★Kさんへの手紙7: 「千の風になって」−人間社会と神の行きつく先は−★

2007年3月1日

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 ご無沙汰しています。2月は冬とは思えないほど暖かい日が続き、我が家の庭でも、3月から4月の花が次々と咲き出しています。近所では桜が咲いたところもありましたし。
 ところで今日お話したいことは、最近話題となっている「千の風になって」という詩と歌についてです。
 先日、2月26日月曜日のNHKクローズアップ現代は、この詩と歌についてとりあげ、この詩と歌とがどのように受けとめられどのような反響があるのかを、日本語の訳詞と作曲をした作家の新井満氏とともに特集していました。
 この詩は作者不詳の英語の詩で、おそらく19世紀にアメリカで作られたらしいと思われていますがが、日本に紹介されたのは10数年前のことだそうで、爆発的な人気となったのは、昨年暮れのNHK紅白歌合戦で取り上げられて以後の話し。
番組の反響の紹介の中で僕が注目したのは、神戸のカトリック教会では、阪神淡路大震災以後、この詩の朗読を通じて死について考える会を継続して行っており、今でも参加者は増えつづけているということでした。なぜこの話に注目したかというと、詩に示された死生観が、カトリックのそれとは大きくことなるものであり、この詩の朗読を通じて、震災によって身近な人をなくした人々の心が癒されるということは、この詩の死生観が、教会の神父さんや修道女さんのお話よりも、つまりはキリスト教の教理よりも人々の心に食い込む力を持っているということを示しているからです。
 「千の風になって」の英語原詩を意訳するとこんな感じになります。

 私のお墓の前で、泣かないでください。
 私はそこにはいません。眠ってなどいません。

 私は、千の風になって吹き渡っています。
 私は、雪になって、ダイヤモンドのようにキラキラ輝いています。
 私は、光りとなって畑の穀物に降り注ぎ、実りをもたらしています。
 私は、優しい秋雨となって、木々を濡らしています。

 私は、空を群れ飛ぶ小鳥となって、朝の静けさの中であなたを目覚めさせるでしょう。
 私は、夜空の星になって、あなたを照らすでしょう。

 私のお墓の前で、泣き叫ばないでください。
 私はそこにはいません。死んでなどいません。

 一読してわかることは、この詩の死生観では、死は再生だということです。人間としての一生は終わったけど、大地の息吹である風や雪や光り、そして雨や小鳥、星になって今も生きている。そしてあなたの側にいつもいて見守っている、というものです。そしてこの死生観はまた、地球上の全ての生き物や事物は全て繋がっており、それは生命体としても一体であるというものです。
 これはどう考えても、カトリック・プロテスタントのキリスト教的死生観とは異なるし、そして仏教の死生観とも異なります。第一、この詩の世界には、神が出現しません。人間や自然界を超越し、万物を創造する絶対的な力をもった神。その神が出現しません。強いて言えば、全生命体そのものが神なのでしょう。
 キリスト教的な死生観でも仏教的な死生観でも、死者は神のもとで天国か極楽で暮らすか、その犯した罪により地獄に落とされるかです。だから地獄に落とされたくなかったら、良い行いをしろ。悪い行いをしたら悔い改めよ。しかし天国・極楽にいけるかいけないかは、神の意思次第だ。宗教は人を許す反面、脅すという側面ももっています。
 キリスト教は知りませんが、仏教では、身近な人が極楽に往生できるように、残されたものは仏の祈らなくてはなりません。様々な功徳を積まなければなりません。そして死後も○回忌という形で、極楽への往生を願う儀式が必要とされます。そしてその法事の場で僧侶が必ず言う事は、法事というのは、死者を忘れるためにすることなのだと。
 どうもこのようなお説教は、いつも聞いていて腑に落ちません。
 なぜなら、何で身近な人を忘れなければいけないのだ。忘れるわけはないだろうが。こういう気持ちがいつも沸き起こってきます。そして死者は極楽に行ったと言われても、極楽という世界が在るのやらないのやら、誰も知らないわけだから、そんな所で幸せに暮らしていると言われても、どうも腑に落ちないのです。

 NHKの番組でこの「千の風になって」を久しぶりに聞いた日は、一昨年亡くなった父の3回忌を済ませた翌日でした。母と二人で番組を見ていたのですが、母が食い入るように画面を見つめ、そしてこの歌が流れたときには、一緒に口ずさんでいました。終わってから歌の感想を聞きましたら、「万人の腑に落ちる詩だね」という答えが帰ってきました。そう、腑に落ちるのです。亡くなった身近な者が、今も様々なものに生まれ変わって、自分の側にいてくれる。この感覚は、すごく落ちつくのです。結局翌日に本屋に行って、「千の風になって」のCDブックを買ってきました。
 僕の従姉妹も、一昨年父親を亡くしました。葬儀は父が入院している時だったので行けなかったのですが、昨年の1月に一周忌に行ってきました。その参会のお礼の手紙に、興味深いことが書いてあったのです。夜仕事を終えて家に帰って玄関の戸を空けると、それまで家の中でドンちゃん騒ぎをしていた人達が、あっという間に消えてなくなったような気がすると。彼女はここ数年の間に、兄と姉と父とを相次いで亡くし、そして母親は、介護施設にいます。だから一人暮しなのです。祖父が昔建てた大きな家に、たった一人で暮らしている。その家に夜帰宅すると、祖父母・父・兄・姉みんなで集まって騒いでいるような気がする。でも生きている自分の気配がすると、みんなすっと消えてしまうと。
 この話しには、亡くなった身近な人達が自分の側にいてほしいという願望が投影されています。そしてまた、死者と生者は時と場を同じく出来ないという宗教が示す死生観と、それに根本的には同意できない心情とが吐露されていると思うのです。
 番組でも、同じような例がいくつも紹介されていました。この歌や詩に出会うと、死んだ人がすぐ側にいてくれるような気がして勇気が沸いてくる、心が落ち着くという話しが。この詩は、死んだ人が自分に語りかけてくれているような気がする。この詩を読むと、この歌を聞くと、死んだ人が自分のすぐ側にいて、ずっと見守って支えていてくれるという気がして、とても心がなごみ、そして生きる勇気が出てくるというわけです。

 ちょっと前置きが長くなってしまいました。
 要するに、「千の風になって」の詩と歌が人々の間に広がっているということは、一つは、身近な人の死をなかなか受け入れられない人が世の中にはたくさんいるということ。そして二つには、そのような人々の心に既成の宗教は平安をもたらすことができていないということ。そういうことだと思うのです。これは何を意味するのでしょうか。
 この詩が大きな反響をもって迎えられたのが、日本では阪神淡路大震災だということ。そしてアメリカでは、2001年9月の同時多発テロだということ。さらにイギリスでもアイルランド独立運動のテロによって人が死んだことだということ。これらは、現代が理不尽な死が数多くあり、それは今も絶えることなく続いているということでもあります。そしてこのような災害や戦争ではなくても、交通事故や病気などによって、今も多くの人が死に、そして身近な人の死を受け入れられない多くの人がいるということです。
 しかしこの時、既成の宗教は身近な人を亡くした人々の心を癒し、生きる勇気を与えるものとしては、不充分な役割しかはたしてはいない。ここが一番、僕が問題にしたいことなのです。

 この詩に示された死生観は、人間が神という絶対的な存在を中心とした宗教という文化を持つ以前の死生観です。それは生きとし生けるものは全て、そして生きるものを育んでくれる大地や空気や空や太陽や星や雨や川や海もみなそれぞれが生命を持っており、この全ての生命体は一体であり、人は、人としての一生を終えるとこれらの多くの異なる生命体として生まれ変わって、残された人々そして次ぎの世代の人々をも育み見守っているという捉え方です。そこには万物を超越した絶対者はいません。万物がそれぞれ平等な一体の存在として認識され、共存しているのです。人はその生命体の一部であり、その生命の流れの中に生かされ、その命のつながりの中で、そのつながりに畏敬の念を持って生きていく。万物がそれぞれ生命体であり、それぞれが神であると言っても過言ではないと思います。多神教の神は、万物がそれぞれ神となっている側面がありますね。おそらくそれは、宗教以前の宗教の姿が色濃く投影されているからでしょう。
 そしてこれは一神教でもそうだと思います。天地創造の神、唯一の絶対神の傍らに、ここでも多くの神性を持った存在がまた群れをなしています。キリスト教では、神の回りに、神の子としてのキリストが、そして聖母マリアが、さらに大天使ガブリエルが、さらには多くの聖人たちもまた神としての役割を備えています。仏教でもそうですね。諸仏です。そして仏教では、草や木もそして岩までもが仏になれるという教えがあります。この教えだと、絶対な者としての神は相対化されてしまいますし、万物が神になれるということであって、ここには万物が生命体であって、その生命体が「神」であった原始の「信仰」が反映されているのだと思います。そして、神道では八百万の神々となってしまいます。どうも人間の心性の奥深くには、人間がまだ自然の一部としてしか生きられない、まだまだ無力の存在であって、自然の懐に抱かれて一体となっていた時代の心性が根強く生きているのではないでしょうか。
 したがって、超自然的な力を持った神という存在は、人間がその自然をそれなりに人間の力で制御できるようになり、自然と対抗して行った時代の産物。自然を統御しようとする人間の奢った心を投影したものではなかったでしょうか。そして同時に、人間の間に生まれた、富みや力を持てるものとしての「絶対者」の存在を投影してもいたのだと思うのです。
 しかし人間の持つ力、いわゆる科学の力がどんどん拡大して、自然が人間を包み込むものから、人間がどうにでも加工できるものへと人の認識が替わってくるとともに、人間の中の絶対者は自身を神に擬するようになり、そのことの裏返しとして、絶対者としての神の権威は次第に地に落ちていきました。そして近代になるとさらに神は、そして人間の絶対者もまた科学という万能の神にとって替わられ、20世紀という時代は、科学が神の位置を占めてしまい、科学の発展に基づく豊かな暮らしをすることが、人類共通の願望であるかのような観を呈してきました。神という人間が作り上げた絶対者はまた、科学万能の世界では、消えたも同然になったのです。
 だが20世紀の後半。その科学文明が実は、自然をそして人間社会をも破壊するものであることが明白になるにつれて、またもや神が復活してきました。そしてそれは異なる人間社会を守る絶対者として、異なる人間社会を力で屈服させることを許す存在として登場してきました。アメリカが代表するグローバル資本主義と戦うイスラムの神として。グローバル資本主義がその繁栄の裏側にどんどん拡大する貧富の格差と各民族固有の文化を破壊することに対抗する力としてのイスラムの神。また、そのイスラムの力に対抗してアメリカが代表する民主主義という神を世界に広めるキリスト教の神として(日本では、様々な新興宗教の神々の姿をとっていますがね)。でもこれはまた神の名による殺し合いの容認でしかないこともまた明らかとなりつつあります。そしてその中で、ジハードの名の下に命を散らせた家族の死に、遺族は「神に召された」という教義では割り切れない心情を吐露しているように思えます。またこれは、「民主主義のための聖戦」の名の下で命を散らせたアメリカの若者の遺族にも、同じような心情が見て取れると思います。「神は戦いを勧めるものなのか?」「戦いの果てに平安は本当に訪れるのか?」「これで死者も生者も救われるのか?」「神とは、人々に平安をもたらすものであるべきなのに」、という心情が。
 国家神道によって多くの宗教の生命力が脅かされ、神国日本の敗戦と戦後の豊かなアメリカ式生活の蔓延の中で神がほとんど死んでしまい、既成宗教が人々の精神生活の規範とはなっていない日本であれば、人々が神の教理に包摂されず、そこからはみ出す心性を持っていることは十分理解できます。そして信仰そのものの力が薄れている西欧でも、同じことは起こっていると理解できます。しかしイスラムの力の強い中東でも、神は十全には人々を捉えてはいないこともまた確かであり、これをどう理解したら良いのかが問われてきます。
 21世紀の現代は、もういちど人間が神を求める時代となっています。でもそれは表面の出来事なのであって、実際は、今までの価値観がガラガラと音をたてて崩壊する中で、真に平安な暮らしはどのようにしたら実現するのか、いや、その真に平安な暮らしとはどのようなものであるのかを模索する過程での、その精神の揺らぎの一時的な表現なのだと思います。しかしこの時、すでに一度地に落ちてしまった既成の神の力では、この揺らぎを納めることは出来ないのではないでしょうか。キリスト者であるあなたに、こんなことを言うのはおかしいのですが。
 人間が作り出したありとあらゆる神の権威が地に落ちたとき、人間は、自分自身があるものによって生み出された一つの生命体に過ぎない事に気がつき、自分を含めた全ての生命体の中に貫かれている一つの論理に身を委ねようとしているのではないでしょうか。現代を象徴するキーワードは「共生」です。異なるものがそれ自身としてお互いを認め合い共存する。それは人間の内部にある様々な異なりを越え、さらに人間という一つの生物種を超えて他の生物種との共生へ、そして生物を取り囲む自然環境そのものとの共生へ。神という言葉を使いたいのであれば、そこでは神は、その生命体の全体そのものが神なのだと。
 人間は1万年ほどに渡る旅路の果てに、今また自然の懐に抱かれる存在に戻ろうとしているのではないでしょうか。そこにしか人間の生きる道はないということへ。そこでは神の姿も変わってきます。そして科学の役割も、人間社会のありかたもまた。

 「千の風になって」という詩と歌が流行っていることは、どうもそういうことを示しているのではないでしょうか。

2007年3月1日

コアラ

Kさんへ


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