【時評】 拡大する無党派首長
−時代に対応した構想の不在−
03年春の統一地方選挙が終了した。今回の選挙の特徴は、知事・市長ともに、無党派の首長が過半数を占めたことにある。
しかもここで特徴的なのは、これらの首長の中に「地方から政治を変える」と呼号して、具体的な改革数値目標(マニュフェスト=政策綱領と呼ばれる)を掲げて首長に当選するものが増えたことである。つまり最近の無党派首長の誕生そのものが、「政党による支持の拒否」「改革のための具体的政策=数値目標を伴うものを掲げる」という形で現れているのであり、マスメディアはこれを指して「政党の危機」と呼んでいる。
この動きは一体何を示しているのであろうか。
この問題を考える時に、無党派層が政治に大きな位置を占めた歴史上の三つのポイントになる時期を見てみることが大事である。
一つは無党派層と呼ばれる人々の政治的登場が、1993年の総選挙から加速したことである。
この選挙では自民党が分裂し改革を掲げる「新党さきがけ」と「新生党」とが誕生。同時に改革を掲げる「日本新党」が結党されて、これらの政党が「無党派層」の圧倒的な支持をえ、総選挙直後に日本新党を中核とした連立内閣=細川内閣を成立させた。つまりバブル景気が崩壊し、経済と政治の転換が求められたときに既成政党がこれに対応した新しい構想を出せない中で、政党に期待しない層としての無党派が大量に出現するとともに、政党の再編と連立政権が、この人々の改革への期待を担って成立したのが1993年であった。
また二つ目は、1995年に東京の青島・大阪の横山という無党派知事が誕生したことである。この1995年は、期待をになって成立した新しい内閣が政党間の数を頼む離合集散によって次々と崩壊し、その中で1994年には自民党と社会党とさきがけが連立する村山内閣が出来て政治改革が頓挫する中での出来事であったことである。そして東京の青島知事の誕生は臨海地域の大規模開発の是非が焦点となっており、土木事業を中心とした利益誘導型政治が問題となったうえでのことであった。
つまり無党派知事の誕生は、既存の利益誘導・分配型政治の問題点が認識されても改革が進まないにもかかわらず、あるいは日本の経済と政治を改革する期待が新党をも含む既成政党の離合集散が繰り返されてしぼむ中でも、改革への期待がなお持続し、出口を探していることを示していたのである。
しかしこの期待も、議会において強固な支持基盤をもたない無党派知事が、結局は官僚と既成政党に妥協して何もできず、中央政治でも96年に橋本自民党内閣が成立する中でしぼみ、以後今日にいたるまで無党派を標榜する人は拡大し続けたのである。
さらに三つめは、今回の地方から政治を変えると標榜し改革の具体的な構想を掲げて首長へと立候補する動きは、昨年の横浜市長選挙における、「無党派」で立候補した前民主党衆議院議員の中田宏が与野党相乗りの現職に勝利したことあたりから加速したことにある。そしてこれは、同じく改革をかかげて圧倒支持をえて成立した小泉内閣への期待がしぼみ始めた時期と重なる。
つまり支持政党がないという無党派層の拡大は、1990年代以後明確になってきた世界的な資本主義の退潮の中で、日本という国の経済・政治システムをいかに変えるかという構想=政策綱領を政党が明確に出せなかったことに基盤があるのであり、政党に支持されずに、改革構想を明確化した知事・市長が誕生した背景には、日本をいかにかえるかという構想を待ち望む人々の巨大な願望がますます強まっていることを示しているのである。
さらに今回の地方選挙における無党派首長の誕生の裏には、2期8年のあいだ三重県知事をつとめ、県行政の大幅な転換をはかってきた北川正恭が地域マニュフェスト提起を推奨したことも大きく寄与している。
今期までで三重県知事を退任して早稲田大学教授に転じた北川は、4月22日に東京で、新たな知事連合「地域自立戦略会議」を結成した。参加したのは、片山善博・鳥取県知事、増田寛也・岩手、浅野史郎・宮城、堂本暁子・千葉、梶原拓・岐阜、木村良樹・和歌山、国松善次・滋賀、橋本大二郎・高知の各知事と有識者である。そしてこの日のシンポジウムで基調講演をした北川は、「国や官僚に任せてはいけない」と強調し、地方分権をさらに進めたステップとして食糧、人材、財源などあらゆる分野で「地域自立」に向け提言や政府への働きかけを行うことを決めた(毎日新聞4月22日号による)。
日本の政治を担う各政党が、日本をいかに改造するかの政策綱領を示すことなく、既得権確保と政党の離合集散を繰り返す中で、より大統領制的に「強い政治」を行える地方を基礎として中央から自立した自治体を形成し、これを基礎に国民各層を組織しながら中央を包囲していこうとする迂回戦略ともいうべき動きが始まっているのである。
かって政治再編が頓挫する中で、新党さきがけをつくってこの動きに先鞭をつけた当事者である田中秀征と武村政義が、この過程を振り返って、二人とも「国会議員の数にのみ頼って改革を急ぎ、改革のための構想をしっかりとたて、国民の支持を得る努力を怠ったこと」が政党再編=政治改革失敗の原因だと総括したことがある。
中央政治を迂回して改革の実績と綱領的合意を形成する動きがようやく始まったが、激変する世界情勢の中では、日本の改革のために残された時間はあまりない。改革のための政策綱領も示せないままに漂流する日本政治。この中で改革のための政策綱領を策定し、国民各層をその下に結集する動きを加速するためには、既存の政党や政治勢力の奮起が不可欠である。
政党への不信と、その裏に隠された期待とが交錯する時代の中で、政治を動かしてきた諸政党や左翼勢力は、さきに頓挫した政治改革の総括が示唆する所を深くかみ締め、改革への巨大な期待をいかにして大衆的うねりへと組織していくのかを真剣に考える必要があるのではないだろうか。