あらすじ:あらゆる苦難を乗り越えた末、俺と詩織は水道の蛇口を締めることに成功した。
7:きゅっ、きゅっと軽やかな音を立てて蛇口の栓が締まる。ホースから放たれていた水は徐々に勢いを失った。
応接室の大きなテーブルには、よく冷えた麦茶がふたつ並んだ。
「えらい態度の変わりようだな」
「伊集院くん、意外と嫌われてるのかな……」
当たり前だと言いかけて、詩織の沈んだ表情が目に入った俺は口をつぐんだ。
伊集院は女子に優しく……伊集院の男子に対する平素の態度などは、女子から見れば単なる戯れに過ぎないと見えるのだろう。
「まあ、何か事情があるのかもしれないぜ。とりあえず話を聞いてみよう」
伊集院をかばうような口をきくとは俺らしくない。それはさておき、先ほどの男性は有益な情報をもたらしてくれそうだ。
その男性がネクタイを締め、柔和な表情で現れた。
「いや、先ほどは失礼したね。私はここで働いている毒島と申しますじゃ」
いかにも長年ここで働いていそうな口調ではある。それに伊集院家との因縁がありそうなことを考えれば……。
「いえいえ、こちらこそいきなり押しかけてしまいまして……早速ですが伊集院家とはどのような関係で?」
毒島さんの表情が引き締まる。少し話題を急ぎ過ぎたかも知れない。
「そう……あれは三十年以上まえの話じゃな」
俺と詩織は身を乗り出す。ひざに置いた手に力がこもる。
「ここ市立煌高校は、私立きらめき高校とは名前が似ていることもあって友好的な関係じゃった。片や市の名門校、片や土地の名士じゃった伊集院公爵が建てた学校ということもあり、お互いに切磋琢磨しておった」
にわかに毒島さんの語り口は柔らかくなった。詩織は違和感を隠せずに訊いた。
「それが、どうして今のような関係に?」
「そうじゃ、あの合宿じゃ!」
合宿! 俺たちは目を見張った。
この老人が合宿所の謎を語ってくれるに違いない。いやがおうにも期待は高まった。
「あれは忘れもしない昭和三十五年の夏。両校の主要な運動部が集まり、私立きらめき高校で一大合宿会が開かれたのじゃ」
「両校の主要な運動部!?」
「そう、それだけ両校は互いを好敵手として認め合っていた」
「いえ……それ以前に、そんな大人数で合宿したら大変じゃないんですか?」
「両校の関係を重視していた伊集院公爵は、多くの生徒たちが交流を深めるため、多額の資金を投じて大合宿所を建造した。今のきらめき高校に残っている合宿所は、その一部に過ぎん」
毒島さんは伊集院――伊集院レイの曽祖父――を「公爵」と呼んでいる。爵位が法的に廃止された後でも、貴族に相応しい振舞いをしていたのだろうか。それとも。
「伊集院公爵は、どんな人だったんですか?」
「立派な方じゃった。国がどん底にあるときこそ教育が重要だと説き、実践した」
天井を見つめ、感動のあまり涙を流す毒島さん。なんでこの人が伊集院家を恐れるのだ?
「で、その立派な伊集院家に何が……」
「そうじゃ。あの合宿じゃ! あれは忘れもしない昭和三十五年の……」
「それはさっき聞きました」
それから三十分。けっきょく毒島さんは伊集院公爵を称えるばかりで、なぜ伊集院家を恐れるのか全然わからない。
詩織の俺を見る目は、以前にも増して批判的だった。俺は対応を迫られた。
「それで! その合宿で! 何が起こったんですか!」
「食中毒! 集団食中毒じゃ!」
食中毒! 俺たちは目を見張った。
……いや、目を見張っているのは俺だけだった。
詩織は、自分の世界に入っている毒島さんに退屈して、窓の外でゆれる木の枝を眺めていた。
「伊集院家の用意した夕食を食べた生徒たちが次々と腹を抱え……」
「笑い出したんですか?」
「わっはっはっは……ってンなわけあるか!」
毒島さんはすっかり興奮していた。いや俺が悪いんだけど。
「そこの女子! ちゃんと話を聞かんか!」
「はい?」
刹那、毒島さんの矛先は詩織を向いた。