電車の場面から主題歌まで

  

 千尋は10歳。10歳という年齢は、子供が母国語を完全に習得しきる年齢、と言われている。新聞を読み始めるのも、大人の会話の意味がわかり始めるのも、ほとんどのテレビ番組が楽しめるようになるのも、一人で自転車に乗るのを学校から許可されるのもこの年齢。
 つまり10歳という年齢は「現実の世界」の輪郭がわかり始める年齢、それに伴う自我も能力も芽生えてくる年齢、それでも親の庇護からは抜け出られず、「人間として生きる」意味なんかは全くわからない年齢なのである。。

 そんな10歳の千尋が放り込まれた「神隠しの世界」。千尋は一人になるのが心細くて、ハクに一緒にいて欲しい、と頼むが「この世界で生き延びるためには、そうするしかないんだ。」と諭され、仕方なく一歩を踏み出す。
 でも、まともな挨拶できず、人への心遣いもなく、リンに「ハイとか、お世話になりますとかいえないの? 釜ジイにお礼言ったの?世話になったんだろう?」と怒られる。
 そして「働かないと動物にされる」理不尽に文句もつける能力もないまま、「世間の権化」的意地悪をする湯婆婆に立ち向かう。そうして千は湯婆婆と労働契約を結び、なんとかこの世界での居場所を獲得する。
 ところが、信じられると思ったハクは、「湯婆婆の手先だから、気をつけな」とリンに否定され、お腹が痛くなる。誰を信じていいのかわからなくなった哀れな千。しかし、ハクのおにぎりに涙し、今度ハクと別れるときには、ひとりで戻ることを当然のこととできるほど変化している。

 ここから少しづつ彼女の成長がみてとれるようになる。
 仕事をしながら周りを見る余裕も出てきて、雨に濡れているカオナシに「あの、そこぬれませんか? ここ開けときますね」と声をかけられるようになる。湯婆婆も嫌がる汚れた神様を相手し、褒美の「苦だんご」ばかりか、湯婆婆の賞賛まで手にする。
 ついには、怒り狂うわがままなカオナシに立ち向かい、カオナシをなだめ、「ここにいちゃ行けない」と、彼の先のことまで考えられるようになっていく。

 そこにやって来る電車。カオナシたちと一緒に電車に揺られていく場面は、千が「一人で生きる」ことを体得した場面。自分の意思で、見知らぬ、少し恐ろしいところへ電車に乗って向かっていく千は、立派に自立している。

 その後の銭婆の話は示唆に富んでいる。
 「お前を助けてあげたいけど、あたしには、どうすることもできないよ。この世界の決まりだからね。自分でやるしかない。」
 「魔法で作ったんじゃ、なんにもならないからね。みんなでつむいだ糸を編みこんであるからね」
 「自分の名前を大事にね」
 「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。」
 11歳以降の千尋が必要となる言葉で満たされている。ここまで無我夢中で生きてきた千が、それを振り返り、これから本当に自分が生きるべき世界へ踏み出そうとするのが、この電車と銭婆の場面。
 千尋がトンネルをくぐって、現実の世界に帰った時、銭婆からもらった髪留めが一瞬光る。この先、千尋が人生の階段をひとつひとつ上がっていくたび、この髪留めは光を増すのだろう。

 前段が長くなったが、ここからが本題。
 「はじめに」の項で書いたが、私がこの映画に取り込まれたのは、この電車の場面からだった。これを見て、かつてお通夜へ向った時のことを思い出した。
 亡くなったのは、85歳の老婦人だった。その人は著名でもなかったし、その人生が記事になるような人でもなかった。しかし、自分に与えられた試練を受け止め生ききったことに、畏敬の念がわくような人だった。お寺へ向う車の中で、生きるということはどういうことか、果たして自分もあの年までちゃんと生ききることができるものなのか、私は夕暮れの海岸線を見ながらその人の人生を想い、自分のこれからを考え、なんとも言えない気持ちに陥っていた。
 あの電車の場面を見たとき、私は千にその時の自分を見たのである。影の人物たちは、人生を終えた人たち、千はこれからこの世を生きて行く私たち・・・。
 夕暮れと海、それだけでも切なさを呼び起こす風景だが、過去、未来、現実、さまざまなことの重さと、それでもやって行かねばならないという矜持が一斉に向かってくるあの電車の場面には鳥肌が立った。
 この映画の要はここにある。あとに続く、銭婆やハクとの話は、この場面の説明にすぎない。


 ここで、別の方向からもう少し。
 DVDのレビューなどによると、この映画は千尋が「生きる力を呼び起こす」「自分が自分であることを自覚する」ことを描いた冒険物語となっている。それもすべてこの電車の場面に集約されている。言葉でなく景色が、彼女の姿が全てを物語っている。そして、監督はこの映画を10歳の女の子のために作った、と。
 確かにそうだろう。この映画のファンタジー的な部分はともかく、内面を考えたときに、監督のメッセージ通りに受け止められるのは、きっとこの世代だけだろうから。10歳のまだ人生を知らない女の子だから、「千尋みたいに・・・」と思い、生きることに立ち向かっていく力がわいてくるのである。

 しかし、10歳から先を生きた人々はそうは受け取らないだろう。そういう人たちは、銭婆の「お前を助けてあげたいけど、あたしには、どうすることもできないよ。この世界の決まりだからね。自分でやるしかない。」の言葉の前にうずくまるしかない。「生きる力を呼び起こす」なんてことは、キツイ話でしかない。すでにそのように生きてきて、疲れることのほうが多いのだから。
 また、銭婆婆の「自分の名前を大事にね」という言葉は「自分が自分であることを自覚しなさい」ということである。このような自意識を持つことは、非常に勇気が要り、力がいるものだ。神隠しの世界では、千をはじめ、なめくじ女、カエル男、影たち、豚、ススワタリなど、湯婆婆との契約や魔法によって「自分本来の姿」がなくなっている。神隠しの世界では「本当の自分」が「名」という形で抽象化され、「名前を取り戻す」ことが「自分が自分であることを自覚する」ことになる。ただしそれは、大人にとっては「身の丈を知る」ことでもあるのだ。

 この映画は死から生をつむぎだし、さよならから再会をつむぎだし、弱さから強さをつむぎだし、前向き路線なのだが、決して明るく楽しい映画でないのは、いかなる困難があっても前に行かねばならない、しかもその困難はヒーローとヒロインだけに与えられるような困難でなく、平凡な人間にも絶えずあり続ける困難、というキツさにある。
 ここでは、みんな頑張って、自分の居場所を探すことになっている。再生できている。「そのままの自分でいいんだよ」という優しさはどこにもない。泣こうが、疲れようが、うずくまろうが、生きる以上、前へ進め!と。自分を探し、自分の足で立て!と。生きるのであれば、何者もその掟からは逃れられないことを突きつけてくる。

 「千と千尋の神隠し」は、1度目に見た時は、とても楽しい気分になった。しかし、神隠しの世界に神様として宴会に行くなら結構なことだが、千尋みたいな形で行ってみたいとは思わなかったし、「よし、私も元気に生きてみよう!」と前向きな気分に至るまではいかなかった。所詮、ファンタジーを楽しむ気分だったのである。
 そして、2度目にじっくり見たら、現実の世界と同じで、くらーくて、うんざりするようなところがあって、疲れ果ててしまった。それは、「桃源郷はない」ことを改めて突きつけられたから。「神隠しの世界は」決して楽しい世界ではない。この世と同じで、理不尽なことがあっても、つらいことがあっても、甘受してやっていかなければならない。生きている以上、この世に逃げ場はない、と。ファンタジーを再度楽しみたくて見ただけに、これは衝撃だった。
 この映画は毒でもあり薬でもある。この映画を「あまりにも重いので、一度でいい」と封印した人を私は2人ほど知っている。それだけこの映画は「生きる」難しさを深く問いかけてくる。この映画は気分が滅入っている時に見てはいけない映画だ。ただ、自分の弱さにうずくまりかけた時には必要な映画だ。
 10歳以降を生きた者の解釈は様々に分かれるだろう。「困難を克服しきった人ばかり綺麗に紹介して、したり顔するな!」と思う者あり、映画の「キツイ」メッセージが豊かな映像でコーティングされていることに、人生の美しさを見る者もいれば、そこに醜いものを美しく捉える人生技術を見る者もいる・・・。この点で、この映画は大人が鑑賞するに値するものになる。

 ファンタジーの陰に隠れた、この重さ。こういう演出やメッセージの伝え方は、若者では決してできない。宮崎監督の60歳という年輪と決して無関係ではないだろう。ジブリの初期作品に比べれば、その重厚さは桁違いである。


 そして、最後の主題歌。 映画に限らず、ドラマやアニメでも、中身と主題歌が異なることはよくあることだが、「千と千尋の神隠し」は、中身と主題歌が見事に一致している珠玉の作品。しかも、映画のなかで疑問だった答えがここにある。ここには、全歌詞を書けないが、エンディングまで鑑賞するに値するので、どうか最後の歌詞も味わいたいものである。