平家物語とは


(1)軍記物=権力闘争が武力をもってしか決着しない時代を描いたもの

 平家物語は、いわゆる「軍記物」の一つである。
 では、軍記物語とはどのような物語なのであろうか。たしかに軍記物はその呼び名のように、「合戦のようすなどを力強くえがい」てはいる。とりわけ、「保元物語」や「平治物語」は、保元の乱・平治の乱という争乱そのものを主題に置いているために、主たる記述は合戦の場面である。しかしそれだけではないし、記述の中心は合戦場面ではないのである。
 また「平家物語」は「軍記物」という名前からは違和感を感じるほど、宮廷における貴族たちの生活が生き生きと描かれており、合戦場面が中心になるのは、物語の後半に過ぎない。この物語は平家が繁栄し滅亡したという直前の時代の大事件を、その原因を含めて、数十年の時間の幅をもって描きあげているのであるから、これは当然のことである。

@保元の乱・保元物語とは?

 保元の乱は、近衛天皇の死後、誰を次の天皇にするのかということをめぐって、新院=崇徳上皇とその父=鳥羽上皇とが争い、鳥羽の死を直接のきっかけにして、この争いを双方が武力を持って決着しようと図って起きた出来事である。
 鳥羽の長子として生まれた崇徳は、自らの血統が長く天皇位を継ぐことを望んだ。しかし鳥羽は、崇徳が鳥羽の父である白河の子であると疑っており、最愛の妻である美福門院の腹に生まれた五宮(=後の近衛天皇)に天皇位を継がし、近衛の血統が長く皇位を継ぐことを願った。そして鳥羽は3歳の近衛を即位させるとき、近衛を引退する崇徳の養子とすると約束し、崇徳上皇による院政の可能性を仄めかして彼を引退させた。しかしこの約束は反故にされ、近衛は「皇太弟」として即位したのである。院政の可能性を閉ざされた崇徳上皇は父鳥羽を深く恨んだが、彼の長子の重仁親王が美福門院の養子になっており、若年で病弱な近衛に子がないことから、近衛の次には、実子である重仁が即位するものと希望を持った。
 だが、鳥羽・美福門院の思惑は異なった。近衛が後継ぎもなく病床につき、やがて死去するや、鳥羽が即位させたのは、崇徳上皇の弟である四宮(=後の後白河)であり、その皇太子は後白河の実子で、美福門院の養子となっていた守仁親王(=後の二条天皇)であった。
 完全に自らの血統が皇位を継ぐ可能性を絶たれた崇徳上皇は父を深く恨み、時の左大臣藤原頼長と彼が動員できる清和源氏の源為義の軍勢に依拠して権力を暴力的に転覆しようと図った。これに対して鳥羽・後白河の側も同じく清和源氏嫡流の源義朝らの軍勢を集め対抗し、事態は何かあれば軍事的衝突がおきるという事態になったのであった。
 そして鳥羽の死をきっかけにして衝突は始まり、崇徳の子の重仁の乳父でもあった平清盛の軍勢をも味方につけた後白河の側が勝って、この争いに決着をつけたのであった。

 保元物語はその冒頭において、この乱が鳥羽と崇徳との間におきた皇位継承をめぐる争いが原因であることをはっきりと明示し、裏切られた崇徳の恨みが何度も生々しく描かれている。したがってこの物語の本来の結末は、淡路島に流された崇徳上皇が血書の5部の大乗経を書写したものを都に送り、せめてこれを身代わりに都に埋納してほしいとの希望を述べたが、これをも拒否されて、食を絶って飢え死にするという壮絶な最後を遂げた所で終わるものであっただろう。だが現存の物語はのちに改作されて、崇徳の側に立って戦った源為朝を合戦場面の中心として描いたために、彼の八丈島での最後に物語の最後が変えられ、彼を追憶するものになってしまった。

 しかし物語りが争乱の原因が皇位継承を巡る天皇家内部の争いにあることを明確にして、この立場を最後まで崩していないこと、そして武士とは王権を維持するための暴力であることをきちんと描いていることから、保元物語は、皇位継承の争いが武力によってしか決着できない時代を描いた物語と性格付けして間違いないと思う。

A平治の乱・平治物語とは?

 平治の乱は、直接的には後白河の寵を得た藤原信頼が二条の側近である藤原惟方・経宗と語らって後白河を幽閉し、後白河・二条の執政である藤原通憲(信西)の宿所を襲って彼の殺害を図った事件である。しかし信頼らは信西を討つ事には成功したが、惟方・経宗の裏切りにより後白河・二条を確保することに失敗して逆賊となり、王命を受けた平清盛らの軍勢によって蹴散らされ、敗北した。
 この事件の背景には、信頼と信西の反目と、鳥羽・美福門院らによって擁立された二条を支える廷臣らと、後白河に従う廷臣らの反目があり、それは後白河を正統な王者とみなすのか二条を正統な王者と見なすのかという、朝廷における皇統の2派に別れた対立があったわけであった。しかし信頼らの性急な決起に不安を感じた後白河が信頼の下から脱出することによって彼らの決起は後ろ盾を失い、単なる逆賊となってしまったのである。

 平治物語はこの信頼・信西の不仲が乱の原因であると述べてはいるが、信頼が後白河の寵によって急速に朝廷で重きをなしてきたことを示すとともに、信西は後白河・二条の2代にわたる執政の臣であること、すなわち二条を推す為にその父後白河を中継ぎとして擁立した鳥羽・美福門院派を代表する公卿であったことを記述することによって、二人の不仲の背後には、中継ぎの地位に不満を抱く後白河と、彼をその地位に押し込めようとする二条=鳥羽・美福門院派の、皇統をめぐる対立があったことを匂わせているのである。
 そしてこの物語はその冒頭において、王者の政道を支えるものとして、文と武とは不可欠なものであるとして、王者にとって武力とそれを担う人々は大切なものではあるが、末世においては、武力に奢って野心を持つ者が出てくる危険性を述べて、信頼がそのような王者にとって危険な野心家であるとにおわすことによって、この事件の枠組みもまた、王権をめぐる争いである可能性を述べているのであった。
 さらにこの物語は、王に奉仕することの素晴らしさを強調し、この物語の端々に、王に奉仕する者たちの活動を生き生きと描いている。それは後白河を幽閉して二条天皇の親政を実現しようとした弟藤原惟方を諭し、後白河を御所から清盛の館である六波羅に脱出させた藤原光頼の行動や、熊野参詣の途上で事件を知り、すぐさま都へ取って返して逆賊を討った平清盛の行動を生き生きと詳しく劇的に描いた部分である。そして武士は王のために働くこそ本意であることを、源義朝に「同属の源氏を裏切ったもの」として罵られた源頼政に、「自分は十善の君(=院)にしたがって行動したまでだ。貴殿こそ信頼に組するとは何事か」と語らせたのであった。

 したがって平治物語は、王権をめぐる争いの顛末を描いているわけで、本来の物語の結末は、信頼側のすべての者の処断が終わると共に、本来信頼と結んで乱を起こした首謀者である惟方・経宗の流罪で終わるものであっただろう。頼朝配流の後の話や牛若丸奥州下りの話などは、別の話をあとから加えたものであろうか。

 平治物語も合戦場面を中心に描いてはいるが、この合戦も王位を巡る争いであることを示すことで、王位を巡る争いが武力をもってしか決せられない時代の様と、武士とは王権を維持するための暴力であることを見事に描いているのである。

B平家物語とは?

 では平家物語は、どのような物語であったのだろうか。

 有名なこの物語の冒頭において、「奢れるものもたけき者も滅びる」例として古今の「悪人」をあげ、平清盛入道は、それら以上のものであると示している。そしてここで名前を挙げられた中国と日本のものたちをよく見れば、これらの者がなぜ「奢れるもの」とされたかというと、彼らは皆王者を入れ替えたり自らが王者になろうとした者であり、逆賊として討伐されたものであることがわかる。
 すなわち冒頭においてあれほどに栄えた平氏が滅びたのは、王権に逆らったからだということが暗示されているのである。そして続く各部分において平氏は白河天皇以下の王家の寵によって高い地位を得たこと、またそれは王家がいくつかに分裂してあい争う中で起きたのであることを、二代の后を巡る後白河と二条の対立などを示すことで暗示している。そして高倉天皇の治下において平家の横暴を理由に後白河を中心として彼の主だった廷臣たちが集まって平家討伐の謀議をめぐらした有名な鹿ケ谷の事件や、その後清盛によって後白河が幽閉されたことなどを記すことによって、平家の没落は後白河との対立にあったことを示している。さらにこれは源義仲に都を明渡すときに、時の最高権力者である後白河を平家の側に確保することに失敗したことを「便りにしていたものに打ち捨てられて心細い思いがした」と語り、平家滅亡の原因が後白河法王との対立であったことが明確に述べられているのである。
 この院との対立が平家滅亡の原因であることは、後白河院が大原に隠棲していた建礼門院を密かに訪ねた時に、建礼門院をして自らの一生を六道巡りにたとえて後白河に語らせた話を、わざわざ最後に持ってきたことで、平家滅亡の原因は後白河にあったことを見事に浮き上がらせることに成功している(おそらくこの形の平家物語は後の形であろう。平家の盛衰の様を語るのがこの物語の主たるテーマだとすると、平家嫡流の六代が切られ平家嫡流家が滅びた所で物語を終わるのが、本来の形であろう)。

 この物語の主なストーリーは平家の隆盛から滅亡に至る様なのであるが、それはすべて王権とのかかわりであることをこの物語は明確に述べているのである。

 後白河の一生は、王権をめぐる争いの中で、王権の新たな基盤の確立とありかたを求めての戦いであった。彼は中継ぎの天皇として擁立されたのにもかかわらず、次々と襲ってくる危機を乗り越え、自らの血脈に皇位を継がせる事に成功し、王権の新しいあり方を作り上げた。
 この時彼が依拠した基盤の一つが、武家の力であった。
 保元の乱において対立する崇徳上皇の側を破って彼の権力を維持した基は、源義朝を中心とした武家の武力であった。そして平治の乱においても、彼を自家薬籠中のものにしようとした藤原信頼から救ったのは、平清盛を中心とした武家の武力であった。そして同じく彼を操ろうとした源義仲から彼を救い、平家の力からも独立して、平家が擁立する安徳ではなく、後鳥羽を擁して院政を行うことを可能にした力は源頼朝を中心とした武家の力であった。彼ら武家がその過程で、朝廷から軍事統帥権や検断権を奪い、朝廷や天皇家・貴族の所領の管理権を奪い、税の一部を奪い取ろうとしたことに対して、後白河が戦い、それを認めざるを得なかったにしても、ある一定の範囲に限定し、統帥権の名目的には院の下に確保し得て、朝廷の位置を守り得たのも、武家の武力を基盤の一つにしていたからであった。

 保元物語・平治物語・平家物語の軍記物は、このような時代のありさまを見事に描写していたのである。

(3)「武者の世」を越えて軍記物語が意図したものは

 まさに時代は、天台座主慈円が愚管抄に描いた「武者の世」、すなわち暴力なしには政治が行えない時代に入っていたのであり、軍記物はまさにそのような時代のありさまを描いていたのであった。

 しかしこれらの物語は、単に時代のありさまを歴史として描くことに目的をもっているのではない。

 この点が見事によく表現されているのが平家物語である。

 平家物語が各所で強調するのは、武士というものは王権に仇をなすものを討つためにあるということである。有名な源頼政の鵺退治の句などはその典型であり、「化け物などを討つために借り出されるなど武士の本意ではない」と頼政に語らせている。また同じことは都落ちした平家の公達たちの口を通じて何度も言わせている。都落ちした平家に後白河が3種の神器と主上を返せば罪を許すと書状を認めた場面では、平家の公達に「一院のために奉仕してきたわれらに何の落ち度があって追討されるのか」と語らせ、平家もまた王権に奉仕するものであったことをはっきりと語らせている。

 なぜこの物語は、執拗に武家と王家の関係を語り、武家は王家の支えであることを強調するのだろうか。

 この問題を考えるとき、大切な視点を与えてくれる章段がある。それは巻の11の12番目の句である「剣」である。
 宝剣が海の底に沈んで見つからなかったことについて先例や故実について詳しい人々がさまざまな意見を述べたのだが、一人の博士が、「この宝剣は昔スサノオノミコトが出雲のひの河上において殺した大蛇の尾から出てきたものである。この宝剣を惜しんだ大蛇が8歳の帝となって宝剣を取り返し、海底にお沈みになったのだ」と言ったということをあげる。平家の作者はこの句のまとめとして、「深い海の底の竜神の宝となったのならば、宝剣が人の手に戻らないのも道理というものである」と締めくくる。

 この宝剣とともに沈んだ8歳の帝、安徳天皇が竜神の生まれ変わりであるという説明は、慈円の愚管抄にも見られる。
 慈円は、安徳天皇は清盛が厳島神社に願をかけてお生まれになった帝であるから、竜神である厳島の神の生まれ変わりである。だから最後には海に帰られたのであるという説を紹介する。そしてこれに続けて、こうして宝剣が竜神とともに海の底に帰られたのは理由がある。宝剣は皇室の祖先の神が武器の基本である剣に乗り移って長く皇室の支えとなってきたのだが、武士の大将軍がしっかりと政治の権をにぎって、武士の大将軍の心にそむくようでは天皇も位についてはいられないような時代になったのだから、宝剣はもう役に立たなくなったのだ。だからお隠れになったのだと述べている。

 愚管抄はそもそもは幕府と対立して、幕府を武力で取り除こうとする後鳥羽上皇に対する諌めの書として書かれたものであった。慈円は歴史を遡って考察し、天皇の政治は臣下によって支えられてきたこと、とりわけ代々の天皇が若くして死去した時に摂政関白として藤原氏が次の幼帝を支えて政治を行ってきたように、藤原氏によって支えられてきたことを説くと共に、保元の乱以来の世は、武家の力なくして天皇家もないことを説いたのである。愚管抄の末尾の第7巻において慈円は、鎌倉の将軍として摂関家の頼経が下向したことは、摂関家と将軍家とを一体にし、文武を兼ね備えて世を治め、そういう文武兼行の臣下が後見役として帝王をお助けするべき世の中になったのであるとし、世の道理が変化したことを述べた。そして武士がすでに荘園・公領の年貢を徴収して都に運ぶことで天皇や貴族の暮らしもなりたっているのだから、武士を排除しようなどとはせず、幕府を朝廷を支えるものとして認めるべきであると、後鳥羽を諌めていたのである。

 まさに武士とは朝廷を支えるためにあるのだというのが慈円の主張なのだ。

 こう見てくると平家物語は、慈円が愚管抄において主張していることとほとんど同じことを主張していることがわかる。武家は王家の支えであるべきだ。それが武家の役割だ。その役割を果たしたからこそ平家は興隆し、そしてその役割を超えて王家と対立したからこそ平家は滅びたのである。平家物語はこう主張しているのだ(この意味で平家物語は、後白河院政を「支えた」鎌倉将軍頼朝をたたえているのである)。そしてこの主張にほぼ同じ頃に出来た保元物語と平治物語の記憶を重ね合わせてみれば、天皇といえども武家の支持なくして存続しえないことが明らかになる。

 しかもこれらの物語が世に出た1230年代は、すでに幕府の力を削ごうとして失敗し、沖ノ島に流された後鳥羽上皇の先例が眼前にあるのである。承久の乱を現代史として体験しているこの時代の貴族や天皇、そして武士にとって、平家物語が奏でる「武家は王家の守り、武家なくして王家も存在できない」という主旋律は、動かし得ない事実として、人々の胸に刻み込まれたことであろう。

 たしかに平家物語は、他の二つの物語とは異なって、「戦いの中で苦悩する人々の姿を」生き生きと伝えている。戦いの場面の描き方すら、前の二つの物語とは違って、勇壮というより哀愁を帯びた筆致でさえある。しかしそれは物語の技巧であって、物語の主題ではないのである。
 いやむしろ、戦いの悲しさ、戦いの中で苦悩する人々を生き生きと描きあげたことで、平家物語は、武家と王家が争うことの愚かしさを、承久の乱後の貴族や天皇、そして武士に強く印象付けることになったのだと思う。

 軍記物は、武家と王家のあるべき関係を、王家や貴族、そして武士に示すべく作られた物語であったと思う。そしてその中で平家物語が、最もその意図を全編にわたって精緻に描きあげ、「戦いの中に苦悩する人々の姿」を生き生きと描いたことによって、承久の乱後の貴族・武家社会だけではなく、後の世の人々をも魅了し、その主張の枠の中に、人々の意識を閉じ込めることに成功したのであろう。

 軍記物語は、「武士の文学」などと規定できるものではない。武士が王家の支えとして不可欠なものであることを歴史を生き生きと描くことで人々に提示した物語であるが、作者は貴族であり、その成り立ちから主として対象は、王家と貴族であったと思う。もちろん武家社会の棟梁たちも武門貴族として貴族の一翼を占めるのであるから、彼らも主たる対象であり、彼らの部下である地方の武士たちにも聞かせておきたい物語ではあったであろうが。
 軍記物語は、和歌や随筆などとともに、貴族の文学であったのである(棟梁格の武士は貴族であったから、漢籍などを読破し、和歌を読むのは当然であった。しかし多くの地方の武士は、御成敗式目がかな文字で書かれていたことにも明らかなように、文字文化としては、貴族の水準には遠く及ばなかったのであるから、彼らが文化の主たる担い手ではありえないのは当然である。それゆえ軍記物は物語として書かれながらも、琵琶の旋律に載せた「語り」として流布され享受されていたのも当然のことであろう)。

 :この項は、新日本古典文学大系の「保元物語・平治物語・承久期」(岩波書店92年刊)の各テキストと解説、「平家物語」(岩波文庫99年刊のテキストと解説、新潮日本古典集成の「平家物語」新潮社81年刊の各テキストと解説、五味文彦著「平家物語ー史と説話」(平凡社87年刊)、兵藤裕己著「平家物語ー語りのテクスト」(ちくま新書98年刊)、日本の名著「慈円・北畠親房」(中央公論社83年刊)の愚管抄とその解説、などを参照した。


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