快な節でさらっと語り通す。前半で宇治・瀬田の敗戦を聞き、法王の御所に参ったものの奏すべきこともなしとて退出し六条高倉の想い人の所でくつろいでいた義仲が、家臣の家光に諫められて戦に赴くまでを「口説」で淡々と語り、続いて六条河原での合戦の様を「拾」でさっと語る。次に「口説」に移って義経が戦の最中を抜け出して六条御所に参って法王に見参するまでをさっと語り、「強声」での義経の名乗りを挟んで、見参の場面は「素声」でさらっと語り終える。最後の場面は法王を義経に押さえられて京外に逃げるしかなくなった義仲の有様を「口説」で語った後、押し寄せる鎌倉勢の真ん中を駆け割って近江瀬田へと向かう義仲の様を、「口説」から「強下」を経て、「中音」で義仲の悔しい心情を朗々と語り、「拾」の「下音」「上音」を駆使して、鎌倉勢の大軍を押し破っていく中で、主従わずか7騎にまで討ちなされるまでをさっと語り終える。締めはこの義仲の死出の旅路を、人が死んで次の生を受けるまでの49日間と例えて「初重」で重々しく語り終える。

 

<参考>

「覚一本平家」は、宇治瀬田の敗戦を聞いて 院の御所に最後の暇に参った義仲は「奏することもない」のでそのまま退散したように描いた。院を拉致して龍華越もしくは長坂越を経て北国へ逃げれば彼の正統性は保てるのに、それをしなかったおろかな義仲という図だ。だが最も古い平家である「延慶本平家」では、義仲の行動は異なる。義仲は宇治・瀬田の敗戦を聞いてすぐさま、院の動座を強要するべく院参し、輿も用意してまさに院の動座というところで、六条河原まで鎌倉方が侵入したとの報をえて、院動座を諦めてそのまま六条河原まで懸けて鎌倉勢との決戦に臨んだと描く。院を拉致して北国に逃れて戦うという正しい決断をしたにもかかわらず、京に馳せ登った鎌倉勢の余りの速さにこの作戦を取れなかったと描いたわけだ。この違いは大きい。「覚一本平家」はあまりに義仲を状況の分からない愚か者と描くことに専念して「事実」を歪めている。

また、「源平盛衰記」では、義仲は六条河原で鎌倉勢との決戦に及んだが、相手の余りの大軍によって撃破され、劣勢を回復し院の動座を図るべく院御所に急遽参ったが、すぐ後から義経勢が攻め上ったので、院動座を諦めて義経勢と再度戦ったと描いていた。「延慶本」「源平盛衰記」のどちらの記述が「事実」に近いかは判断し難いが、すくなくとも河原合戦の実態は「覚一本平家」が描いたものではなかったことを示している。