人は何のために生まれてきたのか


このところ、珍しく頭を使う仕事をしている。管理職とは云いながら、普段の実態は苦情処理係みたいなモンなのだが、システム開発の真似事にも携わるようになった。仮説を組み立てては検証をするのだが、なかなか苦しくも楽しい仕事である。

通常の誤りを見つけるのは実に容易いのだが、厄介なのは出口がない問題をたててしまったときである。もちろん、たてたときは気づいていないので、この問題は解決できないとわかるまで大変な労力と時間を要する。まあ出来損ない頭の勘違いなのだが、この種の誤りには実に往生するものである。

似たような勘違いが人生を狂わしてしまうことも少なからずあるようだ。高校の同級生であり、学校の先生をしていた友人もそのひとりと思われる。彼の知人であり、やはり学校の先生である人に薦められて何たらアカデミーにいき、そこでおかしくなってしまった。彼の云うことにいちいち反論するのだが、何をいっても聞き入れない。どちらかといえば私同様小心者だった彼が、ものすごい自信で、自分のやることがすべて良い事、または、良い事につながると熱弁を振るう。いろいろ聞くと怪しげなアカデミーで「あなたは何のために生まれてきたのか」と聞かれ、答えにつまり、おかしくなってしまったようである。

「あなたは何のために生まれてきたのか」という質問に対する回答は明快である。何のために生まれようかと考える前に生まれてきたのであり、この順番をとっ違えている質問自体がチャンチャラおかしい典型的な愚問であり回答がないのである。存在が先にありきである。意識無意識を問わず、生まれてきてからどう生きるかを決定しているのである。「○×のために生まれよう、ああ、でも、この時代はちょっと無理だから、もう少し後にしよう」などということは無理な話である。

愚問について広辞苑(昭和51年版、古いね)をひくと、くだらない質問と書いてある。私見を申し上げれば、くだらない質問には二種類あって、ひとつは本質とずれたどうでもよい枝葉の事を訊く事と、もうひとつは今回のような回答がない質問である。後者のほうが厄介であり、このような愚問を意識的に使って人をはぐらかす事は罪深いことだ。

最高学府といわれる大学を出ても、知はあるのかもしれないが、智が養われているわけではないようだ。学問はディスクの空き容量を埋めるためだけにあるのではないのである。
(2005/4/27)