「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判29


29: 御益・国益の田沼時代−商工業の発展は複合的な利害対立を生み出した−

 「社会の変動」の三つ目の項目は、「 産業の発展と社会の変化」である。「つくる会」教科書は第4節「幕府政治の動揺」の最初の項を「社会の変動」とし、4代・5代・6代・7代・8代将軍の治世は皆、社会の変動に対応して現れた新たな問題に対処するために、幕政の改革を進めてきたことを縷々述べていたが、肝心の社会の変化の実相についてはほとんど記していなかった。
 この社会の変動の実際についてここで初めて記述したものである。
 教科書は次のように社会の変動の様について記述している(p152〜153)。

 しかし18世紀の後半になると、年貢の基盤である農村そのものが大きく変化していった。流通の発展で、農村でも、問屋が農家に資金や原材料を前貸しして生産を依頼する、問屋制家内工業がみられるようになり、より大きな収益を求めて働く傾向が農民の間にも広がった。このため、、米以外の農産物の生産や副業に力をそそいで成功し、豊かになる人がいる一方、失敗して借金のため土地を失い小作となる人々も出た。その結果、村内部での対立がみられるようになった。また、より自由な生活を求めて村を離れ、江戸など都市に出て零細な商人になったり、商家に奉公する人々も増えた。しかし反面、地方では田畑が荒廃する地域も生じた。
 また19世紀中ごろには、酒造業や綿織物業などで、労働者を工場にやとい入れ、分業によって生産をする方法(工場制手工業=マニュファクチュア)が出現した。

 要するに商工業の発展により、農村もその流れに呑み込まれて商品作物の栽培やその加工や販売を行うようになり、これに伴って農民の階層分化が生じ、土地を集積して大規模な農業と商工業を展開する富農と、土地を失って小作人に転落するものとに 2極分解した。そしてこの過程でより自由な生活を求めて都市に移住していく者も多数出て、村には耕す者もなく荒廃する田畑が広がったというのだ。そして都市には、こうして農村から流れ出た貧困層が、零細な商人や商家の奉公人として、都市の下層に滞留した。これでは農村から年貢をより多くとるという政策を実行することは不可能になる。
 だから18世紀後半以後の幕府政治は、村から過重な年貢を徴収するのではなく、発展しつつある商工業と商人の富力に依存し、これらから税金を徴収したり彼らの財力を利用した国土開発の方向に転換した。これがいわゆる「田沼政治」であると、「つくる会」教科書は先の記述に続く箇所で展開している。

(1)商工業の発展は、村や町の社会構造の変化と町や村の自治を拡大した

 社会の変化に応じて幕府政治も変化せざるを得なかったというこの記述は、江戸時代という時代の性格をよくつかんだ優れた記述である。
 しかしこの優れた記述にもいくつもの誤解や間違いが存在する。

@徐々に展開した村の都市化−その矛盾の噴出が18世紀後半であった

a)商品作物栽培とその加工は、17世紀の中ごろから拡大した
 その一つは、教科書がこのような変化が「18世紀後半」に広がったと記述したことである。
 すでにこれまでの各項で見てきたように、米以外の商品作物栽培の拡大やその加工が村で広がったのは何も18世紀後半のことではなく、江戸時代の当初からであり、それが国土の平和的な安定が達成され、さらに全国的な流通網が整備された17世紀の中ごろ以後に加速されていったのが実情であった。とりわけ先進地域である畿内地方ではそうであって、だからこそこの地域では早くも17世紀の中ごろには年貢の金納が行われ、幕府も畿内地方の田畑の3分の1は米ではなくて綿花や菜の花などの商品作物が栽培されている畑とみなし、その分の年貢は銀貨で納入させていた。
 そしてこの傾向は海外貿易を通じて日本に招来される絹織物や綿織物の自給が進められたり、上方からの移入に頼っていた菜種油や味噌・醤油などを各地で自給することが各藩や幕府によっても進められた結果、17世紀後半から18世紀前半にかけて西国全体や北陸・東国にも商品作物栽培とその加工が広がっていったのだ。すでに17世紀末から18世紀初頭に行われた白石を顧問とした正徳の治においても、生糸の国産化政策が進められ、輸入品の国産化政策が進められていたこと、さらに18世紀の前半に行われた享保の改革においても、関東において大豆や菜種の自給が進められたり、これらの商品や全国的に展開された特産物の専売権を大坂商人に幕府が認めたことにより、各地の特産物の藩専売制を進めていた諸藩と幕府が対立したりしたことなどに、商品作物栽培とその加工が、農村部で進展していたことはよく示されている。
 こうしてすでに17世紀の中ごろには、百姓の間にも「より大きな利益を求めて働く」傾向が広がっており、百姓の中にも、手広く商品作物の加工や販売を行う富農も生まれ、こうした新しく力をつけてきた 百姓が村でも政治的に力を持ってきたのである。だからこそ享保の大飢饉などにおいて、飢饉で苦しむ人々を救うために100両(約1200万円)以上もの私財を投げ打つ「徳人」が、都市の豪商だけではなく、農村部にも数多く排出したのだ。

b)商工業の拡大は村の中に商人・事業者・労働者を生み出した
 だから「つくる会」教科書が、「18世紀後半には村に問屋制家内工業が展開した」としたのは、村の人々の間に「より大きな利益を求めて働く傾向」が広まった原因ではなく、その傾向が広まった結果起きたこと であり、より正しくは、在郷商人・百姓と都市の問屋商人の競争が激化した中で、生産まで握ろうとした都市問屋層が展開したのが問屋制家内工業なのである。ここは訂正する必要がある。
 つまり、村における商品作物の栽培とその加工の拡大の過程は、百姓と都市の商人が結びつきを強めたというだけではなく、両者の間に対抗関係が生まれたということでもあった。 なぜなら、百姓が作った商品作物を集荷したり、それを加工する事業に投資したのは都市の商人だけではなく、村の有力な百姓もまたこれに従事したからである。「つくる会」教科書が記述した「米以外の農産物の生産や副業に力をそそいで成功し」豊かになった百姓たちがそれである。
 彼らが行った「副業」は、商品作物の集荷と販売や、それを加工するための資金や原料や器具を百姓に貸し出して商品作物の加工を事業として行うことだったのだ。つまり百姓の中から も、問屋業・問屋制家内工業を行うものが出たということだ。そして新たな 在村の問屋の中から、専用の工場を設けて加工し、この工場に賃金を当てにした労働者を雇って生産するものまで現れる。工場制手工業である。大坂近郊の村では、履物の加工業などでは、早くからこのような形態の工場も生まれていた。このような商品作物の栽培と加工が村の中に広がったことを背景として、貨幣を持っている百姓への販売を当てにした小商人や、工場で専業的に加工に従事する賃金労働者、さらには大規模に商品作物の栽培を行う富農の下で賃金をあてにして働く農業労働者もまた、村人の中から多数排出した。
 村の中に、商業や工業を「副業」ではなく、主な生業とする者が多数現れたということだ。そしてこれらの商工業者は村の中でも街道や河川の船着場などに面した場所に次第に集住するようになり、村の中に都市的な場が生まれる。この村の中の都市的な場は、幕府や藩によっては「町」として認められてはいないが事実上の町であり、現代の研究者の間では「在郷町」と呼ばれるものである。この農村の百姓の中から生まれた、商品作物の集荷や加工、そして販売を生業とする在郷の問屋たちを通して、村で作られた商品が都市へと流れ、全国へと流通していった。
 したがって商品作物の栽培と加工が始まった初期のころには、その集荷や販売は都市の商人が握っていたのだが、村における商工業の拡大と在郷町の発展に従って、都市の問屋商人と在郷町の商人・百姓との間に、製品の集荷・販売の権利をめぐって争いが起きてくる。旧来の都市問屋層と、実際に生産物を作っている百姓と直結した在郷問屋層との、商品の生産・流通をめぐる主導権争いである。これが拡大した時期こそが18世紀後半であった し、その中で生産から流通まで支配しようとして生まれた生産形態が、問屋制家内工業だったのだ。そして主導権をめぐって争いあう、都市問屋層と在郷町問屋層は、互いに幕府に対して株仲間の公認を願出 て、運常金の納入を条件に生産流通の独占を図ろうと争った。
 だからこそ18世紀後半の「田沼政治」において、株仲間の公認を通じて運上金という新たな財政収入を増やそうという政策が生まれたのだ。

:教科書は生産形態の変化を、家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業と向かう直線的な発展過程として捉え、それぞれに時間差があるとしている。しかしこれは、公式マルクス主義による誤った機械的な歴史認識である。生産形態が変わるのは、生産過程の支配権を巡る競争の激化の結果であり、増大する需要に素早く対応するための大規模生産形態として生まれたのが工場制手工業である。しかし日本では織物工業では工場制手工業はほとんど発展しなかった。幕末に尾張地方で生まれた工場制手工業ものちには再び問屋制家内工業に戻っていった。この理由は、日本の織物工業は主として国内消費を目的としており、しかも現金収入の手段として家内で織物を織る膨大な数の農家が存在していたから、巨額の資本を投じて労働者と機械を一箇所に集めて生産する工場制手工業は採算が合わなかったのだ。大坂での履物業や各地の酒醸造業・醤油醸造業が工場制手工業の形態を早くから取ったのは、製品生産方法それ自体が工場形式での流れ作業に向いていたし、分散した農家で細々と作るよりは生産効率も資本投下効率も高かったからである。

c)小作・水呑百姓は極貧農民ではなかった
 「つくる会」教科書の記述の三つめの誤りは、小作人の出現を単に商工業の拡大による農民層の分解の結果として見ていることである。そして教科書の記述では明らかではないが、記述全体の基調として、土地を失って小作となった農民は極貧の農民として見られていることである(これは近世編1の【18】でみた、水呑百姓の記述と同様である)。
 江戸時代中期以後、17世紀末から18世紀以後の時期において、村で多くの小作人が生まれたことは事実である。しかしこれを、この教科書の記述のように、商業的農業に失敗して借金がかさみ、その結果田畑を失って小作に転落したとだけ捉えることは誤りである。もちろんそのようにして生まれた小作人も数多くあったし、これはすっかり村が商工業に飲み込まれた18世紀後半以後の世界では、こうなる危険は数多くあった。
 しかし小作人は従来下人として地主の田畑を耕していた隷属下層民が、自分の田畑を得て独立したが、自分の所有する田畑だけでは商業的農業を展開するには不足するので、自分の所有地に加えて地主から土地を借りて農業を営む百姓、借地農とでもよぶべき農民も数多くいたのだ。 もちろん完全な小作もいたが、彼らとて、商業的農業を展開する百姓であった。
 また従来は小作人というと、極貧の農民という意味で使うことが多かったが、これは誤りである。
 従来は江戸時代の年貢は5公5民といって、収穫の5割が年貢で5割が百姓の取り分と理解されていたので、借地農である小作人の取り分は、収穫の5割からさらに地主の取り分を引いた残高と考えられていた。そうなるとただでさえ貧しい農民の中でさらに手に入るものが少ないのだから、小作人 は極貧の農民であると理解されていたのだ。
 しかし年貢率に関する従来の認識は誤りであった。
 諸資料によれば、幕府領の年貢の実態は、全国平均で3割と少しであり、農業先進地の畿内では7割、後進地の東北では1割と少しであった。そして地主と小作の取り分は半分ずつ。収穫の5割を小作の取り分とし、地主は残りの5割から3割の年貢を払って、残高の2割を自分のものとする。小作人といっても収穫の5割を手にすることが出来たのだ。そしてこれまで田中圭一の研究に依拠してみてきたように、実際の田畑の収穫高は検地で把握された表高のほぼ2倍はあったという。したがって自作農が払った年貢は 、全国平均で見ても1割半にすぎず、8割半が自分のものになり、小作が手にした5割の収穫物は検地高の5割ではなく、実高の5割。検地高から判断される収穫の実に2倍だったのだ。

:農業先進地の畿内でも7割の年貢は実態としては3割半である。だから借地農である小作人は収穫の5割を手に入れ、地主は残り5割から年貢に3割半払って1割半を自己の物とするわけだ。農業後進地域の東北では年貢は実高の1割弱であるから、小作の取り分は5割、地主は残り5割から年貢の1割弱を払って、残高の4割強を自分の物にするわけである。実高が検地高の 2倍と考えれば、どの地方でも地主・小作ともにかなりな収入があったわけである。

 江戸時代の小作人は、従来考えられてきたよりも多くの収穫を手にしていたし、商業的農業を行って作物を売って得た金銭収入もあり、さらには農閑期には町へ賃金労働者として出稼ぎに行ったり、女たちが機織などでたくさんの金銭を稼いでいた。江戸時代の 百姓は小作人を含めてかなり裕福であった。
 また18世紀後期に目だって増えてきたのは、無高の百姓、つまり田畑を持たない水呑百姓である。
 この水呑百姓も極貧の農民と見られてきたが、実態を見てみると、彼らは農業を生業とするものではなく、零細な商人であったり、賃金労働者として暮らしを立てているものたちであった。また中には航路沿いに昔からある海村における水呑百姓の中には、多くの廻船を所有して手広く廻船業を営む商人もいた。要するに水呑百姓とは極貧の農民のことではなく、商工業を生業とする百姓のことだったのだ。 百姓は全体として、従来の歴史認識によるそれよりは豊かであった。
 だからこそ財政難になった幕府や藩は、村からより多くの年貢を取ろうとした。
 享保の改革の後半期に採用された有毛検見取法は、検地高や検地で定められた田畑の等級に関わりなく、実際にその田畑で取れた収穫高に基づいて年貢を収納する方法であったが、これは検地高と実高の間に大幅 な格差があることを前提にして、百姓が収納していた富を税として奪い取ろうとうする方策だったのだ。だからこそ 検見が終わるまで収穫ができず作物価格の最も高い時を見計らって販売することが出来ず、多くの稼ぎを奪われることを恐れた百姓は激しい抵抗をなし、定免と引き換えに年貢率の上昇を受け入れたのだ。

A村の都市化がはらむ矛盾

 しかし小作や水呑百姓が極貧の農民ではなかったにしても、百姓の暮らしが商工業と深く関わってしまったことは、村に多くの矛盾を持ち込んでいった。
 その一つは、不断に襲い掛かる階層分化の嵐である。
 商業的農業を行うには、多くの金銭で購入する肥料や農具が必要となり、しかも生活が贅沢になっていたので生活物資購入のためにも多くの金銭が必要であった。これらの費用を調達するために土地を担保にして借金をする場合が増えてくる。そして商品価格の暴落や凶作などによって収入が激減すれば借金返済が出来なくなり、ために担保にした土地を手放すこととなる。さらに従来の土地売買の慣行は永代売買ではなく、年季売買であって、一定の年数以内に借金を返済すれば、一度質流れとなって手放した田畑でも請け戻せるものであった。だからある程度の安心をもって借金をしていたのだが、商工業の発展に伴ってこの慣行は次第に崩壊し、田畑を担保にした売買は年季売買から永代売買へと変化していった。従って商業的農業の広範な展開は、百姓の間に不断に借金のために田畑を失い、小作に転落するか、都市に出て行くかという危険に常に直面することとなる。

:この土地売買慣行の変化の過渡期が18世紀初頭の正徳から享保の時期であった。だからこの時期に借金に関する訴訟が頻発し、これに対応する中で幕府も、土地の永代売買を事実上承認せざるをえなくなったのだ。

 18世紀後半は、このような階層分化が激化した時期であった。
 また商業的農業展開に伴う二つめの矛盾は、凶作が飢饉に直結し、多くの餓死者と都市への貧民の流入を生み出したことである。
 すでに寛永・元禄・享保と、江戸時代中ごろまでの大飢饉の様相を見てきたが、飢饉となった背景には凶作が数年間続いたことだけではなく、農業が商業的農業へと変質し米すらも商品作物として栽培されていたために 、来年の種籾や飯米すら売ってしまい、ために凶作となれば食料が完全に失われてしまう実態があった。また従来は凶作に備えて、田に植える稲は数種類、早稲種や晩稲種などを混在させて植えつけており、さらに田の畦などで稗などの雑穀を栽培し、常に備えるのが常識であった。しかし商業的農業が展開するとともに、より高く売れる多収穫米である晩稲が好まれ、さらに牛馬の餌などとして大豆が持て囃されると稗の栽培も廃れ、これが凶作に伴う食料不足に輪をかけることとなったのだ。
 従って商業的農業が展開していた江戸時代においては、連年の凶作は深刻な飢饉を生み出し、多くの餓死者を生み出し、食えなくなった百姓は、食料と職を求めて都市に流れ込むこととなった。

B大量の下層民の都市への滞留と町組織の組替え

 こうして商工業の波に呑み込まれた村は、極めて脆弱な構造を孕むようになり、無理な年貢増徴策はかえって村の階層分化を激化させ、多くの流民を都市に集中させ、村には耕作する者のいない荒地を生み出すこととなる。この村から都市へと大量に流れ込んだ流民のお陰で、近世の都市は膨大な人口を抱え込むこととなった。特に三都と呼ばれた大都市、江戸・大坂・京都は17世紀の末から18世紀にかけて急速に人口を拡大させた。
 
すでに【22】で見たように、1609(慶長14)年ごろには町人だけで人口15万人程度のものであった江戸は、17世紀末の元禄のころには35万人、そして幕府によって初めて人口調査が行われた1721(享保6)年には、町方支配地だけで50万人の巨大都市へと変貌した。大坂も18世紀初頭1709(宝永6)年には町人だけで38万人を数えたが、18世紀末には町人だけでも41万人の巨大都市へと発展した。京都は1572(元亀3)年には戸数1万程度であったが、1637(寛永14)年には総戸数3万7204、1715(正徳5)年には戸数4万4907を数え、人口も町方だけで34万4379人を数える大都市に成長した。
 この巨大都市の人口の多くが周辺の村からの人口流入で成り立っており、3代続けて当該の都市生まれというものは少数であった。とりわけ政治経済の中心都市として栄え、諸藩の江戸屋敷への数万人を数える武家奉公人の需要や幕府の寺社 普請や町普請に伴う人足需要、そしてこうやって集まった町方の生活需要を当て込んだ振り売り商人や商家奉公人の需要など、巨大な雇用需要のある江戸には、関東農村だけではなく、全国の村から、村では暮らせなくなった人々が流入した。

 もちろん村から都市への人口の流入は、村で暮らせなくなったことだけが原因ではなかった。
 村社会は、従来の家父長制的大家族が壊れたとはいうものの、依然として個人は家長を中心とした家の中で暮らしており、家の構成員が稼いだ収入は家のものであり、個々人が自由に使えるものではなかった。だが都市に長期間の出稼ぎにいったり、村で暮らせず都市に移住したものたちは、そこで小商業や商家奉公などで得た賃金は、稼いだ 者自身が自由に処分できる。そして都市の暮らしは村より便利でかつ楽しみの多いものであり、多少の金銭があれば、その便利さや楽しみを享受できる。都市には18世紀ともなれば、多くの屋台店がはやり、そば・うどんや天ぷら・すしや団子・饅頭などの飲食物が即座に手に入ったり、様々な半加工の調理に便利な食品が出回ってもいた。さらに芝居小屋や湯屋などの娯楽場も多く、村から都市に流入した人々は、村社会の庇護は受けられなくなったものの、村の家社会から解放されて自由な暮らしを楽しむことができたのだ。これにほんの一部ではあるが、成功して大きな商売を営むものも現れ、町に行けば一旗あげられるという神話も生まれた。こうした都市の持つ自由な雰囲気も村から多くの人をひきつけたので ある。

:この点で、「つくる会」教科書が、「より自由な生活を求めて村を離れ」と記述したことは、従来忘れられていた側面に着目した優れたものであった。ただし、その盾の半面として、村では暮らせなくなって都市に流入したという側面が切り捨てられていることは問題である。

 この結果江戸を中心とした都市には、膨大な数の武家奉公人や商家奉公人、そして振り売りなどの小商売を行ったり、通いの職人など、数多くのその日暮らしの下層民が裏店の長屋などに滞留したのだ。
 後の1842(天保13)年の調査では、江戸の町方人口は56万3689人。男は30万6451人で女が25万7238人。この約半数の28万1844人が「その日暮らしの者」とか「その日稼ぎの者」と呼ばれる、日々の小額の収入で暮らしを立てている下層民であり、全人口の30%が江戸以外の生まれの者であった。
 これでは凶作・飢饉などに伴って米価が急騰すれば、江戸の町の半数の人々は日々の暮らしにも困り、放置しておけば大量の餓死者すら出るわけであり、幕府が適切な物価対策や飢饉に際してのお救いの実施などをしなければ、これらの下層民の怒りが打ちこわしとなって爆発するわけである。1733(享保18)年正月の江戸での大規模な打ちこわしは、都市への下層民の大規模な滞留という社会構造の変化と矛盾の蓄積が最初に爆発した事件であった。以後幕府は都市下層民対策にも頭を痛めることとなる。
 このため町の組織に変化が現れる。
 江戸では17世紀末の元禄のころから町名主の上に「支配名主」が置かれ、1722(享保7)年には支配名主263人を17組の番に編成して行政の末端を担わせた。この新たな支配名主の仕事は、町奉行所が新たに実施する政策や諸手続きの改正などについて賛否の意見を具申したり、町内の困窮人の有無と困窮人の名簿の提出、さらには人口調査や土地 家屋売買と所有の実態・町の祭礼や商いの慣行などについて調査し、年番名主を通じて町奉行所に報告することなどであった。また奉行所は町内の実態を熟知している名主に対しては、特定の裁判に対して意見を求めたりし、名主の知恵を町行政に生かそうとした。これは町住民が多様化し、都市が巨大となるに従って町規模では行政的には対応できなくなり、巨大都市江戸としての町行政が必要となり、ために住民の実態を調べたり問題点を摘出したりするために、支配名主を通じて名主の力に頼った結果である。
 こうして江戸では、支配名主たちが独自の寄り合いを持って様々な取り決めを行い、これが事実上の触れとして機能するようになった。さらに支配名主たちは町内の防火や治安維持のための人足徴収などの町行政も行い、1721(享保6)年以後は、町住民内部の日常的な出入りや対立は支配名主が調停を行うなど、司法行政の一旦すら担っていったのだ。 またこのような変化は、他の大坂や京都などでも進行していた。
 町の社会構造の変化は、奉行所という行政機能だけでは統治を不可能にさせ、江戸・京都・大坂などの巨大都市では、町を越えた連合組織が形作られ、日常的な町行政は名主が差配し、幕府に対する政策具申などの活動も担い、ますます町の自治機能は拡大したのであった。 しかし「つくる会」教科書は、このような町の自治の拡大についてはまったく記述していない。

C村の自治はさらに拡大した

 「つくる会」教科書の記述の四つめの誤りは、18世紀後半までの商工業の発展によって単に「村内部での対立がみられるようになった」として、まるで村が崩壊してしまったかのような記述をしたことである。
 たしかに村内部での対立が起きていたが、それは村を解体したのではなく、共同体としての村の機能をさらに強化し、これは同時期に藩や幕府が統治機能を次第に喪失して行ったことに伴い、村が領主の違いを超えて連合して広域の行政機能を果たすようになり、この意味で村の自治はさらに拡大していったのだ。

(a)村の民主化闘争の拡大−村民全体のための自治共同体へ
 教科書が記述した「村内部での対立」とは何であったのか。
 これはすでに前のいくつかの項で見てきたように、従来の中世以来の領主の系譜を引く庄屋・名主として、江戸時代初期に村政を独占してきた村の実力者に対して、新たに力を蓄えてきた富農や、年貢を負担する本百姓の次男・三男や下人から自立して小百姓 (小前百姓)となった層などが村政の民主化を求めて闘争を拡大し、その権利を実現していたことであった。
 中世以来の系譜を引く庄屋・名主は、村共同体の代表として領主や代官と対峙し、年貢の村請けを請け負うとともに、領主の行政の末端として、その触れなどを伝達する役割を担ってきた。そのため庄屋・名主は年貢を個々の家に割り付ける作業や、村に課せられた人足などの賦課を個々の家に割り付ける作業、さらには用水を個々の田畑に割り振る作業などを独占し、この村政の独占的業務を背景にして、領主から庄屋役・名主役として年貢の減免を受けている特権階層であった。従ってしばしば庄屋・名主は、年貢の割付や夫役の割付さらには用水の割り振りなどで、自分や自分の一族を優遇したり、場合によっては代官などと結びついて年貢の一部私物化などを行ってきた。
 この中世以来の庄屋・名主の特権を剥奪し、村政を村人全体へ公開させる動きが17世紀後半から各地で起こっていた。そしてこの村の民主化闘争は、なんとしても村の自治の壁を破って年貢の増徴を図りたい領主権力とも結びついて、庄屋・名主の特権の解体と村政の民主化として 、18世紀後半にかけて実現していった。
 具体的には次のようになっていた。
 従来は庄屋・名主役として領主から年貢を減免されていた特権は廃止され、永代名主といえども百姓身分としては他の百姓と平等なのだとして、庄屋役・名主役は村共同体から支給される形にまず変化した。そしてこれを足がかりとして、新たに力をもった富農や小百姓たちは、庄屋・名主の権限をさらに削減していった。
 庄屋・名主の業務を監督・監視するものとして最初は有力本百姓の中から、年寄りや組頭という村役人を任命し、さらには本百姓以外の小百姓も含めた中から選出された百姓代という村役人を置き、庄屋・名主の業務を監督させた。そして従来は庄屋・名主の独占であった年貢割付や人足割付、さらには用水の割付などの業務もこれらの村役人の合議で行われるように変えられ、そのための帳簿も、次第に村人全員に公開されるように替わっていった。さらに庄屋・名主が独占的に行ってきた村共同体の業務に伴うさまざまな支出についても村役人全体の合議に移され、ついにはその帳簿も村人全体に公開され、村共同体として費用の公開とその減額のための支出限度額の設定などの予算制度導入ともいってよい制度も導入されていった。
 そして村全体の利益を考えることなく自分の利益だけを考える庄屋・名主はしばしば村人の要求によって罷免され、庄屋・名主は本百姓の持ちまわり制や、中には本百姓・小百姓全体での選挙で選出される村すら、18世紀後半には出現していたのだ。
 こうして村の中の階層が分化するに伴い、村共同体は村人全体の共同体として、村人全体を守るためのものへと発展し、村の自治は村人全体のものへと替わっていったのだ。
 中世の村と近世の村は、どちらも領主権力にたいして村の自治を保持し、村内のことは村で決め、年貢も村請けを行っていたという点では同質であった。しかし中世の村は、限られた有力百姓による自治に過ぎず、それ以外の小百姓や有力百姓の下人などは、村政に参加する権利すら持たなかった。だが近世の村は、下人や次男・三男が自立し、さらに商業的農業や商工業の展開によって富を蓄えた富農が出現するに従って、しだいに村政に参与できる層が拡大され、村人全体の自治組織の様相を示すようになっていたのだ。だから村の富農は飢饉に際して100両 (約1200万円)を越える私財を投じて貧民を救済したのだし、庄屋・名主というものは、村共同体の利益を代表する公的な役職であり、村人に対して慈悲の心をもって接する者でなければならないという観念が、村人全体に広がっていった。
 財政難に陥った領主がしばしば無理な年貢増徴を行うこの時代には、大規模な一揆がしばしばおきたし、名主たちはその一揆の先頭になって村の利益を貫徹するために身を捨ててでも戦った。庄屋や名主は江戸時代初期から村人の利益を守るために身を捨てて幕藩権力と戦ったという義民(これはしばしば庄屋・名主であった)伝説が作られたのも、このような村の変化が背景にあった。

(b)領主に代わって広域行政を担う主体としての村共同体連合の出現
 さらに18世紀後半という時代は、村共同体が領主に代わって広域行政を担う主体として成長した時代でもあった。
 近世の藩や幕府は、いくつかの村からなる郡という単位で村を統治し、その郡単位で年貢の収納や触れの徹底などを行っていた。従って村を越えて郡単位で村が連合し、年貢の収納や触れの徹底などを共同で行うようにもなっていた。この過程で村の中では、この村の行政を行う際の費用である「村入用」とは別会計で、「郷入用」「郡中入用」などの連合村の行政費用が計上され、村の庄屋・名主の中から郷や郡単位の行政事務を担当する惣庄屋・惣名主という役職も生まれ 、彼らが詰める郷会所や郡会所という役所すら設けられていった。
 そして17世紀後半から18世紀にかけて各地で行われた大規模な新田開発は、各地で深刻な自然災害を引き起こし、ために小規模な領主や郡代官程度の力では、この自然災害に対処する治水・治山政策を実行することは不可能となり、ために幕府も享保の改革の中で国役制を導入して、小規模領主や郡代官を越えて幕府自身が国単位で百姓に 課した税金を元手に、公儀として広域で治水・治山行政を行うようになっていったことは先にみたとおりである。またこの国役制の導入に際して、郡単位で連合し領主の別をも越えた規模で連合した村が、合同で幕府に対して治水・治山政策の実行を願出ていたことも先に見たとおりである。
 つまり18世紀前半に行われた享保の改革の頃までには、領主に代わって広域行政を行う村連合体が出現し、それが幕府を動かして国役制を実施させていたのであった。
 中世の村も統一権力が存在しない中で、戦乱から自衛武装して自らを守る組織として、郡単位や国単位で連合して戦う組織を作っていた。郡一揆や国一揆がそれであった。近世幕藩権力が成立する過程では、治安の維持は武力を独占した藩・幕府が、彼らが定めた法に従って行うようになり、自衛武装の組織としての郡一揆や国一揆は解体された。しかし近世半ばともなると、広域で頻発した自然災害に対して村は再び広域で連合し、郡単位や国規模で連合していったのだ。
 またこの広域連合としての村共同体連合の成立は、自然災害に対処するためのだけのものではなかった。
 先に見たように、近世中ごろまでには、村も商工業に呑み込まれ、百姓の中から生まれた問屋商人を中心として在郷村が作られ、在郷問屋商人と結びついた生産農家が、都市の特権的問屋商人と対抗して、その生産物の流通・販売の権利をめぐって争うようになっていた。従ってこの連合は、村の単位を越えて、綿作農家であれば綿作農家の村の広域連合として成立して、都市問屋層と戦うこととなる。18世紀後半に各地で起きた株仲間や絹会所などを巡る紛争においては、一定の商品作物の栽培と加工を通じて繋がった村の広域連合がしばしば登場している所以である。
 さらに飢饉や打ちこわしが多発する物騒な世情は、村々を襲う盗賊などを生み出した。しかし村には武士はおらず、少数の武士が詰める陣屋が郡単位で存在するだけなので、次第に村々は連合して自前の武力すら蓄えていく。村が浪人を雇って番人としたり、非人を雇って番人にしたりしたのは、この時代に始まることであった。
 こうして村は自治共同体として、郡や国単位で連合し、広域行政を担っていくようになったのだ。

(c)村の利益を守るための広域闘争としての郡一揆・国一揆の出現
 すでに享保の改革の項でみたように、幕府の無理な年貢増徴策や、凶作に際しての年貢減免の拒否などの政策の実施に対して、百姓たちは郡や国単位で連合して反対闘争に立ち上がっていた。1729(享保14)年の陸奥信夫・伊達両郡 (福島・宮城県)の越訴や、1745(延享2)年の摂津・河内・和泉(以上大阪府)・播磨(兵庫県)の百姓一揆、さらには1750(寛延3)年の佐渡(新潟県)の百姓の越訴などがそれである。
 そしてこのような広域の一揆・越訴の背景には、郡単位・国単位で連合した連合村の成立が背景にあったのだ。
 この傾向は18世紀後半以後、さらに拡大し、全国で様々な一揆が起こっていく。
 18世紀後半以後の一揆の特徴は、領主が百姓の既得権を侵したり、領主と特権的問屋商人が組んで特産物の専売制などを敷いて百姓の利益を犯したことに対して、郡単位や国単位での村連合を基盤とする郡一揆・国一揆として百姓の抗議活動が組織され、数万から十数万の規模の百姓が組織的に決起し、領主の法外な要求を阻止したことである。1754(宝暦4)年に久留米藩 (福岡県)の人別銀賦課に反対して起きて16万人もの百姓が参加した久留米騒動、同じく1754(宝暦4)年から1758年まで続いた、美濃郡上藩(岐阜県)による検見取法実施に反対し、領主改易・老中や若年寄の処罰にまで及んだ美濃郡上騒動、1764(明和1)年の幕府による中仙道28宿への伝馬役増助郷賦課に反対した武州 (埼玉県)伝馬騒動、1781(天明1)年に幕府と一部絹糸商人が結託しての絹糸貫目改所設置と検査料徴収に反対して上州(群馬県)の高崎・小幡・安中藩領などにまたがる数万人の百姓が立ち上がった上州絹一揆、1793(寛政5)年に起きた伊予 (愛媛県)吉田藩の紙専売制に関わる不正に反対して吉田藩領の83ヶ村のうち80ヶ村8000人が隣国宇和島藩へと逃散した伊予武左衛門一揆などがそれである。
 百姓たちは村の内部に階層分化に伴う対立を孕みつつも、いや村内に対立が起こるほど没落の危険も孕んだ商工業の進展が起きる中で、村共同体を今まで以上に村人全体の利益を守るための共同体へと変化させ、財政難に陥って自然災害に対して有効な対策も組めず、百姓が額に汗して手にした利益を奪い取ることだけに邁進していく領主権力に対しては、領主の領国を超えて郡単位・国単位で村連合の一揆を組み、村の利益を守るために立ち上がり、領主の無理な要求を押し返すまでに至っていたのだ。
 これでは百姓から無理に年貢を増徴するわけにはいかない。
 無理な年貢増徴は村を疲弊させ、荒地の増大や人口の都市への流出を招き、通常の年貢収納すら不可能にしてしまうからだ。
 こうして幕府や藩は、百姓からより多くの年貢を取り上げようとする政策から、発展しつつある商工業に依拠して、そこから多くの利益を吸い上げようとする、重商主義的政策へと転換を遂げるしかなくなったのだ。この政策転換が明確な姿をとって現れたのが、18世紀後半に幕政を推進した老中と側用人を兼ねた田沼意次を首班とした政権の時代だった。
 しかし「つくる会」教科書の記述は、この政策転換の背景を経済面からしか説明しておらず、百姓の広範な反対闘争の激発がこの転換を幕府や藩に強制したという側面にはまったく触れていない。

:05年8月刊の新版では、標題が「産業の発展と田沼政治」と改められたが、旧版にあった産業の発展に伴う村社会の構造変化に関する記述は全面削除され、どのような社会変化がおきたから幕府政治も転換せざるを得なかったのかがまったくわからない記述へと後退してしまった。

(2)幕府の利益を追求した田沼政権の登場と退場

 教科書は先の記述に続けて、18世紀後半に幕府政治を主導した田沼意次の時代について、次のように記述している(p153)。

 こうした情勢を背景に、18世紀なかば、老中として政治の実権をにぎった田沼意次は、むしろ、発展する商業・流通に着目して幕府財政を豊かにしようと考えた。彼は、商人たちの株仲間を公認し、その独占的利益を認めるかわりに、一定の運上金(営業税)を納めさせ、幕府収入の増加に努めた。また、海産物を輸出するため蝦夷地の開発を試みた。田沼の政治は斬新だったが、大商人が幕政に深くかかわり、その結果、賄賂が横行して批判をあびるようになった。こののち浅間山噴火(1783年)による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、数十万人もの人々が餓死し、一揆打ちこわしが多発して、田沼はその責任を問われて失脚した。このように田沼意次が政治の中心にいた時代を、田沼時代という。

@矛盾に満ちた田沼政治−その負の実像−

 この記述は概ね正しい。しかし多少の事実誤認といくつか見落とされた点が存在する。

(a)幕府の利益拡大を目的とし民間からの建策を積極的に実行した田沼政治
 まず根本的な間違いは、田沼の政策が斬新なものであったという評価である。実は田沼の政策は、5代綱吉の時代から始まり8代吉宗の時代に大いに拡大した重商主義的政策の路線にそって、それを大規模に実施したにすぎないのだ。
 彼が実施した運上金の納入と引き換えでの株仲間の公認とその独占的利益の承認は、享保の改革で初めて行われたものである。享保の改革では、米価に比べて諸色物価が高騰しており、ために武士・幕府の財政難が生み出されていた。この諸色の物価を引き下げることを目的として、株仲間結成を公認し、この同業者組合にのみ当該の商品の取り扱いを独占させることで、物価引下げを図ろうとしたことはすでに 【29】で見たとおりである。田沼時代の株仲間公認もこの延長上にある。
 また斬新とされたもう一つの政策である蝦夷地開発であるが、ここでその目的とされた「海産物輸出」は、すでに正徳の治の中で新井白石によって実行され始めた政策で、享保の改革においても銅輸出に代わる重要な輸出品として中国向けの海産物が重視され、中国向けの海産物を独占的に集荷する会所すら、幕府の手によって設けられていた。この中国向け海産物の最大の産地が蝦夷地であり、だからこそ蝦夷地との貿易を統括する松前藩はこの時期になると、商人に蝦夷地の各場所を請け負わせて、商人たちはアイヌ人を賃金労働者として酷使しながら、ニシンや鮭 ・なまこ・ふか・たらなどの漁労と加工を行い、製品を西国および長崎を通じた貿易に送り込んでいた。海産物輸出のための蝦夷地開発はこの路線の拡大であり、これ自身は何も目新しいものではない。またあとで検討するが、実際に蝦夷地を幕府勘定所役人が視察して後に出された蝦夷地開発計画の柱は、蝦夷地は東北地方よりも地味の 肥えた平地が多いので、大規模な新田開発が可能であり、これが成功すれば日本の総石高の実に2割もの増加が見込めるという計画であった。この意味で田沼が推進しようとした蝦夷地開発もまた、享保の改革で大規模に行われた新田開発政策の延長に過ぎない。

:05年8月刊の新版では、これ以外に、印旛沼(千葉県)の干拓を取り上げ、この干拓では商人に資金を出させたことを指摘している。しかしこれも斬新な政策ではなく、享保の改革における大規模新田開発の多くが商人の資金で行われていたことの延長上にあるのだ。

 では、田沼の政策にはまったく斬新さがなかったのか。
 そうではない。田沼の政策の実際は以前から行われていた重商主義的政策の延長であったが、その目的と実施に至る過程が従来のものとは異なっていたことに斬新さがあったのだ。
 例えば株仲間の公認は、享保の改革では流通過程を固定してそれを把握することを通じて、諸色の物価を引き下げることが主たる目的であった。しかし田沼時代のそれは、株仲間を公認することで当該の商人集団から継続的に運上金を上納させることが目的の一つに組み入れられた。実施した政策は同じであったがその目的が異なっていたのだ。
 総じて田沼時代の政策の多くは、幕府の利益を拡大することが目的の一つとなっており、表向きの目的とともに、年貢ではなくて独占を認められた商人集団からの運上金の上納が目的とされていた。ここにこそ田沼政治の斬新さがあった。
 また田沼政治の斬新さは、その政策の立案・実施過程にあった。
 田沼時代には多くの新たな流通政策が取られているが、その多くが民間からの発案・建議によるものであり、幕府は従来以上に民間からの建策を積極的に取り入れて、新たな政策を行っていたのだ。
 これはすでに享保の改革においてさまざまな経路を通じて民間から意見を求め、必要と判断された政策については実行する動きが始まっていたのだが、田沼時代にはこれを幕府政策の全般に拡大し、政策を民間から積極的に出させ、それをどんどん実行することを通じて幕府の利益をもあげようとしていった 。そして享保の改革での民間からの建議を取り入れた政策は、新田開発地の申請を除けば、都市貧民救済のための小石川養生所の設立や江戸町火消し制度の創設など民政に関することが主であったが、田沼政治でのそれは、商業流通政策全般に亘っており、しかも民間の建議を取り入れて積極的な財政政策を推進したのが、幕府財政を一手に引き受けていた幕府勘定所であったことにその特色があった。
 商業流通からの運上金を増やすことを一つの目的として民間の建議に基づいた新たな商業流通政策を次々と実施したことに、田沼政治の斬新さがあったのだ。
 しかもこの民間建議は商業流通政策に限られなかった。外交問題にまでそれは及んでいたのだ。
 蝦夷地開拓も、ロシアによる通商要求と蝦夷地への接近という新たな外交問題に対しての仙台藩医で民間の学者である工藤平助の建策を採用したものであり、平助の建策に添付された参考資料が彼の著書「赤蝦夷風説考」であった。 「つくる会」教科書の蝦夷地開発に関する記述は貿易面にのみ限られており、間違いである。
 「つくる会」教科書の田沼政治についての記述は、この意味で誤りである。政策の斬新さのありかを誤認していた。

(b)全藩一揆の衝撃の中で生まれた田沼政権
 田沼意次の指導下の幕府が年貢増徴ではなく、商業・流通に着目してそこから税を得ようと考えた理由は、一つには先に見たような農村の状況があり、無理に年貢を増徴すれば農村が荒廃する恐れがあったからである。そして田沼意次が政権の重要な位置を占めるきっかけとなったのが、領主が無理な年貢増徴を図ったために大規模な全藩一揆が起きて幕政をも揺るがした美濃郡上藩一揆の処理だったので、意次が重要な位置を占めた時代の幕政を担う人々の間には、年貢増徴は無理であるという共通認識が生まれていたことも、その背景にあった。
 8代将軍吉宗が紀州(和歌山県)から連れてきた小身の家臣の家に生まれ、父から家督を譲られたときには、わずか600石の旗本であった田沼意次が、9代将軍家重の信任を得て御用取次となり1万石の大名となったのは、1758(宝暦8)年の9月のことであった。 ときに意次40歳。そして将軍の意向でただちに評定所への出席を命じられ、そこで審理を主導したのが、美濃郡上藩一揆であった。
 この一揆は美濃郡上八幡に居城を置き同地方を領する大名金森氏が、1754(宝暦4)年に年貢収納方法をそれまでの定免制から有毛検見取法へと突然転換し、百姓に通告したことから始まった。
 突然の年貢増徴に抗議し1000人あまりの代表を選んで城下に強訴に及んだ百姓に対して国家老たちはなだめて解散させたが、年貢増徴を図ろうとする江戸家老らは幕閣に工作して、隣国飛騨の国を統治する幕府代官に百姓の総代36人を呼び出させ、新年貢収納法の承諾を強要して請け書まで書かせてしまった。これに怒った領内百姓は数千の一揆を組み強訴の体制を組んだが藩に切り崩され、江戸藩邸に越訴に及んだ総代らも捕まり牢に入れられ、一揆は一応収束し年貢増徴も一旦頓挫した。しかし藩は1757(宝暦7)年になって再び年貢増徴を強行しようとし、それに抗議して約1000名の一揆を企てた百姓に対しては、責任者を厳しく詮議し首謀者とされた百姓を斬首し、再度年貢増徴策の強行を図った。追い詰められた郡上藩百姓は、1758(宝暦8)年春に代表を江戸に送り、評定所の目安箱に訴状を入れ、こうして郡上一揆は幕府評定所で審理されることとなったのだ。
 この事件の裏には幕府重臣が絡んでいるのではないかとの疑いを持った将軍家重は、この難しい問題の処理を側近の側用取次の田沼意次に任せ、そして審理の過程で、大名領の統治に幕府代官が介入し、その裏には、代官にそれを命じた若年寄や老中そして勘定奉行などの幕政においても年貢増徴策をとって来た幕府重臣がいたことが明らかになり、領主金森氏だけではなく、これらの幕閣も厳しく処罰された。領主金森氏は 、郡上藩3万8800石を没収され御家断絶。金森氏の依頼を受けて他の老中に諮ることなく代官を動かして百姓を抑える動きをした老中堀田正珍(まさよし)は、役儀取り上げ・逼塞、同じく金森氏の依頼で勘定奉行を通じて幕府代官に命令を下した若年寄の本多忠央(遠州相良1万5000石)は領地没収、さらに勘定奉行大橋親義も知行没収、その他にも大目付・飛騨代官などが役儀取り上げの上 、謹慎させられた。
 この的確で素早い処置を取ったことで政治的才能も認められた田沼意次は、その年のうちに遠州(静岡県)相良を領地として得、1760(宝暦10)年には10代将軍家治に代が代わっても引き続き信任を受け、1769(明和6)年には側用人兼務の老中格、1772(安永元)年には3万石の大名となって老中となり、将軍の意向を受けて幕閣を動かす側用人と幕閣の最高責任者の老中とを兼ねる 、幕政を一手に動かす権力者へと上っていった。
 こうして田沼政権が成立したわけだが、その成立のきっかけそのものが無理な年貢増徴を図ろうとして全藩一揆を招いた美濃郡上藩の処理であり、これに伴って無理な年貢増徴を図ってきた幕閣が一掃されたことで、田沼政権そのものが、年貢増徴ではなく他の方法に幕府の財政確立の基盤を移す傾向を強く持ったのである。

(c)個人が活躍できる組織へと幕府機構はその性格を変えていた−賄賂横行の背景−
 またこの教科書の記述は、田沼政治がどのように批判され、なぜ崩壊したのかという点についても事実誤認に陥っている。
 教科書は田沼政治に対する批判として、「大商人が幕政に深く関わったために賄賂が横行した」ことが当時においても批判されたと記している。
 たしかにこの記述はその限りでは正しい事実である。
 しかしなぜ田沼政治が賄賂の横行を招いたのかという、肝心のことについての説明は明確ではない。
 賄賂が横行した理由を理解するためには、田沼政治が積極的に幕府の利益を増やすために民間からの建策を促しそれを取り入れたという事実を指摘しないといけない。さらに当時の幕府の政治機構が、従来からの老中会議−評定所−奉行所という公的な経路を経て政策が決定される流れに加え、将軍の意向を踏まえてこれに介入する側用取次・側用人という流れが加わっており、側用取次や側用人には下級の御家人や旗本から将軍の恩顧でのし上がった者がついており、 さらに幕府の公的な政策決定経路の中で幕府勘定所が大きな役割を果たすようになっていたのだが、勘定所の重職には多くの下級御家人や旗本から実力でのしあがって来た人物が役職についており、幕府機構そのものが、力量のある個人によって動かせる仕組みに変化していた。こうして幕府政治の構造が変わったことで、下からの流れが跋扈して民間の意見が流れ込みやすくなっていたことを、賄賂横行の背景として上げねばならない。
 幕府政治機構は3代家光のころまでに確立したが、家光が若くして将軍となり、次の4代家綱が幼くして将軍となったこととあいまって将軍個人の意見が幕政に反映しづらくなり、老中・若年寄・奉行衆という家格の高い譜代大名や旗本の合議で幕政が推進されるようになっていった。
 しかし5代綱吉・6代家宣・8代吉宗と傍系からの将軍が相次いだことと、彼らがそれなりに幕政に関する確固とした意見を持っていたので、老中会議−評定所−奉行所という公的な回路以外に将軍の意向を幕政に反映させる新たな仕組みが模索された。
 それが5代綱吉の代にもうけられた側用人であり、将軍に身近に使えた小姓などから立身した将軍の寵臣が、将軍と老中会議の間を取り次いで相互の意見を交流させる役割を果たすようになり、側用人は将軍の意向を代弁する権力者として老中より大きな権限を持ち大名の地位にもつくようになった。そしてこの制度は6代家宣・7代家継と継承され、柳沢吉保・間部詮房(新井白石)ら下級武士から立身した才人が幕政で力を振るったのである。
 また8代吉宗は老中に配慮して側用人を廃止したが、将軍の身近に仕える側衆の中に御用取次の役職を置いて、この御用取次は将軍と常に密な論議を交わして政策を練り、老中や奉行とも個人的に接触して個別の政策立案にもかかわり、こうして8代吉宗は 御用(側用)取次を通じて、老中会議−評定所−奉行所という幕府の公的な回路を動かしていった。そして次の9代家重の代に側用人の呼称も復活した。
 17世紀後半から18世紀にかけての幕府政治は、こうして才能のある個人が動かせる体制に変化しており、さらに幕府役人も能力に応じて抜擢する制度が享保の改革の中で確定され、個人が動かせる体制が全般化した。
 田沼意次はこの側用人と老中の両者を兼ねたことで、幕府の政策決定過程全般を独占的に掌握した。そして田沼意次は勘定所重職に彼と縁戚関係があり紀州から吉宗に従って幕臣となったという経歴を持つ幕臣を多く登用し 、さらに老中にも彼と縁戚関係のある大名を登用したので、幕府の政策決定機構全体が、民の意見を取り入れて幕府の利益を増やそうとする田沼意次の意図が貫徹しやすい体制にあった。
 だから個人的に政策決定に大きな力を持っていた老中・側用取次や側用人、そして勘定奉行所の奉行や吟味役・組頭などの重職に対して、幕府の政策決定に自分の意向を反映させたいと考える者は、大名であろうと幕臣であろうと民間の町人・百姓であろうと、この人々に個人的に接触して懇ろになり、自分の意見を幕政に反映させようと動いた。また日本の社会習慣として個々人が懇ろになるためには、季節の挨拶としての付け届けを行うことが慣習として広まっていたため、この季節の挨拶としての付け届けの名目で、多くの賄賂が幕府政策を決定する老中・側用人・側用取次・勘定奉行などの諸役人に渡ったのだ。
 ただし賄賂によって幕政を動かそうとする傾向は、意次の時代になって始めて起きた訳ではない。幕府の当初からこれはあったし、側用人制度などが出来ていく過程で賄賂は次第に横行した。先の美濃郡上藩が無理な年貢増徴策に踏み込んだ背景には、かつて豊かな森林資源と金山を擁した飛騨の国 (岐阜県)を領していた金森氏が改易されてそこを失い、金森頼近の代で飛騨隣国の美濃郡上八幡を領し、さらに幕府奏者番という幕府閣僚への登竜門の地位に彼が着いたことで、旧領飛騨の奪還と老中への昇格を狙って金森頼近が、幕府老中らに大量の賄賂を贈り、そのための費用が必要となったゆえの暴挙であり、一揆鎮圧に幕府代官を動員した裏には、老中・若年寄などへの賄賂による斡旋があったのだ。
 要するに18世紀後半の幕政機構そのものが、個人の力で動かせるようになっており、そこに民間の知恵を取り入れて幕府の利益を増やそうとする政権が成立したために、幕府の利益を上げる政策を建策するという名目で多くの民間人が幕府機構に出入りし、自分の意見を実現する手段として賄賂が横行したわけである。 「つくる会」教科書の記述は、5代綱吉以後の側用人制度の創設を含めて、ここが完全に抜け落ちている。

(d)幕府による御益・国益の追求は、百姓・町人間の対立を激化させた
 また 教科書の田沼政権崩壊の理由についての、飢饉に伴う激しい一揆や打ちこわしの責任を取らされたという記述だけではあいまいである。天候異変は意次の責任ではなく、そこまで責任を取らされるわけがない。
 背景には当時の多くの人が信じていた、悪政に対する天の怒りとして天変地異が起こるという考えがあり、利益追求を第一とした幕政の展開が 流通の独占によって利益を増やそうという富商と結びつき、そのため富商と多くの一般百姓・町人との対立を生み出したこと。さらには幕府がこの対立の激化に対して、社会的な混乱が起きない様に手を打たなかった ため、社会の多くの人々が田沼政治を悪政だと考えていたことが背景にある。ここを指摘しないと、田沼政権崩壊の理由が理解できない。
 大坂では1764(宝暦14)年以降、明和から安永期の田沼時代に、127の株仲間が公認され、その他にも新たに流通を統制するための会所構想などが民間から提案され 七つの会所が設立されている。
 この時期に大都市で多くの株仲間が公認された背景には、産業の発展によって流通機構にも大きな変化があったからである。
 江戸時代の流通は、全国的な航路網や交通手段が整備されていない初期の段階では、都市の諸色問屋という多くの品物を扱う問屋が生産者と消費者の間を仲介していたが、交通網が整備されるに従って、それぞれの品物について専門の問屋が現れ、専門的に商品流通を仲介するようになった。
 しかし17世紀後半以後の急速な産業の発展は、流通する商品の規模を飛躍的に拡大させ、多くの新興商人が流通機構に介入し、生産者と消費者との間には、仲買・問屋・小売商人と多数の仲介者が現れ、さらに仲買・問屋・小売そのものの内部に新旧の商人層がそれぞれ仲間組合を作って商売の独占を図り、さらに異業種の商人までもが利益を目当てに他の商品の仲介まで乗り出し、商品流通をめぐる競争が激化した。そして産業の発展は農村部に新たな商人をも輩出させ、これらの在郷商人が商品の生産者である百姓や職人と直接結びついて、都市の仲買・問屋・小売商人の仲間組合と対抗して、自らの利益を図ろうと新たに参入した。この動きに諸藩も加わって藩の御益を上げようと諸国における特産物生産の奨励とその藩専売制を実施したために、大坂商人と諸国商人との競争も激化した。こうした流通する商品の拡大は、船便輸送においても新規参入の廻船業者を多数輩出し、新旧の廻船業者仲間間の激しい競争が行われるようになったことは、【23】で見たとおりである。
 この新・旧、都市・在郷、中央・地方の諸商人間の競争が激しくなるとともに、それぞれの商人の仲間組合を幕府公認のものとすることで商売の独占を図ろうとする動きが強まり、また幕府も複雑な流通機構を、新旧の商人それぞれの仲間組合を公認することで流通機構全般を把握して諸色物価の統制を強めようとしたため、仲間組合に加入できる人数を限定した株仲間が享保年間以降に、公認されることとなったのだ。これに田沼政権が株仲間公認と引き換えに毎年運上金を上納させることを目的に、従来よりも多数の株仲間公認政策をとったため、株仲間は急速に増大した。
 この株仲間公認政策そのものは流通機構把握を目的としたものであったが、独占権を認められた団体の乱立は、結果として幕府の意向とは反対に、諸色物価の値上がりを招き、ために武士・町人・百姓の暮らしを圧迫することとなった。

:このため後の寛政の改革では積極的な公認策は影を潜め、19世紀初期の天保の改革では、1841(天保12)年、幕府は株仲間の解散を命じ、諸商品の売買の自由を宣言することとなる。

 また田沼時代に設立された多くの会所機構は、会所を設立した特権商人には大きな利益をもたらし幕府もその利益の一部を手に入れたのだが、その他の商人や百姓・都市貧民には大きな犠牲を強いるものであった。
 例えば、1767(明和4)年12月に大坂で設置許可されれた家質奥印差配所の場合を見てみよう。
 これは家屋敷を担保とする金銀貸借証文(家質証文)はすべて差配所の奥印を受け、借主・貸主の双方に手数料を支払うことを義務付けた制度である。
 家質は購入した家屋敷を質に入れることを前提にして家屋敷を購入し、それを担保にして金を貸す信用貸しで、近世中・後期の大坂では、手広く商売をする際の資金調達に便利な方法として定着し、大坂経済の中心を担っていた金融制度であった。この活発な金融活動に目をつけ、家質を一手に扱う独占的機関を設け、そのことで家質に対するより高い信用を生み出すことを通じて 、当時低下していた金融活動を活発にすることを目的として大坂の商人から認可申請が出され、幕府も大名や幕府への借銀を可能にするものとして、一定の冥加運上金を納めることで認可 した。この差配所から出された運上金は巨額のものとなり、後の1771(明和8)年に幕府が収納した運上金は、9950両(約11億9400万円)もの額に達していた。
 しかしこれが制度化されると、家屋敷を担保にして商売する商人はすべてその資金繰りの内実を知られてしまうため家質金融を嫌い、さらにこの差配所で奥印を押す金融商品の中には、諸株髪結床書入証文も含まれていたため、株質入で営業資金を得ていた株持ちの町人や家質金融に参加できない株持ち借家人層からも手数料をはねることとなり、これらの零細商人への金融活動も低下し、大坂全体の金融活動が急速に低下し深刻な不景気になる恐れがあり、この予想だけで金融活動は低下した。そしてこの差配所設置に反対した大坂の町々が反対運動実施のため正月行事・普請・物見遊山・芝居見物・法事などの自粛を申し合わせたため、不景気にさらに拍車がかかり、芝居小屋や茶屋の客足は遠のき、屋台店や振り売りの商売まで売れ行きが低下、さらに普請もないため大工などの諸職人層の日雇い稼ぎにも差しさわりが生じ、しかも家質金融に多額の手数料が掛かることから家賃の値上げも噂され、豊かな商人から裏店の日雇い稼ぎの下層民に至るまで、大坂の人々の生活に多大な困難をつきつけてしまった。
 このため差配所設置認可直後から町々による反対運動が活発化し、差配所廃止を求める請願が大坂町奉行所に相次いだが奉行所は取り上げず、ついに、1768(明和5)年正月22日に、貧しい町人が差配所設立を出願した住吉屋町難波香紙屋利兵衛店を打ちこわしたことを きっかけにして、60軒ほどの商家に対する打ちこわしが数日続き、多くの借家人が逮捕される騒動にまで発展した。
 こうして家質金融の実態と差配所設置の影響を把握することなく許可された家質奥印差配所の設置は延期され、後に悪影響を減らすよう制度を改変したのちに設置されたのだ。
 また幕府は諸色物価統制の一環として、1772(明和9)年に大坂だけではなく近在の在郷町の綿問屋もまきこんで綿屋買次積問屋株仲間の設置を認めて繰り綿の売買を統制し、さらに1759(宝暦9)年に堺に、1760(宝暦10)年に大坂に設けられていた繰り綿の先物取引を行う繰綿延売買会所を、1774(安永3)年には在郷町の一つである大坂平野町にも設置を許した。しかしそれまでは 買値の高い商人を自由に選んで繰り綿を売っていた百姓たちが、大坂商人に繰り綿市場を支配されることを嫌って村連合を組んで反対し、会所が払う運上金ぐらいなら近在の村々が納めると主張して、会所の廃止を願出た。この結果、1787(天明7)年から翌年にかけて、この繰綿延売買会所は次々と廃止された。
 綿を栽培していた大坂近在の百姓たちは、綿屋問屋組合が繰り綿の売買と先物売買を独占して、繰り綿の価格と流通を握り、彼ら百姓の利益が損なわれることを嫌ったのだ。
 同じようなことは関東でも起きている。
 1781(天明元)年幕府は、生糸や絹などの取引の円滑化を計るという目的で、上野(群馬県)・武蔵(埼玉県)両国11ヶ所に絹織物・生糸・真綿の貫目改所を開設し、絹織物・生糸・真綿の規格を検査し改料(検査料)を徴収し冥加金を納めるという上州金井村名主高山半兵衛らの訴願を許可した。
 しかしこれにより絹織物・生糸・真綿の販売価格が下落することを恐れた東上州百姓はただちに運上反対を幕府に訴え、商人は市場での商品買い入れを一時停止した。そして最大の運上金負担者である東上州百姓は、8月2日の藤野町での寄り合いを きっかけとして会所設立を訴願した半兵衛らとその協力者宅など100軒あまりを打ちこわし、この計画の推進者といわれる老中松平輝高(てるたか)の居城高崎城を包囲し気勢をあげた。高崎藩は鉄砲を持ち出して一揆勢を撃退したが、結局会所構想は撤回せざるをえなくなったのだ。
 このように田沼時代に許可された会所構想の多くが、当該の商品流通の実態と会所設置による影響を十分考慮することなく設置が認められており、そのため会所設置によって多大の不利益を蒙る百姓や商人・都市下層民などが抗議運動を起こし、会所設置構想そのものが頓挫する例も多かった。運上金を納入させることと引き換えに、商品流通の独占を狙った株仲間や会所設置を認める田沼政権の政策は、そのことによる百姓や町人の犠牲に十分な配慮を施したものではなく、ために田沼政治は後にみる飢饉への無策や物価騰貴抑制への無策とあいまって、人々にとって悪政と認識されたのだ。

(e)幕府による御益・国益の追求は、諸大名の利害と衝突した
 だが利益第一主義の幕政の推進が民の多くの者の犠牲を省みないものであたっために、田沼に対する庶民の怨嗟の声が蔓延していただけでは、田沼政権の崩壊という政変に結びつくものではなかった。
 実は幕府の利益を極限にまで広げようとした田沼政治の展開は、同じ時期に藩の利益を極大にまで押し広げようとしていた諸藩の利害との対立を必然的に引き起こしていた。 この結果、諸大名の中に田沼に対する怨嗟の声が蔓延しており、これを受けて幕閣の中の有力者の中に、田沼政権を崩壊させなければならないという強い意志が働いていたことが、田沼政権の崩壊に結びついたのだ。教科書の記述はこの点については完全に欠落している。
 幕府は、享保の改革の当初においては、河川普請における国役施行に見るように、遍く諸藩の窮状をも救おうという仁政を敷く傾向を見せていた。しかし享保の飢饉への対応を通じて、この姿勢を続ける限り幕府の財政難は深刻化することに気づいて、公儀としての役割を次第に後退させる 方へと享保の改革の末年には方向転換を示していた。
 その現われが、1732(享保17)年の国役普請の中止であった。
 しかし河川氾濫が続く中で公儀としての役割を完全に放棄するわけにはいかず、また幕府普請と国役普請との損得勘定を計算した結果、国役普請の方が私領での公儀普請時の領主負担分の立替金をきちんと徴収すれば幕府負担は工事費の10分の1で済むので財政負担が小さいことがわかり、1742(寛保2)年の関東・信濃 (長野県)の大水害をきっかけとして、1757(宝暦8)年、幕府は再び国役を再開した。このときは私領出願の国役指定の限度額を撤廃することで私領での工事を公儀国役普請で行いやすくし、同時に国役普請に際しては、総費用の10分の9を国役賦課をした残りの幕府負担分の8割を国持ち大名や20万石以上の大名にも手伝い普請を行わせることで、幕府の負担の軽減を図った。
 単独での水害対策を施行できない旗本や小大名を公儀として救済しようという姿勢を幕府が見せたとはいえ、公儀としての負担を20万石以上の大名や国持ち大名に背負わせたことで、これらの大名は財政難の中で、自分の領国統治には無関係で年貢増加にもつながらない手伝い普請を行うことで、多くの借金を背負うこととなり、今まで以上に藩の利益を追求することを余儀なくされた。例えば仙台藩は、1767(明和4)年に利根川筋の国役普請お手伝いを命じられたが、これによって22万両(約264億円) もの巨額の借金を抱え、これが後に見る天明の大飢饉の要因の一つともなった。
 またその後の田沼政権の成立によって、政権が民の力や財力や意見を吸い上げて幕政を行うことが全般化した結果、私領での国役河川普請に際しては、私領の村々が連合して国役普請を願出ることを極力促して、私領の河川普請を国役での公儀普請で行えるように配慮した。これは一面では幕府が公儀として旗本や小大名の救済に乗り出す姿勢を示したものではあるが、他面では私領の村々が独自に国役普請申請に動くことを通じて、村々の百姓たちの間に領主に対する不信を醸成するものであり、領主の側から見れば領主権の侵害行為でもあった。
 こうして自然災害を軽減するための河川普請において、幕府ができるだけ幕府の負担を軽減して行おうとしたことは、結果として大名に負担を転嫁し、その財政基盤を弱体化させるとともに、大名の領主としての権限を犯すものでもあった。
 また幕府は財政を少しでも好転させるために、諸藩の領地を幕府領に召し上げる措置すらとろうとした。
 1764(宝暦14)年幕府は、長崎貿易の銅支払いの半分を担っていた秋田藩領の阿仁鉱山とその周辺の地域1万石を幕府領とすることを指示した。これは優良な銅鉱山を幕府領とすることで輸出用の銅の確保と、銅鉱石からの銀の抽出を進めることで銀貨鋳造を支えるためであった。しかし藩収入の多くを占めた優良鉱山を手放すことを恐れた秋田藩は幕閣に対する撤回工作を進め、当時御用取次であった田沼意次を動かしてこれを撤回させている。
 また1769(明和6)年に幕府は、尼崎藩領の摂津の国兵庫・西宮を含む沿岸24ヶ村1万4000石の召し上げを指示した。ここは上方でも屈指の菜種の特産地で、ここでは水力を利用した油絞りが大規模に行われており、菜種油の主要な産地であった。幕府はここを幕府領にすることで菜種油の流通を握り 、灯油価格を引き下げることを狙ったものであった。幕府は1766(明和3)年には諸国の菜種栽培百姓に対して自家使用以外の目的で菜種油を絞ることや売買を禁止し、商品として売る場合にはすべて大坂に送ることを布告していた。そして兵庫・西宮の上知後の1770(明和7)年には、摂津・河内・和泉3ヶ国での絞油業のみ認め、他の諸国での絞油業を禁止することで、絞油業者株仲間や油問屋仲間からの運上を手に入れると同時に、菜種油の流通を完全に掌握しようとした。
 しかしこの方策は、尼崎藩内の兵庫港も含む最も都市化した豊かな地域を取り上げることを意味し、播磨国(兵庫県)内の幕府領1万9000石を代わりにもらったとは言え、尼崎藩には実質的な収入減であり、幕府の政策は尼崎藩の利害を犠牲にしたものであった。
 さらに幕府が米価統制のために打ち出した諸政策も、諸藩の利害との対立を生み出していた。
 1761(宝暦11)年、幕府は米価調整のための買米資金として大坂の豪商に対して御用金上納を命じるとともに、空米取引と空米切手の発行を禁止した。空米取引というのは、来年の収穫による年貢米を当てにしてその先物取引を行うものであり、市場で取引される米の名目的な量を増大させて、しばしば米価の低落の原因となっていたからである。しかし諸藩が発行する空米切手は、来年の年貢米を売り出すために出した取引切手であり、財政難を補うための方策であったために、この幕府の措置は諸藩にとって打撃であった。
 また年貢収納の減少と飢饉の続発は、諸藩の大坂蔵屋敷への米の搬送をしばしば遅らせ、年貢米の売却を事前に確約した藩の切手(正米切手)が不渡りとなることがしばしばおき、正米切手による金融活動を阻害していた。そこで幕府は、1783(天明3)年、1773(安永2)年以降に諸藩が発行した正米切手はすべて、幕府呉服師後藤縫殿助 (ぬいのすけ)の改印を必要とするように法改正を行った。これは蔵屋敷での蔵米の下げ渡しが遅れることで起きた正米切手の信用不安を取り除くために、幕府の後ろ盾でその信用を高めようとういう措置であったが、同時に米価対策として、米切手の流通そのものを統制しようという動きであった。しかしこれでは諸藩は正米切手の発行を通じて大坂商人から自由に資金を調達する道を塞がれてしまうので諸藩の激しい反対を呼び、翌1784(天明4)年には、早くも廃止されたのだ。
 このように幕府が行う様々な政策の多くが、それを通じて幕府の利益をも上げようというものであったため、諸藩の利害との対立を生み出し、諸藩の幕府への不信をも生み出してしまった。このことも利益第一主義の田沼政権に対する諸大名の不信の原因であり、政権崩壊の背景ともなったのだ。

(f)自然災害対策に見る利益追求主義の弊害
  こうした百姓・町人・藩・幕府に至るまで、社会全体に蔓延した利益第一主義が社会を崩壊させかねない元凶として多くの人々に認識させたきっかけは、打ち続く自然災害と、これに対する諸藩・幕府の無策と独善的姿勢であった。
 天明期は相次ぐ大災害の連続した時期として知られるが、その最大のものが、1783(天明3)年の浅間山噴火と天明3年から4年にかけての大飢饉、そして1786(天明6)年の関東大水害と飢饉であった。
 1783(天明3)年の4月から始まった浅間山噴火は、7月になると激しさを一層増して、大規模に火山弾や火山灰を撒き散らし、南麓の軽井沢宿では186軒中51軒が焼け、70軒がつぶれ65軒が大破し、降灰は江戸や東北地方南部にも及んだ。そして最大の被害をもたらした噴火は7月8日に起きたもので、吹き上げた溶岩流が北斜面を流れ落ち、周辺の土石をも押し流して大規模な土石流を伴う火砕流となって秒速100mを越える速さで北麓15kmにあった鎌原村を襲い、田畑の98%を数mの溶岩で埋め尽くし93軒あった民家を押しつぶし、そのまま数km下の吾妻川に流れ込んだ。このため、吾妻川・利根川流域に大規模な洪水を引き起こし、人家や人や家畜をそのまま利根川下流・太平洋まで押し流した。
 被害は甚大であり、55ヶ村が被害を受け、行方不明者(死者)は1624人、溶岩や土石で埋まった田畑は5055石となっている。最もひどい被害を受けたのは幕府領の鎌原村で、人口597人の内死者は466人、村はほとんど廃村状態となってしまった。周辺の幕府領・旗本領・藩領も甚大な被害を蒙り、北関東一円に大きな被害が生じたわけである。

:この被害は幕府が正式に調査した結果であり、当時一般に流布した話では、北関東だけで2万人もの死者を出したと噂された。

 しかしこの時の幕府の対応は、昔の元禄富士山噴火の時のような手厚い対応とは異なっていた。
 元禄富士山噴火の際には、幕府は素早く被害地域の全てに御救い米を送り、幕府の責任で村と田畑の復興を行い、被害を受けた小田原藩領を復興がなるまでの間、無傷の幕府領と交換するという思い切った対策をとって、被害を受けた百姓・町人や藩を救済した。しかし天明浅間山噴火の際には、幕府は素早く被害の状況を調査したが、藩領・旗本領はそれぞれの領主の責任で調査・復興をなすものとし、被害甚大で単独での復興は無理なので公儀普請を願出た藩や旗本領は調査し復興助力を行ったが、基本的には幕府領だけの調査・復興であった。また幕府領でも実際の復興は村の責任として、速やかな復興を指示している。 噴火直後の鎌原村の救援・復興事業は、隣村の名主の私財投入によるものであった。
 噴火直後の9月までの幕府の対応は、幕府の利害中心であり、それも当事者でやれという対応だったのだ。
 この対応に変化が生じたのは、この年の冷夏の性もあって深刻な凶作になり、米の暴騰によって日々の暮らしにも困った人々が大規模な打ちこわしや一揆を起こしてからであった。
 特に9月の末に上州(群馬県)磯部・安中宿の穀屋3軒を潰した一揆勢はそのまま中山道を西下し、碓氷峠を越えて信州(長野県)にも侵入し、さらに方向を北に変えて北国街道に沿って街道沿いの宿や村の穀屋を次々と襲い、10月4日に小諸藩城下に迫った時には、およそ1500人の大規模なものとなった。そして街道沿いの穀屋を次々と打ちこわしたり、穀屋や寺院や有力百姓などに炊き出しを命じたりしながらさらに街道を押し進み、10月5日上田藩城下を伺うときには1700〜1800人の規模となって上田城下を襲い、さらに松代・善光寺をも襲うと噂され、信州一円も不安な情勢になったのだ。
 結局この一揆は上田に向かって川を渡るところで、当該の村の剣術師範でもあった名主が集めた門弟たちとの乱闘となって崩れたところを、出陣した上田藩兵170名余に襲われて壊滅 し多くの逮捕者を出して終わったのだが、一揆の影響は大きく、それまでは災害復興にもお救いにも消極的であった幕府の対応を変化させ、11月には公儀普請による復興の範囲を藩領や旗本領にも広げていった。
 しかしその公儀普請も幕府自身の財源だけではなく、国役賦課を行った上で幕府負担金の一部を熊本藩に9万6932両(約116億3184万円)を出させて御手伝い普請を行わせて賄うものであった。また熊本藩が賄った普請費用の中に、7455両(約8億9460万円)もの、老中や勘定奉行などの幕府諸役人への事前の付け届けや工事完了後の付け届けが含まれていたことと、熊本藩が調達した資金のうち1万両(約12億円)は商人たちからの借金であったことは、この時期の幕閣の意識のありかたを象徴している。
 財政難の中で幕府の利益を優先した幕府は、火山噴火災害の復興においても、公儀としての責任を放棄する態度をとったのだ。
 また浅間山噴火に続いて起きた天明3・4年の大飢饉に際する幕府の対応も、極めて幕府中心主義であった。
 天明3・4年の大飢饉の被害は主に東北地方であったが、その規模は空前のものであり、幕府に届けられた諸藩の記録では、弘前藩は収穫がまったくなく、八戸藩は96%あまりの損耗、盛岡藩も66%余り仙台藩も96%相馬藩も86%と、東北の太平洋側の藩はどこにおいてもほとんど収穫がなく、ために多くの人命を飢えと疫病で失うこととなった。餓死者は弘前藩10万人余り、八戸藩3万人余り、盛岡藩6万人余り、仙台藩15万人余り、相馬藩1万人余りと記録されており、全体で30万人以上の人命が失われた。餓死した人は自分の村や町で餓死しただけではなく、食料を求めて他村・他領へと流れ込み、そこでも食料の供給を断られて旅の途中で餓死するというありさまで、流民は遠く江戸にまで達し、飢饉が去ったあとには、東北の路傍や廃屋となった民家には累々と白骨が積まれた状態になったと記録されている。

:当時流れた噂としては、餓死者はおよそ200万人にもおよぶとされており、東北諸藩での人食いなどの惨状とともに、江戸にまでこの噂は流れていた。

 この飢饉は直接は東北地方を襲った冷害を原因としていたが、凶作を飢饉にまで押し進めた原因は、諸藩や幕府の利益至上主義であった。
 当時諸大名はどこも財政難に陥っており、商人からの借財に頼って藩運営や幕府手伝い普請を行っていたため、借金返済のために藩の産物を手広く売る必要があった。この年被害を受けた東北諸藩の主な産物は米であり、ちょうど前年1782(天明2)年は西国が凶作であったので江戸の米価は急騰し、江戸に米を売れば大きな儲けになった。このため東北諸藩では、天明3年になってから城蔵に蓄えられた米を次々と江戸に向けて売り出し、さらには郷蔵に納められた飢饉用の米すら流用して江戸に売り、さらに藩御用商人を使って領内百姓が手持ちの米を買い集めて江戸に送るしまつであった。すでに春先から天候不順であり、凶作が予想されたにも関わらず江戸廻米は行われたのだ。しかも夏になって冷害の被害の深刻さが見え始め、諸藩の城下では、江戸への廻米に反対し米の買占めを図った御用商人への打ちこわしが起こったにも関わらず、藩兵に護衛させて城に蓄えてあった米を江戸に廻送した藩すらあった。
 百姓もこの時代には農業を行うためにも多額の金銭を必要として、さらに暮らしも贅沢になっていたため借金をして農業を続ける状態であった。従って日常的に飢饉に備えた蓄えは少なく、まして前年が比較的豊作で他領に売れば高い利益を得られるところから、百姓の蓄えも底をつき、藩も借金返済のために蔵米・備蓄米・郷蔵米まで江戸に売り払ってしまったのだから、凶作となれば空前の規模の飢饉が起きるのは当然のことである。
 しかもこの時の幕府の対応がひどかった。
 先に見たように享保の大飢饉の際には全国の城米を凶作となった西国にすぐさま搬送し、さらに豊作であった東北の米を買い上げて大坂に送るなど、幕府領・藩領関係なく、被害を受けた西国一円に適切な処置を素早くとった。 このとき西国に幕府が送った米の総量は27万5525石であった。そして被害を受けた藩に対しては多額の金子を貸し付けて、急場を救ったのである。しかし18世紀半ばに起きた東北の宝暦飢饉の際にはすでにこのような動きをとらず、東北諸藩で大規模な餓死者が出たのを見殺しにしたように、天明3・4年の大飢饉でも幕府は動かなかった。
 理由は簡単である。幕府自身が自身の領内や譜代大名の城などに蓄えておくはずの城米・郷倉米を、わずかしか蓄えていなかったのだ。諸国の城に蓄えられた米や郷毎の郷蔵に蓄え置かれた米が、「役に立たない」という理由で備蓄の規模が大きく縮小され、江戸浅草の御蔵での米備蓄は廃止されていた。
 享保の改革で行われた城米と郷倉米の備蓄は、飢饉に備えて民を救う仁政の要として考えられたものであるが、同時に市場に溢れる米を滞納することで米価を少しでも上げるために実施されたものである 。しかし、享保の大飢饉において窮民救済に効果を発揮したことで、いつ来るとも知れない大飢饉に備えて、年貢米の3割から4割を常に備蓄しておくものとして注目された。しかし財政難のおり、常に年貢米から多くのものを蓄えておくのは、目先の利益を考えれば極めて非効率なものであった。
 したがって1743(寛保3)年には、以後の郷蔵への備蓄は年貢米からではなく、飢饉や災害の際の救援米を百姓から出させて貯蓄する方策に変更され、ために郷蔵への備蓄も減り、さらに田沼時代になると幕府自身も城への米の備蓄を次第に減じ、こうして飢饉に対する備えは放棄されてしまったのだ。
 その上幕府は 1783(天明3)年12月には、幕府領での不作によって年貢収納は激減しているのだから今後7年間は万石以上の大名に対する拝借金を行わないと宣言した。大名の当座の危急を救うことすら放棄するという態度であったのだ。天明3・4年の飢饉における大名拝借金は、6大名1万9000両 (約22億8000万円)余りに過ぎず、享保の大飢饉の時の大名45家・旗本24家で総計33万9140両(約406億9680万円)の拝借金を認めたのとは大違いであった。
 しかも東北諸藩に救援米を送らなかったのに、幕府のお膝元である江戸の1784(天明4)年春の米価急騰に対しては、幕府は素早く対応している。幕府は全国の城に蓄えた城米を江戸に廻送するとともに、1月から9月の間の時限立法として江戸への自由な米の持込と販売を許可した。天明3年に江戸に廻送された城米は37城11万3864石余りであった。
 幕府は公儀としての立場を放棄し、幕府の利益だけを図る方向に動いていたのだ。
 このため財政難の中で藩政運営に苦労していた譜代小大名の中にも、公儀としての責任を放棄する田沼政権に対する批判が高まり、自然災害の続発に対する幕府や大名の無策によってこの世とも思えない地獄絵に直面した庶民大衆の、世界の終末からの弥勒菩薩による救済を求める怨嗟の声が世にこだまし、ここに激しい体制批判の匂いを感じとった大名衆の幕政批判とが絡み合って、やがて田沼政権の崩壊へと導いたのだ。

(g)天は田沼を見放した−打ち続く転変地異の中での田沼政権の崩壊
 1786(天明6)年の打ち続く関東水害や飢饉の続発が、田沼政権を追い詰めた。
 天明6年も春から冷害の様相を示し、特に関東では7月2日から大雨となり、利根川をはじめとする大河川は氾濫し、武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県東部)・下総(茨城県)などの田畑が大きな被害を受け、江戸でも下町だけではなく山の手でも水が出て、御救い小屋を設置する事態となった。天明3年の浅間山噴火の大量の降灰が利根川などの河川の川床を浅くしており、そこに大量の雨が流れ込んだためである。この大水害によって総工費6万660両余り (約72億7920万円)をつぎ込んで行った印旛沼干拓は、大量の土砂と水が利根川との仕切りの堰を破って印旛沼に流れ込み、4年の歳月をかけてほぼ3分の2を完成していた工事の成果の全てを押し流してしまった。
 そしてこの大規模な風水害の勃発は、直後の将軍家治死去とあいまって、すでに1784(天明4)年春に嫡子で若年寄であった田沼意知を城中で殺害されて力を失い始めていた老中田沼意次を追い込み、8月末には老中辞職に追い込んだ。
 なおこの時幕府は、拝借金は当分なしとしていた方針を撤回し旗本や被害を受けた大名に拝借金を認めたが、被害を受けた関東が幕府領と旗本領、そして譜代大名の領地であったためであり、これは例外的な措置であった。 そして関東水害の復旧事業も国役賦課をした上で幕府負担分の一部を池田・浅野氏ほか18大名に手伝い普請として負担させた。意次が老中を辞任したあとでも、幕政の幕府中心主義は変わらなかったのだ。
 また天明6年は春から冷害の様相を示していただけではなく、夏には大雨や大風が吹いて、全国的にも作柄は良くなく、全国平均で例年の3分の1となり、江戸では翌1787(天明7)年春になると米価が高騰し、6年6・7月に1両7・8斗だったのが7年春には1両3斗余り、さらには5月には1両1斗と暴騰したのだ。
 これは一つには比較的平年の収穫があった東北諸藩が、天明3・4年の飢饉を教訓にして、江戸における米価の高騰にも関わらず江戸への廻米を減らし大豆を大量に廻送するなどの処置をとったため米が不足したのと、幕府が大坂で1万石の買米を行うなどして江戸への米の自由移送・売買を許可して米価沈静化を図ったにも関わらず、 米商人が米価の高騰を見込んで米を退蔵し売り惜しみをしたためであった。このため米不足を生じた大坂や西国ですでに5月初めには大規模な打ちこわしが起きており、江戸でも下層民による幕府や商人による救い米の実施や米の安売り、米の退蔵の摘発などの請願が相次いだにも関わらず町奉行所は適切な処置をとらず、ついに江戸でも5月20日大規模な打ちこわしが勃発した。この騒動は24日までには北は千住から南は品川までの江戸全域を巻き込み、米屋など511軒の商家が打ちこわしを受けたのだ。参加した人数は5000人ほどを数え、 あまりの数の多さに奉行所は手を出せず、御先手組10組など将軍直属軍隊による江戸巡視の実施と御救い小屋の実施で24日ようやく沈静化した。
 天明3・4年の飢饉に際しては東北を犠牲にしてでも江戸での米価高騰を抑えた幕府は、この時にも江戸以外の都市の下層民の危難を無視し、さらに江戸での大商人の独善的行動すら抑えることもできず、ただただうろたえるだけであった。
 この事態を受けて田沼の老中辞職後も続いていた田沼派による幕政運営は最終的に指弾され、6月19日に8代吉宗の孫で溜間詰めの有力大名である白河藩主松平定信が、御三家などの有力大名の援助を得て老中に就任し、田沼派の幕閣は次々と罷免され、 復活をかけて動き始めていた田沼意次も、相良の所領没収の上1万石に減額されて隠居を強制され、幕府の利益を上げることを第一として動いた田沼政権はここに完全に崩壊することとなった 。そして定信は田沼政権が推進した政策をことごとく覆し、諸国の村々や都市に飢饉に備えて米を備蓄することを命じたり、印旛沼干拓や蝦夷地開発の中止、さらには新たな会所や株仲間の公認を辞めたり、手伝い普請を減らすなど大名や庶民の暮らしを守る政策に方向転換するとともに、武士は百姓町人の暮らしを守ることを任務とする武士の責務を果たすために、贅沢や遊興に耽る生活を改めて文武に精進するとともに、財政難を救うためにも質素倹約を励行するよう、政策を大きく方向転換したのだ。
 民の難儀を無視した幕府の利益第一主義の田沼政権は、こうして退場することとなった。まさに公儀としての責務の放棄が、田沼政権退場の原因だった。 しかし「つくる会」教科書は、このことをまったく記述していない。

A歴史を先取りした田沼政権−その正の実像−

 しかし田沼政権は、けして諸藩や多くの一般の百姓や町人の利益を度外視して幕府の利益だけをはかった政権であったわけではない。 結果としてそうなったというのが実情であろう。

(a)統一政権が必然化されていた時代の分権政治の限界
 18世紀後半というこの時代は、貨幣経済が全国津々浦々の村にまで広がり、百姓町人も武士も、貨幣なしには暮らせない社会になっていた。そのため利益を得るために生産を行うのが一般的となり、百姓も町人も武士も利益追求第一主義となっていた。しかもそのために17世紀後半から大規模に行われた米の大増産の結果基本的には米余り現象が起き、年貢米を収入の基本としていた藩や幕府は財政困難に陥り、これを補うために翌年の年貢収入を担保とした空米切手を増発したために、名目的な米の取引額が増大し、米価低落にさらに拍車をかけていた。一方では諸国での消費活動は活発になったが、今だ工業生産は畿内地域に地域的に偏在しており、消費物資は 船による搬送に危険を伴い、しかも日本が200数十の国に分かれていたため、国を越えて商品を移動する際には税金がかかり、ために米以外の諸色は米に比べれば常に物価高であり、これが諸藩・幕府の財政をさらに厳しくしていた。
 しかも大増産のための無理な新田開発の拡大が自然災害の多発を生み、収入の少ない小領主単独では、自然災害に対処することも困難となり、領主の権威は地に落ち、その支配の根拠すら危うくなっていたのであった。
 このような中で諸藩や幕府が財政収入を増やそうとすれば、百姓からの年貢を増やすのが常道であったが、利益追求を目的にしていた百姓は、村の自治を盾にして年貢増徴を許さず、諸藩も幕府も殖産興業を図り米以外の年貢収入を増やす など商品生産・流通からの新たな税収入の拡大を目指すしかなかったのだ。しかし特産物の藩専売制に対しては百姓らの国をあげての反対運動も激発し、特産物の専売制での収入の増加は容易ではなかった。
 こうして利益を目的とした活動が社会の中心を占める中で、百姓・商人・藩・幕府の入り乱れた利益争奪戦が展開されていたのだ。
 このような時代に幕府の財政危機に対処しようとすれば、その対策は自ずから限られていた。
 諸色物価高を鎮め全国的な流通政策を実施したり、全国的な自然災害対策を実施しようとすれば、その最も効果的な対策は、日本列島の市場の一元化であり、これは日本を完全な統一国家にすることに繋がる。そして全国的に均一な税を掛けて全国的な財政運営で統治を行おうとすれば、役人としては必要人数以上に存在し、家格によって必要以上の収入を得ている武士階級そのものが障害となり、これを解決するには武士身分と藩の解体以外には効果的な方策はなかったと言えよう。
 しかしこれは幕藩制の解体であり、藩や幕府の存在そのものが目的化していたこの時代には、実施し辛いものであり、藩や幕府が個別に取り組むしかなかったのである。
 田沼政権は、享保の改革で試みられた貨幣経済の全国化という現状により効果的に関わる中で財政難を解決し、全国的な流通政策や自然災害対策をさらに拡大して実施しようとした。それは幕府それ自身が公儀であったために行われた政策であり、自覚なき統一国家政策と言え、必然的に独立国家である諸藩の利益との衝突を生み出す。しかも全国的な財政政策が存在しない中で幕府が単独で統一国家としての責務を果たそうとすれば、それは必然的に幕府の財政難を生み出す。従って財政難を深刻化させないで全国的な自然災害対策をやろうとすれば、有力諸藩にも財政的分担を要請するしか方策はなく、これをしないとすれば必然的に、全国的な自然災害対策の放棄に 行くしかない。また全国的な観点での流通政策の実施も、全国がいくつかの藩単位の市場に分かれている中で、しかも商品の流通をめぐって百姓・商人・藩が入り乱れて利益追求の競争をしている中で実施すれば、それは利益追求競争の激化を促し、利害衝突を激しくするだけであったのだ。
 田沼政権の政策が、一般の百姓町人と大商人との利害対立を激化させ、さらには諸藩と幕府との利害対立を激化させたのは、貨幣経済の全国化の中での分権国家としての幕府の政策が必然的に陥る矛盾だったのだ。従ってこのような対立の激化をさけるとすれば、今度は積極的な貨幣経済関与の政策を放棄し、全国的な観点での政策展開も放棄して、藩や幕府はそれぞれ独立国家として自前の経営を行うという松平定信の政策に行くしか方策はなかった。しかしこれは積極的な収入増加策を放棄するのだから徹底した質素倹約を武士や百姓町人に強制し、貨幣経済の拡大を阻止する政策につながり、さらには自然災害に単独では対処できない小領主の救済を放棄し、幕府が公儀としての責務を放棄することに繋がる。
 田沼がやった政策も、そしてその崩壊をうけて実施された松平定信の寛政の改革もどちらも、大きな矛盾をかかえ限界をもっていたのだ。
 田沼政権が劇的に崩壊したのは、この矛盾の存在を自覚していなかったゆえである。さらにこれに加えて、本来将軍の恩顧によって引き上げられた下級武士の「一才人」に過ぎない田沼意次が、その身分の限界を超えて権力の継承を図ったことが命取りとなったのだ。
 田沼意次は、跡継ぎのいない10代将軍家治の次に自分の弟とその息子が家老をしていた一橋家の家斉を次の将軍に据える中で、一橋家の家老であった甥の田沼意致(おきむね) を家斉の御用取次見習いに据え、意次の嫡男意知もが御用取次兼任の若年寄に据えられ、11代家斉の代になっても御用取次および老中を田沼の血族と縁戚とで幕政を独占する体制を組んだ。このことが、諸大名とりわけ将軍家縁戚の大名の反感を買い、社会に蔓延していた怨嗟の声と幕府に対する大名の不信を背景にして、田沼政権に対するクーデターとで も言うべき政変を引き起こさせ、田沼政権の劇的な退場となったのである。
 しかし田沼政権の積極的な商業政策の展開によっても幕府財政は好転しなかった。
 幕府の備蓄金は1736(元文元)年には21万両(約252億円)に激減していたが、1753(宝暦3)年には253万両(約3036億円)となっており、これは享保の改革後半での無理な年貢増徴策の成果であった。田沼政権は傾向的に続く米価安の中でもこれに積極的な商業政策によって黒字を積み重ね、1770(明和7)年には備蓄金は300万4000両 (約3604億8000万円)に達している。しかし田沼失脚後の1788(天明8)年には81万7000両(約163億4000万円)と、備蓄金は激減した。この18年間に膨大な赤字を計上したのだ。
 これは米価安の中での収入減と、天明年間の打ち続く火山噴火や飢饉の勃発や大規模な風水害の続発によって、それまでの備蓄金を使い尽くした結果である。政変によって政権を掌握した松平定信の前には、巨大な課題が立ちふさがることになったのだ。

(b)田沼政権の積極的な経済・外交政策
 最後に先には検討できなかった、田沼政権が全国政権としておこなった積極的な政策を見ておこう。
 田沼政権下でも、幕府は蘭学や本草学の成果を取り入れ、積極的な殖産興業策を行っていた。
 医師で本草学者の田村藍水は1763(宝暦13)年に幕臣に登用され、幕府設立の人参製造所の責任者となり、国内で生産された朝鮮人参を一手に買い入れて薬として販売し、幕府に大きな利益をもたらした。また藍水は、幕府の許可を受けて、オランダ産の綿の実やジャガタラナや薬草や野菜の種を輸入してそれを栽培し、更紗布を織って輸入品の国産化を図ったり、災害時の食用品の普及などに努めた。また綿羊の飼育も行い、羅紗の国産化にも取り組んでいる。
 さらに田村藍水からサトウキビの栽培と砂糖製造を託された武蔵大師河原村(神奈川県川崎市)の名主池上幸豊は、1766(明和3)年にサトウキビ栽培と砂糖製造の方法を全国に広げる活動を行うために幕府の援助を願出 て許可を得て、関東や畿内地方の村を回ってその方法の伝授をおこなった。
 こうして輸入品の自給のための取り組みが広がったのであるが、このどちらにも田沼意次は深く関わっており、政策的な援助を行っている。
 また幕府は積極的な鉱山開発を進め、銅山の開発や鉄山の開発を進めた。
 これは、1763(宝暦13)年に始めて中国とオランダから銀の輸入をはじめるなど、次に見る統一通貨の発行のために不足している銅や銀の量を増やそうという取り組みの一環であったが、新たな銅山開発や休眠していた銅山の再開の目的は、銅鉱石の中に含まれる微量の銀の抽出をも目的としていた。そのため本草学者で蘭学者でもあった平賀源内が登用され、各地を回って鉱山の開発に尽力している。彼が関わった鉱山としては、1766(明和3)年ごろから始まった武蔵秩父郡 (埼玉県)中津川金山が最初であり、以後、1773(安永2)年の中津川鉄山の開発、さらには同じ年 には秋田藩の依頼をうけて領内の鉱物資源調査を行い、秋には秋田藩領の院内銀山・阿仁銀山を視察し、粗銅より銀を抽出する方法を伝授している。また1776(安永5)年には出羽 (山形県)新庄藩からも銅からの銀の抽出方伝授を依頼され、これを行っている。また彼はこの間の1770(明和7)年から翌年に掛けて2度目の長崎遊学を行っているが、これは西洋の進んだ鉱山開発技術や銅抽出法を得るための遊学と考えられており、その帰途には、摂津 (大阪府)多田銀山にも立ち寄って水抜き工事を工夫したり、大和(奈良県)金峰山で試掘をするなど、各地で鉱山開発に取り組んでいる。
 この平賀源内は田村藍水門下の本草学者でもあり、1762(宝暦12)年には、江戸で5度目の物産会を主催し、薬品を中心に全国の物産を紹介して幕府の殖産興業政策に寄与していた。彼の活動の背後には田沼意次の援助があったとされており、事実源内は幕府勘定所の依頼を受けて伊豆地方での鉱山調査も行っている。鉱山開発にも田沼は積極的に関わったと見てよいだろう。
 この鉱山開発は、新たな通貨発行のための準備でもあった。
 幕府は1765(明和2)年に「明和5匁銀」を、そして1772(安永元)年に「南鐐2朱銀」を相次いで鋳造している。
 明和5匁銀は、従来は銀の粒を重さで測って使用していたのを、銀の品位を46%という元文銀と同じ品質で5匁という定量貨幣にしたもので、これ12枚で金1両と交換される、幕府公定金銀価格の金1両銀60匁に従った通貨である。また南鐐2朱銀は、銀の品位が97.8%と純銀に極めて近い高品位の通貨で、しかもその量目が銀貨の単位である匁ではなくて金貨の単位である朱を使っており、南鐐2朱銀8枚で金貨1両と交換するものである。
 この二つの通貨は、西国に流通していた銀貨を東国・北国に流通していた金貨とを直接的に連動させ、金貨と銀貨の交換比率を幕府公定価格で固定させて事実上通貨を統一させることを通じて商品流通のより一層の活発化を狙ったものであ り、不足する金貨を補うものであったが、金銀貨交換比率の変動による差額で利益を上げていた本両替商人の利益を損なうものであったため、幕府の意図どおりの交換比率では通用せず、どちらも短期間で鋳造を打ち切られている 。統一通貨が必要とされる現状に見合った政策展開であったが、貨幣流通の実際を支配した両替商の反対にあって統一通貨政策も頓挫したのだ。

:しかし南鐐2朱銀については、1800(寛政12)年に銀の品位を少し落として再発行されている。通貨統一は時代の要請であったので、復活したということであろう。田沼政権の通貨政策は時代の要請に応えるものだったのだ。

 また同時に幕府は、銭不足のため銭の交換価格が幕府公定の金1両銭4貫文という公定価格よりも上昇していたので、1765(明和2)年ごろから鉄銭での増鋳に踏み切り、1768(明和5)年には1枚で並銭4文に相当する「真鍮4文銭」を発行し、持ち運びに嵩張る銭を減らし、使用に便利なようにした。しかし大量の、しかも銅ではなく鉄や真鍮製の銭の鋳造は銭の交換相場を下落させ、銭を使って日常生活品を購入している一般百姓や都市下層民の生活を困窮させ、1768(明和5)年、水戸藩内の百姓たちが藩の鋳銭工場になだれ込み工場を焼き払うという行動にでた。ために幕府は水戸藩での鉄銭鋳造を中止させ、さらに1774(安永3)年には幕府が行っていた銭鋳造も中止し真鍮銭の鋳造も半減させるなど、銭相場の建て直しを図るしかなかった。だが異常な銭安を解消することはできず、その中で田沼政権は崩壊したのであった。
 さらに幕府は、資金繰りに苦しむ大名を救済することを目的に、幕府銀行創設ともいえる斬新な政策を立てた。
 1786(天明6)年6月幕府は、全国御用金令を出し、諸国の寺社はその規模に応じて金貨を、全国の百姓は持ち高100石につき銀25匁を、諸国の町人は、所持する家屋敷の間口の広さ 1間につき銀3匁を、この年から5年間毎年幕府に対して支払うように命令した。そしてこれは、全国の寺社・百姓・町人から集めた御用金に幕府が金を加えて大坂に豪商三井家に運営させる貸金会所を設け、融資を希望する大名に年7%の金利で貸付るという構想であった。また寺社・百姓・町人からの5年間の支払い金は、5年後に御用済みとなれば金利の7%から手数料を差し引いて金利をつけて返還するというもので、これは幕府主催の国立銀行といっても良い構想であった。
 だがこの構想には大名などから激しい反対があったのであろう、発令の2ヵ月後には早くも関東の大水害などを理由に御用金令は撤回されている。おそらくこの構想の実現を通じて幕府は手数料収入を得ようと構想したのだろうし、全国の百姓・町人からの税金を使って幕府が金貸しをやることに対しての反発もあったのであろう。こうして幕府の国立銀行構想も頓挫した。
 田沼政権も通貨の統一や金融の統一のために意を尽くしていたが、国家統一も市場統一も果たせない中での通貨政策・金融政策は、なかなか困難だったのだ。
 また田沼政権は長崎を通じた積極的な貿易政策も展開した。
 1766(明和3)年6月幕府は、1750(寛延3)年に廃止されていた銅座を再度大坂に設立し、長崎貿易での重要な輸出品となっていた銅の幕府専売制を強化した。また、1785(天明5)年に問屋の仕入れ資金不足で閉鎖されていた俵物会所を再編して、幕府が直接運営する俵物役所に改編し、俵物の独占的集荷体制を強化した。こうして独占的に集めた銅と俵物を長崎から輸出することと見返りに、中国やオランダから、不足していた銀を輸入することが目的であった。この政策とすでに進行していた輸入品の国産化政策との相乗効果で長らく輸入超過であった長崎貿易は黒字に転じ、大量の銀を輸入して幕府に多大の利益をもたらすこととなったのだ。
 だがこの政策も先に見たように、俵物貿易を独自に推進していた薩摩藩を中心とする南西諸藩との利害対立を生み出したし、銅の独占的集荷についても優秀な銅山を所有する諸藩との利害対立を生み出した。
 積極的な貿易政策は、後の開国後の積極的な貿易と国力の発展に益した政策ではあったが、日本が統一されていない中では、藩と幕府と商人や漁民との利害対立を生み出し、全面展開はできなかった。
 このように田沼政権はそれなりに、貨幣経済の全国的な展開を受けて、積極的な産業政策を繰り広げていた。しかしこれも幕府は統一政権ではなく、最大の一大名に過ぎないという限界が大きく立ちはだかっていたのである。
 最後に田沼政権の外交政策について見ておこう。
 18世紀後半という時期は、次の項で詳しくみるように、有利な通商を求めて南下していたロシアが清によって行く手を阻まれ、その矛先は清の領土の外の北東部沿海州から樺太・アリューシャン・カムチャッカへと向かい、ロシア船はしばしば蝦夷地にも出没してアイヌ人と交易を行い、さらにロシアは南下して1778(安永7)年には松前藩・幕府に通商を要求し、松前藩はこれを拒否している。また、輸入品の国産化を進め、さらにその海外輸出をも図って世界交易の独占化に乗り出し、アジアにも手を伸ばし始めていたイギリスは次第にアジア交易の実権をオランダから奪い、オランダは日本の要求に応えてインド更紗などの商品を十分に供給できない事態に陥り始めていた。こうした西洋列強の世界交易争奪戦の余波が、ロシアの北方からの南下という形で現れ、幕府の世界交易からの日本切り離し政策である「鎖国政策」に変更を求める動きが始まっていたのが18世紀後半であった。
 また1771(明和8)年には出島オランダ商館を通じて、ロシアが日本を攻撃するためにカムチャッカに要塞を築き、翌年以降に軍船を派遣して日本を攻撃し蝦夷諸島を占領するとの、カムチャッカから脱出してきた政治犯であるベニョフスキーの手紙が幕府に提出され、幕閣や知識人の間に危機感を醸成していた。
 このような外国の動きに対応した田沼政権の動きが、1785(天明5)年に開始された蝦夷地調査とその結果だされた蝦夷地開発計画であった。
 幕府は850石積みの大船2隻を建造して調査物資を蝦夷地に搬送するとともに、勘定所役人とその下役10人からなる調査隊を陸路で松前まで派遣し、松前藩の協力を得て、蝦夷地東岸からクナシリ・エトロフ・ウルップの諸島まで調査する東蝦夷地調査隊と蝦夷地西岸を北上し樺太に渡って調査する西蝦夷地調査隊を編成した。この調査は1785(天明5)年の4月から10月まで行われ、実際に東はクナシリ島まで、北は樺太まで調査が実施された。そしてこの調査報告は翌1786(天明6)年6月には老中田沼意次まで上げられ、そこでは蝦夷地での新田開発が提案され、新田の見込みは蝦夷地全体の10分の1を開発するとして11万6400町歩、収穫は内地の古田畑の半分と見込んで583万2000石を見込んでいた。これの実現に必要な人員は約10万人。約3万人と推定されていたアイヌ人だけでは不足するので、全国から7万人の非人を動員して開発する計画で、これは当時の日本全体の石高の約20%であり、収穫高が内地と同等になればその40%という大開発計画であった。
 そして幕府は続いて樺太から山丹(山靼とも標記する、樺太の対岸・黒竜江河口付近の地域)を調査し、千島列島からロシア本土へ渡る道筋をも調査する第2次調査が決められ、翌1787(天明7)年春には準備のために調査隊員が再度蝦夷地に渡ったが、宗谷に残した越冬隊が全滅に近い被害を受けて松前に撤退し、さらに秋に政変が起こって老中田沼が辞職し、10月には蝦夷地調査も全面中止されて終わった。
 この蝦夷地調査は仙台藩医で杉田玄白などの蘭学者とも親しかった工藤平助が田沼家用人を通じて勘定所に出した提案が元であり、最新のロシア情報を基にしてこの国の歴史や現況さらにアジア政策を論じてベニョフスキー情報は日本貿易独占権をロシアに奪われることを恐れたオランダの虚偽情報であることを論じ、ロシアの通商要求に対してどう対処するかを説いたものであった。そして彼が出した資料の「赤蝦夷風説考」と幕府勘定所が松前藩士や松前藩を通じて蝦夷交易を請け負っていた商人などの情報を加え、幕府勘定奉行松本秀持が、蝦夷地での金銀鉱山開発と材木や俵物開発を基礎にロシアと交易を行い、交易のための運上金と諸産物開発からの運上金収入を得られるとの見込みを添えて、調査計画を幕府に提出して認められたものであった。またこの計画には松前藩の内地への改易と蝦夷地幕府直轄化が含意されており、明治維新後の北海道開発計画の元祖ともなる計画であったが、蝦夷地交易で収入を得ている松前藩の利害とは対立するものであった。
 また積極的な貿易・外交政策の展開と平行して幕府は、従来行っていなかった大船の建造を始めている。
 1783(天明3)年にオランダ商館長から洋式船の模型と図面が幕府に贈られ、2年後の1785(天明5)年には1500石積みの廻船を建造している。さらに世界一周航海の途上であったフランスの海軍提督ラ・ペルーズが1787(天明7)年に対馬から日本海に入ったとき、外航用の一隻の大型和船に遭遇している。この船は日本の1枚帆の和船に西洋式の横帆を軸先に装備しており、明らかに洋式船をモデルに作られたものであった。1785年に建造されたという1500石積み船がそれであったかは不明だが、田沼政権が積極的に西洋の技術をも取り入れて海外貿易用の外航船を建造していた可能性は高い。
 このように幕府利益第一主義で賄賂を横行させた悪政と噂された田沼政権も、当時の情勢変化に対応して、積極的な外交政策を立てて おり、それは西洋の技術を取り入れて開国し、積極的に貿易を行うというものだったのである。 外交政策でもまた田沼政権は、時代の要請に積極的に応えていこうとしていたのだ。
 しかし以上見た田沼政権の積極的な側面は、教科書の記述からは完全に抜け落ちている。

: 古田武彦は東日流外三郡誌の著者・秋田孝季が田沼意次の依頼を受けて海外巡察を行い、その足跡は黒竜江からシベリアを経て北京にまで入っており、さらにエジプト・ギリシアなど中東地域にも及んでいたとする。この根拠は秋田孝季の別の著書である「北斗抄」に収められた、1778(安永7)年6月付けの田沼意次の書簡(これを仮に書簡@とする) で、意次はロシア船の松前藩への通商要求を知らせ、ロシア語の堪能な孝季に秋田藩主の許可を受けた上で、山靼諸国の隠密調査を依頼していること。また他の著書の「北鑑」には2人の間のその後の往復書簡も載せられ、最初の書簡(書簡A)は意次から孝季にたいして 、山靼巡察の件は意次の一存で判断したことなのであなたに咎が及ぶことはなく、山靼諸国巡察の記録は江戸に届けずに孝季の下に置くよう依頼があり、次の書簡(書簡B)ではこれに対して孝季から返書があって、山靼諸国巡察の件が空しくなったことは残念だが 諸外国を無視すれば鉄艦の巨砲によって湊が攻撃されわが国は敵に侵食されるのは必定。こうなる前に通商開湊をしなければわが国の未来はなく、せめて北前一湊なりとも開湊をしたいものだとの返書が出され、 続く書簡(書簡C)では田沼から、北前条約の件は無事済んだとの知らせが昨日江戸にあったとの孝季あての書簡がある。この書簡に出てくる山靼は直接には黒竜江河口付近のことだが、古田はこれが広く海外という意味に使用されたと判断している。だがこの四つの書簡がこの順の年次だとすると、松前藩が松前でのロシアとの交易を拒否したのは、1779(安永8)年の8月のことだから、最後の手紙 (書簡C)はこの時のことと思われ 、孝季が海外巡察をした期間が1年ほどになり、とても古田が指摘した範囲の外国を巡る余裕はない。さらに、Aの書簡で「田沼の命運がつきた」と述懐していることが時代があわず理解不能となる。以上の書簡のうちABの書簡には年次が記載されていないので、書簡の順序が@CABだったとすれば、孝季の海外巡察は早くとも1779年以降で 、ABが意次失脚以降とすれば1786年以降1788年以前となり、孝季が海外巡察に仕えた時間は7・8年はあり、文意も時代状況に矛盾しない。さらに古田が孝季が遠く海外を巡察したと判断したのは、彼の著書の中に「山靼巡遊記」というものがあり、そこに上に見た地域に立ったという記述があったからであろう。当該の書物は公刊されていないので精査できないのは残念であるが、田沼意次が豊富な蘭学者との関係を駆使して、後の蝦夷地調査以前に 海外探査を計画実行したことを示しており興味深い。近世史の重要な研究課題として、資料を公刊し探求すべきものであると考える。

:05年8月刊の新版での田沼政治についての記述は、印旛沼開拓が追加された以外は旧版とほぼ同様であ り、上に示した問題点もなんら解決されていない。しかも旧版でその前半に記されていた社会の変化の様が完全に削除されたため、なぜ田沼が商業・流通に着目したかがわからなくなり、旧版よりも後退した記述となっている。

:この項は、南和男著「江戸の社会構造」(1969年塙書房刊)、 布川清司著「近世日本の民衆倫理思想」(1973年弘文堂刊)、大石慎三郎著「江戸時代」(1977年中央公論新書刊)、 杉本つとむ著「江戸の博物学者たち」(1985年青土社刊、2006年講談社学術文庫再刊)、大石慎三郎著「田沼意次の時代」(1991年岩波書店刊、2001年岩波現代文庫再刊)、 古田武彦ほか著「津軽が切りひらく古代」(1991年新泉社刊)、林玲子編「商人の活動」(1992年中央公論社刊・日本の近世第5巻)、笠谷和比古著「国役論」(1993年吉川弘文館刊・「近世武家社会の構造」所収)、辻達也著「政治の対応−騒動と改革」 ・沼田哲著「世界に開かれる目」(1993年中央公論社刊・日本の近世第10巻「近代への胎動」所収)、 鈴木浩三著「江戸の経済システム」(1995年日本経済新聞社刊)、大石慎三郎著「将軍と側用人の政治」(1995年講談社現代新書刊)、塚本明著「都市構造の転換」・岩田浩太郎著「打ちこわしと 都市社会」(1995年岩波書店刊・日本通史第14巻近世4所収)、 深谷克己著「18世紀後半の日本−予感される近代」・久留島浩著「百姓と村の変質」(1995年岩波書店刊・日本通史第15巻近世5所収)、 古田武彦著「累代の真実−和田家文書研究の本領」(1995年新泉社刊・「新古代学」第1集所収)、菊池勇夫著「近世の飢饉」(1997年吉川弘文館刊)、 古田武彦著「古代史の未来」(1998年明石書店刊)、田中圭一著「日本の江戸時代−舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、田中圭一著「村からみた日本史」(2001年ちくま新書刊)、 藤田覚著「近世政治史と三大改革論」・菊池勇夫著「享保・天明の飢饉と政治改革」(2001年山川出版社刊・藤田覚編「幕藩制改革の展開」所収)、 藤田覚著「江戸庶民の暮らしと名奉行」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史17「近代の胎動」所収)、藤田覚著「田沼意次−ご不審を蒙ること、身に覚えなし−」(2007年ミネルヴァ書房刊)、 土井康弘著「本草学者 平賀源内」(2008年講談社刊)、小学館刊の日本大百科全書・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


目次へ 次のページへ HPTOPへ