★Kさんへの手紙3:いじめと集団主義★

20061126日

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 急に寒くなってきました。外を歩く時にはマフラーが必需品になってきましたね。今朝は、家の中を冬仕様に替えるべく、家中のカーテンを夏物から冬物に付け替えました。
 昨夜はNHKの「ウォーカーズ−迷子の大人たち」の3回目を見ました。競争社会の中でさまざまに傷つき、見失った自分を求めて四国88ヶ所霊場をお遍路する大人たちを描いた、なかなか見ごたえのあるドラマです。
 田舎の親に恋人を紹介しよう3週間の休暇をとって実家の寺に戻った主人公・徳久は、父があと半年の命と聞いて心にもなく「寺を継ぐ」と言ってしまい、四国お遍路の旅に出るはめに。そしてこの中で恋人にも「関係を白紙に」と言われた主人公は、遍路の中で様々に自分を見つめなおしたが、「父危篤」の報にお遍路を中断。さらに3週間の休暇を終えて会社に戻った主人公徳久の前に、会社の事態は変っていた。新しい携帯電話の販売キャンペーンが2週間前倒しになり、この関係で自分の企画が没になり、彼が留守を托した同僚の企画に差し替えられていた。事情を追求した徳久の前に見えてきたものは、競争の中で仲間を蹴落とそうと躍起になったり出世のために上司にゴマをする社員の姿。社内競争から落ちこぼれたかつての上司からは、「立ち止まったら負け」だと言われ、そんなサラリーマンの姿にちょっと前の自分と20年後の自分を見てしまい、そういう人達を「悲しい」と感じた主人公。そしてもう一度自分を探すためにお遍路の旅に戻ろうと再び3週間の休みを取った主人公の後姿に、上司は「あいつも落ちたな」とつぶやく。しかしお遍路は一人旅だ。しかし、かなりきつい毎日の中でも実は一人ではない。道行くお遍路仲間に助けられる事もあり、土地の人の暖かいもてなしに出会うことも多い。そしてなんと言っても心強いのは、金剛杖に刻まれた「同行ニ人」の文字。姿形は見えないが、常に弘法大師・空海が一緒に歩いていてくれるというわけ。
 企業社会も競争社会ですね。一時は「窓際族」という言葉が流行り、出世競争から脱落した者は、仕事からも排除され、窓際に追いやられて仕事も与えられず、ただただ会社を辞めることだけを期待される。これも「いじめ」ですが、これが人権侵害と問題になることは少なく、まるで当たり前のことのように今も行われています。また、ホワイトカラーを全て経営者の領域に含め、残業代もなくしてしまうという新たな労働政策は、ホワイトカラー層の競争を激化し、働き過ぎによる過労死もどんどん増えて行くことでしょう。そしてこの方策や派遣制度や請負い制度を導入してどんどん労働者の競争を激化して総体としての賃金を下げる方策が取られるのは、国際競争に日本企業が打ち克つためだそうです。競争社会の企業社会はいじめ社会でもあります。でもそんなに競争してもうけてどうするのだろうか。例えば車は、先進国ではいやというほど作られて次々とスクラップになっている。整備すれば20年は走れる車がだ。その反面では必要な車も手に入らない貧しい国も多い。生産って必要な人に必要な物を届けるために行われるのであって、競争に勝って利益を巨大化するためではなかったと思います。
 そうそう、競争と言えば、22日の夜のNHKクローズアップ現代では、東京都で行われている学校選択制度についてレポートしていました。各地で人気の出た学校には収容し切れないほどの生徒が集まる反面、人気のない学校はどんどん入学者が落ち込み、果ては廃校になってしまった学校もあるというレポート。ある区では学力テストの結果を学校ごとに発表しているのだが、いつもトップの中学校には生徒がどんどん集まり、部活動も盛んで、地域に学校のPR活動まで行っている。
 こういう状況の中で、人気を集める学校に子どもを行かせている親の言葉がとても印象的でした。「小規模校になると、クラス対抗の行事もできないし、子どもの成長に問題がでるから」というもの。どうやら親達の選択基準は、「学力が高いこと」と「部活が盛んなこと」と合わせて、「(クラス対抗の)行事が盛んなこと」であるらしい。「集団による競争」が子どもの成長に欠かせないというのでしょう。
 でも本当に「競争」を行うことは良いことなのだろうか。
 僕の経験では、「競争」、それも集団で行う競争はしばしば、集団の中に異端者を生み出し、それを排除して行く傾向が強いように思います。これがいわゆる「いじめ」。日本の学校ってあらゆる場面で集団の競争が組織されます。
 例えば運動会や体育祭におけるクラス競争。マラソン大会だってクラス全員の順位を合計して合計点の少ないクラスが優勝。中学校がよくやる球技大会や合唱コンクールもクラス対抗だ。その上、学習面だってクラス競争になる。テストが終わるとかならず平均点が出される。それもクラスごと男女別の各教科の平均点だ。これもかならず平均点競争を生み出す。どのクラスが優秀かという。そしてテストが学校内に限らない全市的なテストとかになると、今度は学校ごとの競争になる。
 そうそう、日常的な生活の中にも集団による競争が導入されていますね。いわゆる班競争というやつ。班ごとの清掃の点数や忘れ物の点数などなど。一日の生活のさまざまな場面を点数化して、それを班ごとに競わせる。この方法でクラスを組織するという「教育論」があるのだから、これは全国的に広がっている。と言う具合に、今の学校はあらゆることにクラス競争などの集団競争が組織されている。
 そして大事なことは、この集団による競争においてはトップが注目をあびると同時に、「ビリ」が「問題」として注目をあび、しばしばビリクラス・ビリ班と呼ばれ、果ては「ダメクラス」「ダメ班・ボロ班」と呼ばれてしまう。競争に負けた集団がたちまちにして「だめ」とか、ごみとして捨てられるような「ボロ」と呼ばれてしまうわけだ。
 こう呼ばれないためには、集団の内部の「問題」を点検してそれを改善し、集団の結集力を高めて競争に勝ちぬこうとする。この中で「問題」の生徒が析出される。運動での競争なら足の遅い子どもや動きの遅い身体能力の劣る子どもが問題となり、文化的行事の競争では、落ちつかない子・集中力のない子が問題となる。日常的な生活競争でも、動きの遅い子・おとなしい子・落ちつかない子・集中力のない子が問題となり、学力競争では、文字通り学力の低い子が問題となる。
 この問題を点検・析出して改善していく過程で、問題となった子どもに寄り添い、動けるように援助し励まして行くのならまだ問題は起きにくいし、問題となった子でも参加できるように、競争の仕方やルールを変更するのなら問題は少ない。これなら行事や日常生活や学習活動の在り方を、一人も落伍者を生み出さずに皆で取り組める形に替え、集団そのものの質を替えることにつながる。しかし、しばしば日常的に行われる行動は、問題となった子を「ダメ」として非難し排除しようとしてしまうことだ。「あいつさえいなければ・・・」という言葉が、クラスメートからも教師からも出てくる。「どうしてちゃんと動けないの。どんくさい。あんたなんか嫌いだ!」と。これは球技大会のバスケットボールの時に動きの遅い生徒に担任が投げかけてしまった言葉だ。これが見過ごされて重なってくると、教師がいじめを助長していく。そしてひどい場合には、教師による暴力。合唱コンクールにクラスをまとめられない学級委員を担任が殴り倒した。これがいじめを生み出す温床なわけ。また、学校における部活動もしばしばいじめの温床であることは多くの実例が物語っています。運動的な部活動は集団競争の場だし、それこそ勝敗を競う競技だ。そして文化的部活動もコンクールという競争の場を主な活動場面としている。部活は教師の暴力が横行している。
 どれもN中で実際にあった話し。市内で一番優秀と言われたN中がそこから落ちる過程で教師の暴力がはびこり、市内随一の荒れた学校になった背景には、教育における集団競争があったと思います。

 本当に集団による競争というのは、必要なのだろうか。
 勝ち負けを伴う競争は人を熱くする。その効果は絶大だ。しかしこれに伴う弊害もまた極めて多い。弊害の最大のものが集団を競争に邁進させ勝利に導く上で障害となる「落伍者」の排除行動としてのいじめだ。
 僕は昔からよく、「集団競争をしないで純粋に楽しむことはできないのか」と思ってきて、しばしばこれを口にした。しかし帰ってくる言葉はいつも決まって、「競争なしで楽しめることは理想だが、競争しないで人が頑張ることはない」。でもこう言われるといつも疑問がでる。人は自分の好きな事は、競争したり強制されなくてもどんどんやる。もう止めたらとはたから言われるほど頑張ってしまう。競争、それも集団による競争という強制力を使わなくても、ものごとを「すき」にさせれば、人はどんどん強制されなくてもやるんじゃないだろうか。楽しいということは最大の武器だと思う。「楽しめる」ようにすることが、好きにさせる第一歩だと思うのだ。やりたいことならどんどんやるさ。
 どうも今の学校社会は、やりたくないことを無理やり集団競争という強制力を使ってやらせるところであり、これは日本の企業社会がそうだから、学校もそうなっているのだと思う。
 もっと少ない人数で、楽しく物事に取り組める環境にしたいものです。人数が少ないほうが、指導者の目も行き届くし、参加する生徒一人一人の活動も必然的に活発になります。
 以前部活の対外試合が続いた時期に授業を受けられなかったものがたくさんいたので、その2時間分を放課後を使って何回か補修という形で希望参加制度で授業したことがある。一度に集まるのは10数人。いつものように予習プリントを使いながら質疑応答を繰り返しながら授業を進めるのだが、10数人しかいないと、一人一人の考えていることや何処でつまずいているかが良く分かる。だから援助もし易いし、討論を促進するために発言を促す事もしやすい。生徒も40人のクラスでは1時間に1度発言するのも大変だが、10数人なら何度も発言できるし、座席を半円形に出切るので、お互いの顔がよく見え、互いの目を見ながら討論ができ、討論はずいぶんと深まったものだ。また文化祭で有志グループを作って演劇で参加したときも、一人一人が積極的に参加し、よりよい劇を作ろうと切磋琢磨した。数人のグループもあったし、クラスと同じ位の人数のグループもあったが、それぞれが自分のやりたいことを持ち寄って、同じテーマの子ども同士でグループを作ったから、とてもよく動けたのだと思う。
 集団による競争という「集団から排除される恐怖という強制力」を使うのは教育ではなく、洗脳とか教化といったほうが良いのだろう。でもこの方法を使うと、人と人との関係が壊れる場合が多い。もちろん常に「勝組み」に入っている者は、この怖さを知らない。怖さを知らないだけではなく、これが当たり前であり、弱肉強食が人間社会の当たり前の姿だという認識を、骨の髄まで染み込ませてしまう。
 でもいつまでも「勝組み」に入り続けていられる人って本当に極少数だし、その少数も実態はボロボロというのが真実の姿なのではないでしょうか。
 だから現代においては「癒し」が高い関心を生むのだと思う。
 なのに今の教育基本法改正の法案がめざす方向は、愛国心・道徳という誰も逆らえない規範を持ちこみ、これに服従することを強制し、さらには具体的な数値目標としての教育目標を掲げることを義務化する。この体制で、学力向上を言うのだから、今まで以上に、集団による競争を激化し、いじめは増えることでしょう。しかも数値目標をどこまで達成したかで学校の評価がなされ、予算配分もなされるという。そして数値目標の達成度で個々の教員の評価もされ、給与も昇進もそれで決まると言う。完全に逆行した対策だ。またこの論議の中で神奈川県の松沢知事は、いじめを助長したり放置した教員は懲戒免職という方針をうち出した。もちろん助長した教師はその時点で教師失格だ。だが「放置する」とは何を基準にいうのだろう。いじめはしばしば見えにくい。見つけたときにはすでに深刻化していることが多いわけ。これも放置というのだろうか。いじめを生み出す競争社会をそのままにして、その責任を全て教師に押し付けるものだといわざるを得ない。さらに石原東京都知事はいじめ自殺の多発に対して、「だまってないで戦え」とご託宣を述べる。集団の力で排除されたものが一人で戦えると思うのかね。この人は。そして愛国心・道徳の強制は、学校を競争社会だけではなく、建前主義の集団主義の場にしてしまう。この建前主義もいじめを生み出す元凶だ。右向け右と言ったときに、それに疑問を感じて立ち止まったり左を向いたり後ろを向くものは、「非国民」として排除されるわけだから。
 また、長くなってしまいました。
 テレビ番組を見ていて、こんなことを考えました。そろそろ競争ではなく、共生を核とした社会に変えたいものです。

2006年11月26日

コアラ

Kさんへ


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