『藤崎詩織』殺人事件〜伝説の樹の悪夢〜
改訂版
【序幕・風の扉】
=現在・拓也の部屋=
「何よ、これ!」
詩織があきれた様に叫んだ。
ここは僕のアパート。六畳一間の決して広いとは言えない一室だ。そして僕のベッドの上に腰掛けている、可愛い女の子……が、幼馴染の藤崎詩織。都心にある超一流大学に在籍している。彼女の話だと、そこの正門は紅いらしいが、まだ見た事がない。
一方僕の学校は、東京とは名ばかりの片田舎にあり、格付けは並の上か、せいぜい中の下。寿司屋で頼めば、かっぱ巻きばかり目立っていそうな大学だ。
彼女は今、僕が渡した原稿の表題をまじまじと見つめている。
―『藤崎詩織』殺人事件―
「あのね、たっくん」
詩織が上目使いに僕の顔を見た。申し遅れたが、僕の名は本条拓也。彼女は“たっくん”と呼んでいる。
「何の冗談か知らないけどね……」
ものすごい笑顔で微笑む。もちろん目は笑っていない。語尾の震えが彼女の凄まじい怒りを物語っていた。
(やばい。本気で怒ってる……)
僕は思わず後ずさりした。幼い頃からの付き合いだ。こんな時の彼女の恐ろしさは骨身に染みて知っている。
「まさか、これ……冗談よね?」
「はは」
僕は笑って誤魔化した。
「ま、まあ落ち着いて。いい作品なんだよ。なかなかの傑作なんだから」
「中身なんかどうでもいいの。何で私の名前が付いてるのよ?」
「そ、それなんだけど……」
僕は、詩織の平手打ちを警戒しながらゆっくり喋った。
「これ、実話なんだよ」
「実話?」
詩織は、きょとんとした。
「全部じゃないけどね」
「実話ったって、私は生きてるじゃない」
再び詩織の目に青白い怒りが燃える。いいかげんな誤魔化しは許さないわよ。その目は、そう語っていた。
「何も、詩織が殺される話じゃないんだよ。とにかく中を読んでみて。ね?」
詩織はしばらく僕を睨み付けていたが、原稿の中身も気になるらしく、不承不承に頷いた。
「……いいわ。その代わり、中を見て納得できなかったら、これ、破り捨てるわよ?」
「勿論さ。詩織に喜んでもらおうと思って書いたんだから」
僕は詩織に阿る様にへらへら笑った。
「何を適当な事を。自分の名前に殺人事件なんて付けられて、喜ぶ人がいるわけないでしょう」
そう言いながらも、詩織の表情がだいぶ和らいだ。詩織はおだてに弱いんだ。幼馴染の僕は良く知っている。
彼女は一枚目の原稿をめくり始めた。僕は立ちあがって、とっときの紅茶を入れ始める。少しでも機嫌を取っておかなくては。
***
始まりがあれば終わりがあるように。
出会いがあれば、また、別れがあるのです。 永遠に続く二人の関係。
きらめき高校には一つの伝説があります。
校庭のはずれにある一本の古木。
其の樹の下で、卒業式の日に女の子からの 告白で生まれた恋人達は、永遠に幸せにな れる。
そんな伝説が……
「へえ。これ、詩織ちゃんが……?」
詩織の親友・三年J組の美樹原 愛が、感心したように言う。二人が、ずっと交わしている交換日記。その昨日付けのページに、詩織の名前で書かれた“伝説”の一文を見詰める。その表情の余りの真剣さに、詩織は思わず頬を染めた。
「この“きらめき高校の伝説”の話は、メグだってお馴染みのはずじゃない。あまり感心しないで」
「でも私じゃ、こんな風には書けない。やっぱり詩織ちゃんって才能あるんだ……」
「私の才能じゃないってば。昨日、この樹をじっと見ていたら、スッと文章が浮かんだの。そのまま忘れないように、昨夜の内に交換日記に書き止めておいたんだけど」
傍らの伝説の樹を見上げつつ、詩織は呟いた。昼休みのひとときを、クラスの違うこの二人の親友が伝説の樹の下で過ごすのは、ここ半年ばかりの彼女達の日課になっている。
「卒業式の日に、女の子からの告白で生まれたカップルは、永遠に幸せになれる……。三年生の私達には、もう他人事じゃないわ。メグだって、出来る事なら、って考えてるんじゃない?」
「……うん」
愛は微かに頷いた。内気な彼女には、男の子へ自分から告白するなんて、想像する事も出来ない。でも伝説の樹の下でなら。卒業式の日なら、ひょっとしたら出来るかもしれない。
それを思い、愛の頬は、ふと真っ赤になった。詩織は、そんな彼女の様子がおかしくなり、少しだけからかってみたくなった。
「ねえ、メグ。もし……もしもよ。あなたがこの樹の下で誰かに告白するとしたら」
「え」
「その相手は、もう決まってるの?」
詩織の問いかけに、愛はもじもじとして俯いた。制服のリボンを指で玩んでいる。その様子を見て詩織は、確信した。愛の心の中には、すでに決まった人が棲んでいる事を。
「ね、教えて? 私にだけ、ね?」
ちょっとした気まぐれの会話から、つい真剣になる。しかし愛はなかなか口を開こうとしなかった。そうなると詩織は、かえって意地になる。
「メグ……ねえ、教えてよ」
「……詩織ちゃんは、どうなの?」
逆に愛の方から問い返してきた。
「私? 私は……」
うろたえた詩織の表情を見て、愛がクスリと笑う。
「詩織ちゃんが教えてくれたら、私も教えたげるよ」
「……」
愛をからかっているつもりが、いきなり立場が逆転してしまった。実は詩織にも気になる男の子がいる。きらめき高校に入学した時から、詩織の想いはたった一人の人に向けられていた。そう……野球部の三島くん。
(ここまで読んで、詩織はギロリと僕を睨んだ。僕はかねて用意の紅茶を恭しく進呈する。)
「じゃ、じゃあ……」
詩織は言った。
「二人で教えっこしようか? この交換日記に書いて、同時に見せ合うの。……ね?」
「うん。それならいいよ」
詩織は観念した。薮蛇とは、この事だ。メグをからかうつもりだったのに。……でも、まあいいか。メグなら教えても。
草むらの上に、交換日記の今日のページを開き、互いに手のひらで隠しながら、名前を書く。
―なんか小学生みたい。
自分達の仕草に、いささか照れくさいモノを感じつつ、詩織は正直に『三島孝祐』と書いた。
「さ、出来たわ」
「うん、私も」
二人は、いち、にぃ、さん……と掛け声をかけて、ぱっと手のひらを離す。そして真剣な顔で、互いの文字を読み取ろうと覗き込んだ。
(あれ……?)
詩織は、一瞬ぼんやりした。愛の書いた名前を見たつもりだったが……そこには、自分で書いたはずの……。
「え。……え〜っ!」
「し、詩織ちゃん……?」
愛も驚きの声をあげる。そこに二つ並んで書かれた同じ名前『三島孝祐』を見て、呆然とする二人。
「そ、そんな……詩織ちゃんも?」
「メグこそ……そんなのってあるの?」
なんという皮肉か。大の仲良しである二人の憧れの相手が、よりにもよって同じ人だなんて。
***
ページを繰る手を休め、詩織は手元の紅茶に手を伸ばした。心の動揺を押さえる様にゆっくりと啜る。
「何で知ってるのよ」
言葉に険が混じる。僕はとぼけた。
「何のこと?」
「とぼけないで。メグとこんな話があったなんて、あなたにした覚えはないわよ」
そう言うと詩織は、がちゃっ……と音をたてて紅茶茶碗を置いた。来客用にと、これだけは奮発した折角のティー・セットが……僕は冷や冷やする。
「メグに聞いたのね? まったく……メグったら、ああ見えて意外とおしゃべりなんだから」
「聞かなくたって、詩織が昔、三島の奴に入れ込んでたのは、みんな知ってるぜ」
「下品な言い方はやめて、入れ込んでたなんて……。あなたこそ、用もないのに図書館ウロウロしてたのは、B組の如月未緒さんが目当てだったって噂よ」
とんだ痴話喧嘩に発展しそうになったので、僕は慌てて話題を変えた。
「ま、まあ……若い頃はいろいろあるからね。今はこうやって二人仲良くやってるんだからいいじゃない」
「もう……。全く私も男運が悪いわよね。よりにもよって、あ・な・たと恋人同士だなんて。昔は、ただの幼馴染だと思ってたのに」
散々に言われて、僕も、ちょっとムカついた。
「んな事言って。伝説の樹の下で告白してきたのは、詩織じゃないか」
詩織は、ぷいっと脇を向いた。
「ちょっとした気の迷いよ。ほら、卒業間際って何となく感傷的になるから。その時たまたまあなたが傍にいただけよ」
「そうなの?」
あからさまに言われて、僕はちょっと心配になった。ひょっとして詩織は後悔しているのかな。もし、そうだったら。
そんな気持ちが顔に出たんだろう。詩織の口元が少し緩んだ。
「冗談よ。何、慌ててるのよ。好きでもない人に告白なんてするわけないでしょう?」
「……うん」
「でもね」
詩織の顔に、微妙な影が差した。ひざの上の原稿を、そっとなぞる。
「三島くんがあんな事にならなかったら、あなたとのことも……判らなかったかもね?」
「……」
僕は何も言えなかった。やはり詩織の心の中の或る部分には、今でも三島の記憶が息づいている。しかし、それは仕方のないことだ。いろんな経験の積み重ねで、人は大人になっていくのだから。僕が、いくら嫌だと言っても、その経験なしで今の詩織だけがある訳ではない。
「ね、たっくん」
「何……?」
「これ、実話だって言ったよね。じゃあ」
詩織の顔が真剣になった。
「ひょっとしてあの時の事件……。その真相が書いてあるの?」
僕があっさりと頷くと、詩織は興味を掻き立てられた様だった。今度はわき目も振らずに原稿を読み始める。
(よし、これで大丈夫だ)
詩織の全神経が、手もとの原稿に集中するのを見て取った僕は、邪魔をしないように、静かに立ちあがった。彼女のトレードマークであるヘアバンドが、ふと目に入る。
(……今日はパール・ピンクか)
ひょっとして、下着も……? 凝り性の女の子は、そういう“見えない”統一性を楽しむそうだが。当人に聞いても教えてくれっこないだろうし、平手打ちを喰らうのが関の山だ。
僕は早々と、自分の部屋を退出した。詩織が原稿を読み終わるまでの数時間、どうやって時間を潰そうかとあれこれ考えながら。