ファシズムへの一里塚? 問われているのは今後の展望!

―北朝鮮問題に見る 政治への不満と不安の充満―


 9月10日。石原都知事が、自民党総裁選で亀井候補を応援する演説の中で外務省の田中審議官宅に爆発物が置かれた事件について、「田中均というやつ、今度爆弾しかけられて、あったり前の話だ。政治家に言わずに、いるかいないかわからないミスターXと私は交渉したといって、向こうのいいなりになる」と発言して物議をかもした事件は、まだ記憶に新しい。彼は25日の都議会答弁でも「売国だと思う。だから万死に値するということで、ああいう表現をした」と語り、さらに「片言隻句にバカなメディアがダボハゼのごとく食いついた」とマスメディア批判を展開、自分の発言については、「ゴルフでいえばパーオン。国民はこれをきっかけに外務省が何をやったか認識し直してくれた」と自賛した。
 以上の対応を見ればこの発言は、北朝鮮外交について官僚を批判し、官僚批判の強い世論に乗ることで自らの政治的立場の強化をはかる意図でなされた、確信犯的発言であったと考えざるをえない。

▼潜在的な「テロ容認」の国民感情

 しかし本稿で問題にしたいのは、この発言そのものではない。問題にしたいのは、石原発言に対する「国民」の反応である。
 9月12日の毎日新聞夕刊によれば、12日正午までに都庁によせられた意見538件のうち、石原発言に反対するもの283件、賛成するもの255件と、賛否あい半ばしていたという。中には「みんなが心の中で思っていることをよく言ってくれた」という賛成意見もあったという。
 石原発言は、明確に「テロ容認」ととれる発言で、これに賛同を示すものが半数を占めていたということは、テロ容認の感情が「国民」の多数に潜在している可能性がある。
 評論家の松本健一氏は毎日新聞9月18日夕刊の寄稿文で、テロを容認する石原発言への賛意の表明について、戦前の1930年代における官僚や政治家に対する「一人一殺」のテロに対する「国民的」共感も当時の官僚批判・政党政治批判に基礎があり、そのまま満州侵略・日中戦争・太平洋戦争へと繋がったことを直ちに連想させるとして、「テロへの芽は小さなうちに刈り取るべき」との警告を発している。はたしてそうとらえて良いのだろうか。

▼食料支援をめぐって二分する国論

 ここに興味深い資料がある。通信販売大手のカタログハウスが、主力雑誌「通販生活」2003年夏号で行った、「北朝鮮への食料支援についての国民投票」の結果である。この投票は、4月23日から6月30日の期間に実施されたものである。
 「通販生活」の販売部数は約150万部で、有効投票総数は2592票だから読者の0・17%に過ぎないが、石原発言に対する都庁への意見と同様な傾向が示されている。しかもその意見の内容がより詳細に示されているので、これを使って現時点での「国民感情」のありかを探ることが可能である。
 この投票は問い1として、@今こそ支援を続けるべきA支援する必要は全くないB支援したいが、今は我慢すべきC今の時点ではどちらとも言えないの四つの選択肢から一つを選ぶものである。結果はAの支援するべきではないが1298票で50%を占め、Bの支援したいが今は我慢すべきが844票で33%、@の今こそ支援すべきが264票で10パーセント、Cのどちらともいえないが186票で7%である。AとBを足せば88%となり、現時点では北朝鮮への支援をすべきではないという意見が大勢を占めた。
 しかしBの「今は我慢をすべき」という意見は、原則としては食料支援をするというものであるので、これと@を足すと43%。つまり北朝鮮に対して食料支援をすべきでないという意見とすべきだという意見は合い半ばすることとなり、この意味では「国民の意見」は2つに分裂しており、先の石原発言に対する都庁への意見とほぼ同じ比率を示しているのである。

▼充満する政官と左翼的傾向への批判

 ではなぜ投票者の半数が食料援助を拒否したのか。あるいは援助すべきと答えた人の多数が、なぜ現時点での支援をためらうのか。
 これらの問題を明らかにする資料がこの投票の第2問、6人の論者のどれに最も共感したかの答えである。
 6人の論者は3つの傾向に別れる。支援反対は評論家の俵幸太郎の「日本を敵視する国に人道支援などありえない」と、作家の関川夏央の「民族は一つとさけぶ韓国こそ食料支援をせよ」の意見。条件つき賛成は、作家の上坂冬子の「飢えに苦しむ人への直接の支援でなければ焼け石に水」と、拓殖大学教授の重村智計の「日本に明確な外交戦略がなければ支援してもむだ」の意見。賛成意見は、評論家の佐高信の「支援をやめれば改革の芽をつむ」と、ピースボートの櫛渕万理の「食料の絶対量を増やすことが一般市民を救う」。投票は最も共感する論者を一人選ぶ。
 結果は、反対の俵が995票で40%、同じく関川が212票で9%だから、反対の合計は49%である。条件つき賛成の上坂は448票で18%、重村が533票の22%で合計40%。最後に賛成の櫛渕は161票の7%、佐高は117票の5%で合計は12%である。
 論者への共感の投票結果は、先の支援への態度の投票結果とほぼ同じ傾向を示している。したがってこの論者たちの論拠とハガキに書かれた読者の意見とを見てみれば、投票傾向の背景が読み取れる。
 反対の俵の論拠は明快である。要は日本を敵視するテロ国家である北朝鮮を支援する必要はないというもの。食料が必要なら核開発費用を使って買えというのがその主張。同じく反対意見の関川の論拠は、今までの食料支援は飢えている人に届かず、しかも支援された食料が外国に転売されてその費用が軍事費に転用されている。だから食料援助は無駄という結論になる。そしてもう一つの論拠が日本のマスメディアが北の発表を鵜呑みにしてきたことと、北朝鮮に対する韓国の認識の甘さをあげている。
 俵と関川を支持する意見の特徴は、北朝鮮政権への批判と、対話より武力を含む強い態度で交渉に臨むべきという意見であり、さらには北朝鮮を脅威とみない韓国への批判、さらに北朝鮮に融和的な論調をとってきたマスメディアと左派系への批判が主なものとしてあげられている。中には「イラクと同じようにアメリカにやっつけてもらいたい」との意見もあったという。このことから食料支援拒否の人々の意見は、ブッシュ・ネオコン派に近いものであり、当然、北朝鮮との融和政策をとって来た従来の外務省への批判的意見であることは確実である。
 条件つき賛成の論拠は、上坂・重村両氏とも、一般市民に確実に食料が届くことが支援の条件であり、北朝鮮と日本の双方の一部高官の癒着によるこれまでの支援を批判している。また重村は支援の条件として拉致問題や核開発問題の解決も挙げている。そしてこの条件つき賛成意見を支持する傾向として、これまでの支援のありかたへの疑問と北朝鮮政府に対する批判が強いことは、この人々の心の中にも先の支援反対派と同じく、テロ国家北朝鮮への反感とともに、従来の外務省や自民党のとってきた政策への不満があり、これが解消されないことが食料支援をためらった理由だろうと推測される。
 つまり支援に反対する50%の意見も、支援を現状ではしないという33%の意見も、ともに北朝鮮の現体制への批判や不安をベースにして、従来の日本の対応への批判が根拠になっているのである。
 この条件付賛成の人々が、反対派と同じ心情にありながらも食料支援を原則として支持したのは、多くの人々が餓死していくのを放置することは人道上許されないという考えがつよかったからであろう。
 さらにこの投票結果でもう一つ特徴的なことは、支援を訴えた佐高・櫛渕両氏への熱い共感が一部に止まっていることと、両氏への激しい非難が集中したことである。
 「甘い。北朝鮮がテロ国家であることを知らないのか」「平和ぼけをしている人がいるから拉致問題や核問題が解決しない」など、支援賛成意見に対しては、反対もしくは条件つき賛成の人々からの非難が集中している(意見の傾向のまとめは「通販生活」編集部のものによる)。
 以上の投票結果からわかることは、投票した人の多数が、従来の政府の北朝鮮への対応に批判的であり、それに不満を持っていることである。それは大勢の日本人が拉致され、しかもその多くがすでに死んでいるという北朝鮮のおぞましきテロの実態への驚愕と、拉致があることを知っていながら放置した政府とマスメディア、そしてそんな北朝鮮を美化してきた左翼的傾向への、もしくはその全てに対する不信感に裏づけられている可能性が強いことである。
 テロ国家を理由に人道支援も拒否して餓死者を見殺しにする人が50%いる。一方、人道的食料支援の必要性は認める人が約40%はおりながら、ただちに食料支援をするべきという意見は10%にとどまった理由は、この官僚や左翼的傾向への不信感にありそうだ。

▼政治不信とナショナリズムの「発見」

 通販生活の「国民投票」の結果を踏まえて、先の石原都知事の発言に対する意見の傾向を再度分析してみよう。
 都知事の発言を支持した人は47%。これはテロ国家への食料援助を拒否した50%と同じ心情であろうことは容易に理解できる。この層は、官僚や政治家そして左翼に対する不信感から北朝鮮を悪として排除する、排外主義的傾向に陥っていると理解できよう。
 もうひとつの、石原発言に反対した53%の人々。この人々の中にも、石原発言に賛成した人々と同様の官僚や政治家そして左翼に対する不信感が存在するであろうことは、「国民投票」の結果を見れば容易に想像できる。ではなぜこの人々は石原発言に同調せず、排外主義的傾向に走らなかったのか。
 それはおそらく、テロという暴力行為を容認することは人道上許せないと発言した多くの識者と同様のものであっただろう。こう考えてみればこの層の心情は、食料支援を原則としては容認しながらも、現時点では我慢するべきとした人々と同じものであると考えられる。
 つまり現時点ではテロを容認する石原発言に同調するものは約半分だが、「人道上許せない」というたがが外れるような事態が起これば、石原発言に反対した層の多数もテロを容認する心情に移行する可能性があるということであり、「国民」の多数が排外主義的ナショナリズムに走り、それに対抗するものへのテロとを容認するに至る危険は、目の前に存在するということを意味している。松本氏の警告は、根拠があるのである。
 松本氏は先の寄稿文の中で、石原のように大衆に迎合しその危機感をあおる政治家は特殊な存在ではなく、この10年ほどの間に名を挙げた細川護煕、田中真紀子、辻本清美、小泉純一郎など、大衆に迎合するポピュリストとも言える一連の政治家の右の極に石原は存在するのであり、大衆の中にある排外主義的ナショナリズムにしっかりと足を置いた政治家であることをも指摘する。そしてこれがファシズムへの一里塚にならないように、小さな芽のうちに刈り取るべきと警告を発しているのである。
 この警告も的を射ているといえよう。
 大衆の間に官僚や政治家そして左翼への不信感が渦巻いており、それが自らの心情をもっとも表現するにふさわしい言説として排外主義的ナショナリズムを『発見』し、それと一体となっていく傾向。これこそ、慶應大学の小熊英二と彼のゼミ生である上野陽子が、『《癒し》のナショナリズム』(慶応義塾大学出版会)で「新しい歴史教科書をつくる会」の幹部たちの言説と、その一般会員の心情の実地調査を行って明らかにした傾向そのものなのである。
 特に興味深いのは、上野が、つくる会の下部組織である神奈川県支部の有志の会・「史の会」で行った聞き取り調査である。
 会に参加する主なメンバーは青年から壮年の学生やサラリーマン・主婦層であり、経済的には比較的恵まれた都市中間層に属する。彼らの言説を分析して、彼らが否定的に使った語として「左翼・ヒステリックな市民運動家・マスコミ・官僚」などをあげ、彼らが肯定的に使った語としては「良心的・普通の感覚・健全なナショナリズム・庶民」などであることをあげている。つまりこの層は「普通の庶民」として「良心的」に考えた結果、左翼や市民運動や官僚やマスコミに批判的になったと標榜し、また自らをそれらと対極にあるものとしてつくる会の活動に参加し、社会批判を行っているのである。
 彼らにとっては歴史教科書が問題だったのではなく、この問題が自分たちの心情を表現するのに適していたから取り上げたのであり、さらに彼らは「右翼」とか「皇国史観の保持者」と呼ばれることを極度に嫌っていたことが報告されている。
 このような傾向を評して、小熊氏は以下のようにまとめている。
 このような傾向を生み出した背景の一つは、「現代日本社会における中間集団、家族や地域共同体や学校などの空洞化。すなわち公共性や共同性などの幻想をたくせる共同体の崩壊である」と。いいかえればこれは、戦後のフォーディズム資本主義が日本に定着する中での共同体の崩壊である。その身を置き安心を託せる場の崩壊。これが人々の中に多大な不安を生み出したというのである。
 さらにこれに加えて、戦後の高度経済成長を支えた企業や労働組合という擬似共同体も、高度成長が終焉し未曾有の不況が続く中で共同体的機能が解体され、しかも政府はそれに対応できないという事態の中で、国家という最も大きな擬似共同体も壊れつつあり、人々の不安が募っていることも忘れてはいけないだろう。
 したがって、高度経済成長の中でひろがった「生活保守的な『日本人の誇り』は、いったん経済が不況になれば歴史という別種のシンボルをもとめざるをえなくなる」と。これがつくる会が90年代に勃興した背景であり、その心情を表現する手段として保守の言葉を選んだにすぎないと、小熊氏は述べている。
 さらに小熊氏は、なぜこのような大衆的な不安や不信感がかってのような「左の言葉」を選ばなかったということについて、「『戦後民主主義』や『リベラル』という『左』の言葉こそが、現在の日本の『体制側』の言葉、もっと俗な表現をすれば『大人のきれいごと』とみなされているから」と総括している。
 左の言葉が実態を伴わず、社会の現状を変える事もできずにマスメディアや知識人の言説として空理空論と化していることが、大衆的不信感や不満を吸収しえなかった原因だというのである。
 そして小熊氏は、その著書の最後で以下のような警告を発している。「だが問題なのは・・・一人一人は『普通の市民』である彼らが、自分の不満をもちよって集まることで、排除の暴力を内包した右派集団が形成されるということである。そしてこうした不安を抱えた『普通の市民』が今後も増加していくだろうことである。」と(詳しくは『《癒し》のナショナリズム』参照)。
 先の石原都知事の「テロ容認」発言に対する「国民」の意見の傾向は、この小熊氏の警告が現実となっていることを示す証左の一つであろう。

 1930年代の資本主義の危機に際しては、今と同じような大衆の不信感と不安に対して、不安からくる破壊への喜びともいうべきファシズムという解決策と共に、社会主義という解決策と、豊かな社会を建設するというアメリカ型の資本主義・フォーディズム資本主義という解決策とが示された。
 結果的にはアメリカ型資本主義による豊かな社会の建設という解決策が取られ、ファシズムによる破壊は限定的なものに止まった。では今回の大衆の不信感や不安に対してはどのような解決策が提示されているのか。
 社会主義はすでに色あせ権威は地に落ちてしまった。そして豊かな社会を保障したアメリカ型資本主義もまた、その成功ゆえに旧来の共同体を破壊し、文化を破壊し、そして自然を地球を破壊するにいたっており、その求心力は失われつつある。しかしそのアメリカ型資本主義の救済策としてのネオ・コンサーバティズムは、世界に対立と戦争を広げるだけであるにもかかわらず、排外主義的ナショナリズムと言う面では大衆的な不信感・不安を煽り立て、破壊への誘惑を掻き立てかねない。
 テロを容認しかねない排外主義的ナショナリズムの小さな芽を小さな芽のうちに刈り取るには、アメリカ型の豊かな社会に代わり、かつ破壊への衝動への陶酔に代わる、リアルな、世界と日本との将来像を示すことが、今必要なのであろう。

(10/4)


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