木曽最期

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物語の背景

 ★木曽義仲とは?:久寿1(1154)?―寿永3(1184).1.20. 清和源氏河内流・源義賢の次男。父義賢は河内源氏家督争いの末、久寿2年(1155年)8月、兄源義朝の長男義平によって館を襲撃され討死。義仲(駒王丸2才)。元家臣の畠山重能や齋藤実盛らに匿われ、乳母夫の信濃豪族中原兼遠に木曽で育てられる。乳母子が今井四郎兼平。治承4 (1180) 年以仁王の令旨に応じて挙兵。

<状況>

後白河法皇と対立し、法王側近や味方する武士約2万が立てこもった御所・法住殿を焼き討ちして法王方630余人を討ち取って、法王側近や法王を幽閉して権力を握ったかに見えた木曽義仲であったが、朝敵となった彼に味方する勢は少なく、信濃を出たとき5万騎あったと言われた義仲軍は脱落者が相次ぎ6・7千に激減(「法住寺合戦」)していたが、頼朝軍との決戦を控えさらに激減。

そして寿永三年(1184120日(新暦なら34日)。ついに源頼朝の追討軍6万と決戦。

瀬田橋:頼朝軍の大手3万5千(大将は源範頼)←800余騎(大将は今井四郎兼平)※下の地図の上方の矢印

宇治橋:頼朝軍の搦手2万5千(大将は源義経)←500余騎※下の地図の下方の矢印

その他、一口(いもあらい)の渡しを守る300余騎と京の義仲本軍はわずか100余騎。また義仲と対立した叔父源十郎蔵人行家を討つため500余騎の勢(大将は樋口次郎兼光)は南河内に(「宇治川」)。※地図を参照

瀬田・宇治も破られたと聞いた義仲は法王を拉致して北国に逃れようと御所にでむいたが、すでに頼朝軍(義経率いる搦手軍)が賀茂川の六条河原まで進軍したと聞いて(地図でわかるように、宇治橋から平安京まではおよそ10`ほどしかない。騎馬の軍団なら1時間もかからずに宇治から到達する)手勢100余騎を率いて出陣。数万の敵軍に対して奮戦し、三条から粟田口を過ぎ四ノ宮河原にたどり着いた時には、主従わずか7騎に打ち為されていた(「河原合戦」)。

<物語のあらすじ>

木曽義仲は、賀茂川河原を北上して龍華越から近江に出て北上し北国へ逃れるか、または長坂越から丹波へ逃れ、そこから北国へ逃れる道もあったのだがこれを選択せず、主従わずか7騎で瀬田を目指した(※上の地図を参照)。そして大津の打出の浜で落ち延びた今井兼平と落ち合う。今井もまた50騎ばかりに打ち為されたが、都に戻る道を選んだ。二人はともに乳兄弟の安否を知りたかったからだ。合流した二人に付き従った兵は、わずか300余騎。義仲は瀬田から今井を追う数万の頼朝軍と最後の決戦で討ち死にを決意し、千を超える敵陣をいくつも突破。その結果主従5に打ち為され、彼らは最後の時を迎える。

  <前半の見どころ>

  主役は義仲の愛妾・巴。一人当千の兵たる巴は主従5騎の中にも生き残り、最後の一戦して夫とともに討死しようとするが、義仲は「東国へ落ち延びよ」と命じる。渋る巴に義仲は「最後に女を連れていたと非難されたくない」と言い捨て、巴は唯一人敵軍の中に駆け入り大将の首を掻き切って捨て、武具を脱ぎ捨てて東国指して逃げ延びる。(生年22・3歳と平家物語は伝える)

  ★巴とは?:?−?。木曾義仲 (→源義仲 ) の妾。中原兼遠の娘とも伝えられる。

  ※この義仲の言の真意はどこに?

  ・120句本平家:「義仲が後世をとぶらいなんや」

  ・源平盛衰記:「無からん跡までの、此事を知らせて後の世を弔わばや」

  この「源平盛衰記」では、この語の前に、「私とともに討死したいとの思いはよくわかるが、信濃に妻子を置いて都に出てから一度も便りをだしていない。義仲が如何に戦い如何に死んだのか、これを信濃に戻って皆に伝えてもらいたい。」との趣旨の言葉を義仲が巴に伝え、そのあとに上記の言葉が来る。これなら「最後に女を連れていたと非難されたくない」との言葉よりも、義仲の心情を正確に描写しており、さらに巴の気持ちをも正確にくみ取った上で義仲が巴に東国へ落ち延びよと命じていることがよくわかる。この形が平家物語の元々の形だったのではなかろうか。しかし語りとしてはここまで説明しきってしまうと説明過剰で、聞くものに想像の余地を与えない。「義仲の言の真意はどこに?」と聞くものに考えさせ、登場人物の心情に思いを馳せることで、より深く物語に引き込まれる効果を狙って省略されたのではなかろうか?

<後半の見どころ>

 今井四郎と主従2騎となった義仲と、主従二人のやり取り。義仲は今井と共に敵に討ち入って死ぬと言い、今井は、義仲は近くの松原に逃げてそこで自害せよ、自分が一人で敵を防ぐからと。だがわざわざ敵に後ろを見せてまでここまで逃げてきたのは、今井と二人で死にたいからだと義仲はなお渋る。

 今井は大勢の中にたった二人で討ち入っても多勢に無勢、二人バラバラにされて無残な不名誉な死を遂げるだけだ。松原の中で自害を遂げることこそ名誉ある死に方だと説得。ようやく納得して一人松原に馬を走らせる義仲を見送って今井は、唯一人、敵の中に駆け入って奮戦。しかし深田に馬の足を取られて動きの止まった義仲が今井の行方を見ようと振り返ったところを、敵方の放った矢が義仲の額に命中し、首を取られる。義仲の死を知った今井は口に小刀を含んで馬から飛び降りて自害。当年33歳。

 ★今井四郎とは?:?―寿永3(1184).1.20。木曾の豪族中原兼遠の子。通称四郎。

 ※この義仲と今井の深い絆はどこから?

 二人は乳兄弟である。今井四郎の母が義仲の乳母。ということはおそらく二人は同年で四郎の方が数か月年長か?二人は赤ん坊の時から共に育ったわけで、兄弟や竹馬の友よりも深い心の絆を持っていたのであろう。平家物語の中に「汝と一所で死なんと思うためなり」と、わざわざ北国へ逃げずに四郎の安否を確かめに瀬田に向かった心情を語らせた場面がある。二人は常日頃、こう約束していたのではなかろうか。二人が粟津で最初に出会った時に義仲が「契はいまだくちせざりけり」と言ったと平家物語は語らせているが、ここがこのような二人の深い心の絆を暗示したものであろう。