樋口被斬
<物語のあらすじ> 十郎蔵人源行家を追って河内の長野まで出向いていた樋口次郎兼光だが、行家はすでにそこにおらず紀伊国名草にあると聞いて紀伊名草まで出向いていたが、都に頼朝軍が討ち入ったと聞いて、兵を返して都に向かった。信濃へ逃れる道もあったが、わずか500余騎の小勢で、数万騎の頼朝軍が占拠する都に向かった。だが淀の大渡で、今井の下人と行き会って、敗戦と二人の死を知らされる。 ここでもまた樋口には、伊勢へと逃れる道もあったのだがこれを取らず、そのまま都に攻め上って行った。だが500あった勢も途中多数脱落し、鳥羽に至ったときはわずか20余騎。ここで樋口は多勢の中に討ち入って奮戦して死ぬはずであったが、なぜか敵陣に降伏。敵の中の武蔵の児玉党(縁者―児玉党の婿と源平盛衰記は記す)から降伏を進められたからだ。 だが児玉党が命を保証し、頼朝軍の大将軍範頼・義経もまた、樋口の武勇を惜しんで命を助けようと動いたが、義仲四天王の一人として勇名をはせて暴れまわった樋口を殺せとの言が強く、樋口は、義仲と部下5人の首を守護して都に入った(1月24日)のち首を切られた(寿永3年1月27日)。 ★樋口兼光とは?:?−寿永3年(1184)1.27。木曾の豪族中原兼遠の子。通称次郎。今井兼平の兄。 <物語の見どころ> 樋口次郎兼光の心の変化。※この生死に関する激しい心の変化の背景は? 〇紀伊にて都で戦が始まったと聞く ――軍勢を率いて都に取って返す (木曽義仲と弟今井四郎の安否を心配) ※味方は約500騎 〇淀で、すでに二人が死んだことを知る――軍勢を率いて都に向かう 都に討ち入って討死しあの世で二人に会いたい 〇都の鳥羽にて義経軍に遭遇 ――数万の敵にわずか20騎余の勢で討ち入る (敵を目前にし、奮戦して敵を取って死ぬ) 〇(100騎余の児玉党に囲まれ) ――降伏を勧告され、降人となる (許されて生き延びたい?) 〇死罪が決まる ――義仲と5人の武将の首に従って都に入り、斬首の刑に。 (これで二人にあの世で会えると安堵?) 平家物語は樋口が降伏したことを「樋口二郎聞ゆるつわものなれども、運やつきにけん」と、述べているが、これは樋口が後に斬首の刑に処せられていることを知っている立場からの物に過ぎない。むしろ彼の心情は降伏を進めた児玉党の人々が寄り合って樋口の心情を推し量った中にこそあると思われる。そこには「弓矢とるならい、我も人もひろい中へ入らんとするは、自然のことのあらんとき、ひとまどのいきをもやすめ、しばしの命をもつがんと思うためなり」とある。つまりもしも戦の場面で命を失うような場面に出会ったときにも、広く他の武士団と縁を結んでおけば、その縁に頼って一先ず命だけは助かるかもしれない、と考えていたからこそ、信濃の豪族の樋口が武蔵の児玉党と縁を結んだのだと。一般に武士とは命がけで戦う者のように考えがちであるが、よく考えれば死んでしまっては何もならない。生きていれば戦に負けてもいくらか挽回の可能性もある。その小さな可能性にも懸けるのが、戦を生業とした武士の生き様なのではなかろうか。実際に敵であっても、勇者が囚われのに身なった場合に、その勇を惜しんで命ばかりは助ける例は、この平家物語の中でも源平双方に見られる事象である。木曽四天王の一人と詠われた樋口ではあったが、すでに主人木曽義仲は戦死し弟今井四郎も自害。ここで大軍の中で奮戦しても何のためになるのか。こういう思いがよぎり、もしかしたら勇者であることで罪を一等減じられ、命だけは助かるのではないかと考えたのであろう。 樋口助命が叶わなかった理由は?
このいきさつを平家は次のように記している。一つは法王に奏聞して罪を許し命を助けると一旦は了承されたが、公卿・殿上人から局の女房に至るまで多くの者から、御所法住寺に火をかけ、多くの人々を殺したのは樋口・今井らではなかったか、この一人が生きながらえることは悔しいとの反対意見が多数出てきて、一旦は許されたものが死罪になったと。そしてもう一つは、頼朝方の大将軍の範頼・義経が縷々弁護したが、樋口を生かしておいたのでは「養虎の愁いあるべし」とのことで、殊に沙汰あって斬られたとの伝聞を載せている。岩波文庫版の注は、これを「法王からの指図」と理解しているが、「養虎の愁い」とは、害を為すものを放置しておいては後難を招くということであり、一度は法王から赦免の許しがでているのだから、ここで後難を恐れて樋口を殺せと命じたのは、木曽義仲を討伐した頼朝と考えたほうが適切かと思われる。そしてこう理解することで、木曽が都に攻め入って平家を西国へ追いやった時に、秦討滅の戦の時、先に秦の都を攻め落とした沛公・劉備が秦の都を略奪せず、後からやってくる項羽の軍を待ったことで人望を得て、後に項羽に勝って漢帝国を築いた故事に習って、勝手に行動せずに後から来る頼朝の意向も聞いた上で動いていれば、このように法王・頼朝の連携で死ぬことはなかっただろうと、平家作者が述べている箇所ともつながってくる。 |