★Kさんへの手紙8:メディアが流す歴史番組の嘘★

2007年4月7日

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 今日は4月5日。全国的に小中学校の入学式が行われる日ですね。転勤された学校で初めて迎える新入生。新しい人との出会いに胸膨らませての初々しい顔・顔・・・。Kさんは、担当はどの学年になったのでしょうか。この新入生たちにきちんとした知識を、学校教育を通じて与えてやりたいですね。

 ところで話しは変りますが、先日来、関西テレビが制作した「あるある発掘大事典2」の捏造問題が話題となっており、公共的な役割を果たすメディアにおいて嘘が流されることが問題視され、総務省は再度同じようなことがあれば放送局としての電波の割り当てを解除する処分を発動するとまで脅しました。メディアが虚偽の放送をしたからといって、それをもって放送局として存立できないような処分を権力が発動することの恐ろしさについては様々な人が指摘していますが、メディアが虚偽の放送をすることは何もこの番組だけの事ではなく、日々のニュースを始めとして様々な分野での報道を批判的に見る必要があることについてはあまり指摘されていません。
 これは「あるある」の場合は、「科学的」を標榜して作られた自然科学に基づく番組なので、その放送内容が科学的に見て根拠の無いものかどうかが比較的良くわかるからだろうと思います。日々のニュース番組、例えば今イラクは内戦状態になっていますが、その原因は宗派の対立にあるかのような報道が日々なされています。しかし真の原因は、アメリカがイラクに武力介入して政権を崩壊させ、アメリカの占領統治の下で、「イラクは宗派ごとに分断された国家で一つにまとまった国民国家ではない」という誤った認識に基づいて憲法制定議会の議席配分を宗派の人口比、しかも客観的な根拠が無い人口比で決めてしまい、そのため宗派の名を借りた地域・部族間対立が激化してしまったことにあることは、日々のメディアの報道ではなされていません。しかしこれに対して「捏造」であるという非難は少ないのはなぜでしょうか。これは自然科学のように比較的単純に白黒が付けられるものではなく、「それも一つの見方にすぎない」という言い方で、メディアが偏った(この場合ではアメリカのブッシュ政権寄りの)見解に沿って報道していることも「捏造ではない」と言い訳できるからでしょう。多様な味方が並存できる社会科学だからこそ、こういういい訳も可能です。
 というわけで、メディアの報道にはたくさんの「間違い」や「嘘」・「捏造」が隠されている可能性が高いわけです。

 そのメディアの報道の中でも「歴史番組」の報道にかなりの間違いや嘘が含まれていることについても、あまり指摘されることはありません。そして、歴史認識の正確さが、現代をどう理解するかを規定し、未来への構想を左右するのに、歴史の問題については、現代史以外はほとんど問題にされません。
 最近毎日新聞だったと思いますが、「歴史番組」にはかなり間違いがあることが指摘されました。  それは鉄砲伝来と信長による鉄砲の大量使用に関って出されたもので、この時代の鉄砲史などに詳しい市井の歴史家である鈴木真哉氏(主著は「鉄砲と日本人」洋泉社刊)が指摘したことに関しての記事でした。いわく、「鉄砲は種子島に最初にもたらされたわけではない。倭寇によって日本各地に同時的に鉄砲がもたらされたことは鉄砲研究家の宇田川氏によって(「真説 鉄砲伝来」平凡社新書刊他)、各地に形態のことなる鉄砲が伝来しその異なる鉄砲に基づいた古式砲術が残っていることからも証明されている」「武田騎馬隊などというものはない。当時の日本産の馬は今の道産子のような背の低い足の太い馬であって、力は強いが足は遅く、荷物や人を乗せる移動手段であって、数十キロになる鎧を着た武士を載せて全力疾走で突撃など出来ない。戦闘の時は騎馬の武士も馬を下りて徒歩で戦うのであり、敵が逃げ出したときの追撃戦に際して馬に乗って戦うぐらいだ」と。
 この後者の指摘は、NHKが放送している大河ドラマ「風林火山」に関するもので、「歴史ドラマと言えども歴史認識に与える影響は大きいのだから、きちんと史実に乗っ取って描いてもらいたい」との鈴木氏の注文も掲載されていました。そしてこれに対するNHKの「回答」は「大河ドラマはドラマであって必ずしも史実を伝えていないことは視聴者も了解済みのこと」であり、訂正するつもりがないことが明瞭でした。
 しかしこのNHKの回答はおおいに問題だと思います。
 なぜならば、一般の人が歴史について知識を得る場として最も重要なものが、放送メディアが流す歴史検証番組と歴史ドラマ、そして小説家が書く歴史小説だからです。歴史の教師であった私が言うのも悔しいですが、残念ながら学校で行われる歴史教育は、一般の人の歴史認識の基礎にはならず、受験が終わってしまうとほとんど忘れ去られてしまっているのが現状です。そして「歴史書」を標榜する歴史学者が執筆した研究書の多くは取っ付きにくいので、ちょっと歴史に関心ある人が手に取るのが、小説家が書いた歴史小説(最近ではさまざまな歴史本を小説家が書いていますが)であり、それを基にしたテレビ番組の歴史ドラマであります。また少し歴史に興味を持った人が見るのが、例えばNHKの「その時歴史が動いた」のような歴史「検証」番組であるわけです(最近は新書版で分かり易い歴史研究書がたくさん出ているのですがあまり知られていません)。
 学校の歴史教育は、その基本となっている歴史教科書が単なる「事実」(ここにもたくさんの間違いがあることについては、僕の著書「徹底検証新しい歴史教科書」を見てください)の羅列になっていて、一般の人が興味を寄せる歴史事実の歴史的な意味などもほとんど解説せず、無味乾燥なものになっており、しかもそれを受験知識として覚えこまされるので、歴史認識を形成する基礎知識としても役に立たないものになっています。その上歴史教科書の記述は基本的には数十年の単位で歴史研究のレベルから遅れており、この意味でも歴史教育によって与えられる知識は、たくさんの間違いを含んでしまいます。その上に文部科学省による教科書検定が行われているのですから、歴史教科書の示す歴史認識は、ますます事実とかけ離れたものになってしまいます。
 先日行われた高校歴史教科書の検定において、沖縄戦における住民の集団自決については、当時の守備隊長であった人がそんな命令を下していないとして、軍の指示で集団自決が起きたと記述した大江健三郎氏の「沖縄ノート」の出版差しとめの裁判を大江氏と岩波書店を相手取って起こしていることだけを根拠にして、住民の集団自決には軍は関与していないという記述に差し替えました。このことに見られるように、権力による歴史捏造の所産となってしまう危険性すらもっているわけですから、教科書と学校の歴史教育は、ますます一般の日本人の歴史認識を形成するには役立たないものになっています。

 こんなことを考えながら、昨夜(4月4日)のNHKの「その時歴史は動いた」を久しぶりに見てしまいました。見ながらなんと酷い偏った見方の歴史番組だと腹が立ってしまいました。
 この番組の主題は、もし上杉謙信が病死しなかったら織田信長の天下はどうなっていたかというもので、作家をコメンテーターとして番組は進行していました。
 しかしこの番組はあまりに偏った見方に依拠して作られていました。
 一つは「謙信は義によって戦いをした」のであって「私利私欲」によって戦いをしたのではないという命題です。その根拠は二つ。戦を好まない謙信は貧しい越後を豊かにするために当時の代表的な衣服材料であった麻の一つの「あおそ」の生産を奨励し、自ら京都に出向いてトップセールスをして、その結果越後は豊かな国になったというもの。そして二つ目の根拠は、謙信が戦をする場合には、他の大名からの援軍要請によって立った場合が多く、戦をしても謙信の領土はほとんど増えなかったというもの。
 そしてこの二つを根拠として「義のために戦った謙信」を番組は、高く評価しました。
 このため最初は足利将軍家再興に尽力するとの織田信長の言を信頼して同盟を結んだ謙信でしたが、足利将軍家を追放して「私欲」に基づく天下統一を果たそうとする織田信長に対して謙信は怒りを爆発させ、追放された将軍足利義昭と彼を支援する大名大内氏、さらに大阪の石山本願寺と連携して反信長連合を形成し、数万の大軍を率いて上洛戦を始め、1577(天正5)年9月に加賀の国(石川県)の手取川河畔の戦いにおいて、織田の武将・柴田勝家率いる4万の大軍を3万の手勢を率いて撃破した。そして後顧の憂いを取り除くために一旦軍を越後春日山に引いて、さらに6万の軍勢を率いて関東平定を果たしたのちに信長討伐のために上洛戦をしかけようとした。しかしその矢先に謙信は1578(天正6)年3月に脳卒中で49歳の生涯を終えた。
 この手取川の戦いにおいては、謙信は織田軍得意の鉄砲を大量使用した戦闘法を使わせず、夜は対象が見えず雨に弱い鉄砲の弱点をついて、雨の中夜襲を敢行し、鉄砲を使えない織田軍は混乱して退却しようとしたが、おりからの豪雨で氾濫していた手取川の濁流に多くの将兵を失い撤退した。このとき謙信が語った言葉として「たたかってみると織田は弱い」という後世の軍記の記事を引用し、織田包囲網も出来ていたのだから、もし謙信が病死しなければ織田の天下はなかったであろう。織田信長は伝統的権威を否定して統一国家をつくろうとしていた。これに反して上杉謙信は伝統的権威である足利幕府を再興して、諸大名が分立する国家を維持しようとしていた。この意味で謙信の病死は、伝統的な大名分立の世から統一国家へと大きく歴史が動いた分岐点だった。このように番組は主張したのでした。
 歴史を詳しく知らない人が見たら、たぶん取りたてて疑問を持たないような番組構成だと思います。しかしこの番組は、その根拠とした歴史認識に、数多くの間違いが存在します。その第一が、「謙信が義によって戦い、私利私欲で戦っていない」という前提です。
 たしかに謙信が越後国外に遠征するときの大義名分は「窮地に陥っている者を助ける」ことでした。だから戦に勝っても謙信の領地はほとんど増えません。しかしこれは大義名分であって、実際の戦闘の目的ではありません。この点を詳しく解明したのが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」(朝日新聞社刊)でした。氏の分析によると謙信が国外に遠征した時期の多くは、冬だという。秋の終わりに出陣し、多くの場合は春先の田植えの時期の前に帰国し、長いときは夏まで在陣している。そして戦闘に際して何をしているかというと、攻めこんだ国で田畑の作物を刈り取ったり、町や村を襲って人々を捕虜にして、その家族に身代金を納めさせたり、捕虜を人買商人を介して奴隷として売り払ったりして、他国に攻めこんだ上杉軍は、他国で冬の間の食料を確保するとともに、大いなる戦利品を持って帰国したのだ。つまり謙信が他国に攻めこんだときの真の目的は、大軍団の冬季の食料を他国の略奪によって補い、貧しい越後の国力を維持することであったというのだ。そしてこれは上杉氏だけではなく、武田氏も北条氏も九州の島津氏などもほとんどの大名にとって、他国に攻めこむことの目的であったと藤木氏は指摘しています。
 つまり上杉謙信の他国遠征は名分としては義のためであったが、真実は越後の国益のためであったのです(実は越後が麻織物の生産で豊かになったのは江戸時代になってからのことです。その始まりが謙信の時代であっただけ)。でも国益を掲げた戦では大義名分がなく味方も増えないから、他人の救援や出きれば伝統的権威の出兵要請が必要だったというわけ。彼が関東に出兵したときの大義名分は、関東管領上杉氏が関東を侵略する小田原北条氏からの救援要請であり、関東管領滅亡後にその名跡を継ぐことを将軍家に認めさせたのは、継続的に関東に攻めこんで国益を図る大義名分が欲しかったということになります。
 そして多くの戦国大名にとって伝統的権威とは、このようなものだったのです。
 戦国大名の利益は第一に自国を豊かで平和にすること。そのために戦国大名の多くは謙信のように殖産興業をはかったのですが、手っ取り早い方法は、豊かな他国を侵略して略奪したり、領土として併合することでした。この際に、戦いに大義名分を与えてくれるのが足利将軍家であり、関東管領家であったのです。また強力な隣国に攻められた時には、まいないを送って将軍家に停戦命令を発してもらい、それで急場をしのぐことも多くの戦国大名がやっていたことでした。だから上杉謙信を始めとした戦国大名の多くは、足利将軍家を支持したのです。
 そしてこのことは織田信長とて同様でした。
 しかし忘れてはならないことは、この時代には将軍が二人いたことです。足利義昭の兄足利義輝を暗殺して政権を握った三好三人衆は、義輝の従兄弟の義栄を将軍に擁立し、朝廷も認めました。その義栄を追放して将軍になろうとしたのが義昭であり、彼を支持するという点でも、上杉謙信と織田信長は同じ立場に立っていたのです。だが織田の畿内支配が進展するとともに、足利義栄の幕府は実態を失い、幕府といえば義昭の幕府だけになりました。そしてこの過程で、義昭は傀儡に甘んじるのが嫌で、反織田で連合するように、旧義栄派の諸大名に文を送り、そして旧義栄派の足利将軍と深い縁戚関係にあった石山本願寺がこれに加わって反信長連合ができたのです。このためどうしようも無くなった信長は、武田信玄の死によって反信長連合が解体されたことを契機に義昭を追放し、彼の幼い息子を事実上の将軍として推戴して、形の上では足利幕府を継承しました。つまり1573(天正元)年7月の義昭追放によって、またしても将軍が二人いることになったのでした。そして上杉謙信は将軍義昭を支持して信長と敵対した。この二人将軍のことについては、藤田達夫著「謎とき本能寺の変」(講談社現代新書刊)が詳しく論証しています。
 歴史的事実はこのような事だったのです。
 今述べたことは、この20年ほどの間の歴史研究の成果です。
 番組が依拠した最新の歴史研究は、信長が狩野永徳に書かせて謙信に送った「洛中洛外図屏風(上杉本)」の中央に、将軍御所に輿に載って入ろうとする貴人が描かれており、これが謙信だということ。だからこの屏風を謙信に送って、義昭は追放したが新しい足利幕府は謙信が中心となって運営して欲しいという信長の意思が、この図柄に示されているということを明かにした黒田日出夫氏の研究だけでした(黒田日出男著「謎解き 洛中洛外図」岩波新書刊に詳しい)。
 しかしNHKの番組は、これらの最近の歴史研究成果に依拠せずに、「謙信が義によって戦った」という通説と信長は義昭追放で足利幕府を滅ぼしたという通説に依拠して番組を構成してしまいました。謙信もまた豊かで平和な越後を築くという私利私欲で戦っていたのあり、そのために信長が担いだのとは別の将軍を担いだのです。
 また番組が依拠した通説で二つ目の大きな間違いとして、番組が、織田軍の戦闘方法が大量に鉄砲を使用することだとしていることがあります。これは教科書でも流布された「長篠の戦い」に対する誤解です。
 実は織田信長が大量の鉄砲を用いて戦闘したのは、この武田との戦いだけです。しかも「長篠の戦い」は単に鉄砲を大量に使用した戦いではなく、3重の堀と3重の土塁で構築された広大な野戦用の城を築き、その城に篭って土塁の銃眼から大量の鉄砲を浴びせたことにあります。
 戦国時代の戦いについてはおおいに誤解されてきました。まず先に述べた騎馬隊の問題。そして二つ目に、当時は全軍での突撃などはなく、1000人規模程度の軍団に分かれた本隊が、軍団ごとに一つまた一つと交代で戦闘し、疲れた軍団は後続に交代して新手が戦闘を継続するというやり方であり、全軍で進撃するのは、敵が負けて撤退しようとしたときの追撃戦しかないということです。だから「長篠の戦い」でも武田軍はこの戦の定法に従って、1番隊・2番隊・3番隊と順番に攻めこんだのです。しかしそこには武田の予想に反して、3重の堀と土塁が築かれ、堀を渡って土塁に近づくと、そこから大量の鉄砲が仕掛けられる。当時の鉄砲は300メートルぐらいは届きましたが、鎧を貫通するほどの威力を発揮できるのはせいぜい30m以内。武田軍は堀を攀じ登ったりはしごをかけてわたって、堀の後ろ数十メートルにある土塁に取りつこうと近づいたところを大量の鉄砲の一斉射撃にあうわけ。だから鎧を討ち抜かれて兵は倒れる仕掛け。しかも戦の当日は霧が掛かっていて戦の様子は後方からは見えないし、数日来続いた雨で地面はぬかるんで走れない。武田軍は先鋒が次々撃破されているのも気づかずに順番に突撃して撃破され、霧が晴れてみると敗北が明らかとなって総退却。織田軍はここで始めて野戦城から出て、総力をあげて追撃して武田軍を撃破したというわけ。
 「長篠の戦い」の真実とはこういうものであることが、近年砲術研究家などの努力で明らかになっているのですが、NHKの番組はまったく無視しています(名和弓雄著「長篠・設楽原合戦の真実」雄山閣刊が詳しい)。
 そして織田信長がこのような野戦城を築いて戦ったのは、これっきりです。それは準備に大量の人力と財力がいり、しかも長期間の準備期間がいりますので、後顧の憂いなく全力を投入できる場合にしか使えない方法であります。そしてこの時は、前年1574(天正2)年7月に頑強に抵抗していた伊勢長島一向一揆を殲滅したことで、石山本願寺との戦いも優勢に進められ、一時的に信長包囲網が崩壊していたとき。全力を集中できたし、本願寺主力などとの戦に備えて兵を温存したい時。こういう条件が重なって「長篠の戦い」はあったわけです。これ以外の戦いはすべて、信長も伝統的な1000人規模の軍団ごとに戦う戦闘法を用いており、その武器も槍と弓矢です。当時の鉄砲は初戦の第1軍同士の突撃の合図として、従来は一斉に矢を放っていたのが鉄砲の一斉射撃に変わっただけです(前記の鈴木氏の著作を見てください)。
 だから加賀の手取川河畔の戦いで柴田勝家が取った戦法も伝統的なもの。しかも彼は織田方の能登守護畠山氏がろう城する能登七尾城救援のために出向いたのですが、上杉軍がすでに七尾城を攻め落として物資の確保道も保持して全軍で南下できる体制を構築していた事もしらずに、七尾城救援のために手取川を渡ってしまい、しかもそこで遭遇した上杉軍に対して、川を背にして陣を敷くという失態を演じたのでありました。通常は川を挟んで対陣するもの。こうすれば夜襲をうける怖れも、撤退の時に川にはまっておぼれることもありません。要は、手取川の敗戦は将軍であった柴田勝家の情勢判断の誤りであったのであり、織田軍が上杉軍に比べてきわめて弱い軍団であったわけではありません。
 このようにNHKの番組は、その前提としていた戦闘についても誤解しているのです。
 さらに番組の誤解は続きます。
 加賀の南にはまだ大平原が続く越前国があり、その南の滋賀に進出するには山を越えねばなりません。例の信長死後に、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った近江と越前の間の山々。そして滋賀は織田の戦力圏の中枢です。当時の織田は主力を大阪の石山本願寺包囲に貼り付けにされていましたが、本願寺には外に打って出る力はありませんし、援軍の毛利も、水軍で食料を運び入れるだけで、足利義昭の命に従って大軍で畿内を攻め落とすつもりもありませんでした。だから織田は南下してくる上杉に対して主力を割くことも可能でありました。そのために近江の北の入り口の長浜に羽柴秀吉が城を築いて守備したのですし、信長自身も近江の中心に安土城を築いて守備していたのです。そして近江で軍を移動させる最大の武器が、琵琶湖を使った水運なのですが、織田方の二つの城は(正しくは明智光秀の坂本城も含めて3つ)琵琶湖に面して作られており、織田軍は大船で琵琶湖を移動して、必要なところに大軍を移すことができました。上杉軍が近江を南下しようとしても、湖を使った織田主力と戦わなければならなかったのです。そこで果たして長距離を進軍してきた上杉軍が勝てるのでしょうか。
 さらに本当に上杉は後顧の憂いなく上洛戦を戦うことができたのでしょうか。
 そうではないことは、謙信が手取川の戦いの勝利のあとそのまま進軍せず春日山に戻り、翌年になって関東平定のための大軍を動かそうとしていることに示されています。謙信の背後には、関東を抑える北条氏がおり、さらには信濃も抑えた武田もまた健在です。北条からは養子をもらっているので当面は同盟関係ですし、武田も義昭の命で上杉と同盟していても、いつこれが壊されるか分かりません。信濃や上野との国境を破られると、謙信の居城春日山はすぐです。この状態では、総力を挙げた上洛戦などできる相談ではないのです。
 こういった事実を番組は完全に無視しました。
 したがって上杉謙信が死なずとも、それで織田の天下が崩壊したかどうかはわからないのです。それを一方的に番組は切り捨ててしまいました。

 ところで織田信長のことを正しく知ったところで何になるのかと思われるでしょう。こんなに昔のことを正確に知らなくても、現代には関係無いと。
 そうです。だからNHKは歴史研究を無視した番組を作って流せるし、これに対する抗議も少ないのです。しかしこの認識は誤っています。
 なぜなら、この時代の戦いが、近世江戸時代を作ったのであり、江戸時代の社会を基盤にして近代日本があるのですから、江戸時代認識が間違っていると近代日本認識もまた間違うのです。
 番組の前提の最大の間違いは、近世江戸時代は幕府中心の統一国家だという認識です。
 江戸時代は統一国家ではなく、幕府とは半ば独立した多数の大名国家・藩が分立した今流に言えば連邦制国家だったのです。一つの国にならなかった。だから欧米の脅威に対抗するために明治維新を行って統一国家日本を作らねばならなかったのです。明治維新は日本国民国家を作った革命だったのです。この意味で明治維新は、17世紀のイギリスの革命や18世紀のフランス革命、さらには19世紀の1848年から1870年まで続いたドイツ統一戦争と同様に、近代国民国家を作った市民革命だったのです。
 そして江戸時代とは違う統一国家を作ろうとしたのは信長です。彼は大名制度すら廃止しようとしていた形跡があります。日本全国はすべて神である信長の領土とし、武士は全て彼の官僚にして、彼が全国を統治する。そのため将軍と天皇は彼の血縁の者がなって彼に権威を与え、二つの伝統的権威を超越した彼が全国を統一する。ヨーロッパの市民革命で倒された絶対王政みたいなものを彼は構想していました(この点は、秋田裕毅著「神になった織田信長」小学館刊、今谷明著「信長と天皇―中世的権威に挑む覇王」講談社現代新書刊に詳しい)。これを嫌った大名や天皇たちの共同で起きたのが本能寺における信長暗殺。そして後継者の秀吉もまた信長に近い考え方であって、かれは大名の領土の中枢に、自分の蔵入り地という領土を組みこんで大名を統制し、中央集権的国家を目指しました。しかし彼が途中で病死して、そのような中央集権化に反対する大名の頭であった徳川家康が関ヶ原で勝つことで、近世江戸時代は、幕府を中心とする連邦制の国家になったのです。絶対王政よりは中央集権化が弱い連邦でした。
 だから大名が分立する時代から統一国家への歴史の分岐点としては謙信の死は一つの時代の区切りであったのですが、この分岐点は正しくは明治維新なのです。
 近世に向かう時代は信長が構想した中央集権的統一国家ではなく、信長の死と秀吉の死で、統一国家から連邦国家へと動いているのです(このあたりのことは笠谷和比古著「関ヶ原合戦−家康の戦略と幕藩体制」講談社メチエ刊に詳しい)。
 以上ちょっとくどくなりましたが、徹底検証新しい歴史教科書近世編を執筆する過程で知り得た歴史事実を背景にして論じて見ました(近世編は秋に出す予定。現在は僕の個人サイトで見られます)。

 NHKの「その時歴史は動いた」は、歴史検証番組です。歴史ドラマ以上に番組の正確さが求められます。そして歴史を検証する上で、歴史研究の進展は無視できません。なのに番組は、ここ20年ほどの歴史研究の深化を無視して、古い従来説に依拠したまま間違った歴史を提示してしまったのです。NHKはかつて、「歴史誕生」と言う優れた歴史検証番組を放送しました。この番組は最新の歴史研究に依拠して通説をひっくりかえすというとても面白い番組でした。だから毎回の放送は、それぞれの分野での最新の学説を展開する気鋭の学者をコメンテーターとして招き、学者と歴史小説家の討論という形で番組が進められ、多くの歴史資料も動員して番組が作られました。この番組は歴史検証番組として優れたものであったので、後にすべて角川書店から出版され、僕もしばしば利用しています。
 NHKはこのような優れた実績があるのにもかかわらず、どうして今回のような安易な放送をしているのでしょうか。一つ考えられる事は、歴史研究の深化に依拠した検証番組は、つくるのに膨大な時間と人と予算が掛かるということです。不祥事もあって番組編成予算が削減されているNHKには、かつてのような歴史研究の深化に依拠して、日本人の通俗的歴史認識を改める歴史検証番組を期待できない時代に入ったのかもしれません。この意味でも公共放送の在り方が問われるわけです。

2007年4月5日

 コアラ

Kさんへ


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