2020年東京開催の政治的意味と放射能汚染

―オリンピック招致に立ちふさがる放射能汚染問題―


 2020年の夏季オリンピックを東京に招致する問題で、きわめて楽観的な報道が行われている。前回の2016年オリンピック招致に失敗した原因は国民の支持の低さにあったが、今回は前回の50%台の支持率ではなく、他の立候補都市と同等の70%台に乗ったので、可能性は高いと。しかしこれは、問題を直視しない誤った楽観的な報道である。

▼開催都市の評価方法

 オリンピックの開催地を決めるに際しては、様々な要素に基づいて、どの都市が開催都市にふさわしいかを客観的に選考しているかのように報道では言われている。
 すなわち第一次選考の際の評価点は、政府支援及び世論・インフラ・競技会場・選手村・環境及び影響・宿泊施設・交通・治安・国際大会開催実績・財政・遺産及び有効活用の各項目を、立候補都市の申請書類に基づいて評価し、その総合点で10段階の6点を上回った都市を第一次選考合格都市として選定する。つまりこれらの諸点にあまりに不安が多い都市に対しては、一次審査で不合格判定がなされている。
 そしてこのような過程を経て二次審査に臨んだ候補都市をIOC評価委員が実際に訪問してさらに詳しく調査し、その訪問調査の評価を参考にして、IOC委員が投票で最終的に開催地を決める。
 こうした過程を見ていると表面的にはとても客観的な評価の結果開催都市が決まっているかのように見える。

▼審査過程の不透明さ

 しかし第二次審査の過程を見ていくと、以上のような評価は表面的なものであることに気がつく。例えば2016年オリンピック開催都市選考過程を見てみよう。
 2016年の夏季オリンピックは南米ブラジルのリオデジャネイロに決まった。しかし第一次選考の際のリオの評価はあまり芳しいものではなかった。
 この時の立候補都市7都市を評価点の高いほうから並べると、東京(8.3)・マドリード(8.1)・シカゴ(7.0)・ドーハ(6.9)・リオデジャネイロ(6.4)・プラハ(5.3)・バクー(4.3)であった。
 この選考委員会が6以上と高い評価を与えた都市のなかから、2008年4月のIOC理事会は、ドーハは夏の高温を避けるために提案された10月開催がIOC規定に反することと、競技施設の乏しさや人口規模の小ささなどの懸念から落選させ、他の4都市が二次選考に進んだという。この時点ではリオはまだ4都市の最下位。もっとも評価が低く、最高位は東京であった。
 しかし2009年4月から5月にIOC評価委員が4都市を実際に訪問して評価した結果、リオが急浮上する。「詳細で非常に質が高い」と4都市で最も高い評価を受け、懸念されていた治安は徐々に改善されているとされた。残る懸念材料は、膨大なインフラ整備や宿泊施設不足を解消する費用の問題と、交通輸送面であった。一方、一次審査で最高点の東京は「質が高い」と評価され、コンパクトな会場配置と開催準備金の多さが評価されたが、支持率の低さとスタジアム周辺の輸送と選手村の狭さが問題とされた。また2位のマドリードは「まずまず」と低い評価がされ、既存施設の多さと支持率の高さが評価されたが、一方で大会組織面や反ドーピングの法制化が不透明と、問題点を指摘された。3位のシカゴは「詳細で質が高い」とされ、コンパクトさや選手村の質の高さなど評価されたが、警備面や財政面に保証がない点が問題とされた。
 評価委員会の訪問審査で、なんと順位が逆転したのである。
 そしてこの傾向は、2009年10月のIOC総会でも続き、リオは1回目の投票こそ27.66%で2位と1位のマドリードに後れをとったが、シカゴが落選したあとの2回目投票では48.42%と一躍トップに躍り出、この回ビリであった東京が抜けたあとの3回目投票で、67.35%でマドリードに圧勝した。
 この3回の投票過程をみると、事前審査があまり影響していないことが見て取れる。
 第1回投票で「詳細で質が高い」とされたシカゴが19.5%の低支持率でまず落選し、「まずまず」と低い評価のマドリードが29.79%で1位をとる。2回目投票ではそれが一転してリオがトップを占め、そのまま3回目になだれ込んだのだ。
 何故一次審査で低い評価だったリオデジャネイロが評価委員の訪問審査で高い評価を得て、最終審査で最高点をとってしまったのだろうか。
 これについては、一般には、ブラジルの国家中枢要人や著名なスポーツ選手がIOC委員に積極的なロビー活動をしたからと説明されているが、その根拠も定かではない。

▼オリンピックは政治的イベント

 こう見ていくとオリンピック開催都市は、様々な客観的指標で候補地を絞り込んでいるとは言え、評価委員会の評価や最終選考には、これ以外の要素が働いているとみて間違いはない。
 ではそれは何であろうか。
 近年の開催都市に立候補した都市の「売り」は、多くは「コンパクトさ」と「環境に優しい」という二つのコンセプトを強調したものである。「コンパクトさ」というコンセプトは、あまりにオリンピック開催に多額の資金がかかることと、その利権をめぐる黒いうわさが絶えないことへの対応であろう。既存の競技施設を利用したり、狭い地域に競技会場を設けることで移動の時間と費用を節約したりというわけだ。また近年人間の諸活動による環境破壊が地球に深刻なダメージを与えているとの認識が広がっているのだから、「環境に優しい」とのコンセプトは説明の必要はないだろう。
 この観点からみると、2016年オリンピック開催都市候補として二次審査に進んだ4都市の内、東京はまさにこの二つのコンセプトのみ。そしてこれはシカゴもマドリードも同様であった。この三都市は「コンパクトさ」と「環境に優しい」を競っていたといって過言ではない。もちろんリオもまた「コンパクトさ」と「環境に優しい」を掲げてはいた。
 ではリオデジャネイロは他の3都市とは異なる何が売りだったのだろうか。
 明らかなことは、リオデジャネイロでオリンピックが開催されることになれば、これが南アメリカで最初のオリンピックとなることである。
 オリンピックの目的は、そのオリンピック憲章の根本原則にも明記してあるように、「人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進すること」である。そしてこの精神を体現するものとして五大陸を表す五つの輪が交わる旗をその象徴としている。
 この旗では、青はオセアニア、黄はアジア、黒はアフリカ、緑はヨーロッパ、赤はアメリカの各大陸を表わすとされている。しかしアフリカでは一度も開催されていないし、アメリカの中でも南アメリカではまだ一度も開催されていない。この理由は、オリンピック開催には多額の資金が必要となるため、それを国家の支援を受けながらも開催都市が単独で工面する必要があるため、立候補できる都市は自ずから、経済的に進んだ地域に限られてしまうからである。
 ちなみに2016年大会までの開催地を大陸別に分類してみると、オセアニア(2回)・アジア(3回)・ヨーロッパ(18回)・アメリカ(5回)とヨーロッパが圧倒している。
 「南米初」となるリオデジャネイロでのオリンピック開催は、見事にオリンピック精神を体現しており、この政治的インパクトは極めて高い。
 おそらく第一次審査での評価の低さにも関わらず、リオがその後大逆転を演じられたのは、「南米初」という政治的メッセージ故であろう。
 IOCでのプレゼンテーションでルラ大統領はこの点を強調したし、すでにリオは、1936年、1940年、2004年、2012年に次いで5度目の立候補であり、2004年及び2012年のオリンピック招致でもインフラや治安、国際大会の開催実績の不備を指摘され、開催権を勝ち取ることは出来なかった。しかしその後急速な経済成長を背景としてインフラも整備され国際大会開催の経験も積んでいることから、リオがそして南米が正当に評価されていないことの「不均衡」の解消をとも、ルラ大統領は強調した。
まさにブラジル政府要人と著名スポーツ選手は、この点を強調したロビー活動を行い、最終選考でもこれを強調したのだ。
しかしリーマンショック以後の経済不況で国を挙げてオリンピックとはいかないシカゴ(アメリカ)とマドリード(スペイン)は、リオの政治的優位を崩せるコンセプトを持たなかったし、この点では東京も同じであった。
 東京は1990年代から始まる長期不況下にあえぐ中で、2011年の東日本大震災でさらに経済的にも追い打ちを受け、甚大な被害を受けた東北の復興こそ焦眉の問題として抱えている日本の首都として、国を挙げてオリンピック開催に熱狂できない状況にあった。この弱点が国民的支持率の低さとして現れていたのだ。
オリンピックはその精神にしっかり示されているように、それ自体が政治的なイベントである。したがって立候補都市が押し並べて同じような状況にある場合には、その都市での開催が示す政治的メッセージが大きく開催都市決定に影響するイベントでもあるのだ。
 日本でのオリンピック招致運動において、まったく欠如しているのはこの観点である。

▼東京開催の政治的位置の低さ

 以上のように、2016年のオリンピック開催地決定過程を見ていくと、東京が極めて不利な位置に立たされていることが見て取れる。そしてこの状況は、2020年オリンピックの招致争いでも言えることである。
 今回最終選考に残ったのは3都市。
 スペインのマドリードと、トルコのイスタンブール、そして日本の東京である。
 一次評価だけみると東京の評価は「非常に質が高い」と極めて高得点である。そしてマドリードは「質が高い」と評価されていた。二次審査に進んだ3都市の中でこの二つが有力なように見える。そしてイスタンブールは「課題はあるが潜在能力がある」と何とも意味深長なあいまいな評価であった。
 そして3都市とも連続して数回の立候補であり、いずれも前回よりは計画が進化し、「コンパクトさ」や「環境への優しさ」では優劣が付けがたい。
 一次審査の過程で大きく異なるのは国民の支持率である。イスタンブールは73%、マドリードは78%、そして東京は47%。相変わらずの支持率の低さ。つまり東京は、長引く経済不況と大震災からの復興という二重苦をいまだにおったままである。この東京の支持率が評価委員会の訪問時期に急上昇したのは、安倍内閣の成立と、この内閣の経済政策によって経済が急回復するとの期待に並行した現象であろう。
 こうなってくると3都市は互角である。
 では3都市での開催が意味する政治的メッセージを比較してみよう。
 イスタンブールは、経済的に急成長するイスラムの星トルコの首都。そして今やEU加盟目前であり、都市そのものがアジアとヨーロッパにまたがる。ここでの開催は、EUの拡大の象徴となり、アジアとヨーロッパとの文字通りの懸け橋となり、イスラム圏で初めての開催となる。この最後の点は、イスラム文明とキリスト文明との対立という言い方ができる現在においては、その協調ということで極めて大きな政治的意味合いを持つ。
 ではマドリードでの開催の政治的意味合いはどうか。スペインはギリシア・イタリアと並びEUの危機の象徴でもある。そしてこの国は、内部に深刻な民族対立を抱え込み、少数派のバスクを代表するバルセロナがすでにオリンピックを開催しているのに対して、多数派の首都マドリードはまだ開催できていない。マドリード開催は、EUの復活と民族対立の融和という政治的意味を持つ。
 では東京での開催はどんな政治的意味を持つのであろうか。
 この点を考えると東京は極めて不利な状況にあることが明白である。
 経済的には日本は韓国やASEAN諸国に追いつかれ、ついに中国には完全に水を開けられた。いまだに世界第三の経済大国であることには変わりはないが、今や落日の帝国である。そしてそのことを象徴するように、韓国との間には竹島問題と従軍慰安婦問題、そして中国との間では尖閣問題と戦争責任の問題を抱える。
したがって東京でのオリンピック開催は、2008年の中国北京や2016年のブラジルのリオデジャネイロ開催のような、経済的にも政治的に重きをなしつつある新興国の雄との世界的協調という政治的イベントにはなりえない。そしてアベノミクスによる「日本の復活」は、まだ期待の段階であり、2013年中にも蜃気楼となる可能性も大である。
東京開催に政治的に意味があるとすれば、それは勃興する中国の脅威に対抗する自由世界の橋頭保としての日本ぐらいであろうか。そしてこれを支持するのは、中国を牽制したいアメリカぐらいだ(だから猪瀬都知事はアメリカを訪問した)。
 しかしIOC委員の絶対多数はヨーロッパである。IOC委員会は定員115人で、うち欧州諸国が4割強を占める。2016年オリンピックを決めた2009年10月のIOC総会では、出席した106名のうち、ヨーロッパが47人。アジアが22人。北中南米が15人。オセアニアが4人。
どうみても東京は不利である。

▼追い打ちをかける深刻な放射能汚染

 そしてIOC委員の4割強がヨーロッパであるという事実は、福島原発事故による深刻な放射能汚染問題をオリンピック開催と結び付けて考えるとき、さらに東京に追い打ちをかける深刻な問題となってくる。なぜならヨーロッパは、1986年のチェルノブイリ原発の事故によって長く深刻な放射能汚染問題に苦しんだ経験をもっているからだ。
 放射能汚染問題は、原発周辺だけではなく、原発から発生した「放射能雲」が、風によって流され、雨や雪とぶつかって放射性物質が地上に降下した地域全体に深刻な問題となる。1986年のチェルノブイリ事故の時、ヨーロッパ全域がまさにこの問題に直面した。事故後何年もの間野生のキノコや植物、そして動物の肉は食べることができず、広範囲に汚染された牧草地で育まれた乳牛たちの乳も飲用することがためらわれた。そしてもっとも深刻に汚染されたウクライナや白ロシアの地域では、子供を中心として多くのガン患者が生み出されている。
この経験を持つヨーロッパの人々の目から見ると、福島原発事故後の日本政府の対応は異常である。
 深刻な汚染を被った福島県。とりわけ海岸付近と中通りの地域からの人々の避難を迷い、結果として多くの子供たちを放射能にさらしてしまった。そして事故後も特に農地全域の汚染状況調査もせず、極めて甘い楽観的な基準で福島やその他の放射能で汚染された地域での農産物の栽培と出荷を許可してしまった。
 政府は2012年4月から基準を少し厳しくして一般食品はキロあたりで100ベクレル以下であれば出荷して良いと定めた。この基準は、事故前の食料品の含有放射能が、高くても0.1ベクレルであった事実から見るとき、なんと1000倍に汚染された食品でも可とした、狂気の沙汰であった。
 東京で放射能雲の通過時に雨が降ったのは東京東部の一部であり、大部分は深刻な被害を免れた。しかし放射線量が毎時0.1〜0.2マイクロシーベルトの東部の地域でも、その後の雨や風によって放射性物質は濃縮され、各地で数万ベクレルの放射性物質を持つ汚泥が見つかっている。
 そして東京開催で最も問題になることは、先に見た事故前の1000倍も放射能に汚染された食品が一般に流通していることである。
 オリンピックが開催されれば数週間にわたって、世界各国の選手団だけではなく、国々の役員や報道関係者が多数東京に滞在し、この放射能に汚染された食品を食べることになる。日本政府は100ベクレル程度の食品を常時食べ続けても年間被ばく量は1ミリシーベルトを超えることはないから安全だと豪語する。
 しかし1ミリという被ばく量は、基本的に外部被ばくであり、天然に存在する放射性物質が最も多いところで年間1ミリ程度だから、とりあえず安全といわれているに過ぎない。
 しかし食品に含まれた放射性物質は、外部被ばくのように皮膚を通して内臓に達するのではなく、胃腸で消化されて血液に移り、体中を循環する中で付近の細胞を被ばくさせる。しかし残念ながら内部被ばくの医学的研究はあまりなされていない。通常は原発のメンテナンスなどの時におきる外部被ばくの問題しか、原発産業の維持のために医学的にはあつかわれていないからだ。
 つまり深刻な事故は想定されていない。
 研究されたのは唯一チェルノブイリ原発事故の時だけだ。
 そしてここでの知見では、血液1リットル中に放射性セシウムが7ベクレル含まれている状態を三カ月続けただけで、膀胱ガンなどのガンを発生することがすでに知られている。100ベクレル以下であれば安全などとはとんでもない嘘なのだ。
 この事実をヨーロッパの人々は日本人より良く知っている。だからこそ1986年のチェルノブイリ事故以後は、原発推進派のフランスですら原発の新設は行っていない。そしてもう一つの原発推進派のアメリカも最近オバマ大統領が新設を許可するまで長く新設はされなかったのだ。
 このように東京開催の政治的意味を考えてみるとき、東京はもともと極めて不利な状況にあり、それに深刻な放射能汚染があり、放射性物質を含んだ食品が普通に流通している現実を見るとき、東京でのオリンピック開催は当分ありえないのである。そして2016年オリンピック開催地を決める際に東京が落選した影の原因がこの放射能汚染問題であったことも想像に難くない。
 東日本大震災からの復興に莫大な資金がかかる中で、そして福島原発の放射能汚染から多くの人の健康と生活を守るためにも巨万の金が必要な中で、東京でオリンピックを開催しようなどということは、とんでもない戯言である。
 もっと正確にいえばこれは、震災からの復興と深刻な放射能汚染への対処という焦眉の危機から国民の耳目を逸らさせるための、政府とマスメディア一体となった陰謀と言っても過言ではないのである。東京でのオリンピック開催に火をつけたのが、原発推進派で日本核武装論者でもある、尖閣問題に火をつけた石原慎太郎その人であることは、とても意味深長である。

(5月5日)


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