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しおりんの厨房

〜 伝説の合宿所で 〜


3:
 灼熱の太陽もとっぷりと暮れ、合宿所の窓に吊られた風鈴の音にもリアリティを感じる時間帯になっていた。
 美樹原さんのお祓いは効果てきめんだった。この場合の効果とは「逆効果」を意味するのだが。
 合宿所に何がいるのか知らないが、生徒たちの間に蔓延していた不安をいたずらにふくらませてしまったのだ。
 特に問題なのは女子だった。詩織をはじめとする一団が「得体の知れない合宿所に泊まるのは危険」と提案したのに対し、鞠川や優美ちゃんといった面々は「他の部では腹痛が一日起きただけだから、ウチも大丈夫」と主張し、詩織たちを説き伏せてしまったらしい。特に鞠川は女子同士の間で人気が高い生徒であり、普段から詩織たちの相談役であったから、皆に意見を通すのも簡単だったようだ。
「らしい」「ようだ」というのはこの議論が女子宿舎で行なわれたからであり、男子たる俺は伝聞でしかその内容を知らない。
 それにしても、女子が――一枚岩でないにしろ――腹をくくったという話には驚いた。
「……というわけなんだよ。」
「こら好雄、だれがここにいていいと言った?」
「情報提供者に対してつれないんじゃない?」
 繰り返すが、この男――早乙女好雄は帰宅部だ。美樹原さんを自宅まで送った後、ごていねいにここまで戻ってきたのだ。
 ここにいることが顧問に知れたらどうなることやら。
「その情報、どうやって手に入れたかは聞かないでおこう……」
 俺は、好雄が女子宿舎の窓にへばりつく様子を想像しながら言った。
「まあまあ。オレとしてもさ、かわいい妹のことが心配なわけよ。だからさ、こっそり泊めてくれよ。お願い!」
 ヘタクソなウソであっても百回聞かされれば信じてしまうことがある。ましてや好雄が優美ちゃんのことを心配に思っているというのは本当だろう。だが。
「好雄。まさか女風呂を覗く気ではあるまいな?」
「な、なにを……そんな……わけないだろ……」
 これだから好雄はいいやつだ。
「そうか、優美ちゃんが心配か。ならば俺がいっしょに見回りしてやろう」
「そ、そうか! それは心強いよ……とほほぅ」
 面倒なことは御免だが、詩織が好雄に覗かれる可能性がある限り、全力をもってこれを阻止しなければならなかった。

 多くのものは回復しつつあったが、それでも夕食を摂るものは少なかった。
 状況が状況だ。俺も固形食を噛み締め、スポーツドリンクで流し込むにとどめた。
 夜。俺は好雄を監視すべく、後を……いや。
「おい、なんでキッチンの裏なんだよ」
「そもそもの発端は食中毒なんだ。なにかあるとすればここだろう?」
 正しく言えば、俺が好雄を連れまわしていた。
「いやそうだけどさ……俺は優美のことが気になるんだよ」
「しかし女子宿舎の裏にでも行ってみろ。俺たちは間違いなく犯罪者扱いされるぞ」
「それならさ、表から堂々と……」
「好雄。さすがにそこまでは付き合い切れん。ひとりで行ってくれ」
「そんな殺生な〜」
「大丈夫。お前は一応優美ちゃんの肉親だから、言い訳が立つ」
 そのとき、合宿所の玄関に人影が見えた。詩織だ。
「そんなわけだから、じゃ」
「おいおい待てよ(……って待てよ? こいつがいないってことは、女風呂を覗きに行っても……)そうかぁ残念だなぁ仕方がないからひとりで行くよぉそんじゃな」
 デレデレした顔で離れていく好雄だが、詩織が入浴していないとて蛮行を許すわけにはいかない。俺は自らの非常さを感じながら、懐のPHSに手をのばした。
 俺が詩織に駈け寄ったのは、そのしばらく後になった。
「おーい詩織!」
「あら、どうしたの?」
「さっきはごめん。変なこと言っちゃって」
「ううん、気にしてないよ。冗談で言ったんだよね? 元気出せって意味で」
「あ、ああ」
 思い返すに、このときの俺は柄にもなく顔を真っ赤にしていたようだった。
「あ、あの……」
 俺に合わせたように、詩織もしどろもどろになっていた。
「なに?」
「ちょっと、付き合ってくれる?」

 俺とて若く健康な男子のはしくれだから、期待しなかったと言えばウソになる。
 だがそんなものは儚く崩れ去るのが世の常だ。
「ねえ、そこから一歩も動かないでね!」
「はいはい、わかりましたよ!」
 俺の立ち位置は、校舎の廊下、女子トイレから5メートル以上離れた位置……トイレの入口と、その手前に上り階段を一望できる。この場所から女子トイレに近づいても、女子トイレから遠ざかってもいけない。詩織はそう言うのだ。
 男に付き添いを頼む以上、必要以上に近づかれたくないのはわかる。だが、なぜわざわざ人気のない校舎を選ぶのか?
 夏休みとはいえ夜まで活動している文化部があるので、けっこう遅い時間帯まで校舎の玄関は開いている。だからってわざわざ校舎のトイレに行くことはないだろうに。
 何か、合宿所のトイレに入れない事情でもあるのだろうか。それならば俺に相談……するわけないか。
 そんなことを考えているとき、めまいにも似た感覚を覚えた。なんだ?
 背筋を走る冷たい感覚。耳鳴りのような、頭を何かに包まれたような錯覚。そして眉間に何かを突きつけられたような違和感。
 姿形は見えないが、なにかが「居る」のだ。階段の向こう……。
「ねぇ、どこへ行くのよ!」
 驚いた顔をして、詩織が駈け寄ってきた。
「……何か、いる……」
 俺は気配を追っている。
「ど、どこ!?」
 ものを言わず、俺は階段を指さす。
「何もいないじゃない、驚かさないでよ……ちょ、ちょっと待って!」
 詩織には悪いが、俺は階段を上っていった。詩織は仕方ないという顔をしているのだろう、後をついてきた。
「図書館?」
 誘われるままに――この表現は的確なのだろうか?――俺がやってきた場所は図書館だった。
 高校の図書室としては規模が大きい。有名大学のそれにはとてもかなわないが、高校生の勉学には十分すぎる蔵書量を誇っていた。
 それだけに、夜のとばりが下りたならば気味悪さに事欠かない。
「図書館……って、あなたが自分で歩いてきたんでしょ? 用がないなら帰りましょうよ」
「変だ、入口が開いている」
 校内は薄暗く、外の街灯を頼りに見るばかりだが、この時間は閉じていて然るべき図書館の扉は、明らかに開いていた。
「うそ、でしょ……?」
 この段になって、俺は詩織を連れてきてしまったことをようやく後悔した。
「戻ろうか? でも……」
 勝手なことだが、図書館の中が気になって仕方がない。
「帰りましょうよ。いやな予感がするわ」
「詩織、先に戻っていてくれないか」
「ここまで来たら、いっしょにいた方がマシだわ」
 そういって俺の腕に手を添えた詩織は震えていた。
「ごめん」
 言いながらも俺は、図書館への一歩を躊躇なく踏み出していた。
 

つづく

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