三草合戦

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▼主な登場人物

●平資盛:11581185 内大臣平重盛の次男で維盛の弟。母は藤原親方の娘。重盛家の嫡男。仁安1(1166)年に従五位下越前守となり、侍従、右近衛権少将、権中将を経て、寿永2(1183)年に蔵人頭となり、従三位に叙せられる。治承4(1180)年から源氏の追討に活躍し、寿永3(1183)年2月の三草の戦い、元暦1(1184)9月藤戸の戦では大将軍を務め、翌年壇の浦の戦で一門と共に戦死。

●土肥次郎実平:?−? 相模国土肥郷が本領。桓武平氏の中村庄司宗平の子。治承4(1180)年、源頼朝の招きに応じて挙兵に参加。石橋山の敗戦の際には機転をきかせて頼朝の危機を救い、安房国への脱出に成功。その後、源義仲討滅戦や平家追討戦では侍大将を務めるとともに、元暦1(1184)年には備前、備中、備後3カ国の惣追捕使に任ぜられて占領地の軍政にも当たるなど、頼朝からその軍事的能力を高く買われている。またその質素な生活ぶりも頼朝に讃えられており、東国武士を代表する人物のひとりであった。

田代冠者信綱:?―? 後三条天皇の後胤といい(覚一本平家)、父は伊豆守為綱(延慶本平家)、母は狩野工藤介茂光の娘という。石橋山の戦で源頼朝に従い、三草山、一の谷、屋島の合戦では源義経の麾下。その功績が認められ、狩野荘田代郷の地頭に補されている。しかし文治1(1185)年頼朝は西海にあった信綱に対し、義経に従うべからずとの書状を遣わした。1121年(承久3年)の承久の乱でも功をたて、和泉国大島郷の地頭職を得たという。

 

<物語のあらすじ>

  寿永324日、京を占拠した鎌倉勢は、摂津福原に立てこもる平氏追討のために出陣。大手の範頼軍は西進して摂津昆陽野に陣を構える。搦め手の義経軍は福原の西側から攻めるため丹波路を迂回して福原の北、三草山の東に陣を取る。搦め手軍の動きを察知した平家は先に三草山の西に陣を取っていた。大将軍は平資盛・有盛・忠房・師盛ら小松家。合戦は明朝と踏んだ平家を見て義経は侍大将の土肥次郎を召して善後策を練ったところ、伊豆田代の住人田代冠者が夜襲を提案し、土肥らも賛同したため、ただちに夜襲を敢行。不意を突かれた平家軍は敗走し、資盛らは福原に戻らず高砂より船にて讃岐屋島に逃げた。師盛のみはこの敗戦を福原・一の谷に報告。義経軍は福原の西と北から攻めることが可能になった。平家は義経が福原山の手から攻めてくることを予想し、能登守教経らに守護させた(「老馬」)。

 

<聞きどころ>

ここも合戦の話なので、淡々と経過を「口説」で語り、合戦の場面を勇壮な「拾」の節でさらっと語ることは「河原合戦」と同様。この句で朗々と「中音」の節を使って語られるのは、夜討ちを提案した田代の冠者信綱の来歴を語った部分だけ。冒頭の「口説」で義経軍が夜討ちと決するまでを淡々と語り、次の夜討ちを提案した田代冠者の来歴を「中音」で朗々と語った後、夜討ちされるとは思わずに寝てしまった平家陣の様を「口説」でさらっと語った後、前後も知らずに寝入っているさまを「強下」という恐ろし気な節で語って、そのまま平家勢の敗北の様を「拾」で一気に語り終える。短い句だが節の変化を楽しんでほしい。

<参考>

丹波との国境に近い三草山は、交通の要所であると同時に険阻な山と深い谷に囲まれた軍事的要衝の地であった。平氏の荘園の地であったと見られ、平氏に地の利があるこの場所が防衛拠点として選ばれたと見られる。
 平氏方が源氏の夜討ちを予想しなかった理由は、源氏方は二日行程の所を馬を飛ばして一日でやってきたから。一つ前の句「三草勢揃」の最後に「二日路を一日にうって、播磨と丹波の境なる三草の山の東の山ぐち、小野原にぞつきにけれ」とある。二日行程のところを馬を懸けて到着したので人馬が疲れているだろうから当然戦は明朝と平家方は踏んだわけだ。義経はこの「常識」に捕らわれずに奇襲で成功した。

 

<参考2>

合戦の話の途中に、田代冠者信綱の来歴が長々と語られるところが異様である。彼は単に夜討ちを進言した人物にすぎない。
 この理由はなんであろうか?

ヒントは彼が後三条天皇の三宮輔仁親王の五代の孫というところにある。
 この三宮輔仁親王とは、後白河法皇の四代前の白河と皇位を争った人物。

 

  後三条天皇は自分の後継者には妻基子が生んだ二人の皇子(二宮と三宮)と考えていたので、自分の死に際しては遺言として、「一宮貞仁は、まだ成人していない二宮もしくは三宮が成人して即位するまでの中継ぎであり、彼らが成人に達したら退位して彼らに皇位を譲る」ことを指示した。
 だが一宮の自分の血筋が皇位を継承できないことに疑問をもった白河は、自分の後継に善仁を指名して即位させ、三宮には皇位を譲らなかった。それだけではなく三宮の嫡男有仁には源の姓を与えて臣下としてしまい、三宮の血筋には皇統を継承させない姿勢を明確にしたのだ。

 この白河は言い換えれば正統な皇位継承の資格をもっていなかったわけだ。
 その白河が皇位を簒奪して自分の血筋に皇位を継承させ、堀河ー鳥羽ー崇徳ー近衛ー後白河と四代にわたって皇位を独占してきた。

 平家物語の陰の主役は後白河であり、この後白河もまた正統な皇位継承者ではなかった。
 彼の父鳥羽上皇は、自分が愛する息子近衛が継嗣もないまま死ぬことを予想して、近衛のあとを継ぐ皇子として、第四皇子雅仁の母を失っていた幼子の二人の皇子を自らの妻・美福門院の養子とし、次に備えた。
 だが近衛が若くして死去したとき、次を継ぐべく守仁はまだ成人に達しておらず、やむなく中継ぎとして守仁の父である雅仁を即位させたのだ。
 後白河もまた曾祖父白河と同様に中継ぎの臨時の天皇にすぎず、我が子守仁が成人に達するや退位して、以後政務も皇統の行方もすべて守仁(二条)が正統なる皇位継承者として君臨するはずであった。
 だが後白河は自らこそが正統な皇位継承者と辞任し、二条が若くして死去し幼い順仁に皇位を継承するに際して、愛妻の平滋子が生んだ皇子(憲仁)を皇太子とし、即位した順仁(六条)を毒殺して皇統を絶ってしまい、憲仁を即位させ、自分は上皇として権力を振るったのだ。
 しかもその即位した憲仁(高倉)と後白河が政治的な対立に陥るや、今度は他の皇子を皇位につけようと画策し、さらにこれが敵わないとわかるや、高倉の皇子のうちの平家の血を引かない皇子を皇位につけるべく画策した。
 このため高倉を擁護する平清盛は後白河を幽閉し、高倉の第一皇子で平徳子が生んだ言仁(安徳)を即位させ、ここに平家王朝を樹立したのだ。
 この状況に危機感を持ち、このままでは自らには皇位は来ないと判断した、本来二条が死去した際にはその跡を継ぐ駒として用意されていた以仁王が反乱を起こし、この宮自身は戦死してしまったが、彼の平家打倒=高倉―安徳の平家王朝打倒の令旨は諸国の武士たちに受け入れられ、源頼朝や源義仲などが蜂起し、皇位を巡る大戦乱となってしまったのだ。

 言い換えれば源平の争乱と呼ばれる治承・寿永の争乱を引き起こした元凶は、息子たちを退けてでも天皇家一の人の地位に居座り続けた後白河だったのだ。
 平家物語作者の認識は「正統な皇位継承者ではない後白河が居座ったことが戦乱の原因」というものである。

 この作者の認識がちらっと顔を出してしまった個所が、「三草合戦」の中で、夜討ちを提案した源氏方武士の田代冠者信綱が、本来正統な皇位継承者であった三宮輔仁親王の五代の孫という記述だったのではなかろうか。