ろうそく火事で思う、子供の人権、行政の責任、ライフライン企業の責任、ソーシャルインクルージョン、措置から契約


初夏は空が不安定である。
時折にわか雨や雷が発生する。
落雷により、時に停電なども起きる。
数十分なら「風流だねえ」などと戯言をいいながらも我慢できよう。
しかし、数時間に渡れば、大事となる。
パソコン、ネット回線、電気仕掛けの電話、風呂の湯沸かし器、照明、などなど日常生活のほとんどが困難を極めることとなる。
電力会社に電話は殺到し、ニュースにもなるだろう。
それほど電気は私たちの日常生活に欠かせないものである。

さて。
電気止められ ろうそく生活 民家が全焼 小6女児死亡
東京新聞でこの記事を見た。
簡単に事実報道していただけだ。
よっぽどの変人でない限り、誰もが可哀想だと思うだろうが、それだけなのだろうか。

停電の経験からも実感できるように、電気は人間が人間らしく、ましてや6年生の子供が人として生きるために欠かせないものであるとのことについて異論はまずないだろう。
一方で電気は商品である。九州電力から電気を買っているわけだから代金を払わなければ商品を渡さないというのも理屈としては成り立つと思う。
しかし、電気を消費するのは成人の世帯主だけではない。
消費者は家族全員であり、そのなかには代金を払えないことについてなんら責任のない子供も含まれていることを電力会社は自覚して欲しい。
人間らしく生きる条件のひとつを、商品としてではあるが、提供していることを再認識して欲しい。
「代金を払わないものにまで商品を提供する必要があるのですか、それは回りまわってあなたたちの電気単価の値上げになるんですよ。」というかもしれない。
売り言葉に買い言葉的に、「お金、ほんとにないの?」と、日頃の交際費やいまは自粛しているらしい政治献金、反原発運動つぶしの工作資金などなどについて質問したい事もあるのだが、そんなことを云っても始まらない。

誰が最も大きな責任を持つべきなのか。
行政である。
繰り返しになるが電気料金を払えないことについて何ら責任のない子供の日常生活が成り立っていないのである。このことに着目し行政が人権の問題として責任を持つべきである。
例えば、こんなことはできないだろうか。
電気料金を払わないことを理由に電気を止める世帯について行政に予め通報する。
行政は家族構成を調べ(住民票で簡単でしょ)、子供がいれば、すぐには電気を止めさせない措置をとる。
次に該当世帯を調査し、払えるのに払わないのであれば、親の子供に対する虐待として子供をすくう手立てを講じる。
払えないのであれば親も含めて生活保護などの措置を行う。

福祉の基本理念のひとつにソーシャルインクルージョンがある。社会的包含と訳されるが、まあ一言で言えば「生活の落ちこぼれを無くそう」ということである。とてもよい理念と思っているが、社会という言葉で行政の責任を薄めてはならないと思ってもいる。行政の絶対的責任の下に社会の構成要素たる個人、企業、団体などの協力関係の構築が急務なのだ。


補足または蛇足
その1 個人情報保護法
行政への通報について個人情報保護法との関係で不可能ではないかとご心配の方もおられるかもしれません。個人情報保護法は「あれもダメ、これもダメ」というような法律ではなく「あれこれをするにはこうやっておきなさい」という法律です。この場合でいえば電気を止めるときには予め行政に通報することを電力会社に法令で義務付けてしまうか、電力会社が行政へ通報することをホームページ等で公表し、それについて個人レベルでの反対がなければ何ら問題ありません。このようなケースは事の重大さから前者が適当と思います。

その2 措置から契約へ
福祉は措置から契約へと大きく流れが変わりました。しかし、その行き着く先が今回の事だと思われて仕方がありません。契約ということは、業者と個人の相対のこと、私人間の契約の問題として基本的に扱われ、今回の新聞報道が事実関係のみを報道したように料金を払わない(もしくは払えない)ということによる契約の解除について社会が何の疑問も抱かなくなり、行政の責任については何も問われなくなります。行政の責任をきちんと位置づける必要があります。