もう一つの『日本の禍機』:大塚善太郎『日米外交論』

1910年、相模屋書店

齋藤修一郎「最近米国観」の発見

 

2012年11月17日朝河貫一研究会第94回研究会

川瀬 健一


 

 

はじめに:本報告の概要

 

2011年11月19日の第91回研究会において、「朝河貫一の日本外交批判論の限界−齋藤修一郎日本外交批判論の検討を通じて」を報告した際に、齋藤が、雑誌日本及日本人第5301910・明治43年4月1日に発表した「米国の侵略的径路」において、この小論は、いま準備中の「最近米国観」の梗概だと述べて、新著の公刊を予告していたことを紹介した。

この齋藤の遺作ともいうべき「最近米国観」とおぼしき本が、齋藤が死去した直後(死去したのは5月6日)の、1910(明治43)年5月26日に出版されていたことを発見した。

これが、大塚善太郎著の『日米外交論』(相模屋書店刊)である。

本の名前が変えられ、著者も別人になっているが、あとで述べる理由により、これは齋藤が予告していた本に間違いないと考える。

今回の報告は、朝河貫一がするどく日本外交の「裏切り」を指弾して、このままでは日米衝突にも行きかねない危機にあることを警告した名著『日本の禍機』が出版されて約1年後に出版された本書が、朝河の危機感をも共有して日本外交のありかたを厳しく批判しながらも、朝河とは違った論点からその批判を行っていること、そしてこの『日米外交論』の立論の方が、朝河の著書よりも当時の政治家や外交家に大きな影響を与えた可能性があることを報告する。

 

著者大塚善太郎の経歴

 

 大塚善太郎の経歴の詳細は不明であるが、この本の卜部の序と、大塚の著書『非社会主義』(東京堂書店明治44年4月刊の第三版)と、さらに大塚則鳴著「井上侯と齋藤修一郎翁」1910(明治43)年6月1日「日本及日本人」第534号所収)の論文によれば、彼は若いときに弁護士の卜部の家に寄宿して法律を勉強していたが挫折し、アメリカに渡ってカリフォルニアの日本語新聞「桑港新聞」の記者となり、「加州移民論」を「日本及日本人」第463号(明治40年7月15日)に寄せている。また当地の日本人社会主義者と激しい論争となって住居に踏み込まれて格闘となり九死に一生を得た。この際に彼を助けたのが齋藤修一郎であり、これを契機に齋藤の知己となり、彼の『懐旧談』を筆写したり、『懐旧談』では語らなかったことについて詳しい話を聞いた模様。その成果の一つが「井上侯と齋藤修一郎翁」の論文であり、さらに「懐旧談拾遺」を「愛国主義」141518192122号(1912・大正2年刊)に「齋藤先生言行録」を「愛国主義」23号付録(1913・大正3年刊)に掲載している。なおこの「愛国主義」という雑誌は彼の主宰になるようで、忠君愛国だけでは健全な国家はできず、社会の矛盾を直視して改良に務める真の保守主義とでも言うべき立場に立てというもののようである。

(資料1の岸上克己著「埼玉壱百人」(1917年埼玉通信社刊)の大塚の項を参照のこと)

 

 

 

 

1:「日米外交論」の書誌情報・所蔵情報

 

 現在この本を所蔵しているのは以下の6館である。

1:国立国会図書館

2:九州大学 附属図書館

3:京都大学 経済学部 図書室

4:東京大学 駒場図書館アメリカ太平洋地域研究センター図書室

5:東京大学総合図書館

6:福岡県立図書館

 このうちの国立国会図書館所蔵のものを、近代デジタルライブラリーからダウンロードした。

 

ちなみに朝河貫一著『日本之禍機』(1909年実業之日本社刊)の所蔵は11

1:国立国会図書館

2:愛媛県立図書館

3:東京都中央図書館

4:石川県立図書館

5:福岡県立図書館

6:拓殖大学図書館

7:小樽商科大学付属図書館

8:成蹊大学図書館

9:神奈川大学図書館

10:大阪市立大学学術総合センター

11:神戸大学付属図書館社会科学系図書館

 国立国会図書館のサイトでの本書の書誌情報は以下のとおり。

タイトル 日米外交論

タイトルよみ ニチベイ ガイコウロン

責任表示 大塚善太郎著

出版事項 東京:相模屋書店,明43.5

形態 177p;19cm

NDC分類 319

著者標目 大塚,善太郎

著者標目よみ オオツカ,ゼンタロウ

全国書誌番号 40021425

請求記号 YDM29566

西暦年 1910

 

2:「日米外交論」の構成と性格

 

 まず『日米外交論』の構成を見てみよう(資料2:序と目次を参照)

 

緒論:

  7ページと短いものだが、著者がこの本を公刊した目的が書かれている。

 「我が帝国政府は、王政復古維新後40有3年の今日、依然たる外交秘密主義を墨守し、国民をして外交の枢機に参与せしむるあらず、既に立憲の制を施き、既に言論の自由を認めながら、尚ほ爾かく外交秘密主義を墨守せる結果、国民の外交に関する言論・・・機宣を失し、時勢に後れ、果ては天下の物笑いとなるを免れず。」(p4)

 「熟ら国家興亡の跡を見るに、軍国より奢侈刻に移るの時に於いて其の国亡ぶ。今や我国民は既に軍国時代を過ぎて外交の時代に入れり。しかも外交の敵は清にあらず英仏独露にあらずして、其の富世界に冠たる米国にあり、・・・奢侈贅沢の争いを為すに汲々たらば、2500年来の国体を奈何んせん。是れ吾人の大に憂惧措く能はざるところ也。」(p7−8)

 

1章日本の国勢:

  全22ページの短い章であるが、日本を巡る世界の大勢を説いている。

第一節極東における日本国民の天職 全8ページ

 日本の天職は「極東のことを荷うて立つの責任これなり」(p9)として、この観点から明治外交史を三つの時期にわけて時代とそこでの日本の立場を説く。

 第一期:維新より日清戦争まで。欧米の侵略に対抗するため、朝鮮を独立国として保ち、これを永久的中立国としようとした。しかし国民は外交に関心をもたず、代議政治を採用せよとの域に止まる。

 第二期:日清戦争から日露戦争まで。朝鮮を中立国として安全を保とうとする消極策から転じて、積極策に出、ロシアが南下して朝鮮を併呑するのを防ごうとした。この結果が日露戦争。

 第三期:ポーツマス条約締結から今日まで。ポーツマス条約と、それに続く満州に関する日清条約によって日本は満州に鉄道などの利権を得、同時に朝鮮をその勢力圏として認められ、日本の保護国とした。

 「ここにおいてや日本の天職は極東の安危を一国に荷ひ毅然として列強の間に介立するにあり」(p16

 

第二節欧米外交の新時代 全7ページ

 欧州では、露仏同盟につづいて英露協商がなり、三国は連携してドイツを牽制し、その勢力は独を中心とする独墺伊の三国同盟より優勢。そして日本は英国と同盟を結んでいる。今後その動きが不安なのはドイツである。

「果然独逸外交政策は近来とみに一変し、汲々として米国の歓心を買い、これを扇動して極東問題に容喙せしめ、一方においては日本の勢力を殺ぐと同時に、他方においては欧州大陸の覇たらんとす。欧州列強外交の新時代は右のごとし。知らず日本国民のこれに対する覚悟如何。」(p1819

日英同盟においてすでに英国は韓国における日本の優先圏を認めていた。ロシアは南下を中止し北満州の経営に専心している。ロシアは未来の敵にはあらず。ドイツのみ米国を教唆してその日本に対する感情を害せしめ、あるいは米独協商すでに成立すと説く。

「ここにおいて今後短くとも十数年間は、日本の外交は対米国問題において複雑紛糾を極るや必然なり。聞くところによれば米国の雑誌『アウトルック』の所有者アボット氏は、博士高峯譲吉の晩餐会において日米の親密にせざるべからざるを説き、終に日英米三国の同盟せざるべからざる事に論及せりという。しかるや。はたしてしかるや。由来米国民の大多数は外交上の辞令に巧みなり。我等日本国民が米国民のために事を誤りしは、その例に乏しからず。今や彼等の巧言令色を信用し、外交上の楽天観をなすべきの時代にあらず。吾人はすべからく百年の後を洞察して彼等に対するの長計を定めんと要す」(p2223

 

第三節黄禍論と近時の外交 全7ページ

 日本が欧米にいかに対していくかを論じ、日米戦争論が黄禍論によるものと延べ、しかしこれは日本の実力を買いかぶったものだと断じる。

 日本がアジアのことはアジアにと白禍論に基づいて清国における租借地に関して欧米の勢力を殺ぐという考えがあるが、「日本の現時の実力はすでに朝鮮の保護と満州の経営とにおいて負荷し難きほどの重みを感ず。・・・・日本はアジアをあげて起つの勇気あらず空しく米国の提議したりし機会均等主義に甘んぜざるべからざるの今日」(p2829

 

第二章:米国外交の過去及現在: 44ページ この本の中心をなす論

第一節米国外交の三遷 17ページ

 米国外交史を三つの時期にわけてその性格を論じる。

第一期:独立戦争の時期からモンロー主義発表まで

 フランスやイギリスとの戦争の危機を、たくみな外交で切り抜けた時期。

第二期:モンロー主義の時代

 アメリカ大陸への欧州の移民をゆるさず、合衆国は欧州の政治に干渉せず、欧州諸国はアメリカ大陸に向かってその政治主義を拡張せず の三原則をかかげ、北米における領土拡張に専心した時代。

 第三期:帝国主義を赤裸々に露呈した時代

  マッキンレーとクリーブランドの時代。米西戦争に勝利してキューバ、ポートリコ、グアムおよびフィリピン群島を手に入れ、さらにハワイまで併合した。そしてこの行動をモンロー主義に反せずと説く米国の外交辞令のしたたかさを説く。

 

  第二節米国領土拡張史: 全10ページ

    米国の領土拡張の歴史を顧みて、そこから米国外交のありかたを俯瞰する。そして次のように結論する。

   「米国の外交は第一に、領土拡張の事業が常に政府の力によりて成功せらるるよりはむしろ、国民の独立心によりて遂行せらるるを見る。・・・米国の外交は真に国民の外交なり。国民の輿論と国民の後援とあるにあらざれば条約を締結する能はず。・・・第二、米国の外交は大胆にして条理不条理を度外視す。メキシコ戦争のごとき西米戦争のごとき、その横暴のはなはだしき、第三国民をして黙視に忍びざらしむるものあり。・・・第三、米国領土の拡張は固有の13州より始まり、アレガニイ山脈を越え、それよりロッキイ山脈を越え南方に膨張すると共に北の方オレゴンアラスカに及び、さらにシェラネバダ山脈を越えてカリフォルニア・ニユーメキシコを征し、西米戦争の結果としてフィリピンを併せ、また別にハワイを併呑す。その進むところの方向は西へ西へというにあり。西へ西への終局点は東なり。

米人の清国における、虎視眈々として必ず一臠を味はんと欲す。これ実に最近の傾向たり。その原因は何ぞや。曰く、日本が日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ちて、一躍強国の列に入りたるを視て、彼れ其の西米戦争に勝ちたるの功を奪われたるが如き心地をなし、顧みて国庫を見れば歳入歳出は優に余裕あり。脈々たる国家的虚栄心は止まんと欲して止む能わず。数年前極東問題に対しては超然主義を取りたるにも拘らず、最近においては軍艦を増し、軍港を築き、剣を磨き銃を整え、一旦事在ればすなわち起たんとするの勢いを示す。それ極東において野心を達せんとす。直ちにその妨害となるは日本なり」(p5456

 

  第三節東亜に於ける米国の勢力:17ページ 満州をめぐる現在の日米対立を論じる

   ルーズベルト時代には「世界の巡査」として少なくとも極東の地においてはこの立場でうごいていたが、タフト政権となって東亜に対する態度は変調を帯びている。

  1:クレーン事件(新任駐日公使のクレーンが米国政府は満州について日本に抗議しようと準備していると記者に話し、着任前に解任された事件)

  2:ノックス国務長官の満州鉄道列国共同経営の提案

  3:ノックス国務長官の清国によるあらたな満州鉄道建設への列国共同出資の提案

   これらはみなヘイ国務長官の「機会均等」「清国の領土保全」の原則に沿った提案ではあるが、最初から列国(特に日本とロシア)に拒否される提案をする真意はどこにあるか?

   「米国野心のあるところは、今後漸次に露呈せらる可く。経済上より政治外交上に進み、政治外交上より軍事上に進む可きこと、彼れその領土拡張史に徴し、燭照数計して亀卜するよりも明らかなり」(p72

   「米国政府の主たる目的とするところは、まず日本外交家の気膽を奪い、次に自国国民の対日本感情を激昂せしむるにはあらざるか」(p73 1910.1.24義士研究会での著者の発言)

 

第3章:日米衝突の焦点 全49ページ

 

 第一節総論:18ぺージ

  「彼の日米戦争論の如きは、実に米人、しかも学識ある紳士の口よりまず発せられたるものにして、断じて我日本人の口にせざりしなり」(p74

    つまり日本は満州経営に忙殺され、フォリピンを攻めるにも太平洋を東に越えて米国加州を攻めるの余裕はない。

(ここの「日米戦争論」とは:HOMER  LEA著「THE VALOR OF  IGNORANCE190910HARPER & BROTHERS PUBLISHERS刊 を指していると思われる。邦訳はこの年のうちに望月小太郎訳『日米必戦論』として出されたが、これは陸軍部外秘であったのであまり流布せず。池亨吉訳『日米戦争論』19111031日博文館刊が一般に流布した)

 

  日米が衝突する問題として著者は

 1:満韓問題

 2:条約改正問題

 3:移民問題

 の三つが考えられると挙げたが、満韓問題は前章で論じたので省略し、条約改正問題は概略をを検討して別段問題は生じないとして少し論じただけで、詳しく論じたのは移民問題だけ。これが第二節日本人問題排斥論と第三節在米日本人民策である。

 

 第二節日本人問題排斥論: 全31ページ(略)

 第三節在米日本人民策:  全34ページ(略)

 

第4章:日米戦争の風説:全11ページ

 

 「大体の方針としては、出来るだけ戦争を避けざるべからず。其の第一の理由は、経済上国民の実力乏しきにあり。すなわち日露戦争後産業不振の余をうけて、今まさにこれを勃興せしむべき時運にあり。加うるに朝鮮の経営は政治上の歩武を進むるのみにして財政上の援けとはならず。満州鉄道の経営もまた未だ利を見るの日に達せず。想うに我日本の国是たる、現在の領土及び勢力範囲に甘んじて、之が防備を怠らず、内、商工業を盛んにし、外、貿易の策を樹て、敢えて征戦の事なき20年なるを得ば、国富漸く曉かに、国本漸く固きを致さん。現下避くべきものは戦にあり。ことに米国は貿易上の大華客なり。」(p163164

 「第二の理由としては、日本は軍事上米国と戦ふて勝つの望みなきを見る。」(p166

 

第5章:余論 全7ページ

 

 全篇の結論として次の言をあげて終る。

 「重ねて言う。米国は大国なり。富国なり。軽々しく戦うべからず。我等の之に対する、一世一代を以ってこととせず、庶幾くは人間に七生して相争うことを得んや」(p177

 

●本書の主張の性格

 

 今後の日本外交の焦点は対米策にあり、として米国の外交政策の今後の展開の性格を其の歴史から予測し、それは極東においては超然主義から帝国主義へと次第に移行し、アジアに対する野心を露骨に示すものとなろう。その際に米国の外交の障害になるのは日本である。米国は日本に対して特に満州に日本が確保している権益の放棄を迫ってくるだろう。そしてこれを「清国の領土保全」と「機会均等主義」の理想の下に提案してくるため、英仏独の列国もこれに賛同せざるを得ない。日本とロシアのみ米国の力の脅威にさらされる。そして米国の提案をこの二国、特に日本が拒否することは米国民の対日感情を悪化させ、それがさらに米国の対日本政策を後押しする。日本の国力では米国に抗することはできない。その「機会均等主義」に従い、産業を盛んにして貿易を振興する策ととって、米国と対立することは避けなければいけない。

 

 これが本書の大まかな主張である。

 これは朝河貫一の『日本の禍機』の主張とも同じであるが、朝河のそれが、日本が日露戦争での国際公約である満州における機会均等主義の履行を破っていることを強く非難し、米国の掲げるこの原則は人類史の最大の価値であるとして、日本に外交路線の修正を迫っていたのとは異なり、米国の力は巨大であり、世界を我が物にせんとするその外交路線には、すでに列国といえども従うしかない情勢の中では、日本もそれに従うしかないという論理展開で、日本外交路線の修正を迫っている。

 

3:本書の持つ可能性

 

 本書の冒頭には4人の政治家と一人の元官僚の序が掲載されている(資料2の序を参照)

すなわちそれは

1:大石正巳(前農商務大臣)

2:原敬(前内務大臣)

3:齋藤修一郎(前農商務次官)

4:粕谷義三(衆議院議員)

5:卜部喜太郎(衆議院議員)

 

大石正巳18551935。土佐藩出身。板垣の自由党創立に参画したが、彼の洋行方針に反対して脱党。1888(明治21)年後藤象二郎らと大同団結運動を進めたが破れ、1892(明治25)年朝鮮駐箚弁理公使となる。1896(明治29)年大隈の進歩党結成に参画し、翌年大隈内閣で農商務次官を務める。1898(明治31)年の自由・進歩両党の合同による憲政党結成では創立委員となり、隈板内閣には農商務大臣として入閣。以後野党となった憲政本党の幹部として活躍し、日露戦争後は非政友会系合同を画策し官僚派に接近。民党主義を取る犬養毅と対立。1910年(明治44)犬養らと妥協して立憲国民党を結成して常務委員となったが、1913年(大正2)憲政擁護運動が高まるなかで脱党し、桂太郎の立憲同志会結成に参加して総務となった。 1915(大正4)年第二次大隈内閣の下で大浦兼武農商務大臣と対立、彼が内相に転じるのに反対していれられず、それを機に政界を引退。

 

18561921。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918929 - 1921114日)。正二位大勲位。郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。大正10年(1921年)114日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満65歳没。

 

粕谷義三18661930。明治から昭和期の政党政治家。名主橋本要作,とりの長男として武蔵国入間郡藤沢村(埼玉県入間市上藤沢)に出生。漢学塾に学び村吏,郡吏を経て明治19(1886)年渡米,ミシガン大学でバチェラー・オブ・ロー(法学士)の学位取得。帰国後『自由新聞』記者となり,また24年入間郡扇町屋(入間市)の粕谷家の養子となった。県会副議長などを務めたのち,5回総選挙から12回衆院議員に当選。立憲政友会に所属し,その埼玉支部長となる。大正9(1910)年衆院副議長,12年から昭和2(1927)年まで同議長。武蔵野銀行重役となるなど実業界でも活躍。書をよくし,雅号を

竹堂という。

 

卜部 喜太郎18681942。日本の弁護士、政治家。東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員

会議長などを歴任。明治元年、埼玉県児玉郡沼和田村(現本庄市沼和田)の名家である卜部喜平の長男として生まれた。喜太郎が担当した名高い事件として、「足尾鉱毒事件」、「シーメンス事件」がある。また、関東大震災後の混乱に生じた本庄事件の裁判において、主任弁護士を務めたのも喜太郎であった。 政治家としての活動は1908年(明治41年)5月、衆議院議員の改選挙に犬養毅の又新会から立候補し、埼玉全県を一区とする大選挙制に当選。しかし、身辺の事情により、代議士生活はこの一期にとどまった。

 

 

 粕谷と卜部はその序にあるように、大塚善太郎とは同郷で旧知の仲。まさに序にあるように大塚善太郎に序を請われて文を寄せたものであろう。大石は自党の議員卜部より、原は自党の議員粕谷より依頼をうけて序を寄せる(と序には書かれているが・・・)。

 重要なのは大石正巳と原敬。

 大石は大隈重信系の憲政本党の重鎮で外交通の議員。原敬は立憲政友会の重鎮で元々は外務官僚で次官も務めた外交通。当時は総務委員であり前内務大臣。この二人の外交通の政治家の重鎮が、本書の論旨は見るべきものありとしているのは重要。米国=世界帝国、列強といえど逆らえず、日本も米国が掲げる自由貿易主義に従い産業立国で行くべしという論理が、共有された可能性がある。原はこの路線でその後動いたことは良く知られている。

 

4:本書を齋藤修一郎の「最近米国観」だと判断した理由

 

@本書の構成が、齋藤の「米国の侵略的径路」の内容と酷似している

 

 「米国の侵略的径路」の内容は以下のようであった。

 T:アメリカ合衆国の侵略史=領土拡張史⇒米西戦争以後の今や、アメリカは世界帝国へと成長している。この背景には、アメリカ人の侵略的人気がある。アメリカは危険極まる列国的分子。

  ※以上は、「アウトルック」誌に掲載されたH.アデングトン・ブルースの連載評論に依拠している。

 U:ブルース論文の認識(アメリカはいまや世界帝国である)をベースに、米西戦争以後のアメリカのアジアに対する行動を、「列国的活動、帝国主義の発揮」と評価し、その上でルーズベルト式の「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」を高く掲げた、今日的言い方をすれば「人権外交」のありかたも、世界帝国としての行動であるとし、これに逆らう日本に対してアメリカは、「満州鉄道中立案」「日本人排斥案」を出していると見る。

 V:この列国的な合衆国の行動を日本はどう見ているか?⇒日本には対米策がない。それはペリー来航以来の日米関係史を親和的なものとみなし、この観点で日本の利益を図ろうとしてきたから。

 W:合衆国は西欧とは違う⇒一種独特の政治、社会組織、人情、人気をもち、外交の如くも突然飛躍的行動に出る。欧州列国の秩序整然、一糸不乱という組織とは異なる性格を持つ。米国を欧州列国と同じとみなすことで対米政策を誤る。

 X:今後の米国⇒米国は米西戦争の結果得た広大な領土で満足するか?その野心はいまだ底知らず(H.アデングトン・ブルースの言を引用して)。

 

 一見してあきらかなように、『日米外交論』の第二章の構成は、「米国の侵略的径路」のTとUと同じである。第一節と第二節がTに相当し、第三節がUに相当する。そしてこの第二章が『日米外交論』の本論にあたり、ここでアメリカとはいかなる国でいかなる外交路線を持つ国であったかをその領土拡張の歴史を見ることで把握し、この認識を基礎にして、アジアにおける現在のアメリカの行動の意味を探っている。

 『日米外交論』は、この本論の前に、緒論と第一章を置き、本論を述べる前書きとしている。

 すなわち緒論でこの論を公にする意味を説き、第一章で19世紀の末から20世紀の初頭という時期の時代的性格とそこにおける列国の外交のありかたを説いて、いまやアメリカとの外交関係が焦点だと時代認識を提示する。

 

A本書は未完成の本である

 

 しかし『日米外交論』は未完成の書である。

 それは次の理由からである。

 「米国の侵略的径路」の論旨から言うと、本論たる第二章に続いて、Vに相当する日本外交の批判論が展開され、次にWとXに相当する米国論とでも言うべき章が設けられるはずである。

 しかし日本外交批判論は一部が第二章の第三節で示されただけで、米国論にいたっては、このような章は設けられず、第一章や第二章・第三章、そして第五章に内容的にはこれに相当する文言が散見されるだけである。まだ文章が練られていない。さらに最終章たる第5章の「余論」は、内容的にはまだメモの段階。繰り返し繰り返し「米国は大国なり」「戦争に持ち込んではいけない」と繰り返すだけ。

 つまり米国の大国たる所以が語られず、その外交政策が一部の外交家だけで動かされるのではなく国民世論が大きく影響を与える、アメリカの国のあり方がまったく論じられていない。そして日本外交の批判も。これでは著者の主張を裏付ける論証が欠けて説得力に劣る。

 大塚はこの本の出版後も様々に活動しているので、本を未完のまま刊行するとは考えられない。

 

B本書は分担して執筆されている

 

 また本書はその章によって執筆者が異なる。

 第三章の第二節「日本人排斥問題」と第三節「在米日本人移民策」は、カリフォルニアに長く住み、日本語新聞の記者として移民問題に筆を振った大塚善太郎の手になる。そこに挿入されたエピソードがこれを物語る。

 

 著者米国加州に在ること8年、始めは白人の家庭に在りてドメスチックウォークに従事する傍ら、パブリクスクールに通学し、次第に日本人社会に接近して・・・・友人の邦字日刊「桑港新聞」を起すに会う(p101)など

 

 しかしその他の章は齋藤の手になる。従来の彼の主張にも沿っている。特に第三章の第一節「総論」には、彼の晩年のエピソードが語られている。

 

 124日の夜なりき。著者は三宅博士を景仰する「日本及日本人」読者の団体たる日本青年会の義士研究講演会において、特に30分の時間を乞うて米国における日本人排斥の真因につき一場の演説を試みた(p73

 これは19101月1日号の赤穂義士特集に齋藤が「いろは文庫の英訳」なる一文を寄せたことにつながるエピソードであろう。

 

B大塚の経歴からして外交論を詳しく展開するのは無理である

 

 大塚はまったく外交に関ったことがない。しかし本書の緒論や第一章では日本外交の歴史が詳しく展開され、政府が国民に外交情報を適切に公開してこなかったため、国民は世界の情勢についての知識に不足し、しばしば感情的に行動するのみであったと、日露講和時の日比谷暴動などを上げてそれを批判している。つまり、本書は外交は国民がやるものであり、そのために焦眉の日米問題について情報を国民に提供するために出版したと述べている。

 この姿勢は、齋藤修一郎にこそ相応しい。彼は「外交論」(雑誌太陽:1898・明治3112月5日 第4巻24号掲載)以来ずっと死に至るまで、「太陽」と「日本及日本人」に外交論を展開し続けていた。

 

C大塚は齋藤の執筆協力者である

 

 大塚は大塚則鳴著「井上侯と齋藤修一郎翁」(1910・明治43年6月1日「日本及日本人」第534号所収)において、齋藤の「米国の侵略的径路」をまとめるにおいても相談にあずかっていた述べていて、齋藤が準備していた「最近米国観」の執筆に協力している可能性を示す。

 したがって先に見たような、第三章の第二節・第三節が彼の手になるとの推定は、彼の言と彼の経歴からして妥当だと思われる。

 

D序としてあげられた齋藤修一郎の文は「米国の侵略的径路」の本体である

 

 本書の齋藤の序は、彼が「日本及日本人」に投稿した「米国の侵略的径路」から、彼がいま「最近米国観」という本を準備しており、本稿がその梗概だと記した部分を完全に削除したその残りの部分である。この序として掲載された部分は、先に見た本論のTとXを削除したもの。

『日米外交論』の構成とこの序をと比べれば、そしてこの小論を先に見た人が本書を見れば、これが齋藤が予告していた「最近米国観」であることは容易に推定できる。

 

 以上の理由から、大塚善太郎著とされた「日米外交論」は、齋藤修一郎が生前執筆を進めていた「最近米国観」の未完成原稿に大塚が多少手を入れて、章と章とのつながり等に整合性を持たせた上で、大塚善太郎の著作として急遽出版されたものと思われる。

 

 

 

5:なぜこの本が未完のまま出版されたのか。しかも著者を協力者の大塚善太郎に変えて出版したのか。

 

「日米外交論」が出版されたのは、齋藤の死(5月6日)から20日後。そして齋藤の葬儀(5月9日)からは17日後である。

 この本が齋藤の未完成原稿「最近米国観」だとすると、彼の死後急遽出版されたことになる。

 それはどのような理由と経緯なのか。

 原敬や大石の序にあるように、共同執筆者の大塚が未完の書を自分の書として出版できる段取りをとり、その上で旧友の卜部や粕谷に持ち込んで原や大石の序を貰って出版したのか。

 齋藤が存命のうちにこの本を自分の名前で出版していれば、大石や原という有名な外交通の政治家の序をわざわざつける必要はない。齋藤は元外交官であり外務官僚のトップクラスの地位(外務大臣井上馨の秘書官であり、総務局政策課長)にある者として、大臣と次官と三人で主な外交政策を決めていた外交通の人物であり、井上馨が総理大臣として組閣した場合には、必ず齋藤が外務大臣の席を占めるだろうと、巷に噂されていたほどの人物である。

 あまりに無名の一新聞記者の大塚善太郎の書としたからこそ、外交通の大石と原の序を添えて、この本の主張に見るべきものがあると、読書人にアピールする必要があったのだと思う。

 

あるいは少し穿った見方であるが、本書の日本外交批判論が大いに益ありと判断した齋藤の親友の原敬が、大塚に指示して未完のものをある程度体裁を整えさせ、それをわざわざ大塚⇒卜部・粕谷⇒原・大石と手を回させた形にして、大塚の書として出したものか。

 齋藤の論はあまりに刺激的であり、政界の主流派(山縣・松方・小村・桂らと軍首脳)が、米国やイギリスとぶつかってでも満蒙植民地論を取っていることに対して真っ向から異論を出し、英米協調路線を出しているので、齋藤の死後に、原がわざわざ序を寄せて、原の親友である齋藤の書として出すと、原も同意見であることが世に知られて、原が政権を担当することをこれらの勢力が嫌うことを、原が懸念したからか。

 

 

 この疑問に答える資料は見つからない(『原敬関係文書』にもない)のでわからないというのが現状である。


 

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