ミドリイガイの採卵と飼育
はじめに
付着生物の研究材料としての有望種にタテジマフジツボとムラサキイガイが挙げられる。タテジマフジツボは内湾の河口域付近に分布
する種で、自然界では主に夏季を中心に幼生を放出する。一方、ムラサキイガイは内湾の港湾施設の至る所で見られるものの、冬型のイ
ガイであり、初夏から秋の間は生殖巣が発達しないために幼生を得ることが不可能である。
本試みは、夏季においてイガイ類の発生試験を実施するにあたり、夏季に成熟するとされるミドリイガイを対象にその採集と採卵を行
ったものである。
1 ミドリイガイについて
1.1 分布と採集
ミドリイガイはインド洋・西大西洋・ペルシャ湾原産のイガイであり、1967年に日本での分布が確認された帰化生物である。貝料理用の
食材として広く利用されている他、栄養補助食品としても知られつつある。
わが国の中部地域における分布としては、東京湾、相模湾、三河湾、熊野灘、大阪湾等が知られているが、あまり一般的ではなく、最
低水温との関係でかなり偏在しているものと考えられる。今回の試みとしては、研究所近傍の相模湾と駿河湾に的を絞って分布を調査し
た。調査結果は図1−1に示した通りで、相模湾では藤沢市の江ノ島で、駿河湾では沼津市の内浦湾でのみ分布が確認された。
図1−1 相模湾・駿河湾調査結果(●は分布しない●は分布する)
1.2 異なる生態について
ミドリイガイの分布調査と採集は8月に実施している。同時期にもかかわらず、江ノ島と内浦湾では異なる性質が見られた。江ノ島で
はミドリイガイが確認されたヨットハーバーの表層ブイに5〜10mm程度の幼貝が多く見られたが、越冬個体と考えられる成貝は表層では
全く見られず、水深3m程度の垂下ロープ上に1個体が確認されたのみである。一方、内浦湾では、船底掃除のために陸揚げされた小型
ボートの底や、修理のために陸揚げされた湾内に浮かぶ養殖生簀のブイに成貝のみが付着し江ノ島で見られたような幼貝は全く見られな
かった。このことは東京湾についても言えるようで、東京湾内には2グループの生息しているようで、京浜運河では毎年12月頃に幼貝が
見られるが、もう一つ5月頃に見られるグループが存在するとのことである(HP情報)。今回内浦湾から採集した個体は、基本的にはす
べてが成熟個体であり、産卵刺激によりすべての個体が放精または放卵した。このことは、8月には未だ放卵が行われていなかったこと
を物語っている。このことから推測すると、ミドリイガイの2グループは、
A.晩夏〜秋口(9〜10月頃)に産卵する系統
B.晩春〜初夏(5〜6月頃)に産卵する系統
の存在が考えられ、相模湾の江ノ島ではB系統が、沼津の内浦ではA系統が分布している可能性が高い。
1.3 周年サイクルと水温
今回の踏査結果並びにミドリイガイの生態に関する知見より、ミドリイガイに関しては次のことが推測できる。
@周年サイクル
水深3m以深(水温10℃以上)での越冬⇒水温15℃以上での成長⇒
○B系統・・・水温20〜25℃付近での産卵⇒稚貝の全域分布(夏季)
⇒水深3m以浅(水温10℃以下)の個体群斃死
○A系統・・・水温25〜20℃付近での産卵⇒稚貝の全域分布(晩秋)
⇒水深3m以浅(水温10℃以下)の個体群斃死
A垂直分布
上の推測より、越年個体は水深3m以深、当歳個体は全域と考えられる。
B生物学的最小形
予備試験の採卵実績から推測して、殻長25〜30mm程度。
2 餌料生物培養
2.1 餌料生物の入手
実験全体を通して以下の生物を入手し、培養管理した。
@Chaetoceros calcitrans(海産)
商品名:サンカルチャー、販売元:日清マリンテック
AChaetoceros didymus(海産)
民間譲渡株
BSkeletonema costatum(海産)
本業務用に単離培養した焼津港産株
CCyclotella meneghiniana(淡水産)
民間譲渡株
DTetraselmis striata(海産)
民間譲渡株
2.2 餌料生物の培養
(1)使用培地
以下の組成を全添加物として、単純エンリッチには@〜E+L+Mを、海産珪藻培地には@〜E+L+M+Gを、海産鞭
毛藻類には@〜E+L+M+Fを、淡水珪藻にはMに換えて蒸留水を用いて調製した。珪藻では単純エンリッチ海水のみで
の長期間培養ができない種があり(基本的にはすべて)、保存培養や栄養強化にはすべての組成で培地を調製した。
@ NaNO3・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20mg
A Ca(NO3)2・4H2O・・・・・・・・・・・・・ 60mg
B KCl ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10mg
C MgSO4・7H2O・・・・・・・・・・・・・・ 20mg
D Na2glyceroPO4 ・・・・・・・・・・・・・ 10mg
E FeEDTA ・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.5mg
F MnEDTA ・・・・・・・・・・・・・・・ 1.5mg
G Na2SiO3・9H2O ・・・・・・・・・・・・・ 50mg
H Vitamin B12 ・・・・・・・・・・・・・・ 0.1μg
I Biotin ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 0.1μg
J Thiamine HCl ・・・・・・・・・・・・・ 20μg
K PUmetals ・・・・・・・・・・・・・・・ 0.5mι
L Tris amino methan ・・・・・・・・・・・ 100mg
M sea water・・・・・・・・・・・・・ 1000mι
pH 8.0
オートクレーブ ・・・・・・・・・・・・・ 121℃15分
(2)保存培養
16ccネジ口試験管に培地5ccを調製し、細胞を接種して15℃、3,000Lux24Lで培養した。1ヶ月に1回以上細胞を
観察し、必要に応じて植え継ぎした。
(3)餌料培養
1ι容のリアクターをオリジナル製作し、これに通気装置と培地添加装置を組み合わせて連続培養装置として稼動
させた。リアクター内の藻類は対数期と定常期の境界にあり、リアクター1基当たり、1日に100cc余りの濃厚な藻類
液を生産した。この生産物は通常はミドリイガイ成体の連続飼育用餌料として自動供給し、別用途として必要な時は直
接容器に受けて使用した。リアクターは常時3基を稼動させ、1回の培地調製によって1ヶ月余りの連続培養が可能であった。
図2−1 藻類連続培養装置のリアクター構成
(4)幼生への給餌餌料
ムラサキイガイ(ミドリイガイ)幼生の飼育餌料には当初、鞭毛藻類のTetraselmis striataを用いるよう計画したが、
餌料生物としてはタテジマフジツボ幼生用餌料であるChaetoceros calcitransが適していたのでこれを主体に用い、
Tetraselmis striataは補助餌料として用いた。
(5)ミドリイガイ成体への給餌餌料
飼育の必要があったミドリイガイ成体の飼育には鞭毛藻類のTetraselmis striataとタテジマフジツボ幼生用餌料を並行して与えた。
3 成体の飼育と採卵
3.1 連続飼育装置の製作
ミドリイガイおよびタテジマフジツボ成体は図に示す連続飼育装置を製作し、飼育管理した。装置は2.7m四方の恒温室内に
立体設置している。装置は、【培地供給】⇒【プランクトン増殖】⇒【餌料供給】の流れで進み、1ヶ月に1回程度の培地の
入れ替えによって長期間の飼育が可能な構造である。飼育水の悪化を防止する目的で、併せて濾過海水の連続供給も行っている。
図3−1 ミドリイガイ等連続飼育装置の概要
3.2 飼育管理
飼育管理は、約1ヶ月に1回の培地と濾過海水のタンク交換である。リアクター内の藻類は、場合によっては1ヶ月程度で
増殖が停止することがあったが、保存培養株を接種することで数日以内に回復した。この装置によって少なくとも3ヶ月以上
の連続飼育が可能であった。
写真3−1 左:ミドリイガイ刺激槽 中:連続飼育装置 右:リアクター供給用培地タンク
3.3 採卵と幼体の確保
(1)放精・放卵刺激
ムラサキイガイの放精・放卵刺激方法を参考に予備試験を実施し、低温勾配による生物学的刺激法を
考案した。成体5個体を27℃に1週間飼育し、これを2ιの刺激槽に移し、−2℃の温度勾配を与えた。この刺激によって1時
間程度で雄個体が放精し、この刺激によって雌個体が放卵した。 (2)受精と洗浄 放精海水中に放卵した卵を約30分間放置し、
その後、刺激槽の海水全量を300μmナイロンメッシュで濾過して粗ゴミを除去した。この濾水全量を、20μmナイロンメッシュ
で濾過し、精子を除去した。20μmナイロンメッシュ上にはほぼ純粋な受精卵が回収されたので、これを新鮮な濾過海水の入った
スピンナーフラスコ(1.5ι)に移し、通気・撹拌した。
写真3−2 左:洗浄分離器具 中:洗浄受精卵 右:保存飼育風景
(3)受精卵の発達と個体発生
受精卵は、受精1時間後には分裂を開始し、12時間後には無殻の浮遊幼生となり、24時間から
48時間後にはD型幼生となった。
写真3−3 ミドリイガイの発生過程 左から受精卵(50μm),分割卵(2時間),トロコフォーラ(24時間),D型幼生(48時間)
(4)浮遊幼生の飼育
スピンナーフラスコ内で変態したD形幼生には、珪藻のChaetoceros calcitransを主体に単細胞藻類を適宜与えた。飼育水の悪化
を避けるために、2日に1回の海水交換を実施した。交換海水は飼育水と同じ温度の濾過海水を用いた。イガイの幼生はフジツボノ
ープリウス幼生のように光に集まる性質が極めて弱いため、幼生の回収は60μmのナイロンメッシュによる濾過回収とした。この方法
によって幼生を10日程度飼育可能であった。イガイ幼生は、他生物(繊毛虫やアメーバなどの原生動物)のコンタミに極めて弱く、
飼育水の状態が悪いと全滅することがあった。より確実な飼育のためには、頻度の高い海水交換の実施と、純粋餌料の供給が求めら
れる。試みの飼育では、umbo幼生までの飼育に成功している。