平家琵琶とは?


 通常の理解では、平家物語は、盲目の琵琶法師によって各地に語り広められたとされ、その琵琶法師は、「慕帰絵詞」という室町時代(正しくは、観応2:1351年)に作られた絵巻が描く「琵琶法師」の姿のように、乞食坊主であったと理解されている。

(1)琵琶法師=乞食坊主という偏見

 しかしこの「琵琶法師」の絵姿を見ると、彼は片肌脱ぎで袴もはいていない。そしてお伴の小坊主は裸足であり、貧しい法師の姿である。しかも今まさに語りを始めようとして犬の群れに吠え掛かられた琵琶法師は、持っていた杖を振り上げて犬を追い払おうとし、なんと彼の左目はかっと大きく見開かれているのである。つまり彼は盲目の法師ではない。偽者の盲目の琵琶法師ということだ。ということはつまり、平家物語を語る「琵琶法師」は、貧しい乞食坊主であると言う認識にたってこの絵が選ばれていると言う事なのである。
 このような認識は、多くの平家物語・平家琵琶研究者にも共通するものである。例えば、平家琵琶の研究者である薦田治子はその著書で、彼ら「琵琶法師」が使っている琵琶の形状が、宮中の樂所などで使われている舶来もしくは舶来の木を使って作られている高価な樂琵琶と同じなのだが、「村や町で琵琶を弾きながら歩くような貧しい琵琶法師が、そうして贅沢な楽器を持てるとは考えられないので、手近にある、サクラ・センダン・ケヤキといった国産材を使って、樂琵琶の形を真似たものと思われる」(p323)で断定してしまっている。平家物語を語る琵琶法師は乞食坊主=貧しいという「常識」が存在するのである。

(2)勧進聖としての琵琶法師

 たしかに琵琶法師は遍歴の遊芸人であり、盲目の法師であった。琵琶法師の資料での初出はすでに平兼盛(990年死去)の歌集に見えているので平安時代には存在していたことは確実である。そして同時期・10世紀の貴族・橘直幹の事跡を描いた「直幹申文絵詞」(絵巻自身の成立は13世紀後半と考えられている)には、直幹の館の外の社の前で演奏する琵琶法師の姿も描かれ、さらには平安時代末期につくられた扇面法華経冊子にも貴人の館の縁先で琵琶を奏して何かをかたる琵琶法師が描かれている。
 つまり琵琶法師そのものは、平家物語の成立以前から存在しているのである。
 では彼らは何を語っていたのであろうか。琵琶法師の平安時代における語りの内容を示す資料は存在しない。一つ考えられることは、ずっと後の江戸時代になって平家琵琶を表芸とする琵琶法師の座である「当道座」が、この座に属さない琵琶法師が柱を動かす事のできる樂琵琶を使用することや浄瑠璃・筝曲・三味線・胡弓を演ずる事を禁止する裁判を幕府に起こしたとき、「琵琶を弾いて語る事は、古来から地神経に乗せて弾き語ってきたので、この儀は別として」と例外を設け、座外の琵琶法師が地神経を琵琶(ただし柱が固定された琵琶のみ使用許可)をつかって語る事だけは認めていた。この地神経を琵琶で語ったというのは、新築家の敷地を祓い清める事や、炊事の為に使用する竈(かまど)の神を祭る時に、土荒神と称する土の神を祭る際に、地神経を唱える伴奏に琵琶を用いたことを指している。そして江戸時代において地神経を琵琶で語ることを許された盲僧琵琶法師は、地神経だけではなく、仏の道をやさしく説いた「和讃」も語り、これらの法要の語りの合間に余興として、さまざまな物語を琵琶の伴奏で語っていた。またこの盲僧琵琶といわれる琵琶法師たちの「座」の伝承では、このような盲僧琵琶の起源は8世紀であり、天台宗の延暦寺に抱えられた盲僧たちが、「地神陀羅尼経」を法会で語ったとしている。

 このような伝承をもとに考えてみると、平安時代の文献や絵巻に登場する琵琶法師は、この時代に現われて各地を流浪しながら仏の道を説き浄財を集めてくる「勧進聖」に属するのであり、宗教的活動の一環だった可能性がある。この時代の琵琶法師たちの姿が黒衣の乞食のものであっても(前記の「扇面法華経冊子」や「直幹申文絵詞」が描く琵琶法師は袴姿で乞食の姿ではない)、それは釈迦が乞食姿で修行したという伝説に基づいて釈迦に戻ろうとする宗教活動上の姿である。そして、この聖たちの多くは、仏の道を易しく説くために大和言葉でづづられ節をつけて歌うように語る「和讃」を唱えたり、勧進に使用する絵巻をもって、その由来を口上として述べたりして人々との結縁を求めていた。このような「聖」の活動の一つとして、「和讃」や「経文」を琵琶の調べに乗せて語る琵琶法師が生まれたとは考えられないだろうか。

(3)貴族社会で生まれた平家琵琶

 このように比叡山延暦寺などの寺院を背景として諸国を勧進してあるく聖としての琵琶法師であれば、彼らが高価な樂琵琶を持っていたとしても不思議ではない。

 では平家琵琶の発生はどのような過程を経たものであろうか。
 それは、吉田兼好の徒然草第226段に依拠すれば、平家物語は平安貴族藤原行長の手によるものであり、彼と生仏という琵琶法師の合作によってこの物語を琵琶の調べに乗せて語るようになったという。そしてこの出家遁世した行長を扶持したのが天台座主慈円であるというのだ。

 この兼好の記述は、平家物語の内容と慈円の生涯を合わせて考えてみると、極めて蓋然性の高い話しである。
 平家物語は先に述べたように、「王朝の存続には武家の力は不可欠の存在であり、武家のつくった幕府は王家の守りなのだ」という主張が貫かれ、平家の栄枯盛衰は王朝(一院後白河)への奉仕と、彼との対立に原因があるという、極めて政治的な主張で成り立っている(この主張を法然流の浄土思想の調べに乗せて語っているわけであるが)。そして慈円が著した「愚管抄」の主張も全く同じであり、慈円は幕府との武力対決に踏み込もうとする後鳥羽上皇を諌め、王家は摂関家と武家とによって守られ存続してきたのだという歴史認識に基づいて、後鳥羽の行動を諌めようとしたのが「愚管抄」論述の意図であった。そして慈円は治承・寿永の内乱のあと、戦乱によって命を落したものたちの霊を慰めるために叡山に「大懺法院」をつくり、戦死者、とくに平氏の一族の霊が怨霊となることのないよう日々様々な法会を催していたという。
 平家物語が平家の怨霊鎮めのものとも言える内容を持っている事も考え合わせると、平家物語は慈円の主導下の叡山において「平家怨霊鎮め」と「後鳥羽の幕府武力討伐の沈静化」を図って作られた政治的な書であると解することができる。そしてこの比叡山が「和讃」や「地神経」を語って人々との結縁を求める琵琶法師の活動の場でもあったのだから、生仏はそのような琵琶法師の一人であったと考えることもできる。そして平家物語と平家琵琶とが生まれた平安末期・鎌倉初期の都では、叡山を拠点として「声明」という経文や仏教説話に節を付けて謡う芸能が盛んになっており、これは平安貴族の間でも流行していた。このことを考え合わせると、平家琵琶の節に(もちろん現在に伝承されているそれだが)「声明」と極めて類似した曲節が見られることや、平家琵琶の音楽そのものが声明の音楽理論を元にして作られている可能性が高いことは、平家物語と平家琵琶が、叡山を拠点にして生まれたと考えれば、納得の行く話である。
 また琵琶法師の座である「当道座」の伝承では、生仏は慈円の甥の子であり承久の乱前後の王朝国家の主導権を握っていた貴族・藤原道家の子であったという。
 要するに平家物語と平家琵琶は、巷で作られたのではなく、平安貴族の政治生活の場の中で生まれたのである。

(4)平家琵琶法師の諸国流浪は室町時代?

 このように考えてみると、平家琵琶のもともとの主たる聴衆は、公家と武家とを含めた貴族層であることがわかる。したがって平家琵琶を語る琵琶法師の活動場面は主として、公家たちの拠点である都と、武家の拠点である鎌倉ということになろうか。

 ところで鎌倉時代につくられたことが確実な「一遍上人絵伝」に描かれた琵琶法師の姿をよく見てみよう。彼らは一様に、袴をはいて高下駄をはき、背中に樂琵琶を背負って、伴の小坊主を連れて歩いている。この姿は「乞食坊主」のそれではない。そして琵琶法師が描かれた場面は、善光寺・鎌倉片瀬の地蔵堂・美作の国の一宮・京都七条の空也上人の遺蹟である。少ない事例ではあるが、けっして諸国どこでもというわけではない。このことはここに描かれた琵琶法師が平家琵琶を語る者だと仮定しても、語りの場が、寺社など人の沢山集まる場であるとともに、その主な聴衆が公家や武家であり、それらの貴人の家であった可能性を物語っている。平家琵琶を語る琵琶法師は、けっして諸国を流浪していたのではなく、聴衆の求めに応じてその居所にまで出向いて語ってもいた可能性も示している。

 「慕帰絵詞」は、室町南北朝時代に描かれたものである。そしてこの時代にはすでに都において兼好法師の知り人(おそらく貴族)も自宅で平家琵琶を聞いていたことが徒然草に書かれているし、太平記によれば、足利尊氏や高師直も平家琵琶を聞いていた。そしてまさしく「慕帰絵詞」が描いたその時代に活躍していた琵琶法師に覚一検校がいる。彼によって平家琵琶語りの琵琶法師の座である「当道座」が、公家の中の琵琶の家である源氏長者の村上源氏久我氏を本所として結成され、彼が主催する「当道座」の平家語りの規範本として1370年、覚一検校の死の前年につくられた語りのテキストが、今に流布する「覚一本平家物語」なのである。

 この「当道座」の琵琶法師は厳しい身分制度によって統制され、平家琵琶を全て語ることができたのは、その頂点に位置する検校や別当・勾当などの上位の琵琶法師に過ぎなかった。そして彼らは主に貴族の邸宅をまわって語ったり、院や天皇・皇族・公家、そして室町将軍や幕府重鎮の大名などの貴人に平家琵琶を教授したりしていたのである。このことは南北朝期の皇族である伏見宮貞成親王の「看聞日記」に詳しく記されている。ただこの時期の都の貴族たちは、所領の多くを武家に横領され、しだいに生活は困窮していた。したがって貴人の間をまわっていた上位の琵琶法師たちも都だけでは生活できず、諸国の武家を頼って各地に下向する旅を行っていた事も「看聞日記」に記されている。

 思うに、平家琵琶を語る琵琶法師たちが諸国を経巡ったのは、この南北朝期から次ぎの戦国期にかけてのことではなかったのか。そして「慕帰絵詞」に描かれた琵琶法師がもし平家琵琶を語る法師だったとしても、その風体からしてその身分は低く、平家物語のいくつかの句を語ることしかできない最下級の琵琶法師・座頭であった可能性が高いのである。

 絵巻に描かれた「諸国を経巡った」琵琶法師たちは、この座頭と呼ばれる身分の低い琵琶法師であった可能性が高い。彼らの風体を根拠にして、琵琶法師を乞食坊主だとする認識は間違いであり(しかも乞食坊主の風体でもない。乞食坊主は黒衣なのだから)、この意味で、琵琶法師の絵姿を紹介するのであれば、せめて鎌倉時代に描かれた「一遍上人絵伝」あたりの、きちんと袴をはいて伴を連れて旅をする琵琶法師の絵姿を紹介してほしいものである。

(5)近世江戸時代の平家琵琶

 

(6)明治維新後の平家琵琶

 

(7)現代の平家琵琶

 

 

 :この項は、「平家物語」(岩波文庫99年刊のテキストと解説、新潮日本古典集成の「平家物語」新潮社81年刊の各テキストと解説、五味文彦著「平家物語ー史と説話」(平凡社87年刊)、兵藤裕己著「平家物語ー語りのテクスト」(ちくま新書98年刊)、日本の名著「慈円・北畠親房」(中央公論社83年刊)の愚管抄とその解説、館山漸之進著「平家音楽史」(明治42年刊・1974年芸林社再刊)、薦田治子著「平家の音楽」(2003年第一書房刊)、横井清著「室町時代の一皇族の生涯ー『看聞日記』の世界」(1979年そしえて刊・2002年講談社学術文庫再刊)などを参照した。


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