Asplanchna sieboldi の大量培養
1.研究目的
我々が口にする高級魚(今となっては大衆魚)の幾つかは『人工種苗生産技術』の上に達成された産物である。
例えば『アユ』に関して言えば、これの養殖技術が完成したのは高々二十数年前のことである。それまでアユは不
思議なサカナであった訳である。アユの人工種苗生産を可能にしたのは『生き餌』の安定生産技術である。この生
き餌とは『シオミズツボワムシ』と呼ばれる海水〜汽水に生息するワムシのことである。シオミズツボワムシは現
在の養殖業界には無くてはならない重要な「生き餌」で、大量生産体制の下に安定供給されている。
シオミズツボワムシは趣味の分野である『熱帯魚』の餌料としては普及していない。その理由は、本種が汽水産
であること、体長が小さい(100〜300μm程度)ことから稚魚期にしか適用できないこと、それになんと言っても大
量供給以外にはコスト高となること等が挙げられる。要するに素人相手の商品ではないのである。これを一般向け
にするためにはいくつかの技術的な壁があるのである。
汽水産の『シオミズツボワムシ』以外に餌料化に成功したワムシは見当たらない。その理由は、既に優秀なシオミ
ズツボワムシの供給技術が確立されているからである。ワムシを扱うには生物学の高度な知識が求められるため、例
えば『熱帯魚』の餌料のために研究する暇な学者は存在し得ないのである。
私の過去の研究テーマに「淡水赤潮対策のためのバイオ農薬の開発」がある。この研究の目的は、ワムシの植物プ
ランクトン捕食能を利用した淡水赤潮対策である。この研究過程で2種の淡水産ワムシの培養に成功し、その内の1
種については保存技術までもが確立し、10年を経た現在でもコップ内にワムシを湧かせることが可能である。しかし
ながら、確立した技術とは言え、未だ誰でもが扱えるまでには至っていない。
本研究は『熱帯魚』等の高級趣味分野に「生き餌」である『淡水産ワムシ』の供給を図るものであり、既に基礎段
階がクリアーされている2種の『淡水産ワムシ』の生産・保存・再生技術を確立しようとするものである。
2.社会的背景と技術的背景
(1)稚魚用餌料生物(生き餌)の現状
現在の魚類種苗生産に用いられる「生物餌料」には先の『シオミズツボワムシ』の他に甲殻類の『アルテミア』、
『ミジンコ』、環形類の『イトミミズ』、昆虫類の『アカムシ』等が挙げられ、その内のいくつかは熱帯魚の分野に
進出している。中でも特に『アルテミア』は乾燥卵の保存性があるため、扱いやすさの面から最も普及している。そ
の使用方法は、カプセル内のアルテミア乾燥卵を塩水に懸濁させ、12〜24時間程度放置する。次々に孵化するアルテ
ミア幼生をスポイトで稚魚に給餌するだけである。
『アルテミア』は扱いやすさの面において他の「生物餌料」を圧倒している。これがゆえに一般向けの商品化に成
功した訳である。しかしながらアルテミアは「海産」(塩湖)であることから、淡水魚に与えすぎると飼育水中の塩
分濃度が上昇することや、数日で死滅すること、短期間に大きさが変わること、甲殻類特有のキチン質の殻を持つ等、
供給の容易さ以外には必ずしも優れているとは言い難い。要するに、一般向けに商品化できる「生き餌」は現在のと
ころ『アルテミア』しか無いのである。
(2)餌料生物(生き餌)の理想
本来求められるべき魚類の餌料(生き餌)と現実に供給可能な餌料のギャップは大きいものがある。例えば、数十
年前に主流であったミジンコは現在でも使用されてはいるものの、魚種によっては摂食しないものもあり、これを乾
燥餌として与えた場合、ほとんどの魚種は見向きもしない。ミジンコに限らず、ほとんどの餌料生物は乾燥餌に加工
すると餌料価値が低下または消失してしまうのが実情である。魚類養殖(飼育)にとって現在最も優秀と思われる餌
料に『アカムシ』がある。アカムシはセスジユスリカの幼虫(ボウフラ)で、体径1mm程度、体長5〜10mm程度の紐
条の形態を取る。血液にヘモグロビンを有するために赤色を呈し、これがゆえにアカムシと呼ばれている。生き餌と
して与えるとほとんどの魚種は飽食に至るまで摂食する。ただし、生き餌の入手は難しい。現在出回っているアカム
シの大半は冷凍である。これをキャラメル大のブロックに割って与える。観賞魚の餌料としてはこの冷凍アカムシが
最も優れたものの一つである。アカムシは成魚用餌料であり、孵化直後の稚仔魚には使用できない。
生物餌料の理想は、『生き餌』である。場所を選ばずに簡単に養殖できる餌料の選定と制御技術が開発されれば、
爆発的ヒット商品となること間違いなしである。しかしながら高等生物の生活史コントロールは極めて難しく、保存可
能な理想的『生き餌商品』は無い。
(3)稚仔魚用餌料(生き餌)開発の有効性
前述のように、生き餌として一般商品化されたものに『アルテミア』がある。アルテミアは「海産」(塩湖)である
ことから、淡水魚に与えすぎると飼育水中の塩分濃度が上昇することや、数日で死滅すること、短期間に大きさが変わ
ること、甲殻類特有のキチン質の殻を持つ等、供給の容易さ以外には必ずしも優れているとは言い難い。従って、生活
史のコントロールさえ可能であればアルテミアをしのぐ生き餌は数多く存在するのである。
(4)淡水産ワムシ餌料開発の可能性
魚類種苗生産についてもう一度考えてみる。水産魚の種苗生産において欠くことのできない事項は、
@ 安定供給技術とルートが確立されていること。
A 取り扱いが容易またはマニュアル化されていること。
B 安価であること。
C 餌料価値が高いこと。
である。これらの内、@〜Bについては新技術の確立過程にはつきものであり、本質的事項ではない。しかしながらこれ
を一般向け商品にまで拡大して考えると、問題は@の制御技術とCの餌料価値である。餌料価値には、
@ 栄養価が高いかまたは調整可能であること。
A 稚魚が好む大きさ、形態、運動性を有すること。
である。このような条件を満たす生物はワムシである。
ワムシは多細胞生物ではあるものの、極めて単純な構造を取る生物である。増殖環境は広範囲であり、その制限要因の
ほとんどは餌料である。生殖様式も基本的には「単為生殖」であるため、条件さえ整えてやれば指数的に増殖する。ワム
シの生き餌開発の重要課題は、
@ 生活史の解明
A 食性の解明
B 保存・再生条件の解明
である。また同時に要求されることはワムシの餌の制御である。ワムシを培養するためにはワムシの餌となる餌料生物を
培養しておかなくてはならないのである。
3.基礎技術
3−1.基礎知識
(1)分 類
今回技術開発の対象とする淡水ワムシは Asplanchna sieboldi (シーボルトフクロワムシ)と Brachionus
calyciflorus (ツボワムシ)の2種である。これら2種の分類学的定義は以下のとおりである。
所属門:袋 形 動 物 門 (ASCHELMINTHES)
所属綱:輪 虫 綱 (ROTATORIA)
所属目:遊 泳 目 (Ploima)
所属科:フクロワムシ科 (Asplanchnidae)
所属属:フクロワムシ属 (Asplanchna)
学 名:Asplanchna sieboldi (アスプランクナ・シーボルディ)
所属科:ツボワムシ科 (Brachionidae)
所属属:ツボワムシ属 (Brachionus)
学 名:Brachionus calyciflorus (ブラキオナス・カリシフローラス)
(2)形態と生態
Asplanchna sieboldi は体長1,000μm程度のピーマン形を為し、常に獲物を求めて(そのように見える)水表面
を漂っている。生殖様式は卵胎生で、体内の子宮から直接同形の幼体を出産する。直後の幼体は500μm程度と小さいが、数
時間で生体の大きさに発達する。通常個体はすべて♀であるが、過密状態となると♂が発生し、有性生殖によって『耐久卵』
を生産する。耐久卵は放置すると数日で孵化する。
Brachionus calyciflorus は体長600μm程度の壺形を為し、方向性の無い動きで水中を漂っている。生殖様式は
卵生である。生活史や生態の基本部分は Asplanchna sieboldi と同様である。
図3−1−1 Asplanchna sieboldi (左)と Brachionus calyciflorus (右)の形態
新日本動物図鑑より
3−2.達成レベルと解説
ここに取り上げる2種のワムシは既に中規模培養に成功している。ここでは培養条件や増殖生理についてこれまでの研究で
明らかにされた内容についてまとめておく。
(1)分離・培養条件
対象2種類のワムシの分離・培養条件は表3−2−1に示したとおりである。研究内容はシーボルトフクロワムシの方が先
行しているため、培養培地や温度の問題は少ないが、本種が捕食する餌料は30μm程度の大きさ制限があり、運動性を有する
必要がある等、扱いが難しい点がある。
表3−2−1 ワムシ2種の分離・培養条件
(2)生活史
Brachionus と Asplanchna 属の生活史については先達の研究者によってほぼ解明されている。いずれも単性世代と両性世
代を繰り返し、耐久卵を生産する。
図3−2−1 Brachionus 属の生活史 図3−2−2 Asplanchna 属の生活史
日野(1983)より
(3)増殖生理( Asplanchna sieboldi の実験結果)
【実験条件】
供 試 体: Asplanchna sieboldi (シーボルトフクロワムシ)
: Haematococcus sp. (餌料生物)
培 養 器: 100mιスピンナーフラスコ
培 地: AFH−Vi free 基本
温 度: 20±1℃
光 : 2,000ルクス連続(White)
曝 気: エアーポンプによる緩曝気
判 定: ワムシ個体数(♀♂)、および耐久卵のカウント
※ 餌料濃度は飽和状態を保った。
【実験結果】
@ A . sieboldi の増殖
培養4日目から明らかな対数増殖期に入り、18日目で1ι中13,700個体に達した。この結果か
ら求めると、1mι中の収容限界は13.7個体、増殖速度定数はμ=0.535/dayと求められた。
A ♂個体の出現
培養6日目から雄性体が出現し、16日目でピークに達した。その変動は雌性体のそれに類似し
ている。
B 耐久卵の生産
培養14日目から耐久卵(産み落とされたもの)の生産が見られ、19日目でピーク(7,200個/ι)
に達した。1ι培養中の耐久卵生産速度は700〜1,200個/ι・day程度である。
表3−2−2 Haematococcus sp.を単独餌料とした A . sieboldi の増殖 (inds/ι)
♀:雌性体 ♂:雄性体 D.egg:耐久卵
(4)耐久卵の孵化(Asplanchna sieboldi の実験結果)
【実験条件】
供 試 体: Asplanchna sieboldi 耐久卵(採卵後2〜3カ月,5℃暗保存)
: Haematococcus sp. (餌料生物)
培 養 器: マルチウェルプレート96穴(0.3cc)に耐久卵を50個/プレート
培 地: AFH−Vi free 基本
試 験 区: 明条件 2,000ルクス連続(White)10,20,30±1℃
暗条件 20±1℃
判 定: 9日間の耐久卵個々の孵化の有無
【実験結果】
@ 温度と孵化速度・孵化率
10℃では最初の孵化が起こるまでに4日を要し、9日間での孵化率は4%にすぎなかった。
20℃では最初の孵化が起こるまでに24〜48時間を、30℃では24時間未満を要した。9日間の孵
化率は20℃で64%、30℃では60%とほぼ同率であった。
A 明暗条件による差
暗条件20℃における最初の孵化は2日目で起こったが、孵化数は少なく、9日間での孵化率は
34%であった。このことから、A . sieboldi 耐久卵の孵化には光の有無が基本要因とはならないも
のの、効率のよい安定した孵化率を得るためには光の存在が有意義であると言える。このように、
光の有無によって孵化率が変わる理由としては、エネルギー総量の違いが考えられる。
表3−2−3 A . sieboldi 耐久卵の日間孵化数の変化
(5)中規模(100ι)培養の方法
【中規模培養条件】
シーボルトフクロワムシを培養するに当たっては、その餌料となるHaematococcus sp.の培
養条件を充分に整えてやる必要がある。
表3−2−4 シーボルトフクロワムシと餌料生物(Haematococcus sp.)の培養条件
【培養装置】
ワムシの培養には100ιのアルテミア孵化槽が便利である。上面に塩ビ製のフタを取り付け、その上
面から蛍光灯(水面2,000ルクス程度)を照射する。上面のフタには管理用の注水口とエアレーション
バルブを備えるのがよい。
図3−2−3 シーボルトフクロワムシの100ι培養装置と条件
【培養管理】
100ι培養槽に80〜100ιの水道水を張り、これに1g程度のハイポ(チオ硫酸ナトリウム)を添加し、
脱塩後ハイポネックスを加える。
槽内を充分曝気後、保存培養しているHaematococcus sp.を充分量(10,000 cells/mlを0.5〜1ι)
接種する。この状態で培養を続けると7〜10日後にワムシの密度が1mι中1個体を越え、Haematococcus sp.
を食べ尽くす(水変わり現象)ため、2日に1回程度のHaematococcus sp.の追加が必要となる。
Haematococcus sp.は常時必要となるため、別に培養しておく必要がある。
これまでに、1ケ月以上の連続培養に成功した管理サイクルは以下のとおりである。
図3−2−4 ワムシ100ι規模培養の管理サイクル