3:灼熱の太陽もとっぷりと暮れ、合宿所の窓に吊られた風鈴の音にもリアリティを感じる時間帯になっていた。
多くのものは回復しつつあったが、それでも夕食を摂るものは少なかった。
状況が状況だ。俺も固形食を噛み締め、スポーツドリンクで流し込むにとどめた。
夜。俺は好雄を監視すべく、後を……いや。
「おい、なんでキッチンの裏なんだよ」
「そもそもの発端は食中毒なんだ。なにかあるとすればここだろう?」
正しく言えば、俺が好雄を連れまわしていた。
「いやそうだけどさ……俺は優美のことが気になるんだよ」
「しかし女子宿舎の裏にでも行ってみろ。俺たちは間違いなく犯罪者扱いされるぞ」
「それならさ、表から堂々と……」
「好雄。さすがにそこまでは付き合い切れん。ひとりで行ってくれ」
「そんな殺生な〜」
「大丈夫。お前は一応優美ちゃんの肉親だから、言い訳が立つ」
そのとき、合宿所の玄関に人影が見えた。詩織だ。
「そんなわけだから、じゃ」
「おいおい待てよ(……って待てよ? こいつがいないってことは、女風呂を覗きに行っても……)そうかぁ残念だなぁ仕方がないからひとりで行くよぉそんじゃな」
デレデレした顔で離れていく好雄だが、詩織が入浴していないとて蛮行を許すわけにはいかない。俺は自らの非常さを感じながら、懐のPHSに手をのばした。
俺が詩織に駈け寄ったのは、そのしばらく後になった。
「おーい詩織!」
「あら、どうしたの?」
「さっきはごめん。変なこと言っちゃって」
「ううん、気にしてないよ。冗談で言ったんだよね? 元気出せって意味で」
「あ、ああ」
思い返すに、このときの俺は柄にもなく顔を真っ赤にしていたようだった。
「あ、あの……」
俺に合わせたように、詩織もしどろもどろになっていた。
「なに?」
「ちょっと、付き合ってくれる?」
俺とて若く健康な男子のはしくれだから、期待しなかったと言えばウソになる。
だがそんなものは儚く崩れ去るのが世の常だ。
「ねえ、そこから一歩も動かないでね!」
「はいはい、わかりましたよ!」
俺の立ち位置は、校舎の廊下、女子トイレから5メートル以上離れた位置……トイレの入口と、その手前に上り階段を一望できる。この場所から女子トイレに近づいても、女子トイレから遠ざかってもいけない。詩織はそう言うのだ。
男に付き添いを頼む以上、必要以上に近づかれたくないのはわかる。だが、なぜわざわざ人気のない校舎を選ぶのか?
夏休みとはいえ夜まで活動している文化部があるので、けっこう遅い時間帯まで校舎の玄関は開いている。だからってわざわざ校舎のトイレに行くことはないだろうに。
何か、合宿所のトイレに入れない事情でもあるのだろうか。それならば俺に相談……するわけないか。
そんなことを考えているとき、めまいにも似た感覚を覚えた。なんだ?
背筋を走る冷たい感覚。耳鳴りのような、頭を何かに包まれたような錯覚。そして眉間に何かを突きつけられたような違和感。
姿形は見えないが、なにかが「居る」のだ。階段の向こう……。
「ねぇ、どこへ行くのよ!」
驚いた顔をして、詩織が駈け寄ってきた。
「……何か、いる……」
俺は気配を追っている。
「ど、どこ!?」
ものを言わず、俺は階段を指さす。
「何もいないじゃない、驚かさないでよ……ちょ、ちょっと待って!」
詩織には悪いが、俺は階段を上っていった。詩織は仕方ないという顔をしているのだろう、後をついてきた。
「図書館?」
誘われるままに――この表現は的確なのだろうか?――俺がやってきた場所は図書館だった。
高校の図書室としては規模が大きい。有名大学のそれにはとてもかなわないが、高校生の勉学には十分すぎる蔵書量を誇っていた。
それだけに、夜のとばりが下りたならば気味悪さに事欠かない。
「図書館……って、あなたが自分で歩いてきたんでしょ? 用がないなら帰りましょうよ」
「変だ、入口が開いている」
校内は薄暗く、外の街灯を頼りに見るばかりだが、この時間は閉じていて然るべき図書館の扉は、明らかに開いていた。
「うそ、でしょ……?」
この段になって、俺は詩織を連れてきてしまったことをようやく後悔した。
「戻ろうか? でも……」
勝手なことだが、図書館の中が気になって仕方がない。
「帰りましょうよ。いやな予感がするわ」
「詩織、先に戻っていてくれないか」
「ここまで来たら、いっしょにいた方がマシだわ」
そういって俺の腕に手を添えた詩織は震えていた。
「ごめん」
言いながらも俺は、図書館への一歩を躊躇なく踏み出していた。