破産してもなお外交にこだわった男・齋藤修一郎

−「失意の外務官僚」像の再検討−

 

2010年7月3日 日本英学史学会本部例会報告

会員 川瀬 健一


 

はじめに:

 

 私の母方の祖母・松本利の父親は齋藤修一郎。

彼は、1875(明治8)年に文部省第一回官費留学生としてアメリカボストン大学法学校に学び、1880(明治13)年の帰国後は外務省に入って井上外務大臣の秘書官兼政策課長になり、条約改正会議の書記官長として不平等条約改正作業に従事したり、朝鮮における日本軍のクーデタ未遂事件などの処理をした。その後1888(明治21)年に外務省から農商務省に移り、農商務大臣となった井上馨の秘書官兼商工局長をつとめ、1893(明治26)年には農商務次官となって翌年1894(明治27)年に退官した明治期の官僚である。

 齋藤修一郎は明治中・後期の時代においてかなり有名な人で、1910(明治43)年5月の彼の死後、新聞や雑誌で彼への弔文や逸話を紹介する企画がなされたことに良く示される(資料1を参照)

齋藤修一郎君ー東京だよりー        【資料1】

 幾回か遅疑したり、されど一言するを禁ずる能はざるは、齋藤修一郎氏の死也。明治20年代に於ける彼を知るものは、其の40年代に於ける、彼の落寞(らくばく:注1)たる境遇と反照して、寔(まこと)に情に勝(た)へざる者あり。
 若し彼を目して、明治時代の才人の全き標本と云う能はずんば、一種の標本たるに庶幾(しょき:注2)し。彼や武生藩の医者の児にして、夙(つと)に頭角を藩学に現はし。天下俊秀の府たる開成学校に於いて、錚々たる秀才として指目せられ。学生の登竜門たる、官費洋行生となり。学成りて帰朝し、幾(いくばく)もなく井上侯の眷愛(けんあい:注3)する所となり。殆んど侯の手足たり、股肱たり、腹心たりき。
 井上侯の条約改正の失敗は、彼に取りても一大打撃たりしや論なし。されど彼は、22年井上侯の再び起て、農商務に入るや、直ちに欧州より召還せられて、其の秘書官たり。爾来侯の罷め去るに拘らず。彼は農商務省にあり、或時は商務局長たり、或時は次官たり。其の威権の赫灼(かくしゃく:注 4)たる、坐(そぞ)ろに(:注5)意外の蹉跌(さてつ:注 6)を予想せしめぬ。
 果然金時計事件は出で来れり。此事たるや無邪気なる彼よりすれば、何でもなし。請うたるにあらず、與へられたる也。然も取引所設置の労を謝する意味に於て、與へられたる也。然も大臣の免許を得て、受取りたる也。彼に於て寸毫も疚(やま)しき所なし。されど彼は之が為めに、一蹶(いっけつ:注 7)復た起つ能はざりき。豈(あに)悲しからずや。
 彼は爾来実業家ともなれり、新聞記者ともなれり、政党員ともなれり。然も不運は恒に彼に付き纏(まと)へり。身世の蹉【足偏に它】(さた:注 8)と與(とも)に、其の交友は秋葉の如く散じたり。只だ増加したるものは、借金のみなりき。此の如くして彼は太平洋向岸に浪遊し、遂に志を果さず。東京に於て逝けり。
 彼にして若し才人の欠点あらざりしならば、金時計問題にも、蹶(つまず)かざる可く。蹶(つまず)くも快復の見込みなきにあらざりしならむ。胆(た)だ彼や人生の意の如くなるを知りて、意の如くならざるを知らず。空しく彼の交友をして、特に得意なる交友をして、彼の最後に其の哀涙を掬(きく:注9)せしめたり。
 彼や百の欠点あるも、真に快活男児たり。彼の失意の原因の一は、其の恩人井上侯の門下より遠ざかりたるにある可し。されど是れ決して井上侯の薄恩にあらず。惟(おも)ふに遠ざからざる可からざる曲折の存するあらむ。唯だ彼や余りに才を恃(たの)みて、周到なる注意と、検束(けんそく:注10)なる行為とを欠き、空しく半生の才人として、窮途に斃(たお)れしむ。彼の友人ならざる記者さへも、尚ほ言明し易からざる同情の懐に湧くを覚ゆ。
(明治43年5月13日)  

大正15年5月1日 民友社 発行  徳富猪一郎著「第一人物随禄」(彼の旧稿をあちこちから集めたもの)

※おそらく徳富猪一郎(蘇峰)が主催する国民新聞に「人物遇評」というコラムとして掲載されたものか。

注1:もの寂しいさま
注2:こいねがう
注3:心にかけて愛する
注4:かがやく
注5:たやすく
注6:つまずき失敗すること
注7:一度つまずくこと
注8:つまずく
注9:受け入れる
注10:引き締める

  ※この徳富蘇峰の修一郎への弔文は、極めて正しく彼の一生を捉えていたことは、本報告を読み終われば分ることであろう。

 

 しかし今では彼の名前はほとんど忘れ去られ、子孫ですら、その業績を詳しくは知らない状態になっている。

 戦後に齋藤修一郎について論及した学者は(私が知る限りでは)四人と少ない。

一人は「日米文学交流史の研究」(1960年講談社刊)を著した木村毅。

 二人目は「貢進生−幕末維新期のエリート」(1974年ぎょうせい刊)を著した唐沢富太郎。

三人目は、「ベルリンからの手紙・1888年−失意の外務官僚、齋藤修一郎小伝」(1994年群馬県立女子大学紀要第15号掲載)を著した稲野強。

この論文は、著者が日露戦争当時対露工作をハンガリーの旅行家・学者のヴァームベーリに依頼した牧野伸顕(駐オーストリア公使)を調べていて、その16年前にヴァームベーリに接触した齋藤を発見して、彼の小伝を著したもので、学問的な修一郎小伝としては唯一のもの。

四人目が、「日露戦争100年−新しい発見を求めて」(2003年成文社刊)を著した松村正義。

この本では日露講和の背景にはルーズベルトを突き動かした齋藤修一郎の「忠義浪人」(原題「The Loyal Roninsーan Historical Romance」)があったと、この逸話を始めて発表した外交史家・信夫淳平の「明治秘話二大外交の真相」(1928・昭和3年萬里閣書房刊)と戦後にこれを紹介した木村毅の著作および稲野強の論文が引用され、詳しく紹介した。

だが、齋藤修一郎について最も詳しく書かれた稲野強の論文では、彼の人生は、1888(明治21)年の外務省退官で終わっており、それ以後の20年間は失意の人生であったと記述したので、これを踏襲した松村正義の著書でも同様であり、以後修一郎を紹介した本も同様である。

 

 ※松村正義の本の出版を契機にして、民族主義的傾向の人々の間で 齋藤修一郎は「一冊の本で国家に貢献した人物」として知れ渡っている。たとえば占野賢志著「続歴史のいのち」など。しかしこのルーズベルトと「忠義浪人」の話は根拠のない伝説であると考えている。この件については別途論証する予定である。

 

しかし齋藤修一郎の業績をネットや図書館などにあたって資料収集してみると、齋藤修一郎の人生において、1888(明治21)年以後のほうが彼の人生にとって「華」であり、農商務省時代の彼は、木村毅が「農商務次官として大臣以上の真価があると評された」と紹介したことが正しい。また後に詳しく紹介するが、齋藤修一郎は1888(明治21)年の外務省退官後も外交に関り続けており、外交について論及した多くの雑誌論文も存在した。

ではなぜ、稲野強の「齋藤修一郎小伝」は、1888(明治21)年の外務省退官を持って彼の人生は幕引きされ、以後は「失意の人生であった」としたのか。

これは、齋藤修一郎自身がその著書「懐旧談」においてそのように語っているからであり、この伝記的研究は、修一郎の「懐旧談」に全面的に依拠して書かれたからであった(資料2参照)

資料2:懐旧談目次
一 懐旧談を児童等の為に開始せし動機  1p
二 我等の祖先は如何なる人ぞ        7p
三 汝等が祖父の人格             11p
四 嬰児時代の我が家             14p
五 祖母の膝に寂く眠る            18p
六 小供の時は読書嫌ひ            21p
七 奮発決心は境遇の反動          26p
八 武生は北陸の雄藩             33p
九 武生文武振興の原因           35p
十 学問振興の思人松井耕雪         37p
十一 武生藩と武田耕雲斉           43p
十二 耕雲斉事変当時の我          47p
十三 藩制の大革新               50p
十四 本藩に対する反抗運動          51p
十五 第一回の決死連判状           56p
十六 沼津遊学の動機              60p
十七 沼津在学時代の余            63p
十八 武生騒動の成行              66p
十九 伯父の最後と学資断絶          69p
二十 義人新居の隠居屋            71p
廿一 諸藩貢進生の推薦             76p
廿二 陰徳あるものは陽報あり         79p
廿三 余は如何にして貢進生たりしか     83p
廿四 大学南校の学生生活           85p
廿五 決死的建白書と学制改革         88p
廿六 学友と今昔                  94p
廿七 寄宿舎生活の幸福             96p
廿八 海外留学の運動               98p
廿九 焼芋と大福餅の喜劇            101p
三十 留学運動の歩武を進む          106p
卅一 第一番たる心掛けを要す          110p
卅二 灯下の旧夢談                116p
卅三 海外留学の途に就く             122p
卅四 米国留学中の生活              123p
卅五 理想の処世観と仕官             127p
卅六 明治十五年の京城事変           132p
卅七 条約改正予議会               133p
卅八 条約改正と独英                137p
卅九 事件の犠牲は誰ぞ              140p
四〇 欧米官遊二年間               143p
四一 帰朝命令を受く                146p
四二 余が落魄失意の生涯に入りたるは何時ぞや   149p
斉藤修一郎翁の懐旧談を読みて所感を記す 田村松魚 153p
懐旧談拾遺                           167p
42:余が落魄失意の生涯に入りたるは何時ぞや

 今夜は余が懐旧談一部の完結を告げん。終に臨んで汝等児輩に一言するであろう。
 汝等も夙に其英名を知れる彼の福島少将は北清事変の当時、広島師団長故山口大将の参謀として天津方面に遠征の途に就いて居られた。当時汝等の従兄なる荒木鉄三氏は大阪毎日新聞の通信員として天津地方に出張し偶々福島少将と相知った。此の時談偶然余の事に及んで、少将は荒木の従兄に云って曰く「彼の齋藤修一郎の落魄を世人は不思議のことと云っているが、与の見る所によれば、何の不思議か是れあるべき。齋藤の失意は明治19年外務省を去りし時、其の時即ち此れ此の人の落魄にして、後日の轗軻不遇決して恠しむべきにあらず、これを恠しむものは誤れる哉」と。荒木帰朝の後此の物語りを余に談ず。余思ふに、少将の言能く余を知るものと謂つべし。管仲を知るものは鮑叔なり、齋藤修一郎を知るものは夫れ福島安正か。千載の下知己を得るに難しと雖も、余は知己福島氏を得たり、以って瞑すべきか。余が五十三年間の生涯を通じて懐旧為に衣襟を混すもの多けれども、此の一語の如く我が胸臆に徹したものは稀である。以って連夜講じ続けたる懐旧談の終を結ぶ語と致そう。

 

 

※懐旧談は41の「帰朝命令を受く」で事実上終っている。この41章で修一郎は、「農商務省に入っても死んだも同然であった」というニュアンスで語り、その理由を42の「余が落魄失意の生涯に入りたるは何時ぞや」で述べて、上に見たように 明治19年に機密漏洩の責任をとって外務省をやむなく去り欧州に行った時であったと、このことを知る人物の証言として福島少将(当時)を示して語っているわけである。 そして補足すれば、後の明治21年に外務省を辞めざるを得なくなった理由は、井上馨が農商務大臣になったので外務省を辞めて秘書官になれとわざわざベルリン公使館に電報を打ってきた からであった。しかし修一郎は嫌がりすぐには帰国せず。そして帰国後時の外務大臣大隈重信に外務省を辞めたくない旨を告げたが、大隈に「井上さんに頼まれては嫌といえない」と言われ、やむなく外務省を辞めたというわけ。これはおそらく外務省に井上前外務大臣の腹心とも右腕とも言われた修一郎、次の外務次官は彼だと言われた人物がいることを嫌った大隈があえて修一郎を引き止めなかったということであろう。また外務省を 去ったことが修一郎の落魄の人生の始まりだと証言した福島少将は、情報将校として修一郎と同時期にベルリンの公使館付武官として赴任していた男であり、修一郎より2歳年上で開成学校の先輩で、外国語が堪能であったので法務省に勤めていたのを陸軍省を請い願って入省させ、情報将校とした人物。なお、懐旧談の最後に付せられた「所感」に出版に至る経緯が書き記され、後に大正6年に武生郷友会が再刊した折には、その後ろに松本源太郎の「懐旧談を読む」が掲載され、源太郎一族と修一郎との関係などが詳しく記されている。また最後の「懐旧談拾遺」は出版にあたって、懐旧談では語られていなかった「金時計事件」(農商務省を辞めざるを得なくなった収賄事件)について記者が修一郎に尋ね語らせたもの。

 

本報告は、まず、稲野強の論文に掲載された略年譜(別刷り資料参照)を訂正増補する形で彼の人生とその業績について素描し、その後に、新発見の史料である「松本源太郎日記」などに依拠しながら、「懐旧談」が書かれた当時の彼の状況と心境を復元し、「懐旧談」の資料的性格とその限界を明らかにすることを通じて、齋藤修一郎にとって、外交とは一生涯をかけるものであり、外務省退官後も、そして破産してなお外交にこだわったことを明らかにし、今後の齋藤修一郎研究の基礎的作業としたいと考えている。

 

齋藤修一郎略年譜(稲野論文より)

 

 なお、「松本源太郎日記」の松本源太郎と齋藤修一郎との関係については、「松本家と齋藤家」系図を参照されたい(別刷り資料参照)

  

 ※松本源太郎と齋藤修一郎はまたいとこどうし。すなわち源太郎の祖父と修一郎の祖母とが兄と妹。源太郎の松本家は、本多家の代々家老を務める家。修一郎の齋藤家は本多家の御典医で、松本家と同じく代々家老を務める滝家(維新後土生と改名)の分家で、ともに本多家家臣団に属す。従って維新後も本多家家臣団である藤垣集の幹部として二人は活動し、修一郎は家臣団随一の出世頭として重きをなし、源太郎は最後の首席家老(松本晩翠)の長男として、藤垣集のまとめ役として、主家本多家の家庭事情や財政問題について奔走している。また二人は武生出身で東京で活動している人々の親睦団体である武生郷友会創設メンバーであり、修一郎と源太郎ともに幹部を務めている。また松本と齋藤は親しい親族であり、源太郎が東大在学中に父晩翠が病気のため郡長を辞めたので学費が出せなくなった時、学費および生活費毎月20円のうちの半分の10円を負担したのも齋藤修一郎であった(残りの半分は、武生の町医者の子で外務省に入って出世した渡辺洪基・当時東京府知事後初代東大学長が負担)。さらに松本家の子女の婚姻の多くは齋藤修一郎夫妻の斡旋によるなど、両家は家族ぐるみの付き合いであった。このため明治18年から大正14年までの源太郎日記(小型の懐中手帳のダイアリーに一日の出来事を完結に漢文で記したもの)にはしばしば齋藤修一郎の動向や齋藤家に関る記述が見られる。

 

 

1:修一郎略伝訂正増補

 

(1)  父母との関係

 

●「二歳のとき、母は実家に戻り、三歳で父に死別」⇒訂正「三歳で父に死別、母は実家に戻り」

 

※これは「武生市史資料編人物・系譜・金石文」(1966年刊)の記述。懐旧談でも、19歳の折の英文自伝(ラトガース大学グリフィスコレクション在)でも、1934年刊の「福井県南條群誌」でも右のように書かれており、左のように訂正する資料的根拠が不明。

 

  ※母の名は「フミ(婦美)」。夫と死別当時19歳。再婚して男子を産む(青山信太郎)。さらに再婚し女子を産む(中村ユメ:明治5年4月25日誕生)。明治19年に修一郎は母と妹を東京に呼び、妹を養女として嫁がせている(沼津に本籍を置く、坂本ト五郎)。

 (麻布長谷寺の齋藤家過去帳・源太郎日記・戸籍謄本・藤田四郎の明治43年5月31日の原敬宛手紙[原敬関係文書第3巻所収]による)。

 

※英文自伝は、開成学校時代に明治7年に書いたもの。アメリカのラトガース大学のグリフィスコレクション中に生徒エッセイがあり、その一つ。署名は修一郎名ではなく「Edward San」。この自伝は彼が英学を学んだことでどう世界観が変わったかを述べたもので、彼が法律を学び後に外交官となった動機を示す興味深いもの。これについては別途論じたい。
※英文自伝でも懐旧談でも、彼が父と死に別れたのは「4歳」と記す。数えで4歳、満で3歳である。
※修一郎は懐旧談で4歳で父に死別母は実家に戻ると語ったので、まるで天蓋孤独のように考えられがちだが、上に見たように、母も別家に再婚しそこで二人の子をなして健在である。その上修一郎が幼かったので代わって齋藤家を継いだ齋藤寛輔(フミの従兄の息子。齋藤家隣家の医者石渡家のもの)の遺児・齋藤郁次郎がおり、両親を失って孤児になっていたのをアメリカ留学する年に修一郎が引き取り、戸籍上は修一郎の弟とされて彼が渡米中には彼の知人に頼んで養育し成人させた。修一郎には多くの家族がいたわけだ。

 

(2)  沼津兵学校付属小学校時代−武生事件(武生騒動)

 

1868(明治元年)の版籍奉還に伴って「武生藩福井藩に吸収される」⇒訂正1869(明治2)年6月の版籍奉還に伴ってこの年の冬に「武生藩福井藩に吸収される」(松本晩翠の岩倉卿への嘆願書草案・武生郷友会誌第51号・昭和4年刊による)。

1868福井藩に反抗した武生事件起こる⇒訂正1870(明治3)年8月7日武生事件起こる

1869(明治2)年「福井藩の指定選抜で沼津兵学校付属部へ」⇒訂正「旧武生藩の指定選抜で」

                            ⇒訂正 沼津兵学校付属部へ行ったのは、「懐旧談」は間違い。1870(明治3年)2月〜

「福井藩の武生藩に対する融和策」⇒訂正これは明治3年10月に貢進生として大学南校へ赴いた話の時

 

※沼津兵学校付属小学校入学については、懐旧談は「明治2年2月」とある。しかし福井の家臣録では「明治3年2月」。しかし明治2年2月では、彼が沼津に行くきっかけとなった「本多家家格問題」はまだ起きていない。起きたのは明治2年11月。また熊澤恵里子著「沼津兵学校における他藩員外生」によると、福井藩士の在学の始めは明治2年10月。懐旧談によると修一郎は、家格回復のために福井藩重臣の子弟との交友を深めることを狙って沼津に行ったとあるので、この理由が正しければ、修一郎が沼津に行ったのは、明治3年2月が正しい。また懐旧談の別の個所:「18:沼津在学時代の余」には、明治3年2月からとの記述もあるので、明治2年2月とあるのは誤植か修一郎の記憶違いであろう。
 

武生藩(越前府中藩)本多家
 齋藤修一郎の家が属したのは「武生藩」とされることが多いが、正確には福井藩松平家の付家老・本多家家中。形式的には独立藩ではない。

    本多家は、福井藩松平家が関が原合戦の勝利に伴って徳川家康次男の結城秀康によって起こされると、それに家康が付けた付家老家。幕府からは大名並に遇せられて江戸屋敷(本所松阪町 :隣家に後に移ってきたのが吉良上野介)もあり、250年間もの間、福井から独立して藩政を行う。しかし、版籍奉還に伴って福井藩は武生本多氏を「家老」として扱ったため、すでに新政府によって大名と認められていた御三家付家老家とは異なって本多氏は士族となり、新政府から「藩知事」に任命されなかったため、武生統治権を失う。このため「本多家家格回復運動」が起こり、明治3年2月に、修一郎は福井藩重臣の子弟に工作するため沼津に遊学。その在学中明治3年8月7日に東京で強訴の罪で捕えられた武生町民6人が福井へ護送されるのを武生で奪い取ろうとして福井藩兵と小競り合いになり、怒った武生町民が福井藩役所に放火・打ちこわしを行って福井藩兵に鎮圧される武生騒動が勃発。首謀者の一人として逮捕された彼の庇護者である叔父大雲蘭渓が獄死(明治3年9月)。  ※本多家家格問題⇒武生騒動は「忠臣蔵」そのもの

 

※武生騒動については今年3月に、「越前市史資料編14武生騒動」が刊行された。騒動の経過と結末を示す詳細な資料集が始めてまとめられたわけ。しかし騒動の原因を考えるにはこの資料集では不充分。理由の背景には、本多家がそうであった付家老の歴史的性格を考慮する必要がある。付家老とは幕府の目付で監視役。有力な徳川家親族大名につけたもの。これゆえ御三家付家老家はしばしば本藩と対立し幕府よりの路線をとった。このため御三家付家老家は本藩からの独立を画策していて、戊辰戦争勃発に際しては逸早く新政府側にたち、本藩も動かして倒幕軍を起こす。この功績で明治維新後直ちに本藩から独立を認められ独立大名となった。福井松平家と武生本多家はどんな関係にあったのか。ここを研究する必要あり。

 

本多家の家格回復

   本多家の家格が新政府によって華族(大名並)と認められたのは、1879(明治12)年1月(浅見雅男著「華族たちの近代」)。「忠義浪人」序文によれば、修一郎が日本の代表的小説の翻訳を決心したのは1877年。その後いろいろ思案した末に「いろは文庫」英訳を決めたが、実際に翻訳にかかったのは1879年の夏。この時期的一致は興味深い。

 

※武生の本多家家格問題⇒武生騒動の一連の事件は、芝居や義士伝で語られた「忠臣蔵」そのもの。要するに芝居や義士伝では、吉良が浅野の領地を望んで難癖をつけこれが原因で刃傷事件が起きて浅野が切腹し取り潰されたとされる。その上赤穂は吉良のものになったとすら語る物もある。この伝承としての忠臣蔵と武生を巡る一連の事件はよく経過も性格も似ている。武生の本多家家臣は赤穂義士に自分を擬して行動した。この点、本多家家格回復がなった時期と、修一郎がいろは文庫を英訳した時期の近接した関係とともに、修一郎が忠臣蔵を英訳した背景には、武生を巡る事件の性格と忠臣蔵との類似があるのではないか。この点についても別途論じたい。

 

(3)  条約改正機密漏洩事件

 

 ※条約改正交渉での治外法権廃止の代わりに大審院判事に外国人を当てるという案が漏洩。イギリスの新聞タイムズがスッパ抜き、国内から厳しい批判にさらされた事件。機密を漏洩した張本人は、井上馨外務大臣その人(大塚則鳴著「井上侯と齋藤修一郎翁」明治43年6月1日「日本及日本人」第534号所収)。

 ※修一郎が欧米へ出発(アメリカ経由で欧州へ:二度目の渡米)したのは1886(明治19)年1030日(源太郎日記)。

 ※なおこの公使館参事官時代に稲野論文が記すようにヴァームベーリと接触するなど欧州情勢を詳しく見聞したのだが、この見聞を東京に戻って報告したと思われる記事が武生郷友会百年史の土肥慶蔵談にあり、この日時は源太郎日記によると、1889(明治22)年2月24日の齋藤邸での郷友会会合。「兄説洋行事」とある。

 ※土肥慶蔵談

「あるとき齋藤先生が丁度西洋から帰朝されて『欧州の現状』について大勢を説かれ『ロシアという国は最も恐るべき国である。それは中央亜細亜や東亜などに事端を起 こして、問題がむずかしくなると、責めを辺境の役人に帰して我関せず焉をきめこむというような外交ぶりで、さすがの英国なども手を焼いている』

 

 ※修一郎は欧州の日本公使館に2年間滞在した。その間の行動については懐旧談はほとんど遊んだことしか語っていない。しかしそうではなく欧州情勢、とりわけロシアの動向を調べていたことが、稲野強の先の論文でわかる。彼はベルリンから、ブダペスト大学の学者で旅行家・作家として高名なヴァームベーリに手紙を送り、ロシアの動きは極東の日本にとって深刻な問題であり、ロシアがシベリア鉄道を完成させれば、その侵略の矛先は満州へ伸び日本海にまで到達することは必至と述べた。そしてロシアを研究するに必要な文献を、ドイツ語やフランス語英語などいろいろ紹介して欲しい旨依頼。ヴァームベーリはその依頼に応えて多くの文献を示し修一郎はロンドンの日本公使館を通じてそれを購入した模様(これについては稲野論文中の修一郎の手紙を参照)。またこの時彼は一応ベルリン公使館に在籍していたもようで、前記の情報将校福島安正とは同僚として、共にロシア情勢を探索研究した可能性あり。その研究に基づいて福島は、修一郎の帰国後の明治21年にはバルカン半島一帯を旅行し、さらに明治25年の彼の帰国に際しては、騎馬でベルリンからヨーロッパロシアを経て、シベリア・満州経由でウラジオストックまで踏破。修一郎の明治20年ごろにおけるロシア情勢探索は、かなり早い例として注目に値し、後に日露戦争のおりに、駐オーストリア公使の牧野がヴァームベーリに依頼して黄過論に対抗してロシアと戦う意味を説いたパンフを書いてもらったのだが、この動きと十数年前の修一郎の行動との関連が注目される。

 

(4)  農商務省時代

 

 ※農商務省時代の修一郎の仕事の一端は、彼の履歴でもわかる(郷友会誌明治43年掲載)。

   ・第三回内国勧業博覧会事務委員(明治22年8月24日〜明治231021日)

   ・東京工業学校委員(明治22年9月30日〜明治23年5月29日)

   ・東京市区改正委員(明治23年5月〜明治26年3月10日)

   ・郡区長試験委員(明治23年7月4日〜明治26年3月22日)

   ・中央衛生会臨時委員(明治23年7月25日〜

   ・度量衡法案政府委員(明治231210日〜

   ・臨時博覧会評議員(明治241215日〜明治27年1月10日)

   ・高等商業学校商議委員(明治25年4月16日〜

   ・鉄道会評議議員(明治2511月1日〜明治27年1月10日)

        以上商工局長時代・明治26年3月9日農商務次官任官

   ・第四回内国勧業博覧会事務官長(明治26年4月7日〜明治27年1月10日)

   ・臨時製鉄事業調査委員会委員長(明治26年4月25日〜明治27年1月10日)

        明治27年1月8日農商務次官免官

 

 ※臨時製鉄事業調査委員会は、日本初の大規模西洋式高炉を備えた製鉄所を建設することを検討する委員会。当時は民間資本をもって釜石鉄山と常磐炭田を利用して仙台あたりに製鉄所をつくる構想で動いていた。日清戦争後に莫大な賠償金を得たことで計画が官営製鉄所に変更され、場所も筑豊炭田と満州の鉄山を利用できる八幡に製鉄所が作られたことはよく知られる。

 

 ※この他、渋沢栄一伝記資料には多数修一郎の名前が見られ、様々な認可事業に関るとともに、渋沢(当時東京商工会会頭・東京商業会議所会頭)からの様々な問い合わせに応じている。

 ※なお田中正造が足尾銅山鉱毒事件について、明治241218日に帝国議会において質問書を提出して農商務大臣の回答を要求した。しかし政府は開会中には回答せず、25日政府は議会を解散した。その後陸奥農商務大臣は足尾銅山が渡良瀬川流域の汚染原因とは特定できない旨の回答書を官報に公表したが、この回答書作成には、当時商工局長であった齋藤修一郎も加わっていたであろう。

 

 ※農商務省時代も外交や政治に関っていた(資料3を参照)。   

農商務省時代の外交・政治との関わり          【資料3】

○井上馨宛修一郎書翰(国会図書館憲政資料室蔵井上馨関係文書)

1: 年月日 明治22年9月13日 資料番号 158-2

 内容:プリンタリー未ダ帰京セズ 伊東巳代治ト面談 身分法枢密院議決 米・独・露新条約批准前ニ枢密院議トスルノ件 露条約皇帝批准ニツイテ 

 2:年月日 明治22年9月30日 資料番号 158-3

 内容: 山県大臣帰朝近ヅキ大勢切迫 松方伯ニ奮発要請好結果ヲ見ン 諮問会勉強渋沢・益田モ参会条約草按修正改善シ得々リ ソノ他人事ニツイテ

 3:年月日 明治22年10月9日 資料番号 158-4

 内容: 条約改正ノ件 プリンタリー・アルウィン両名ヨリ得タル米・英・仏・伊・漢・独・露各国ノ情報具申

 4:年月日 明治22年10月22日 資料番号 158-6

  内容:プリンタリーニ面晤 善後策〔大隈遭難〕ニツキ英ハ自ラ改正事業ヲ破ルコトナシ 英ハ大隈支持他ニ求ムレバ伊藤伯ナラン 大隈退任ハ外国ヘ衝撃多シ 反対ハ経済論カ憲法論カ 外国人裁判官任用ニ修正案数種アルト聞ク 英ハ全廃ノ意ナリト

 5:年月日 明治22年11月19日 資料番号 158-7

 内容:外国公使・外国人ノ条約改正問題観測 アルウィント面談 改正談判急グ必要ナシ 方針決定前デニソント自分トノ意見ヲ徴セヨトイウ

 6:年月日 明治23年1月1日 資料番号 158-8

 内容:岩村大臣ヨリ地方官遊ヲ命ゼラレ出発予定 独公使青木後任ニ好感 ブリンクリーハ改正事業持続ヲ意図スルヤ 又井伯ノ真意ヲ聞キタシトナリ デニソン真ニ自分ノ助カヲ求ムルナラバ微力ヲ尽サントイウ

◎自治党の結党関係

 「間もなく高樹町にて後の侯爵桂太郎氏の邸宅を譲り受けられて、先生の一家は麻布仲之町からそこへ引越されました。(中略)ここに先生は商工局長から農商務次官の全盛時代を送られ、而して自治党の画策や、帝国党の創立などもここで立案された。」(土肥慶蔵「私と齋藤先生」武生郷友会誌第47号・大正14年所収」  

※1888年7月下旬、井上は農商務大臣としての入閣を要請してきた黒田清隆に対する手紙で「薩長藩閥による政治の支配を永続させることは不可能。明治政府が進める富国強兵路線を継承する次世代の政治家を育てる手段として中等以上の財産家を集めて新党を結成して地方自治において主導権を握り、彼らに政治的経験を積ませて中央に進出させ、穏健な保守勢力を形成させることで、過激な自由民権派や国粋主義者の台頭を食い止める構想」を打ち明けた。同様の趣旨の手紙を伊藤博文にも送る。井上の入閣後の同年10月5日、陸奥宗光・青木周蔵らとともに事実上の新党準備会にあたる「自治制研究会」を発足させ機関誌『自治新報』を発行するなど準備を進めた。だが、翌年黒田の「超然主義演説」や山縣有朋らの反対、条約改正を巡る井上と黒田との対立もあって運動は低調。1889年夏には事実上計画は中止。『自治新報』も1890年に廃刊。

○徳富蘇峰宛修一郎書翰 (神奈川二の宮徳富蘇峰記念館蔵:山川出版刊「徳富蘇峰関係文書」所収)

 明治23年4月5日  拝啓、然ば昨夜英和女学校強盗侵入校長夫婦殺痛之件は国家将来之利福の係る処実に重大にして、此機に際し信徒は勿論国家を思ふの良民ぐづぐづ致候ては増す国粋主義之勢援を増長し如何之情況に立到哉も不可計、実に杞憂に耐えず候。就ては此際は大デモンストレエションを為し、真正之神を信ずる徒は遂に不可倒之勢を示す事肝要かと被存候。   
 故に左之案件を貴君に提し候間御取捨之上よろしく御斡旋之段希望に耐えず候。於小生も十分尽力可仕候。

1、 校長葬送之際は可成送行之人を集むる事。
2、 全国之有志を招き大祈祷会を東京に執行する事。
3、 全国之有志をつのり大記念を建つる事。但し寺若くは学校の如きか。
4、 諸新聞結合し而痛論する事。   

右得御内意候。早々不一     

明治二三年四月五日    齋藤修一郎   徳富猪一郎様貴下

 

 

※井上馨あて書簡は、大隈外務大臣時代の条約改正の裏側で、当時農商務省の商工局長であった修一郎が各国公使団の意見を聴取したり、当時外務省お雇いとして外交政策に大きな影響を与えたデニソンとも連絡をとって、条約改正のための情報収集にあたっていたことを示すもの。外交こそ我が庭と考えた井上が、外務大臣を退いてからもなお外交に関ろうとしていたゆえに、彼の公的にも私的にも秘書官である修一郎が動いたということか。同じ事情が、自治党結党に向けた動きに修一郎が加わった理由であろう。最後の徳富蘇峰あての手紙は、修一郎の思想が、しばしば指摘されるのとはことなって国粋主義ではなく自由主義的であることを示す貴重なもの

 

(5)  韓国政府顧問時代:積極的に対朝鮮外交に従事

 

  ●1894(明治27)年、韓国政府農商務顧問⇒訂正 韓国政府内部顧問

 

  ※この記述は武生市史人物編の間違い。当時の新聞や記録では内部顧問。身分は外務省雇い。内部とは、日本の内務省に等しく、内政・治安維持を図る重要な役所。顧問は明治27年7月に大鳥公使が韓国政府に内政改革案として提示したもので、政府を国王から切り離し、大臣を顧問が統制して日本の意のままに動かす制度。だが韓国国王・王妃一族の激しい抵抗を受ける。

  ※内部顧問についた意味(「高橋是清自伝(下)」12日銀馬関支店長時代所収・資料4を参照)。   

韓国政府内部顧問時代              【資料4】

○「高橋是清自伝(下)」12日銀馬関支店長時代p48 中公文庫    

 10月14日、井上伯内務大臣辞任、朝鮮駐紮全権公使となり、16日馬関到着。齋藤修一郎が随員として来ていた。この時の井上伯の話として:
 「今度の朝鮮行きは同国の死活に関し診察を遂ぐるにあたって事甚だ重大である。さきに大鳥公使が王妃(閔妃)を排して大院君を勧め諸政を改革し、清国党を一掃して以来、人心恐々として安ぜず。政府の大官は、一身保全のために、媚を開化党(日本党)に呈し、今や日本党全盛の時となった。ただ閔妃と大院君とは表面平静を装えども内心の軋轢甚だしいから自分の任務は第一に王妃と大院君の間柄を親睦ならしめ、王族の安全を強固にし、野心を排し、情弊を一掃せねばならぬ。もしそれ国内の腐敗救うべからざるものあるにおいては、第三国の干渉あるを覚悟しても、我より止めを刺すのほかはない。かく相成っては各国との交渉も容易ならず、従って自分の朝鮮行きの前途は暗澹たるものである。しかして齋藤を同行するは、同人をして岡本柳之助(この人は伯と共に来関して伯よりも先に渡鮮した)と共に裏面の運動をなさしめんがためである」

○ 新聞記事での齋藤修一郎らの動静  

 明治28年10月1日神戸又新日報記事  井上公使の着発(神戸港)
 明治28年10月17日神戸又新日報記事  斉藤修一郎氏帰朝期(来神につき) 朝鮮内務顧問官 斉藤修一郎   星亨氏の帰京(神戸通過)
 明治28年10月22日神戸又新日報記事  斉藤修一郎氏帰京す(神戸出発につき)
 明治28年10月26日神戸又新日報記事  井上公使着神す 井上大使の出発
 明治28年10月29日神戸又新日報記事  井上大使一行出発す

 ○ 源太郎日記での齋藤修一郎の動静

 明治27年11月11日 晩に齋藤新宅(赤坂仲ノ町18)を訪ねる。主人先日朝鮮に赴くなり。
 明治28年10月20日 午前齋藤を訪れる。主人帰朝鮮なり。不在不見。
 明治28年11月22日 四時半齋藤に至る。次男周二袴着視なり。会者数十人。主人帰朝後始めて相見る。

 

  ※井上のロシアに接近する王妃と大院君との親睦策は破れ、彼は公使を辞任。その間修一郎は、親日派の大臣・朴泳孝をして王妃派(閔妃一族の高官)を排除して親日派が政府を独占することを画策推進するも見破られ、逆に閔妃によって朴泳孝訴追(王妃暗殺の嫌疑)の動きが出て彼は日本に亡命。韓国を親日政権にする策は頓挫。

  ※井上に代わって公使となった三浦吾郎は、1895(明治28)年10月8日、日本軍と民権派壮士合同で王宮に侵入し閔妃を虐殺。遺体を焼いて池に捨て、国王を動かして閔妃の王妃の位を剥奪して閔妃一派を政府から追放。親日政権を樹立(京城事変)。

  ※これが外国公使団に発覚し、後難を恐れた日本政府は、1010日に政務局長の小村寿太郎以下の調査団を派遣し、1017日に三浦公使や杉村書記官などを召喚逮捕。小村寿太郎政務局長を弁理公使に事後処理を図る。同時に朝鮮国王に対する慰問の大使として井上馨を当てる。

  ※齋藤修一郎はこの計画を事前に知っていた。事前に同じく閔妃殺害を計画した顧問の星亨らが修一郎に相談に訪れたところ、「実行は簡単だが、あとの列国との交渉が難しい」と関与しないことを勧める。発覚したあと三浦公使が相談に修一郎を訪れ列国との交渉方法を尋ねた(大塚則鳴著「井上侯と齋藤修一郎翁」1910(明治43)年6月1日「日本及日本人」第534号所収)。

  ※この京城事件はあとしまつとしては朝鮮人を二人閔妃殺害下手人として自訴させ、裁判で死刑。逮捕された日本人は全員無罪釈放で表面的には決着させた。しかし修一郎が予想したとおりに結局尾を引き、1896(明治29)年2月に親露派クーデタが起き朝鮮国王はロシア公使館に移って政務を取り、反日義兵運動が各地で勃発。このため朝鮮政府はロシアの影響下に置かれ、小村を中心に勢力回復が図られ、5月に小村・ウェーバー覚書が調印され、6月にはペテルスブルグで山縣・ロバノフ協定が調印されて両国の勢力関係を決め、一応事態の収拾をはかるが、後の日露戦争に繋がる日露対立の発端となる。この京城事件のあとしまつをしたのは、弁理公使小村寿太郎と外務次官原敬。

  

 ※是清自伝の記述は、井上が韓国に渡った理由と修一郎の役割を示す格好の資料。しかし修一郎が実際に韓国でやったことは井上の意図するところとは反する行動である。当時ソウル駐在公使館書記官であった杉村の書いた「在韓苦心録」では、修一郎は井上排斥運動すらやったという。ここで修一郎は始めて「主人」たる井上馨に反旗を翻し、独自の行動を取った可能性はある。また京城事件の後始末をした二人は、彼の友人であり彼の引きで外務省に入った後輩。王妃暗殺事件の背景や経過を詳しく知っていた修一郎は、本当に三浦公使らが召喚され広島監獄に収監された明治28年10月17日に帰国しただけであったろうか。源太郎日記によれば、源太郎が帰国後の修一郎に始めてあったのは11月22日である。その一ヶ月間修一郎は何をしていたのか。情況を知る彼は政府要人に事情聴取されていたのでは。そして彼の職業は、武生郷友会誌によると、明治27年1月の農商務省退官直後の6月から明治29年1月にいたるまで職業に記載はない。その間の明治27年10月から28年10月までは確実に韓国政府内部顧問であった。では帰国後はどうしたのか。韓国でのあとしまつには関らなかったのだろうか。明治29年7月号では「中国鉄道株式会社取締役」となっている。

 

(6)  帝国党創設時代(中外商業新報社長・東京米穀取引所理事長時代)

 

  ●中外商業新報(後の日経新聞)社長:明治30年(1897)9月〜明治311210日まで。

  ●東京米穀取引所(現東京穀物商品取引所)理事長:明治31年(1898)9月〜明治33年まで。

 

          ※「日経新聞80年史」1956年刊によると

明治30年9月 中外商業新報の発行元・匿名組合商況社が合資会社商況社に改組。資本総額5万円。社員の内の齋藤修一郎(出資金3000円)が業務担当社員(社長)と   なって合資会社商況社を登記登録し、中外商業新報を発行する。しかし彼は新党結成に忙しく、しかも途中東京米穀取引所理事長となって社務に専念できず辞任。中外商業新報は1876(明治9)年に中外物価新報として三井物産の益田孝の肝いりで創刊。1889(明治22)年中外商業新報と改名。

 

  ※帝国党についてはほとんど研究書・研究論文がなく唯一村瀬信一著「帝国党ノート」(日本歴史1991年7月号掲載)が、その結成の経緯を考察し、この党は、「山縣の三党鼎立論の体現者としてその原点に位置する存在」と言えるのではないかとその性格を規定している。

  ※帝国党の政綱:国体擁護・国防充実・国権拡張・実業振作・交通機関整備・国民精神発揚・社会政策拡充・地方自治完備など八か条。1899(明治32)年75日−1905(明治38)年1223日】

  ◎修一郎がこの帝国党結成に関った理由は不明。

     彼の思想からすれば国体擁護を掲げる国粋主義者とは同調できない。

     ロシアとの対立を深める日本が軍備拡張に動こうとするのに対して民権派(旧自由党・旧改進党)は民間涵養を掲げて反対していたので、第3党の必要を感じたか。

     山縣有朋の秘書官は修一郎と開成学校同期の中山寛六郎(塩崎智「アメリカ『知日派』の起源」2001年刊)。

対ロシア戦略上から議会を軍備拡張に持っていく必要を考えて、旧自由党など民権派と組んで新党(立憲政友会)をつくり議会の多数派をとり、本格的な政党内閣を作って議会を操縦しようとした伊藤博文・井上馨とも袂をわかったか?

     ◎修一郎は帝国党結成のために多額の借金をする:三井銀行から20万円。その他高利貸しからも含めて総計30万円ほど(「大学学生遡源」27齋藤と高利貸)。

  ◎なお源太郎日記では、修一郎は1901(明治34)年1210日〜1902(明治35)年5月23日まで渡米(三度目の渡米)。茶業組合理事として茶の輸入関税撤廃交渉に当たった模様。

 

 ※山縣は旧自由党系(憲政党)・旧改進党系(憲政本党)の二つの民権派に対抗する第三極としての新政党が必要だと考えていた(三党鼎立論)。その第三極を期待されて結党されたのが帝国党であったが、直後に伊藤博文主導で旧自由党系を束ねた立憲政友会が出来ると帝国党にあった旧自由党系が分裂してしまったため、ごく少数に転落して期待に応えられなかった。この立憲政友会結党を支援していたのが井上馨であり、財界の渋沢栄一や三井もこれを押していた。修一郎が帝国党を国粋主義者である旧国民協会系(彼らこそ金時計事件をでっち上げて修一郎を退陣に追い込んだ張本人)を中心につくろうとしたということは、ここでも井上の意思に反して行動したことになる。また、源太郎日記での渡米の記録や茶業組合理事といい、後に(8)の外交論文のロシアに関するもののなかで、ロシアを忌み嫌う傾向(対露同士会を作った帝国党を指す)を批判していることからも、彼が帝国党に関った時期は、意外と短いのではないか。結党の意図など、基礎資料を掘り起こして検討する必要がある。

 

(7)  皇国殖民株式会社専務時代

 

  ●「皇国殖民株式会社専務」⇒訂正?「皇国殖民会社専務」

 

  ※有磯逸郎(横山源之助)著「我が移民会社」(『商工世界太平洋』第5(23) 明治391115日)などによると社名は「皇国殖民会社」。設立は明治3611。創立したのは齋藤修一郎と有馬組の森清右衛門、名古屋の森本善七、其の他平山靖彦、吉田弘蔵等。故に株式会社ではなく、合資会社か。しかも「業務担当社員(専務)」。明治3910月に齋藤修一郎が抜けて神奈川選出代議士の永島亀代司、及社員水野龍等が中心となる。

  ※この会社はハワイ移民を制限されて以後フィリピン移民で名を馳せたが、その過程で南米ブラジル移民を計画。1905(明治38)年に社員水野龍と専務齋藤修一郎がブラジル公使館を訪れて計画を持ちかけ賛同を得る(「水野龍「海外移民事業と私」」。第一回ブラジル移民は修一郎退社後の1908(明治41)年4月28日。業務担当社員水野龍の手によって実行されるも、同社は1万円もの負債を出し会社毎身売り。

  ※当時外務省は満州移民を進めており南米移民には冷淡(北進論・南進論の対立)

  ※これは日本の植民地政策の根本に関る問題である。

  ◎源太郎日記1904(明治37)年4月16日「齋藤来る。近日南洋に赴くという」。

 

 ※第一回ブラジル移民に際して外務省は、移民が保証金を積み立てることを条件に出港を許可すると通告。すでに神戸に集まり乗船していた移民たちにはこれは支払えず、やむなく皇国殖民会社が全額立替て無事出港。この保証金総額は1万円。およそ現在の価値で一億円か。第一回ブラジル移民はこうして実行されたが、この保証金を返済できずに、皇国殖民会社は倒産する。明治38年にブラジル移民を企画したのは、駐ブラジル公使の杉村濬がブラジル政府と合意したから。しかし外務省は消極的で、明治381210日に外務省を訪れた水野龍に対して、通商局長石井菊次郎は移民実行に同意を与えなかった(水野龍「海外移民事業と私」)と。外務省主流は北進論だったのだ。

 

(8)  言論活動を通じた外交への積極的な関与−明治31年から明治43年の間の雑誌投稿論文と翻訳書−

 

  帝国党創立の時期以後、齋藤修一郎の外交に関る論文が散見され、翻訳書も出版(内容は資料5を参照)。積極的に外交課題に発言している。

掲載された雑誌は、明確な主義主張を掲げずに比較的中立的立場で国民各層に問題提起することを目的に1895(明治28)年1月1日創刊の総合雑誌「太陽」と、国粋主義を掲げた三宅雪嶺が1888(明治21)年に創刊した「日本人」を後に1907(明治40)年に改題した「日本及日本人」。

 

言論活動による外交への積極的関与(明治31年以後) 【資料5】

 ○ 「外交論」(雑誌太陽:1898・明治31年12月5日 第4巻24号掲載)

 要旨
 ・国際法なければ外交の妙味なし。国際法は権利の保全を渇望する弱者の苦呷の反響なり。
 ・外交の妙味の実例として1977年の露土戦争にいたるバルカン半島情勢と露土戦争とその後の外交交渉におけるロシアとイギリスの動きに注目。
 ・近時我が国に対する欧米列国の外交中最も巧妙を極めたるが如くして却って拙劣なのはロシア・ドイツ・フランスの遼東還付の提議。最も清廉を示したるが如くにして却って巧妙を極めたるものは米国政府の申し込みに掛かる赤間が関事件損害賠償金の返付なり。
・これによって日本国民は米国を無二の知友となす。

○ 「北米太平洋岸と日本人」(雑誌太陽:1902・明治35年5月5日 第8巻5号掲載)(略)
○ 「米国商工大勢論」(博文館 1902・明治35年8月1日発行)【翻訳書】

【訳者緒言】  
 訳者15年ぶりに偶々米国に漫遊し、その15年間の著しき殖産興業および貿易の進歩を目撃し、その国家全般と個人とが蓄有する巨大なる富を認め、またその殖産興業と貿易と富とが日に月にますます増進して際限なく。従ってこの国の勢力がすでに業に世界の巨大国たるに至り、英も独も露も仏も争うてこの国の友情と歓心とを求むるに汲々たる有様を観察し、実に今日の戦争は兵隊と弾薬とにあらずして富なり資本なりとの金言をなお一層悟るに至れり。  
 米国のかかる繁盛なる有様を我が同胞に報道して一つは我が国殖産興業上啓発の資料とし、又一つは米国との交際軽んずべからざることを勧告せんを希望せしが、偶々米国前大蔵次官ブァンダーリップ氏著米国商業の欧州侵略と題する論文を閲読し、その米国殖産興業上の近年の進歩を述ぶること頗る詳悉にして訳者凡庸の眼凡庸の筆の遙かに及ぶべからざるを知り、著者の承諾を得て今これを翻訳してその利益を楽しみとを我が同胞に分たんと欲す。こいねがわくは我が同胞徒に形式上の文明をてらうことなく同盟約束の文面に安んずることなく奮って殖産興業の実力を養成することを勉めんことを。余が不文或いは著者の深意を尽さざる所あらば幸いにこれを恕せよ。

○ 「世界的強国としての独逸」(雑誌太陽:1903・明治36年2月1日 第9巻2号掲載)(略)
○ 「独逸皇帝の人物」(雑誌太陽:1903・明治36年7月1日 第9巻8号掲載)(略)
○ 「露国の半面観」(雑誌太陽:1903・明治36年11月1日 第9巻13号掲載)(略)
○ 「戦争の価値」(雑誌太陽:1904・明治37年4月1日 第10巻5号掲載)(略)
○ 「いろは文庫の英訳」(雑誌日本及日本人第524号1910・明治43年1月1日掲載)(略)

○ 「米国の侵略的径路」(雑誌日本及日本人第530号1910・明治43年4月1日掲載)

 要旨
 ・建国以来の領土拡張の歴史を顧みれば、「彼の米国人たる者、決して温良平和の民に非ずして、覇気宇内を圧し、自家独特の勇邁進取の気風を臨機に発揚する底の、危険極まる列国的分子たるをするに足らん」。「エッチ・アデングトン・ブルースなる記者は、米国紐育市において発行する週間雑誌「アウトルック」誌上において米国の侵略的野心の歴史を露骨に且つ忌憚なく章を重ねる数回い掲載せり。いみじくも現代の日本国民たるもの、この一篇を読みて、且つ西米戦争以後の米国の列国的活動、帝国主義の発揮、さてはルーズベルト式人気の勃興に鑑みば、坐ろに戦慄せざるものはあらざるべし」。「満州鉄道中立案提議、日本人排斥案は下院の委員会を通過。(このような事態を前にしては)小村外相と大石正巳の問答の如きは、未だもって対米策、対米出稼ぎ案の審理を極めたるものにあらざること、桑港街頭を逍遥する10歳の鼻たらしの日本小僧にてもよくこれを断言しうべし」。「我が国の外交、由来米国を眼中に置かざりき、これ対米策の振るわざる所以なり。換言せば我が国一般の人士はペルリー提督来航の真相を了解せずして、徒に日米両国歴史的親和なるものをうたいて、依って以って日米両国間の権衡利害を保持せんとす。ああ、ここに至って対米外交なし」。     
 ・この稿、余が現に起草中なる「最近米国観」の一章なり。今時事に切なるを思い、これを抜摘して特に「日本及日本人」に投ず。

 

 「外交論」に見る修一郎のアメリカ観に注目。アメリカは親日派であることを一貫して演じていると見ている(露土戦争におけるイギリスの親トルコ的言動の裏に隠されたロシアの南進を封じる意図とあわよくばバルカンに自己の拠点を作ろうと意図したことを参考にしている。露土戦争は、修一郎がボストン在学中の出来事)。「商工大勢論」でのアメリカ観も出色。ヨーロッパの強国がすでにアメリカの顔色を伺っている現状の背景にある世界を凌ぐアメリカの国力に注目。「アメリカとの交際軽んずべからず」とは、今後はアメリカの同意なくして日本の外交政策・植民地政策はありえないとの警告。1902(明治35)年時点ですでに、後の日米戦争を想定か? これは日露戦争当時、ルーズベルトが将来の日米戦争を想定していたことと同じ。「米国の侵略的径路」は、時の政府が、満州をアメリカの中立化案に逆らってでも日本の植民地にしようとする政策を正面から批判したもの。ここでアメリカの国際的性格が、1898(明治31)年4月〜8月の米西戦争で変わったことを指摘した点は重要(すでに「世界的強国としての独逸」でも指摘)。アメリカはキューバ革命を危ぶみ独立戦争に介入してスペインと戦い、フィリピンとキューバを事実上の植民地とし、戦争中に併合したハワイとあわせて、一大殖民帝国に変貌。修一郎はこの事実を指摘している。だからこの際に、アメリカは親日国であるという誤った認識がその背景にあることを批判し、それは「仮面だ」と指摘した。「商工大勢論」と「米国の侵略的径路」のアメリカ観と日本外交論は、大正時代の原敬のそれと全く同じ。

 

 ※「いろは文庫の英訳」−「忠義浪人」を読んだルーズベルトが日露講和に動いたという話は「伝説」であることを示す資料。修一郎は、「忠義浪人」をルーズベルトが読んだからと小村寿太郎に話した話は知らず、最近「ルーズベルトが同じ内容を津田梅子に話した」という新聞を見たと証言。小村の親友の修一郎が知らないはずがない。伝説は明治43年以後に作られたか?

 

(9)  「懐旧談」を語った日時・場所と出版関係

 

  ●1907(明治40)年10月アメリカに渡る⇒訂正 1908(明治41)年3月4日(源太郎日記)

  ●1908(明治41)年自伝「懐旧談」をサンフランシスコで口述筆記⇒訂正1907(明治40)年10月以前に自宅にて「懐旧談」を口述筆記。出版は1908(明治41)年12月サンフランシスコ 青木大成堂から。

 

   ※松本源太郎「懐旧談を読む」に、

てかつて修一郎より懐旧談中の漢詩と漢文の序文の添削を頼まれたさいに添付された紙に「明治4010月−海外渡航の期迫るに当り、児輩に留別する懐旧談(即是談笑陳人一代記也)。大阪新報速記者 松田勝太郎君、愛宕秀敏君速記。荒木鉄三君校正加筆」とあった旨が記される(大正6年7月刊武生郷友会誌第39号)

 

  ※アメリカから戻ったのは1909(明治42)年1026日(源太郎日記)。

  ※四度目の渡米の目的は不明。「大学学生遡源」の23「復活せんとする齋藤」に「自分も先生(杉浦重剛)のようなことをやってみたいと思い、まづ物質的資料を得るの目的をもって先年米国に渡れり。而も事業未だその緒に就くにも及ばずして帰朝せるが、遠からず再び渡米して素志の貫徹に勉る考えなり」との明治4212月4日の小石川久方町の杉浦宅での第27回称好塾記念会での修一郎の発言を伝える。

    

    ※称好塾での発言−つまり「育英事業を起こそうということ」と「大学学生遡源」は証言。懐旧談41にも同様な記述があるので、或いはこれが渡米の目的か?

 

  ※四度目の渡米の折にはすでに破産していたことは確実。修一郎渡米直後の明治42年3月26日には「留守宅財政委員会」 の開催結果が松本源太郎によって齋藤家に伝えられる。後の資料(藤田四郎らの原敬宛明治43年5月31日手紙・原敬関係文書第3巻)では委員会が留守家族に月100円の拠出金を出すことを決定。また渡米中の明治42年7月19日に次女亨が再婚するが、結婚費用800円は親族・知人・友人の拠出金で賄う(「松本源太郎日記」による)。

 

 ※報告のあとの質疑の中で松蔭大学の田中氏より、「次官のような高等官を退職した人には多額の一時金があり、さらに年金もあったはず。したがって破産するはずはない」との指摘あり。勲3等の勲位にも多額の一時金はあったと思うが、こうした一時金や年金の詳細はまだ不明。しかし破産したのは事実。22万円。現在の金額で言えば22億円の借金を背負ってしまった。これではどれほどの一時金や年金があっても返済不可能であろう。分っている所では男爵に与えられる一時金でも1万円に過ぎない。破産したからこそ、友人知人が多数集まって多額の基金をなし、留守家族に月100円支給することにしたわけ。当時修一郎が持っていた財産、この中には一時金も入っていただろうし、年金も取り崩して借金返済にあてたことも想像できる。この時の 集められた基金総額は次の死去時の基金残額から算定すると、8500円ほどか。

 

10)齋藤修一郎の死去

 

  ●1910(明治43)年5月7日死去⇒訂正 5月6日死去 住所:麻布区笄町38 

 

  ※源太郎日記明治43年5月6日によれば死亡時刻は午前1時25分。それが7日死亡と伝えられた理由は、5月7日付けで、爵位頭侯爵久我通久名で、従4位勲3等齋藤修一郎に対して、正4位を宣下するとの通知あり。このため死亡通知および葬儀通知書の日付が5月7日になった。

 

 ※修一郎死去の原因−大塚則鳴の証言では「急性肺炎」。武生市史の証言では「腎臓病」。

 

  ※修一郎四男の吉備彦家には、修一郎に対して男爵との話があったが断ったとの話が伝わる。授爵の条件には、「十年以上勅任官の職にあって功労顕著、もしくは6年以上その職にあって特に録すべき功績のあるもの」とある。修一郎は6年以上にあたる。しかも西麻布長谷寺の彼の墓石は「齋藤修一郎の墓」としか彫らず、正4位勲3等は明記されない。

 

 ※正4位も勲3等もともに、男爵相当の位階勲位である。修一郎の墓石−氏名のみは原敬と同じ。彼の華族観を示すか? 昔はかなり大きな墓所で、石で垣根・門柱を築き門扉を備え、大きな燈篭もあった。

 

     修一郎死後の財政委員会報告では、拠出金残高+香典で総額7065円。明治43年6月以後は毎月70円を遺族に拠出し、未成年の子供たちの多くは親族が養育することになる(4女貞⇒3女利の夫均が養育。5女良子⇒長女元の夫河西信と3女利の夫松本均が養育。3男吉備彦⇒親族土肥慶蔵が養育。5男順吾⇒親族瀬尾嵐が養子の目的で養育。修一郎母フミ⇒異父弟青山信太郎・異父妹婿坂本ト五郎が引きうけ。妻キクの元に残ったのは長男惟馨・次男周二と6女桂子のみ。 藤田四郎らの原敬宛明治43年5月31日手紙・原敬関係文書第3巻)

 

2:「懐旧談」の資料批判

 

 ◎懐旧談が語り終えられた明治4010月とはどのような時期か?(資料6参照)

「懐旧談」の資料批判                 【資料6】

◎齋藤修一郎の破産の原因

○「大学学生遡源」の証言(橋本南漁著:明治43年5月日報社刊)

  ・予は齋藤が外務省を去った事が、何故彼が落魄の原因であるかを解するに苦しむ。齋藤が条約改正問題に関して決死的奮闘をなしたことが、彼をして政治的致命傷を負わしめた原因であるとすれば、彼は農商務省に入って、秘書官より商工局長に、商工局長から次官に、かく段々昇任することは出来なかった筈である。   (中略)又一部の人士は彼が晩年の落魄を以って其の因、金時計事件にありとしている。(中略)固よりこの事件が彼の運命を左右する程の重大の力ありとするのは間違いである。其の証拠には彼は此後と雖も東京米穀取引所の理事長となり、日本人造肥料会社の取締役会長となり、兎も角も上流紳士的生活を営んだではないか。然らば彼が晩年の落魄を誘致したる真因如何。(以上「26:金時計事件」)

 ・ 齋藤が晩年の落魄は、その原因、彼が高利貸と縁を結ぶに至ったことにある。(以下帝国党結党に関しておよそ30万円借金をし、それが膨らんだ結果だと述べる)(以上「27:齋藤と高利貸」)

○土肥慶蔵の証言(「私と齋藤先生」:大正14年武生郷友会誌第47号)

 ・先生は全く親分肌の人でありました。政党関係から財産差押への悲境に陥いられたのも、多くは子分たちの尻ぬぐいからである。当時先生と事を共にした新政党の創立者は荒川邦蔵氏と佐々友房氏であったと記憶します。而も失敗の全責任を負われたのは先生独りであって、誠に御気毒に存じました。

 ○蚤坊の証言(「齋藤修一郎先生を憶ふ」:大正14年武生郷友会誌第47号)

 ・折から佐々友房氏と共に帝国党を組織し、宗教法案で成功されたが、大借金を背負込み、当時の金で22万円、今の相場なら2・300万円、一方退官当時より井上伯からは色々の事情で白眼められ。恰も活動の差押。家政は借金の為め毎日家財の差押。而も当人は正直者で、意気者で、封建気質の悲さに老伯の旧恩を思い、徒に老伯百年の後を待ちつつ落魄中に病を得て遷化された。(大正14年1月21日 於ニューカレドニア)

 ◎破産の時期の特定  

※「蚤坊」とは誰か:

 修一郎叔父の大雲蘭渓を「祖父」と呼ぶ。修一郎邸に書生として住む時満鉄の試験を受け、その後満鉄社員として鉱山関係に従事。その後増田屋で鉱山関係に勤務。大正14年にニューカレドニアに居た武生郷友会員  ※「蚤坊」とは⇒この全ての条件を満たすのは、瀬尾昭 ただ一人。

※瀬尾昭が修一郎と同居していた年次:  

 @明治33年 「東京には明治33年に出てきました。明治学院に入ったのですが、齋藤の家から通ったのです」(昭和32年7月2日 武生郷友会の昔を語る座談会にての発言)   
 A明治40年 「豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿104番地齋藤方」(武生郷友会誌第28号:明治40年6月刊:会員住所録):明治40年12月の第29号住所では、すでに満鉄勤務 清国大連在住。  

※「齋藤先生を憶ふ」に書いた「毎日家財差押」の時期は明治33年か40年か?

◎松本源太郎日記の証言

 ・明治33年5月11日:午後1時(文部省を)去って齋藤高樹町宅に到る。休みて雑話。宅内を見る。4時去りて帰る。⇒この直後に修一郎は転居(高樹町8→青山原宿【郷友会誌第21号明治33年12月】  
 ・明治38年2月14日:午前荒木至る。齋藤の事なり。  
 ・明治38年2月16日:栗塚・三岡山・島田齋藤の事を議する。  
 ・明治38年2月17日:山口憲に電話。齋藤の事に関してなり。午後山口至る。齋藤家の事を説く。  
 ・明治38年2月23日:齋藤を訪れる。始めて処身の事を○。

 【考察】  

 ・明治32年の帝国党結成に関る30万の借金−家(高樹町の本宅・赤坂仲ノ之町18番と赤坂氷川町の別宅)を売って返却か?   
 ・他人の借金22万円が降りかかった(保証人であったため)のは、明治38年2月。以後金策に奔走したのでは? 38年中にはブラジル移民に皇国殖民会社専務として奔走。しかし専務としての給与も差し押さえられて、明治39年9月には退社。明治39年12月〜40年6月の間に3年間住んだ青山北町4丁目105番から転居。この時期が最終的に破産した時期か? 明治40年10月は懐旧談を語り終えた時期。

 

 ※多額の借金により破産し、家屋敷も売り払われ、借家暮らしとなる。しかも生活費はなく、友人知人に無心して嫌がられる毎日。それでも借金取りが家に押しかけ金目のものを差し押さえる。このため以後借家を転々とする。

 

 ※家伝では他人の借金に保証人の判を押した故と伝わる。30万が自身の借金。22万が他人の借金。高樹町の邸宅は800坪ほど。仲ノ町のものも同規模の旗本屋敷。氷川町のものは47番地なら同規模の旗本屋敷。51番地なら数千坪の大名屋敷。借金返済に失敗したのは井上が援助を拒んだためか。数々の政治的反抗故。一回目の反抗−朝鮮政策。これが京城事件を招く。二回目の反抗−帝国党結成。三回目の可能性−明治38年ポーツマス条約締結直後、日本政府はアメリカ鉄道王ハリマンと満州鉄道共同開発案を合意・仮調印。この動きを進めたのは元老たちで中心は井上。理由は戦費が嵩み独自開発は財源はなく苦しい。これを潰したのが小村寿太郎。他にアメリカから借款を得ていることを理由に日本単独でと桂太郎首相を説得して元老たちも個々に説得してつぶす。元老に智恵を授けたのが井上の腹心の修一郎では? これは反抗というより井上の面子を潰した事件。帝国党の時には三井銀行が齋藤を支援。井上は三井の顧問であるから井上が承認したということ。しかし明治38年以後は情況が変化。これが多額の借金に苦しむ齋藤を井上が支援しなかった理由では。修一郎は井上との対立は「天下の公事なり」と言っている(大塚の証言)。徳富蘇峰もしきりに井上が見捨てたわけではないと言い、瀬尾昭(蚤坊)も井上から白眼視されたことが原因という。大学学生遡源でも蘇峰と同様井上が見捨てたのではなく修一郎が離れたという。齋藤の破産の原因はここにあるか?

 

 ※この明治4010月当時、修一郎の友人で彼が推薦して外務省に入ったものたちは、非常に出世して今や大日本帝国の舵取り役(小村寿太郎:外務大臣⇒駐英大使⇒41年7月外務大臣に復帰。原敬:外務次官⇒政友会に入り総務委員⇒明治39年西園寺内閣で内務大臣)。

 ※外務省を去らなければ、これは自分がついていた地位との忸怩たる思い。

 

 ◎これが懐旧談を語った当時の修一郎の状態と思い。従って一代記なのに外務省退官で終っている理由であると推定できる。

 

3:修一郎研究今後の課題(口述)

 

@     各時代の資料収集と彼の活動の意味の考察

 

 ※それぞれの時代の資料を丁寧に収集し、その時期の修一郎の活動や考えたことを復元する必要あり。とりわけ留学中の彼の手紙か日記はないのか? 留学中の彼の見聞を推測できる資料は? 懐旧談によると修一郎は明治13年の帰国時には、新聞社を起こそうと考えていたという。アメリカ留学中に世論形成に新聞社などが大きな役割を果たしていたからだと述べている。しかし若造に金を出してくれる人がおらず、空しく新橋柳橋で遊んだと。そして官費留学生は役人にならねばならないと判明するや、外交ならまだやりがいがあるとこれを選んだ。この新聞や外交に注目した理由は何か。一つのヒントは19歳の折の英文の自伝が示す世界認識の拡大の問題があると思うが、もう一つはアメリカに五年間滞在した中で何を見聞きしたかだ。とりわけこの時期の外交的課題として興味深いのは、露土戦争とその処理のために行われたベルリンン会議である。トルコからの独立を求めて戦うバルカン半島のスラブ系住民を助けてトルコとの戦争を行って勝ったロシア。しかしロシアの力が強くなり黒海沿岸から地中海にまで勢力を伸ばすことを恐れたイギリスなどが介入。結局ベルリン条約でスラブ系住民のトルコからの独立は認められなかった。とりわけロシアが南下することを恐れたイギリスの外交の勝利であった。一兵も動かさずに外交的勝利を博す。これをボストンで見ていた修一郎は何を考えただろうか。開成学校で彼の1年下で一年遅れてイギリスに留学した桜井錠二はその自伝の中で、ロンドン在学中もっとも記憶に残った出来事としてこのロンドン会議を挙げている。ロンドンでは新聞がこれを毎日詳しく報道したのであろう。ではボストンで日刊新聞と週間の評論誌(ネーションだという)を読んでいた修一郎は、この出来事をどう見たのか。外交の真髄と恐ろしさを示したこの事件とそれを報道して国論を作っていくマスメディアの動き。どちらも後に修一郎が、新聞社を起こそうとしたり、外交官になったりした背景として十分に可能性がある。この時代の彼の見聞と見解を示す資料はないのか? 今のところ日記は見当たらない。可能性は書簡。では誰に宛てた書簡があるだろうか。武生の中村家にいた母フミであろうか。また武生にあって彼の叔父の大雲が獄死したあと学費を引き受けてくれた高木の叔母か。それとも彼の父親違いの弟や妹であろうか。こうした人たちの下に、この時代の修一郎の手紙があれば、とても興味深いことが発見されるに違いない。

 

A     とりわけ晩年の世界認識・外交感覚が同時代においてどの位置にあったかの考察

 

 ※先にみた外交論文に示された彼のアメリカ観はとても卓越したものである。明治35年から43年の時期に、20世紀がアメリカの世紀であることを予感していたものがどれだけ日本にいたのか。まして修一郎は、後の日米戦争すら予見していた可能性がある。この彼の世界認識や外交感覚が、同時代の人たちの中でどの程度の位置をしめていたのかを調べることは重要である。

 

 B 優れた感覚の基盤:幼少からの歴史学習・洋学学習・留学中の見聞など

  

  ※修一郎の世界認識や米国観はかなり優れたもので先見性あり。この背景には、彼が洋学を学んできたというだけではなく、もっと別の要素があるのでは。彼の論は常に博学な歴史認識を背景としている。常に歴史を振り返って、問題としている事項や国の性格を歴史的に論じている。また時事的情報にも詳しい。この姿勢の背景はいかに?

        ・元々彼は漢学を修め、中国の歴史書には深くなじむ。

        ・沼津、東京で何を学んだのか−とりわけ英語でどんな歴史を学んだのか?

        ・英文自伝では、東京で西欧の学を学んで世界観が変わったと証言している。

        ・同時期に書かれた作文に、中国・日本の歴史書と西欧の歴史書の叙述の違いを論じた英作文あり。

 ・5年間のアメリカ留学で何を学び何を見たのか?

   −懐旧談:紐育刊行の毎週新聞・ニューヨークネーションという雑誌を愛読。

 

    ・帰国後彼は、どのような情報を得ていたのか?

        −英字新聞や雑誌を取り寄せていたのではないのか?

        −源太郎は日記によると丸善から毎月新刊書のリストを取り寄せその中で読みたいものを取り寄せてもらっている。修一郎も同様では?


 

  ※7月3日の報告資料とレジュメを元に、口頭で補足したことや時間切れで補足出来なかったことを加えて半ば文章化した。本報告は「留学生齋藤修一郎」研究の第一弾。今後順次報告していきたい。(2010年7月19日記す)


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