★Kさんへの手紙4:対症療法にとどまるいじめ対策★

2006126日

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 昨日今日と、朝の寒さは格別でした。ついに冬到来ですね。
 昨夜のNHKクローズアップ現代は、引き続きいじめについてレポートしていました。なかなか興味深いものだったので、昨夜も全部見てしまいました。
 番組ではいじめを受けたことのある女性からの証言を元にして、教師や親の目に見えないいじめの深層をレポートしていました。クラスにはいくつかの小集団がある。その中の最大の集団のボスであるいじめっ子からある日、1つの小グループに対して、グループ員の一人をいじめる指令がだされる。そしてその小グループの成員は、自分がいじめのターゲットになるのが怖くて、「仲間」の一人をいじめ始める。さらにクラスの他のグループもこのいじめに加わり、いじめの被害者はクラス全体から排除され、これはしばらく続く。そしてある日、今度は別のグループの別の一人がいじめのターゲットに指名され、この時も周囲の者は自分がいじめられるのが怖くて同じようにいじめに加わり、クラス中の他のグループのメンバーもいじめに加わる。証言者の女性は、こうして自分がいじめられたとき「なんで助けてくれないんだよ」と思ったが、「自分も同じことをしたんだからしょうがないか」と思ったそうだ。「消えて無くなりたい。死んだほうがましだ」と思ったとも証言していた。
 この証言を、大阪でスクールカウンセラーをしているという女性が補足説明し、「今のこどもたちは周囲の人との間に暖かい関係を作るのが苦手で、『グループ』と言っても人間関係は希薄だ。だから仲間同士がいじめに走り、あるひ突然、なんの理由もないのに他の者をいじめはじめる。今の子どもたちは、自分の発言や行動で他の者がどう傷つくかを想像できない。しかし自分が同じ目にあうと深く傷つき、死を選ぶほど追い詰められる」と解説した。
 でもいじめのターゲットが次々と移るのには理由があるんですね。
 かつて作家の田口ランディ氏は、氏のメールマガジン(00年6月20日)でいじめの本質を以下のように描写しました。
 『いじめの本質とは関係への飽くなき固執なのだ。ある集団が、一人の人間をいじめるとき、その行為にはル−ルがある。それは「いじめられている奴が絶対にシ−ツを放さないこと」である。いじめは、まず「シ−ツを持って歩く人々」が「シ−ツを持ち続けている」ことによる緊張にストレスを感じている下地があって起る。だいたい「シ−ツを持ち続けて歩く」ということ自体、不自然で疲れる作業であり、それを日常的にやっている人々は緊張のため疲れているのである。そこに、シ−ツに皴を寄せる者が登場する。集団の中で最も緊張しストレスを抱えている者が、シ−ツに皴を寄せた者を攻撃する。このときはまだ、個人対個人である。
 シ−ツを持ち続けるためには「シ−ツは必要なのだ」という了解が必要である。いったいなぜ自分たちはシ−ツを持ちながら歩いているのか?。そのことについて考えてしまうと危険なので、シ−ツを持つ人はいつも「シ−ツを持たなければいけない理由」を探している。そして、シ−ツに皴を寄せた者を攻撃したときに、攻撃されても相手がシ−ツの端を掴み続けているのを見ると、安心するのである。「そうか、こんなに攻撃しても、彼はこのシ−ツを放そうとしない。つまりこのシ−ツはやっぱり必要だったのだ。だから自分は持ち続けていいのだ」。
 このとき、いじめられている人といじめている人の間には相補的な関係が成立してしまう。いじめる側はいじめることによって「シ−ツの必要性を確認する」。いじめられる側はいじめに耐えることによって「シーツを持とうとする」。
 このとき、シ−ツはお互いにとってより明確にその存在を示し始めるのである。それまで曖昧としていた「シ−ツの存在」が急浮上して、まるで意志をもったかのように「いじめる者」と「いじめられる者」の上に神のように君臨する。
 では、シ−ツとは何だろう。たぶん、それは、私たちが近代に入って、複雑化した社会を合理的に生きていくために発達させてきた「関係性」というものではないかと思う』と。
 見事ないじめの分析でしょ。そしてここにいう「シーツ」こそ「世間」であり、いじめを生み出している学校社会・クラスという集団であります。学校におけるいじめは、受験競争に走る学校という場が必要だと言うことを成員に再確認させる行為なんですね。そこから外れることは地獄なんだと思わせるための集団維持の儀式。「こんな集団いらない」と自分と集団との関係を相対化しえたとき、いじめから逃れられるわけですが、なかなかこうできるように、自立した個の確立を援助する取り組みというのが弱いから、うまく行かないのでしょう。

 番組は、いじめに取り組んでかなり成果をあげたという2つの中学校の実例をレポートした。
 子どものちょっとした変化を見逃さないために教師全員が子どもの情報を共有化し、ちょっとでも変だと思ったらただちに動くと言う中学校、定期的に生徒にもアンケートをとったり定期面談をしたりという中学校2校の実践例が紹介されていました。どちらもいじめが劇的に減ったと言う例。しかし教師のインタビューで、教師情報だけではいじめは充分には見えないことが悩みとされていました。当たり前ですね。600人規模の中学校でも教師は40人しかいない。40人で木目細かく生徒を見るのは無理。60人は欲しい。それに教師はカウンセラーじゃない。仕事も多いし訓練も知識もない。教師だけで異常事態を見つけようなどとやっていては疲れ果ててしまいます。
 番組でカウンセラーをやっている人が先に話していたが、「最近のこどもは暖かい人間関係がつくれないから」と。この原因に手を伸ばさないで、対症療法しかやっていないのが現状です。これでは解決するはずはない。いじめを生み出す乾いた人間関係を生み出した原因に手をつけないで、これで対策と言えるのでしょうかね。そして「いじめ」という言葉でこの事態を表現していることも間違いの一つ。これは明白な虐待です。それも集団による。
 こどもの人間関係を破壊している原因は、一つは家庭にある虐待の構造。もう一つが学校自体が持っている虐待の構造。記憶中心のテスト。点数で序列化するだけの評価。瑣末な規則での生活の統制などなど。そもそも進学し高い給与を得るためだけの学習こそ虐待の根源。どれをとっても学校が楽しくない。学校をもっと楽しく、学ぶ事も楽しく、そして一人一人の子どもが自分をおもいっきりぶつける・個性を発揮できる場をつくってやれば、子どもの集団自身がもっと楽しいものになり、関係も暖かくなる。そうなれば自然といじめっ子は炙り出されてきて、被害者からもまわりの子からも自然と教師に相談が持ちこまれるんだ。学校が楽しくても家で虐待されている子を癒す事はできませんからね。
 釈迦は悟った。因果の理を。この真理が忘れられていますね。
 物事には因果関係がある。虐待の原因を少しでも緩和したり取り除かねば、問題は解決の方向にすら向かわない。
 昨日の番組は、テレビとしてはかなり突っ込んだレポートですが、掘り下げが浅い。教師が監視しただけで虐待を生み出す学校の在り方や家庭のありかたを変えないで置いては、いたちごっこになるわけだ。学校におけるいじめという虐待をなくそうと思うのなら、どうして子どもの人間関係を変える事をやらないのか。そうすれば子ども自身が虐待をなくす動きを始めるのに。
 このことをわかっている人がいるが、数が少ない。教師の中にも学校の周りにも。そしてわかっている人のネットワークがない。これが今一番の問題です。まあ気がついた人が、自分に出切る事をやりきり、少しでも仲間を増やすことが、変えるための第一歩だと信じていますが。
 もっと報道に携わる側も学んで欲しいですね。
 かつてスイスの精神分析家のアリス・ミラーが「魂の殺人」以下の一連の著作を書いて、虐待を生み出す構造は現代社会そのものに巣食っていることを暴き出し、心理学や精神分析学もまた、虐待が社会的に生み出されている構造を問題にせず、虐待をする人個人の問題、社会性のない病的なその人の人格の歪みが原因であるとしか提言しないことの間違いを指摘しました。この指摘の観点からは、虐待を生み出す人の周囲の人間関係を変えるしか方法がないことは明かです。
 いじめられた子どものカウンセリングが取り上げられているけど、いじめた子どももカウンセリングが必要なんだ。教育改革国民会議が提言しているという出席停止などという対策は、これ自身も、集団の内部でいじめを行った元凶を悪玉にして、ただ集団から排除するだけ。排除されたものはどこに行けば良いのだ。そして心の傷をどうやって癒すのだ。国民会議の提言は、臭いものにふたをするだけのもの。
 こういった視点を報道する側が持っていれば、もっと突っ込んだレポートをできるのにね。いじめも含めた虐待の問題を社会的に明らかにする取り組みは、まだまだ不充分ですね。

2006年12月5日

コアラ

Kさんへ


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