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しおりんの厨房

〜 伝説の合宿所で 〜


1:
 在学中からこんなことを考えるのもなんだが、これも卒業してしまえば良い想い出になってしまうのだろう。
 想い出は美しい。いつまでも色あせず、胸のうちで鮮やかに蘇える。ああ、こんなこともあったのだなあ、と。
 ……やっぱりだめだ。

 ここ、きらめき高校合宿所では数名の屈強な男子生徒たちが汗を流していた。部活の屋内練習ではない。
 俺を含む全員が、腹を両手で押さえながらうずくまっていた。ドアの向こうから激しい水音がすると、最前列の男がのそのそと動き出す。無限とも思える長い時間の後、個室のドアが開く。
 おそらくここにいる全員がそうであろうが、俺は昨夜の冷やし中華を疑っていた――思い出してしまった。
 今はそれすら思い出したくない。この状況で起こりうる最悪の事態を、つい連想しそうになるのだ。

 無限は何倍しても無限のはずだが、無限の数倍に相当する時間を耐え、俺の肉体はつかの間の安息を得た。
 安息、とは言っても下痢による疲労感は激しく、まっとうに歩くことも難しく思われた。とりあえず脱水症状をなんとかすべく、洗面台に足を運ぶ……いや待てよ。思うところあって、行き先をキッチンに変えた。
 合宿中の調理は女子の担当だった。「料理は女の仕事」などと古めかしいことを言うつもりはないが、以前男子が料理をつくって以来、女子は決して二度の機会を与えなかった。
 横にならなかったことを後悔しはじめた時、そこに彼女の姿があった。
 藤崎詩織。
「ごめんなさい、私の不注意でこんなことになってしまって」
 詩織はすっかりしょげ返っていた。なにしろ料理の腕にもそれなりの自信があったはずだ。
 詩織の隣家に住んでいる俺は、小学生の頃から詩織の料理を「毒味」していた。
 小学生の時分から調理法を仕込まれるというのもなんだが、おかげで互いに今回のような事態は一度も経験していないのだ。
「詩織……」
 俺はなんと声をかけていいものか考えあぐねていた。背後に複数の気配を感じたのはその時だった。
「そんな! 藤崎さんは悪くないよ」
「藤崎さんのせいじゃないよ、元気出して」
「そうだよ、きっと鞠川とかがドジ踏んだんだよ」
 いつの間にやら数人の男子が詩織を取り囲み、エールを贈っていた。
 詩織は容姿端麗、学業優秀、スポーツ万能、そして何よりも人当たりのよさから人気のある女子だった。特に男子からは。
「みんな、本当にごめんなさい」
「藤崎さん……」
 涙に暮れる詩織はとうとう耐えられなくなったのか、いずこかに駆け出して行った。それを見守る男子の面々。
 しかし俺には見当がついていた。詩織が向かったのは、校舎の女子トイレだ……。

「藤崎詩織非公認ファンクラブ」の面々を尻目に、俺はキッチンを眺めることにした。
 詩織のせいで集団食中毒が発声したとは考えたくない。が、それだけに因果関係を把握することが必要だと感じていた。
 昨晩の食材は残されていなかった。部員たちの食欲を考えれば仕方のないことだった。
 ゴミ箱を開ける……すぐ閉じる。この季節の生ゴミがどうなるか、考えてみれば自明だった。
「おへぇ〜っ」
 再び気分が悪くなった俺と、目線を合わせてしまった女性がいた。高橋先生。きらめき高校の保険医だ。
「……災難ね」
「あ、せんせぇ。おはようございます」
 ばつの悪い俺は平静を装ったが、どうせ先生は俺の目の下にできたクマを見ているのだろう。
 先生の傍には詩織がいた。責任を感じた詩織が先生を連れてきたのだろう。
「またなの。まったくこの合宿所は呪われてるんじゃないのかしら」
「え……またって?」
 高橋先生の聞き捨てならない言葉に、詩織と俺は声ハモってしまった。
「実はここのところ、運動部の合宿で食中毒もどきの事件が頻発しているのよ」
「もどきって……食中毒じゃないんですか?」と詩織。
「生徒たちが腹痛を訴える度に『伊集院財団保険医療チーム』が乗り出して徹底的に調査をしたのだけれど、原因になりそうな菌や微生物の類はまったく発見されなかったの」
「伊集院財団が……市の保健所じゃなくて?」これは俺。
 高橋先生は沈黙をもって答えた。意図を察した俺も、ただうなずくだけだった。
「それに、腹痛を訴えていた生徒たちも、その翌日にはすっかり回復してしまったの。かなり激しい症状だったんだけど……」
「ますます呪いっぽいな……」

 やがて件の『伊集院財団保険医療チーム』が登場し、ゴミ箱やら水道やら何やらを調べ……全員あきらめ顔で帰っていった。
「本当に原因が分からなかったんだ」
 詩織は落胆の表情で彼らを見送った。
「でも良かったじゃないか、詩織が原因じゃないと分かって」
「全然良くないわよ」
「ひょっとして、まだ苦しい?」
 俺の脇腹には詩織の肘鉄が命中した。どうやら、かかる事態は未だ深刻であるらしい。
「がはっ……失礼いたしました。でも本当に、原因は何だろう」
「本当ね。でも呪いなんて信じたくないわ」
 そうやって首をひねる俺たちは、背後に忍び寄る影に気がつかなかった。
「残念だけど、これは呪いよ」
 

つづく

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