【自衛隊のイラク派兵】羅針盤なき難破船のゆくえ

―戦略不在の日本外交の行き着く先―


▼事実上の改憲に踏みこんだ小泉

 1月16日、陸上自衛隊のイラク先遣隊が羽田を出発し、19日には駐屯予定地のサマーワにオランダ軍に警護されて到着した。昨年末の航空自衛隊先遣隊の派兵に続き、いよいよ戦後はじめての、占領軍としての自衛隊の海外派兵が始まろうとしている。
 19日の通常国会冒頭の施政方針演説において小泉首相は、この自衛隊派兵を「憲法の精神に基づく国際貢献」と強弁し、これが事実上の改憲ともいうべき歴史的暴挙であることをひたすら押し隠そうとした。
 小泉は演説の結びにおいて、この意義を憲法前文の一部を引用することで説明しようとした。
 いわく、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と。
 そして「平和は唱えるだけで実現できず、国際社会が力を合わせて築き上げるものである」と述べて、世界の平和と安定の中にわが国の繁栄があるのなら「日本も行動によって国際社会の一員としての責任を果た」さなければならないと主張した。さらに困難をのりこえてイラクに自衛隊を派遣することによってこそ、憲法前文にある「国際社会において名誉ある地位を」実現することに繋がるのだと述べた。
 小泉は昨年末に自衛隊の派兵を決めた時にも憲法の同じ部分を引き、これは憲法の精神を具体化したものだと強弁したが、これはおぞましいまでの歪曲である。

▼平和的生存権の思想

 小泉が引用した前文の2箇所の部分は、彼が意図的に排除した以下の理念を前提として成り立っているものである。
 それは前文冒頭の「日本国民は、…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という、戦争を全面的に否定する思想である。
 この思想はさらに「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」として世界規模での戦争の否定として展開され、さらに戦争の原因の除去にまで深め、世界中の人々が持つ「平和的生存権」の実現をはかるという思想である。
 この思想に基づいて、憲法は続く第9条において「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたい、続く第2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定したのだ。
 つまり日本国憲法は、日本が軍事力を持つこともそれを発動することも否定するだけではなく、一切の戦争を否定し、地球上の全国家が紛争を平和的に解決すること=戦争を否定しその原因を除去することを求める思想を根幹としているのであり、これを世界の国々が行動原理とすることを前提にして、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と宣言したのである。
 そしてもう一点忘れてならないことは、この日本国憲法の思想は国際連合憲章の思想でもあったということだ。

▼武力行使を制限した国連憲章

 国連憲章はその冒頭において、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」と、その設立の目的を述べている。
 この具体化のための方法として「寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して」と、紛争は平和的に解決することとして武力の行使を制限したのである。
 そして第6章において紛争の平和的解決の方法を述べ、武力の行使については、これらの平和的解決策のすべてが無に帰した時にのみ、安全保障理事会の決議に基づいて行うことができると規定している。
 さらに規定の例外的措置として、第51条では「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と規定し、安全保障理事会の決議に基づかない場合の軍事力の行使は、「加盟国に対する武力攻撃が発生した場合」と制限したのである。
 しかし現在、アメリカのブッシュ政権が掲げる「先制攻撃主義」と「単独行動主義」、そしてその発動としての「民主主義を守る戦争」とされるイラク戦争は、この精神を踏みにじり、これを永遠に廃棄しようとするものである。

 今回イラクは、国連加盟国に武力攻撃をかけたわけではない。それを「大量破壊兵器の保持とこれの即時使用の危機」、そして「国際テロ組織アルカイーダとの連携」を理由として、アメリカ・イギリスなどの連合軍は国連安保理の多くの国を含む世界の多数の国の反対を無視してイラクを攻撃した。この開戦の理由がまったくのでっちあげであったことは、その後の経過が明らかに示しているし、イラク攻撃はブッシュ政権の成立時からの政策であったことも前財務長官の暴露で明らかになり、ブッシュの開戦理由が虚偽の口実であったことは明白である。
 英米などのイラク攻撃は、国連憲章の精神をも明確に踏みにじっており、国連そのものを廃棄しようとする行動であることも明らかである。
 このことを前提にして見れば、アメリカのイラク攻撃を正当化し、その占領軍の一員として自衛隊を派兵することを日本国憲法の精神の名において正当化することは、小泉自らが国連憲章と日本国憲法の精神を踏みにじり、アメリカが求める「秩序」を維持するためには主権国家の主権をも無視して戦争を仕掛けることを是とする立場をとったということであり、日本という国家にとっては事実上憲法を廃棄したと同じ事態だということを意味している。
 今や小泉のいう「国際社会」は分裂しているのであり、彼の「国際社会」は事実上アメリカの先制攻撃主義を承認し、イラク戦争を支え参加している90ヶ国ほどのグループを指しているに過ぎない。
 また小泉は「国連もすべての加盟国に対して、国家再建にむけたイラク人の努力を支援することを要請している」と述べたが、その前提条件はイラク国民による総選挙によって選ばれたイラク人の政府の成立であり、アメリカがこの選挙を拒否し、占領軍当局による事実上の軍政を敷いている以上、単なる虚弁に過ぎない。
 小泉政権は日本国憲法を廃棄し、国際連合も廃棄する道に踏み込んでしまった。これは悲しいまでのブッシュ政権への追随であり、日本政府が自前の国家戦略をまったく持たないことを証明するものである。

▼羅針盤のない難破船

 しかし小泉政権のブッシュ政権への追随は、今回の自衛隊イラク派兵だけではない。その追随ぶりは目を覆うものがある。
 たとえば昨年12月19日に政府は、ミサイル防衛(MD)システムを導入する決定をした。このシステム導入は弾道ミサイルを着弾以前に撃墜することで国土を守るということだが、これは明確に北朝鮮のミサイル発射を前提に組み立てられている。
 この決定の問題点は三つある。最大の問題は、北朝鮮のミサイル発射は現実となりうるのか否か。これは北の自滅行為であり、こうした現実をも防ぐために6カ国協議が継続されている動きに照らしてみても、非現実的な想定である。結局この決定は、ミサイル防衛システムを導入すること自身が目的であると考えられる。
 二つ目の問題点は、弾道ミサイル攻撃の危険があったとしても、システムがそれを確実に迎撃できるかという問題である。防衛庁幹部が「高速で飛行する弾道ミサイルを100%迎撃できる技術は確立していない」と発言する(毎日:03年12月19日)現状で、アメリカでもたびたび実験の失敗が報じられているなかでの導入は、次にのべる巨額の資金の問題とあわせて、システム導入自体が目的ではないかと疑われる所以である。
 三つ目の問題は、システム導入にともなう巨額の資金である。防衛庁のMDシステム構想全体を実現するには、米国からの購入費と関連設備の整備費に今後7〜10年間で8000億〜1兆円かかると見込まれる。
 MDシステムはアメリカ国内でさえ産軍複合体へ巨額の資金供与をするだけだと批判されているように、巨額の財政赤字を抱え、今後もさらに赤字が増えることが想定されている今日の日本の財政事情のもとで、これだけの資金を使ってMDシステムを導入することは、産軍複合体の利益のために働くブッシュ政権への「御奉公」に過ぎない。
 さらに13日にオランダ訪問中の石破防衛庁長官は、現在米国とだけ行っている兵器の共同開発を第三国にも広げることを検討する考えを表明し、これに伴って武器輸出3原則の抜本的な見直しを進めるべきだとの認識を示したのである。
 武器輸出3原則に関しては、既に米国と共同開発しているMDシステムの次世代迎撃ミサイル実用化の際に部品輸出を可能にするための検討に入っているが、このこと自体すでに3原則の事実上の廃棄なのだが、石破発言は原則そのものの廃棄を示唆しており、武器は輸出しないという「平和国家日本」の原則を壊すものでもある。
 小泉政権は、ブッシュ政権の動きに追随することで、これまでの国家原則を廃棄しようとしているのである。
 そしてこのブッシュ追随ぶり、この戦略のなさは、他の面にも及んでいる。
 小泉は施政方針演説で、昨年12月の日本ASEAN特別首脳会議での東京宣言に基づき、新しい時代の「共に歩み共に進む」パートナーとしてASEAN諸国との関係を強化すると述べているが、その共同宣言が目ざす「アジア経済共同体」形成への関与にはまったく触れていない。
 ASEAN諸国と中国・台湾・韓国は、先のアジア経済危機以来、アメリカ市場への過剰な依存を脱して自前の共同市場、自前の投資市場をアジア規模で作り、自国経済へのアメリカの介入と、アメリカへの投資によって貿易黒字を吸収されてしまうことを防ぐためにアジア経済共同体を作ろうとしている。その第1歩として、互いの自由貿易協定の締結を行うことを決めている。
 しかしこの動きへの具体的な関与にはまったく触れず、自由貿易協定締結交渉も、問題となるのが木材だけという比較的組みしやすいマレーシアとの交渉開始が決定されただけで、その他はまったく五里霧中という状態である。自由貿易協定の締結によって日本農業の危機が加速されることへの恐れが背景にはあるものの、むしろアジア経済共同体がアメリカにとっての投資環境を改善するものではなく、かえってそれへの防波堤になるのではないかというブッシュ政権の恐れを体現している可能性がある。
 日本政府は今やアメリカの、いやブッシュ政権の顔色を伺い、それに追随するしかない政権と言ってよい。まったく独自の国家戦略のない羅針盤のない難破船状態といっても過言ではないのである。

▼敗北を抱きつづける日本

 だがこの国家戦略のない状態は、今に限ったことではない。太平洋戦争敗北後の日本はずっと戦略のない状態であった。
 1851年の黒船の来航によって、欧米帝国主義に対抗する国家戦略なしには自国の独立すら危ないことに気づいた日本は、明治維新の過程でその戦略を模索した。しかしアジア諸国との連帯と連携に基礎を置き、その人材と資源を共同化することで日本の資本主義的発展とアジアの近代化を図り、その力によって欧米帝国主義と対抗しようとした当初の戦略は、アジア諸国がほとんど欧米帝国主義の植民地と化したことで破綻した。世界資本主義が帝国主義の段階に達した以上、資本主義的発展をはかろうとした日本もまた、アジア諸国を自らの植民地にして帝国主義へと飛躍する以外になくなったのである。
 日清・日露の2つの戦争を通じてこの戦略転換をなしとげた日本は、第一次世界大戦中の1915年、中国に対する21か条要求によって帝国主義的侵略を開始するが、それはアジア諸国の抵抗に直面したばかりか、とどのつまりは「欧米帝国主義からのアジアの解放」を掲げた大東亜戦争で欧米帝国主義と正面衝突して敗北した。日本という国家が、その当否は別にしても、独自の国家戦略を掲げたのはここまでであった。
 太平洋戦争後の日本は、アメリカの歴史家ダワ―が『敗北を抱きしめて』(岩波書店刊)で活写したように官民をあげて戦略喪失状態となり、とくに政権を維持した保守派は、完全なるアメリカ追随主義を取るにいたった。それは敗戦直後にアメリカから「非武装の平和国家」を押しつけられると「平和国家として世界に貢献して行く」と大見得を切っておきながら、冷戦の勃発によって当のアメリカに再軍備を強要されるや、憲法第9条の1項と2項との間の「前項の目的を達するため」という文言を恣意的に解釈し、「平和を守るための武力は戦力に当たらない」という詭弁を弄して自衛隊の創設に踏み切るといった有り様である。
 それでもこれは、憲法改正と日本軍の世界展開という事態にはいたらなかった。それは冷戦が、「豊かな」アメリカ的資本主義の世界的展開を強制し、さらにアメリカが単独で社会主義革命と軍事的に対峙することで、未曾有の経済的繁栄と「平和」がもたらされたからであった。
 これ以後の日本の国家戦略は、アメリカの武力に守られ、アメリカ型資本主義が展開された地域に怒涛のように日本の商品を売りこみ、巨大な経済的利益をあげるというものになった。それは独自の国家戦略といういよりも、アメリカの庇護の下で経済主義的利益をはかるだけであり、日本外交の基軸であった「全方位外交」も、政治の話は脇において、金儲けの面ではだれとでも仲良くしようというものでしかなかったのである。
 しかしこうした未曾有の経済的繁栄も、1985年のプラザ合意までであった。1970年のドル兌換停止や73年と79年の2度にわたる「オイルショック」という資本主義の世界的景気後退という危機も、日本株式会社と呼ばれる官・労使一体となった利益共同体の力と、アメリカの傘の下で資本主義的に開発されたアジアへ産業基盤を移すなどしてコストを削減した格安の商品を津波の如く世界中にばらまくことで乗りきった日本は、アメリカをも追い越す世界一豊かな・強い国になったかに見えた。
 プラザ合意による政策的な円高ドル安も、輸出マシンと化した日本は大幅な貿易黒字を出すことで乗りきったが、このプラザ合意の背後では、アメリカの圧力を受けた内需拡大を名目に超低金利政策が実施された。アメリカにくらべてあまりにも低い金利が長期間維持されたことによって、貿易黒字で得た利益は国内に投資されることなく、アメリカ国債の購入による資金の還流へと政策的に誘導されつづけ、日本の発展はとまった。以後日本は大幅な貿易黒字にもかかわらず、その利益を日本国内の豊かさの発展には使えず、国際収支と国家財政の赤字に陥ったアメリカを支える黒子の地位へと後退するのである【この問題については、マイケル・ハドソン著『超帝国主義国家アメリカの内幕』(徳間書店刊)と、吉川元忠著『マネー敗戦』(文藝春秋刊)に詳しい】。
 諸産業の国際競争力がかげりを見せて巨額の赤字に苦しんだアメリカは、唯一の国際通貨という特権を利用して政策的にドル安を追求するとともに、世界各国に内需拡大を名目に超低金利政策を強要することによって、世界の資金をアメリカ国債の購入を通じてアメリカに還流させて赤字の解消した。
 そして90年代に入るやアメリカは、クリントン政権の下でITやバイオ・宇宙航空産業などに資源を投入し、再び世界経済をリードする地位に復活する。それとともにグローバル化とよぶ世界の再度のアメリカ化は、世界にアメリカ的価値観とアメリカ的な政治・経済システムを輸出することで世界中の投資環境を均一化し、唯一の世界通貨・ドルを擁するアメリカ独占資本の利益の極大化を図ろうした。この世界の再度のアメリカ化の過程ではアメリカ以外の国家の主権は無視され、世界各国の政府はアメリカの経済政策に追随することを強要された。
 経済的側面においてはすでにレーガン政権以来、アメリカの単独行動主義ははじまっていたのである。
 このとき日本は、自国がアメリカの繁栄を支える黒子と化し、富を吸い取られることを阻止する政策をとらなかった。ヨーロッパ諸国がドルに対抗する国際通貨・ユーロへの移行を急ぎ、統合欧州という自前の市場を作り上げることでアメリカからの「自立」を図ったのとは対照的である。さらにアジアやラテンアメリカ諸国も地域経済共同体をつくろうとしたのに、日本だけはアメリカ発のグローバル化を是として受け入れた。
 日本政府は戦後一貫してアメリカ追随であり、それは自己の独自の戦略を欠いていた故である。小泉政権のイラク派兵からはじまる改憲への動きも、この流れのなかで起きている。日本の保守勢力は、太平洋戦争の敗北の痛手を未だに抱いたままなのである。

▼「諸国民の安全と繁栄」はどこに?

 80年代からのアメリカの単独行動主義は、世界のほとんどが資本主義化され、多くの国が資本主義的に発展することで市場の狭隘化が起こり、アメリカの独占資本の利益が減ったことを克服しようとする世界のアメリカ化の動きであった。ブッシュ政権の単独行動主義は、これを基盤に卓越した軍事力で「民主主義の敵」を作り上げ、各国政府を政治的にも軍事的にも自己の統制下に置くことで、さらなるアメリカ独占資本の利益を拡大しようとする動きであると思われる。いわば世界化したアメリカ独占資本のための「世界政府」を代行しようとしているのであろう。
 果たしてこの動きへの追随の先に「日本の安全と繁栄」いや、「諸国民の安全と繁栄」はあるのだろうか?。
 問題の一つの核は、このアメリカ化がこれ以上進展するのかということであり、第二の核は、そのことが世界の安定と繁栄を導くのかということである。つまり言いかえれば世界の更なるアメリカ化=世界を単独のアメリカ帝国の支配下に置く試みは、資本主義のさらなる発展とともに人類全体の安全と繁栄とを実現できるのかということである。
 小泉政権のブッシュ追随、いや今後も続くであろうアメリカ追随は日本を、そして世界を何処へ導くだろうか?。

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