古代史関係の論考

NEW!2017年6月10日
2021.7.7更新

 2016年1月から「多元的『国分寺』研究サークル」に関わって多くの「国分寺」関係の論考を書いてきた。また、2017年3月からは、「古田史学の会」で古田武彦氏の歴史研究方法を否定して「実証より論証」などという論理で、今までの先行研究も古田さんの研究も無視して、九州王朝説を単なる妄想の域に貶めるような活動がなされている事実に気が付き、これを批判する人々とともに、「古田史学の継承のために」のサイトで、いろいろ議論をしている。この過程でまた、多くの古代史に関する論考を書かなければならなくなっている。
 どちらのサイトもブログであるため、論争が多岐にわたることと、コメント欄で論争が続いているために、これらのブログでどのような研究成果が出ているかを見つけづらい状況となっている。
 そこでこの二つのブログによる研究サークルの議論の中で、私が書いた論考を、ここに一括掲載し。誰にでも読めるようにした。ファイルはすべてpdfファイルである。

  ●大隅国分寺の再検討  「国分寺」は、九州王朝時代の国府付属寺院=国寺に聖武の命令で七重塔を作ったものではなかったのか。この仮説を証明するために、『新修国分寺の研究』所載の論文や、その後の考古学調査報告書などを元に、遺構を再検証する。2021年5月30日 ここ
  ●日向国分寺の再検討4 日向国分寺再検討第四弾。国府編。
2021年5月23日完成。2021年6月1日掲載。
ここ
  ●日向国分寺の再検討3訂正版 日向国分寺再検討第三弾。出土瓦編。
2021年5月13日完成。5月23日訂正。2021年6月1日掲載。
ここ
  ●日向国分寺の再検討2 日向国分寺再検討第二弾。伽藍配置編。
2021年5月5日完成。2021年5月31日掲載。
ここ
  ●日向国分寺の再検討1 「国分寺」は、九州王朝時代の国府付属寺院=国寺に聖武の命令で七重塔を作ったものではなかったのか。この仮説を証明するために、遺構を再検証する。日向国分寺再検討第一弾。
2021年4月29日完成 2021年5月31日掲載。
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  ●豊後国分寺の再検討3 豊後国分寺再検討第三弾。国府編。
2021年4月25日完成。2021年6月6日掲載。
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  ●豊後国分寺の再検討2 豊後国分寺再検討第二弾。出土瓦編。
2021年4月24日完成。2021年6月6日掲載
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  ●豊後国分寺の再検討1 「国分寺」は、九州王朝時代の国府付属寺院=国寺に聖武の命令で七重塔を作ったものではなかったのか。この仮説を証明するために、遺構を再検証する。 豊後国分寺再検討第一弾。伽藍配置編。
2021年4月21日完成。2021年6月6日掲載。
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  ●豊前国分寺の再検討3 豊前国分寺再検討の第三弾。発掘報告書にもとづく精査。
2021年4月17日完成。2021年6月30日掲載。
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  ●豊前国分寺の再検討2 豊前国分寺再検討第二弾。WEB上の国分寺と国府の発掘データによる再検討。
2021年4月11日完成。2021年6月30日掲載。
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  ●豊前国分寺の再検討1 「国分寺」は、九州王朝時代の国府付属寺院=国寺に聖武の命令で七重塔を作ったものではなかったのか。この仮説を証明するために、遺構を再検証する。 豊前国分寺再検討第一弾。「新修国分寺の研究」所収論文による再検討。 2021年4月8日完成。2021年6月9日掲載。 ここ
       
       
  ●肥後国分寺の再検討1 「国分寺」は、九州王朝時代の国府付属寺院=国寺に聖武の命令で七重塔を作ったものではなかったのか。この仮説を証明するために、遺構を再検証する。肥後国分寺第一弾。「新修国分寺の研究」所収論文による再検討。2021年3月検討。文章化21年7月4日。2021年7月7日掲載。 ここ
23 ●書紀斉明紀を精査する  議論の中で上城さんから依頼されて精査した。なんと書紀斉明紀には、九州王朝が唐との戦闘に向かってひた走る一方で、近畿天皇家が独自の外交を展開し、それは唐だけではなく、周辺の高麗・新羅・百済、そして蝦夷にまで及んでいたことがわかる。2017年10月28日 ここ
22 ●中皇命の伊勢行幸記事の持統紀への盗用について  書紀持統紀伊勢行幸記事は、七世紀の前半の九州王朝の天皇・中皇命の伊勢行幸記事の盗用であるとの古田さんの説がある。しかしこれを精査したところ、確かに盗用なのだが、時代は七世紀前半ではなく、七世紀末の朱鳥年間。そして旅の出発地も目的も最終到達地も古田説では間違いであることが明らかになった。2017年9月7日 ここ
21 ●書紀持統紀の吉野行幸記事の真実  書紀持統紀には31回にも及ぶ吉野行幸記事がある。これを古田さんは、白村江の戦い以前に九州王朝の天皇が佐賀なる吉野に行幸した記事を34年遡って持統紀に盗用したものとみなした。しかし古田説を精査してみるとこれは間違いであることがわかった。そして万葉集の人麻呂が吉野で詠んだ歌への注にある「日本紀」の記事を元に書紀持統紀の吉野行幸記事を精査してみると、この記事は、朱鳥年間における、九州王朝天皇の佐賀なる吉野行幸記事と、同じ時期の近畿天皇家の持統の大和なる吉野行幸記事、そして同じ時期に大和に遷った九州王朝天皇が大和なる吉野に行幸している記事とからなっていることが判明した。2017年9月6日 ここ
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●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査

 書紀天武紀と持統紀の宮関係記事を精査してみた。天武紀でも持統紀でも、天皇の行動を示す場合は、主語省略と明示という二つの方法が併存し、前者は九州王朝天子、後者は近畿の王天武・持統の行動ということ。これを手がかりに精査してみると、驚くべきことがわかる。白村江の敗戦以後の九州王朝と近畿天皇家の関係について新たな事実が判明したことを報告する。2017年8月6日 ここ
19 ●古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について  「前期難波宮九州王朝副都説」を中心として、「古田史学の会」で2011年から2013年にかけて行われた論争を振り返り、論争で何が明らかになり何が明らかにならなかったのかを総括し、再び学問的論争のレベルに戻ることを祈念して、この成果を明らかにする。2017年7月30日 ここ
18 ●磐井の乱を考える  古田さんは当初「継体の乱」と考えたが後に否定し、書紀編者の造作と見解を変えた。古田史学の会の正木さんは、磐井の乱の元史料は九州王朝に対する近江毛野臣の乱の記事であり、これを盗用して時期も登場人物も入れ替えて、オオド王が筑紫の豪族の反乱を討滅した事件を造作したとした。この著名な事件を、筆者が新たに見出した『日本書紀』解読法を元に解析した。結論は、この事件は九州王朝内の天皇位を巡る騒乱であった。2017年7月11日 ここ
17 いかにして「前期難波宮九州王朝副都説」が虚妄であることに気が付いたのか―「自分史」的考察ー 「前期難波宮九州王朝副都説」が誤りであること気が付いたのは2017年4月初めのことであったが、そこに至るまでの二年半ほどの「古田史学」との関わりの中で、「古田史学の会」の現状への疑念が深まっていたことが背景にあったことを「自分史」的に考察した論考。2017年6月24日 ここ
16 ●孝徳の宮「難波長柄豊碕宮」はどこにあったか?(訂正版) 15の論考に単純なミスがいくつもあったので訂正した。孝徳の宮の字に間違いがあり、古賀さんや大下さんの説の理解に間違いがあった、さらに末尾の「崩」「薨」の理解に間違いがあったためである。2017年6月17日 ここ
15

●孝徳の宮「難波長柄豊ア宮」はどこにあったか?

「古田史学の継承のために」で議論になっている「前期難波宮九州王朝副都説」批判の中で話題となった、近畿の王・孝徳の宮のありかを『日本書紀』分析によって探求した論考。2017年6月13日。 ここ
14 「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−9B) 武蔵国分寺研究第十三弾。聖武天皇一周忌までに完成した「国分寺」26ケ寺伽藍の再検討第三回。南海道編。2017年1月22日。 ここ
13 「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−9A) 武蔵国分寺研究第十二弾。聖武天皇一周忌までに完成した「国分寺」26ケ寺伽藍の再検討第二回。山陽道編。2016年12月11日。 ここ
12 「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−9@) 武蔵国分寺研究第十一弾。聖武天皇一周忌までに完成した「国分寺」26ケ寺伽藍の再検討第一回。北陸道・山陰道編。2016年11月21日。 ここ
11 「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−8) 武蔵国分寺研究第十弾。寺院伽藍配置の歴史的検討を踏まえ、伽藍改造例を考察する。2016年11月21日。 ここ
10 「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−7) 武蔵国分寺研究第九弾。従来の研究の伽藍形式と国府との関係説を検証する。2016年11月16日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−6) 武蔵国分寺研究第八弾。「日本書紀」「続日本紀」の仏教関係記事精査により「国分寺」と呼ばれた理由を解明。2016年11月8日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−5) 武蔵国分寺研究第七弾。最新の発掘報告書に基づき、伽藍復元案を提示。法起寺式か観世音寺式かと。2016年10月20日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−4) 武蔵国分寺研究第六弾。新しい伽藍変遷仮説を提示。2016年10月20日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−3) 武蔵国分寺研究第五弾。従来説の伽藍変遷の矛盾を指摘。2016年10月14日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−2) 武蔵国分寺研究第四弾。伽藍南北軸の傾きの意味を論じる。2016年10月14日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−1) 武蔵国分寺研究第三弾。従来説の矛盾を指摘。2016年10月14日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版1) 武蔵国分寺研究第二弾。先の論考の根本的間違いを指摘。2016年9月20日。 ここ
「武蔵国府寺」創建伽藍の区画溝の発見と創建伽藍の復元 武蔵国分寺研究第一弾。 2016年8月29日。 ここ
今井久著「伊予国分寺と白鳳瓦―最初に国分寺制度を造った誰か」批判 「古田史学会報」132号掲載論文の批判。 2016年2月16日。 ここ