労働基準法に則った労働を要求する当たり前の労働運動へ!
―教育労働者への「労働時間攻撃」にどう対処するのか?―
「今年の夏休みはどうですか?」というのが、首都圏の教育労働者のあいさつがわりの言葉になっている。昨年までは「自宅研修」というのが認められていて、夏期休暇以外にも、勤務をしなくてもよい日がたくさんあったのが、今年は「自宅研修」が認められず、研修計画を校長に提出して承認をえた日以外は、勤務を要する日(もちろん、夏期休暇と土日を除くが)となったからである。
マスメディアも夏休みの初日にわざわざ特集を組んで、「夏休みの一日先生たちがどんな一日をおくっているのか」をレポートし、「給料を貰っているのだから、勤務をしないということはおかしい」との「市民」のコメントをつけくわえてもいた。
この夏休み(正確には「夏季休業」という)期間中の教育労働者の勤務の問題だけをとりあげれば、「自宅研修」を認めなかった文部科学省と各教育委員会の措置にこそ正当性があり、文句を言っている教育労働者のほうがおかしいと思えるが、ことはそう単純ではないのである。
「労働基準法どおりに働け」という攻撃
ここ数年来、「教育改革」の進展と併行して教育労働者に対する圧力と統制が強化されてきているが、その1つの動きとして、勤務時間の問題がある。公立の小中学校・高校の職員の勤務は、8時30分に始業して8時間労働とした場合は、労働基準法どうりにいけば、午後5時30分までの勤務になり、8時間の労働と1時間の休憩になる。しかし実際には、そうではない。休憩時間を勤務の最後にもってきて、終業時刻を繰り上げている。たとえば午後4時までの7時間半の勤務にして、45分の休憩時間を最後にもってくるという形。これは組合と教育委員会の確認事項として、学校という「特殊な」職場であるので、1時間または45分の勤務時間内の休憩時間を確保することは不可能と考え、これを就業時間の最後にとることになっていたからである。
しかし数年前から右翼団体や新しい教科 書を作ろうとする人々などが、「労働基準法を守れ」との批判を強め、保守系の議員なども議会で同じ観点から追求したりして、東京では昨年から、神奈川は今年から、「労働基準法どおり」の勤務になったのである。したがって今年の夏季休業の勤務についての問題も「労働基準法どおり」の勤務にという点では同じ問題の流れに属することなのであり、一体のものととらえたほうが良い。
「不払いサービス労働」の増加
だがここで「労働基準法どおり」という形でカッコ書きにしたことでお気づきだろうが、事態はまったく労働基準法どおりではないのである。
例えば始業時間が8時30分で就業時刻が5時30分になったからといって、勤務時間中に1時間の休憩時間があるわけではない。学校では、食事も「教育活動」の一環なので、昼食は「昼食指導」という仕事になる。そして昼休みには様々な会議が入ってくる。さらに午前中は授業があるし、午後の授業のあとは、委員会活動や部活動や行事の準備などの生徒を指導する場面が多いので、休憩など取れない。文部科学省や委員会は、「輪番交代でとればよい」というが、3分の1や半分の教育労働者が抜ければそれだけで教育活動がマヒしてしまう程度にしか人員が確保されていない現状では、勤務時間の中に休憩時間を取ることなど不可能なのである。
従って現実は、「労働基準法どおり」ではなく賃金不払いのサービス労働が増えるだけのことなのである。
同じことは、夏季休業中の勤務にも言える。夏季休業なのであるから基本的に生徒の活動はない。だから生徒の学習指導や諸活動はないわけなので、あとの勤務は事務処理か会議かである。でもそれでは一日8時間の勤務を埋めることはできない。従って必要もないのに「研修」と称する会議を増やしたり、はては「補習」と称して生徒を登校させ、なんと夏季休業中に授業を行うといった、本末転倒の事態すら起きている。
補習が必要なら普段の授業日に行えば良いのだし、翻って考えれば、補習が必要なほど生徒の学習理解が不充分なのだとしたら、普段の授業の人数を40人から20人に減らしたり、授業担任を1人から2・3人に増やせばすむことなのである。
今年の夏休みの「補習」は、教育労働者を夏季休業中に毎日勤務させるための方便としか言いようがなく、教育労働者にも生徒にもかえって負担を大きくしているのである(学習指導要領の完全実施によって「学力」が低下するという保護者の不安に答えるという名目も掲げてはいるが)。
さらにもう1つ付け加えると、夏季休業中の中学校や高等学校は、部活動が毎日行われているのだが、それのみでは、1日8時間の勤務には不足する。したがって夏休み中の中学校や高等学校の教育労働者は、夏休みの部活動を行った上に、さらに会議や研修の時間を設けられ、結果として夏季休業中も、勤務時間外におよぶ、賃金不払いのサービス労働を強いられることになってしまったのである。
「既得権を守れ」としか言えない組合
以上のような攻撃に対して、労働組合は何をしてきたのか?。組合の主張の要点は、『労働基準法どおりにいかない学校の特殊性を考慮せよ』とか、『確認事項・慣行を尊重せよ』とか、『研修権を守れ』というもので、攻撃に対しては、今までの慣行擁護でしかなかった。したがって、文部科学省や教育委員会の『休憩は交代でとればよい』という主張や、『社会通念に従え』・『研修の機会は様々に確保されている。権利を奪ったわけではない』という主張に有効な反撃を加えられず、『今は身内で取引できる時代ではない』という行政の指摘に粉砕され、断固実行の立場をとる行政の前に、なんら打つ手はなかったのである。
では、いかにして不払いサービス労働をなくすのか。この点が問題であるが、ここに入る前に、以上のような組合の主張や文部科学省・教育委員会の主張に孕まれる問題点を検討しておきたい。なぜならば、この中にこのたびの攻撃の背景は隠されており、また組合が有効な反撃をできなかった原因も含まれているからである。
「学校は特殊な場」という主張
一番大きな問題は、「学校は特殊な場である」という組合の主張である。これは従来は文部科学省も教育委員会も同じ主張をしてきたのだが、行政の側がこの主張を取り下げたという事実の中に、今までの教育労働運動や教育行政のありかたが通用しなくなったという時代の背景と運動や行政のあり方の問題点が孕まれている。
「学校は特殊な場である」という主張は、1950年代後半の勤務評定導入阻止闘争の中で始められ、60年代の学力テスト阻止闘争を通じて組合の基本的な主張となり、行政もそれを受け入れていったものである。その帰結が1971年の国立および公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法である。
この結果、教育公務員の職場は労働基準法が摘要されない職場となり、時間外勤務手当てが支給されないかわりに、「教職調整手当て」という本俸に対して一律に4%の手当てを支給するということになったのである。それまでの組合は、例えば、勤務時間外の活動である部活動指導などにたいしては時間外勤務手当てを要求し、社会教育への移行を主張してきたのだが、この法律で学校の仕事は「労働時間を測定できない特殊な職場」と認定されて以後、部活動指導に対する時間外勤務手当てを要求することも、本来学校教育ではなく社会教育として展開し、人的物的な措置を学校以外で取るべきという部活動の社会教育への移行の要求も取り下げてしまったのである。
したがって「学校を特殊な場」という合意が組合と行政との間で出来上がって以後は、教育労働のありかたや、教育活動のあり方・その意義目的などへの根源的な問いかけは、行政の側からも組合の側からもなされなくなった。この結果が、学校を単なる「教科書に定められた知識の注入の場」とし、同時に「知識の多寡による選別の場」へと変え、暴力と諦めの蔓延する場へと変えていったといっても過言ではない。
近年の教育改革論議の中で、評価のあり方や授業のありかた、はたまた、各教科がそれぞれどんな力をつけていくもので、どのような手段・方法・課題を通じてその力をつけていくのかとか、学びとはそもそもなんであったのかとかの論議が行政の側からなされ、その提起に基づく学校のありかたの急激な転換がなされようとしていること。また、教育労働者の人事評価や昇給・昇格の過程などが論議され、ほぼ組合の意見を無視する形で強行されようとしていること。こういった事実そのものが、「学校は特殊な場」という規定が、学校そのもののあり方や、そこにおける労働のありかたについての根本的な見直しの活動を、労使が一体となってサボってきたことを物語っている。そしてその結果学校が、社会にとっても役に立たないどころか、むしろ有害なものになってしまい、ほっておけば社会の活力が失われるところまで来ていることが今回の教育改革の背景であり、組合の反対を押し切って様様な教育労働者にたいする規制を導入しているのは、「改革」が待ったなしであることの表現でもある。
「学校は特殊な場」という規定を、どういう意味で特殊なのか、本当に特殊なのかという根本的な問いかけと再検討が必要になっているのである。
問われる学校のありかたの問いなおし
この観点から見るとき、「学校は労働時間を測定できない特殊な場」という規定や、これに基づく「時間外勤務手当ての不支給」・「本俸の4%の調整手当て」という体制そのものが問い直されなければならない。
これは言いかえれば、「何が教育活動なのか」という点検を必要とするということであり、必要な教育活動のうちで、学校で担わなければいけないものは何であるかを確認する作業を伴う。そして学校が担わなければならない教育活動のうちで、勤務時間外でせざるをえないものがあれば、それは時間外勤務手当てで補填するということでもある。したがってその結果は、調整手当ての廃止にまで行かなければならないだろう。
例えば「食事も教育活動」という規定は、食事への教育的配慮・指導という名のよけいなおせっかいを生みだし、本来楽しいものであるはずの食事から楽しさを奪い、時間内で定められた食事を全て食べなければいけない苦行の場と化してしまい、生徒たちにも教育労働者にも多大な負担をかけている(食事指導にまつわる体罰の例は数多く報告されている)。食事のしかたや栄養を偏ることなくとることなどは、本来保護者と生徒との関係において図られるものであろう。食事指導は教育活動から除外すべきなのである。
また、昼休みに様々な会議を入れること、とりわけ生徒の活動を入れることは、生徒たちからも食事のあとの休憩を奪っていることになり、生徒たちの健康にも問題である。食事とその後の休憩時間は教育活動からはずし、楽しい休み時間と出来ないだろうか。
昼食とその後の休憩時間をたっぷり1時間とる。そしてこれを生徒にも教育労働者にも、拘束されない自由な時間とすることができれば、学校はずっとゆとりのあるものになり、勤務時間中に休憩を取れるようになる。
ただこうすると、授業終了の時間が遅くなり、委員会活動や行事活動、そして部活動に支障が出てくる。諸会議にも支障が出てくるであろう。したがって、委員会活動や行事活動のありかたそのもの、それがいるのかいらないのかまで再検討を必要とする。そして部活動も、その指導を教育労働者がやるのか専門の指導員がやるのかや、学校から社会へと移行することとかの再検討が必要となる。諸会議も同じで、これは学校内の校務分掌の見直しにも直結していくのである。
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勤務時間の見直しの問題は、学校のありかたと教育労働のありかたの根本的な見直しにつなげなくては、これはそのまま労働の強化と過剰・過重な教育活動の横行へとつながってしまう。「学校は特殊な場」であるという規定と労働基準法適用外という現状こそ見直しが必要なのである。
最後に紙幅も限られてきたので研修の問題と夏季休業の問題に一言触れておこう。
研修とは本来、充実した教育活動を行うため、教育活動の目標を達成するために教育労働者の知識や技量を磨くための活動である。したがってこれは、何が必要な教育活動でそれが何を達成目標とするかという議論に直結することを忘れてはならない。それゆえ研修の問題は、現在の文部科学省や教育委員会が主催するいわゆる官制研修会のありかたの見直しをも意味し、研修に民間教育団体ものを含めない傾向の見直しをも含まなければならない。研修も教育活動なのである。
そして夏季休業とは何のためにあるのかということや、学期制の見なおしも必要になるであろう。