【時評】朝青龍の引退
外国人排斥の風潮
●神事と暴力と日本相撲協会
横綱朝青龍が突然引退した。場所中に酒に酔って知人男性に怪我を負わせたことが直接のきっかけとなり、横綱審議委員会からは引退勧告を受け、日本相撲協会理事会からも強く引退を勧められ、進退に行き詰って自ら引退を選択したということだ。暴力事件を起こし横綱の体面を汚したことは取り返しのつかない失態であり、これまでの土俵上での「品格に欠ける」行為とはまったく次元の異なる問題であり、引退勧告による引退もやむをえない処置であった。
しかしこの問題は本当に、朝青龍個人の問題であったのだろうか。
筆者には、朝青龍を追い込んだのは、外国人横綱の存在を嫌う排外主義な感情が、「相撲は神事である」という隠れ蓑に隠れて行われた「横綱いじめ」が原因であったように思われるが、この点に言及した発言は少ない。
この点を示唆した数少ないコメントが、三つあった。
一つは朝青龍の父親のコメント。
彼は息子に対してよく頑張ったとねぎらったあとで、「相撲協会は息子が次々と記録を塗り替えていくことが怖かったのではないか」と発言した。しかしこの発言はまったく無視された。
もう一つは、元官房長官の森山真弓衆議院議員のコメントである。
彼女は「私が官房長官として総理大臣杯を優勝力士に渡そうとしたときに、土俵が穢れるからという理由で拒否した相撲協会の古い体質が背景にある」とコメントした。しかしこの発言もまったく無視された。
さらに作家の野坂昭明が、2月13日付けの毎日新聞紙上で「今の大相撲が神事であるなどと思っている人は誰もいないし、その所作の意味も日本人でも教えないかぎりわからない。まして朝青龍は外国人である」とコメントしたことも、事態の本質をついたものであったと思う。
しかし優勝回数で歴代三位に躍り上がった不世出の名横綱がこのような不名誉な形で引退に追い込まれた背景には、相撲協会の内外から、彼を「横綱として不適格」であるとして執拗に行われた外国人横綱に対する「いじめ」があったことを問題にした報道は、まったく見られなかった。報道の場で垂れ流された発言の大半は、「品格に欠ける横綱が引退に追い込まれたのは当然」として、これがきっかけとなって相撲協会の古い体質が改善されることを望むというものであった。
しかし朝青龍問題が、相撲協会に巣くう暴力体質や八百長体質、さらに興業面において暴力団と連携した体質など協会の古い体質から生まれた問題だとすれば、彼の引退を契機に相撲協会が再生することなどありえないのだ。
これまでの経緯を見る限り、彼が日本人横綱であったならば、たとえ土俵上で勝負が決まってもなおだめ押しするような行為をしたり、勝利のあとの派手なガッツ・ポーズをするなどの行為に対して、「神聖な場に相応しくない」「相撲は格闘技ではない」「横綱の品格に欠ける」などのような執拗な攻撃は受けなかったであろう。勝負を重視する今の大相撲ならば土俵際の際どい勝負に際しては、駄目押しをするのは当然であり、勝利の喜びをガッツ・ポーズで表すのは、現代のスポーツマンとして普通のことである。
たしかにかつて相撲は神事であった。神の意思を占う神事であった。だから次の天皇を巡って複数の有力候補者がいた場合には、それぞれの陣営から勇者を出し、相撲で決着をつけたという伝承もある。ただし神事としての相撲の勝敗は、相手を殺すことによってもたらされる。
しかし中世末から近世江戸時代を経て、相撲は次第に寺社の祭日などに行われる興業と化して見世物化し、力士が職業となるに従って神事の面は忘れ去られ、次第に競技としてのルールに基づいて行われるようになった。そして近代・現代における相撲は、すでに勝負をかける格闘技としてのスポーツになっている。ラジオやテレビを通じて広く観戦される相撲は、他のスポーツとは異なるところはなく、見るものも競技するものも、神事など意識することはない。だから日本人の力士であっても、朝青龍のような行為をしばしば土俵上で行う。しかしこれはあまり問題にもならない。
事実かつて横綱貴乃花が怪我を押して出場して優勝をもぎ取った時、土俵に仁王立ちになってその喜びを表現した際には(画面で見る限り彼はガッツ・ポーズになるのを必死に堪えていたようにも思えたが)、「喜びに感極まっての行為だ」と彼を擁護する発言が相次いだ。ところが同じ行為をしたのが、朝青龍などの外国人横綱であったとしたらどうであったろうか。また朝青龍が土俵外でしばしば付け人などの弟弟子たちに暴力をふるったことがあったが、その際の彼の弁明は「俺だって新弟子時代には殴られた」というものであったことを記憶している。そして土俵上での激しい行為に対しても、彼は「相撲は喧嘩だ」と言ったことがあった。
このような朝青龍の言動の背景には、先年のまだ経験が浅く激しい暴力を含む稽古に嫌気がさして力士を辞めようとしていた青年を、親方が率先して兄弟子たちに指示して殴り殺しにした事件が、相撲協会全体に染み込んでいる暴力体質の氷山の一角でしかないことを見るべきだろう。この事件のあと横綱審議委員会から強い改善要求が出て、理事会を先頭に実態調査と教育がなされたが、明白な暴力の証拠があったいくつかの場合を除き、親方が処分されることはなく、処分されても譴責処分にすぎなかった。
相撲協会が暴力体質であることは、公然の秘密である。これが日本人の若者があまり大相撲に参入しない背景をなしていることは、よく知られている。筆者の知る範囲でも、インター杯で優勝して相撲部屋から誘われたが、あの殴る蹴るの稽古にはついていけないと誘いを断り、大学では山岳部に所属した者がいたし、中学生として県下の相撲大会ですばらしい成績をとって相撲部屋に誘われたが、やはり体験的に稽古に臨んでそのあまりの暴力体質に怖気づいて帰ってきた中学生を見たこともある。
相撲が神事であり土俵は神聖なのだから力士もそれ相応の態度が求められるというのは、相撲協会の古い体質を守り、それを変えようとする若い親方や、力士を親方の財産のようにみなす古い体質を変えたいと望む人々の要望をはねつける言い訳にしか過ぎない。むしろこの問題は、在日外国人に対して参政権を与えようとする民主党の動きに対して、「参政権が欲しけりゃ日本に帰化すればいいんだ」という亀井郵政大臣の発言に見られるような、一種排外主義的な「相撲の伝統に従わない」外国人横綱「いじめ」とでもいうべき状況が引き起こした問題ではなかったかと思うのは筆者だけだろうか。
これまでの2人の外国人横綱が立派な成績を上げながらも年寄株を取得できず、一人は格闘技へと転出し、もう一人も年寄株を借りた最下級の親方としてしか相撲協会に残れなかったことに筆者は危惧を感じる。朝青龍引退を聞いたときの横綱白鵬の涙には、尊敬する先輩を追い詰めて捨てた日本社会に対する悔し涙の意味もあったかもしれない。