4.洞窟の中で見たものは
その空間の床も岩でできていて水でぬれてすべりそうだったので、床をはって奥の方へ進んだ。二十mも進んだだろうか。洞窟は突然そこで行き
止まりになっていた。
固い岩の壁。手探りで測ってみると、上は僕の背丈以上の高さがあるらしいが、洞窟はこれ以上奥にはないらしい。
あいかわらずの真っ暗闇で、何も見えなかった。
『やっぱり、夢か。この先に誰かいるのかと思ったけど。何もないただの洞窟。カッパの姿すらみえないや。』
がっかりして引き返そうと向きを変えたとたん、後ろの岩壁のあたりがぼんやりと明るくなり、しだいに明るさをまし、青白い光を放つようになってき
た。その光の中に、昨夜の男の子が座っていた。
「えーん、えーん、えーん・・・えーん」
男の子の泣き声だけが響いていた。
『ここにいるのは小さい時の僕に違いないが、僕なら泣くはずがない。僕はどんな時にでも泣かないんだ。これだけはたいしたもんだといつもおばは
んがほめている。なんで彼は泣いているんだろう。』
「だったら彼に聞いてみたらいいだろ」
頭の直ぐ上で声がした。
思わず見上げてみると、頭の上に青白く光る二つの目玉があった。
昨夜のカッパだ。
「小さい時の僕と話しなんてできるの?」
昨夜と違って、怖さを全く感じなかった。
「できるかどうか、やってみればいいじゃないか。」
僕はおそるおそる小さな声で呼んでみた。
「翔。翔。なんで泣いているの。」
小さい僕は急に泣くのをやめて、丸い大きな目で、じっと僕を見つめた。顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「翔」
自分の名前を呼ぶのはなんだか変な気分がしたが、また呼んでみた。
「翔。君は翔だね。君の名は小村 翔。」
彼は小さくうなづいた。
「どうして君は泣いているの。それをお兄ちゃんにおしえてよ。」
お兄ちゃんだなんて変だけど、小さな僕を前にしていると、そう言うのがピッタリの気がした。
彼の目の焦点がぼけて、どこか遠くを見ているような目になった。
いきなり青白い光が消えてあたりは真っ暗闇になり、どこか遠くから、しかりつけるような女の人の声が聞こえてきた。
「翔。今日はお兄ちゃんの入園式だからおとなしくお留守番していなさいね。そこにお菓子があるから食べて、一人で遊んでいなさい。」
「やだっ。やだっ。僕も行く。僕もつれてって。僕もいく。」
「聞き分けの悪い子ね。あんたったら三分と静かにしていられないじゃないの。今日はお兄ちゃんが幼稚園に入る大事なお式なのよ。入園式は一時
間もかかるのよ。お式の最中に騒ぎだしたらみっともないじゃないの。一人でお留守番していなさい。」
「やだっ。やだっ。僕も行く」
玄関のドアを開ける音。ドタドタと走る足音に続いて、女の人のどなり声。
「聞き分けのない子ね。お母さん一人で二人も面倒みられるわけがないでしょ。言うこと聞かずについてくるっていうんなら・・」
いきなり目の前が明るくなって、翔の姿がはっきり見えた。ダイニングキッチンの重たい机の足にぐるぐるまきに縛られた翔。
泣きつかれたのかすっかり眠っている。顔は涙でぐちゃぐちゃで、着ている赤いTシャツの胸もぐっしょりぬれている。おまけに水色の半ズボンまで
ぬれて、翔の座っているまわりには涙の湖ができている。
『涙?。ちがう。これはおしっこだ。』
縛られたままの翔はおしっこをもらしてしまったんだ。
『たいへんだ。おばはんが帰ってきたらどうしよう。』
外で車の止まる音・・・・。
「翔。起きなさい。何やってるの。」
おばはんの声だ。
「あーあ。床がビショビショじゃないの。こんなになるまで涙ながして・・・・・・。あら、違う。おしっこよ。あんたおしっこをもらしたのね。また。汚いわね。
三つにもなってもらすなんて。バカね。まったく。さっさと雑巾もってきてふきなさい。」
「おしっこふいた雑巾をそのままにしないの。トイレに行って洗ってきなさい。」
「キッチンを汚した罰よ。お兄ちゃんの入園式のお祝いにケーキ買ってきたけど、あんたにはあげないわ。はい、高志。ケーキ食べなさい。」
「えーん。えーん。えーん・・・えーん」
「まだ泣くだけの涙あったの。まったく泣けばケーキもらえるとおもってるの。泣いたってだめよ。ケーキなんかないの。お母さんとお兄ちゃんと二人で
あんたの分食べちゃうから。」
ピタッと泣き声がやみ、フォークをかちゃかちゃさせる音と二人の楽しそうな笑い声。
「ひどいやそんなの。翔が悪いんじゃないじゃないか。机に縛っておけば、トイレにいけないじゃないか。帰ってくるまでガマンしろっていうのか。入園
式だって連れていけばいいんだ。5才にもなってお母さんがいなければ何もできないってわけじゃないし。式の間中お兄ちゃんのそばにお母さんが
ついているわけじゃない。お母さんが翔を抱いてあやしてやればいいんだ。なんでケーキを食べちゃうんだ。翔の目の前で。食べたいだろうに。残酷
だよ。あんたたち母子は。」
大きな声でどなっている自分に気がついてはっとした。もう目の前の小さな時の僕の姿は消えていて、かわりにカッパのまん丸い目がそこにあっ
た。
「おう。おもいっきりどなったな。頭にきただろ。お前の母さんと兄さんには。そうだ。おもいっきり怒れ。おもいっきりどなれ。そしてくやしかったらおも
いっきり泣け。」
そう言われたらなんだかくやしくなって目から大粒の涙がポロポロと落ちてきた。僕が泣くなんて・・信じられなかった。
『初めてだ。泣いたなんて・・・・・。』
「いや違う。初めてじゃない。翔は小さい時には毎日泣いていたんだが・・・・・。でもあの時が最後だった。」
「あの時って?。」
「あの時だよ。お兄ちゃんの入園式の日におしっこもらして、ケーキを食べさせてもらえなかった時。あの時から翔は泣かなくなったんだ。いや泣けな
くなったんだな。泣けばもっとひどいことが起こるってわかったんだ。母さんや兄さんは、翔が泣けば泣くほどもっとひどい事をするってわかったん
だ。」
涙がとまらなかった。翔の気持ちを考えるとむしょうに悲しくて涙が止まらなかった。泣きながらしゃべっていた。
「あなたは誰なんです。どうして僕の小さな時のことを知っているんです?。」
「私か。私はカッパ大王。君のことならなんでも知っているぞ。」
「どうして知っているんですか?」
「そのうちわかるさ。じゃあな。」
バッと青白い閃光が走ってあたりが真っ白になったかと思うと、いきなり僕は、淵に面した崖際に立つ、白い小さな鳥居の前に立っていた。太陽が
真上にきたらしく、あんなに薄暗かったこのあたりも、かなり明るくなり、物の形もはっきり見分けられた。
鳥居の向こうには洞窟などはなく、水にぬれた岩の崖があるだけだった。