Round 15 箱根の山を初めて越えた、おらのSRV250

2001.09.06

 

おら、ツーリングには興味ないが、峠を攻めに行く為のツーリングなら年に1回は行く。でも泊まりや4人以上のツーリングは面倒で嫌だ。しかし今回は別。江場ちゃんから、本間師匠が参加する名古屋発一泊二日のツーリングに誘われたのだ。東京から参加するには遠距離だし、大人数のツーリングとのことだが、おらはいつか師匠と一緒に走って、抜かれてみたいと思ってたから即OKした。当然、TT600で行くつもりだったから、ツーリングの際、師匠にTT600に乗ってもらい、江場ちゃんにセッティングしてもらうことにしてた。そのツーリングは江場ちゃんのお兄さんが勤めてるYSP名古屋北が主催するもので、師匠だけでなく、何とレーシング・チーム・ヤマハの河崎監督と平忠彦氏も来るゲスト・ツーリングだと後日知った。ツーリングの日が近づくにつれ、師匠を一瞬でもぶっちぎってやると心変わりしていたおらだったから、ツーリングの1週間前にFISCOでの転倒が元でTTが長期入院となったとき、おらは参加するのをやめようかと思った。しかしおらはSRV250で行くことにした。SRV250じゃ名古屋まで行くのも大変だし、皆と同じペースで走れるか心配だったがYSPはヤマハ店。だから、却ってSRV250の方がいいと無理やり自分に言い聞かせた。せいぜい箱根までしか行ったことのないSRV250が、箱根の山どころか、大井川まで越えることになろうとは。

 

モーター・スポーツ音痴のおらは平氏のことをよく知らなかったから、知人に平氏のことを聞いたら「汚れた英雄の主人公のモデルでしょ」って言われた。汚れた英雄の内容は知らないが、かなり昔に草刈正雄の主演で映画化された、大藪晴彦の小説だってことぐらいは知ってた。でも、実話だったのか?そういや、おらがSRV250で初めてFISCOに行ったとき、おらは汚れた英雄の主題歌と誤解してボニー・タイラーのヒーローを聞きながら、中央道をSRV250で走ったっけ。で、平氏のことを知るために、汚れた英雄を読み出して驚いた。汚れた英雄の主人公、北野は女にモテて、サーキットで死ねれば本望と思ってる。誰かに似てない?それだけじゃない。おらはサーキットやりだしてから、タバコをマイルドセブン・スーパーライトから、ゴロワーズ・ヤマハの影響でゴロワーズ・ライトに変えようとしたんだが、まずくてだめ。でもライダーが飲むタバコがマイルド・セブン系ではカッコつかんと思い、外国産のタバコの中では唯一おらが吸えて、パッケージも気に入ったキャメル・ライトに変えてた。北野の吸うタバコもキャメルなのだ!あまりにもできすぎた話で、これはただの偶然とは思えない。なんと汚れた英雄の主人公のモデルはおらだった!しかし、汚れた英雄を読み進むにつれて、北野はおらの100倍モテるし、汚れた英雄が書かれた頃におらがサーキットやってるわけないから、やっぱり平氏がモデルだと観念した。こりゃ師匠との対決だけでなく、過去の北野の平氏と、現代の北野のおらとの凄絶な色男対決にもなりそうだ。でも北野も平氏も、おらと違ってルックスでモテるタイプ。ルックスでモテる奴は、まるでR6が最高速度にものをいわせて、FISCOのホーム・ストレートで簡単にタイム稼ぐようなもんで、おらは嫌いだ。おらのように3枚目でも内面から滲みでる男の色気でモテるやつは、TT600のようにホーム・ストレートの最高速度は遅くても、コーナリング・スピードでタイム稼ぐのに相当する。同じモテるんでも対象的だ。2枚目は楽でいいわな。でも結局江場ちゃんから、平氏は草刈正雄の代わりに、北野のライダー役を映画で演じていただけで(平氏は「影武者」なんて言ってた)、汚れた英雄は実話じゃないと知らされた。ところで原田哲也には引退したら“汚れた英雄 2”の主役をやって欲しい。あの悪魔君顔は、北野役にピッタリだ。

 

8月25日(土)

00:00 仕事で遅くなり、夜中に家を出ることになった。その日は蒸し暑かったし、SRV250につなぎは似合わないから、ジャック・ウルフスキンの薄めのウェアーで出かけたが、夜の東名高速道路のクルージングは寒くて眠くて1人4時間耐久だった。東名高速道路を走って、SRV250の最高速度が140Km/h(無風、5速、9,000rpm)であることを初めて知った。昔、マンガの“二人鷹”読んで覚えた、ピリオン・ステップ踏んで上体をタンクにくっつける、クルージング・フォームで走り続けた。これだと空気抵抗減ってスピードがのるだけでなく、寒さが緩和される。早朝04:30に名古屋の実家着。3時間程寝て、YSP名古屋北へ向かった。

 

09:00 いつもと違って大人っぽい顔してたからすぐには気づかなかったが、YSP名古屋北で最初に目にした人物はXJR1300にまたがる師匠だった。それにしても店のデカさにはぶったまげた。ツーリング主催者の大口オーナーにその夜聞いた話では、日本一大きいYSPだそうな。大口オーナーは温かみのあるおじ様で、とても経営のやりてには見えないが、36歳で二輪に乗りだし、その後このお店を始めてここまで大きくされたそうだ。YSP中部支部の会長でもある。

 

ツーリング参加者の二輪は、3台の小排気量車はあったが、あとは江場ちゃんの言ってたように、XJR1300やらYZF-R1やら、1リッター以上の大排気量車ばかり。XJR1300が一番多く、XJRのことを皆「ペケJ」と呼んでた。おもろいじゃん。そういや「ヤマハ」のアクセントは、一般的に発音されるものと、レーシング・チーム・ヤマハ関係者のそれとは違う。文章で説明するのは難しいが、一般的には「ヤ」、「マ」、「ハ」と順に音程が高くなるが、関係者は「ヤ」の音程が高くて「マ」、「ハ」と音程が順に低くなる。「YAMAHA」の「YA」を強くして英語発音してみたら、おらの言ってることがわかるかも。ヤマハは確か創業者の名字を社名にしたものだから、「山羽さん」と人の名字として発音しても、不思議と英語発音と同じになる。おらの推測だが、これが関係者の「ヤマハ」のアクセントの理由だろう。

 

ツーリング参加者はなんと総勢50名ほど。主なライダー5人のマシンをイイ男順に示めそう。

平さん:BMW 1100RT(ツアラー)

おら:SRV250(トラッド)

本間師匠:ペケJ 1300(ネイキッド)

河崎監督:ペケJ 1300(ネイキッド)

江場ちゃん:TRX850改900(セミ・レプリカ)

 

江場ちゃんごめん!監督と江場ちゃんの順序は甲乙つけ難かったが、監督をドベにして、もし監督にこのこと知られたら、おら将来レーシング・チーム・ヤマハの仕事をもらえないから、こうさせてもらった。師匠にはこれで納得してもらわんといかんが、おらより下位にしたことで、おら破門されるかも。おら馬鹿正直なのだ。平さんの体型はおらの予想をはるかに越える、大柄かつ太めだったが、ダンディーで大人の男って雰囲気だ。だから正直もののおらは、悔しいが順位を譲った。でも、会社の女の子に「平さんが今もカッコいいか見て来て!」と言われてて、今回おらが撮った平さんの写真を見せたら、「キャー」と言われた。「キャー」の意味は二とおりに取れるが、ここでは書けない。“おらの悲惨なサーキット人生!”を出版化の際には、平さんに「まさに現代に蘇った汚れた英雄!」とでも、おらを表現したコメントをもらいたいから、関係悪くしたくないのだ。

 

「ゆっくり走って郡上八幡を観光するぞ組」と、「観光なしのかっとび組」に出発前に分かれた。江場ちゃんから、師匠はゆっくり組だと聞いてたからSRV250でも来る気になったのに、師匠は監督、平さんとともにかっとび組にすると言いだした。おらどうしよう。下道ならSRV250でもなんとかついてけそうだが、高速道路では無理だと思ったのだ。でも、師匠に「高速道路でどのくらいのスピード出します?」と聞いたら「100q/h」とのことだったから、おらかっとび組にした。かっとび組は参加者の半数くらい。内、大型じゃないのはおらの250ccだけ。そういや今回のツーリングで400ccは1台もみなかった。今じゃ、教習所で普通自動二輪免許取るときにみんなそのまま大型も取るからだろう。おらツーリングなら400程度がジャスト・サイズだと思うけどな。しかし今回のツーリングに限っては、おらにはハイパワー・マシンが必要だった。

 

監督、平さん、師匠とも半袖のポロシャツ。こりゃ意外だった。半袖ライダーは、素人扱いされる傾向があるからだ。職業ライダーには、そんな価値観は通用しないらしい。

 

10:20 おらは、監督、師匠、江場ちゃんと共に先頭で出発。すると師匠がいきなりウィリーを連発した。このツーリングを通してしょっちゅうやってたが、サービスいいんじゃなく、ただ本人がやりたいだけのようだ。おらも20年前、CB400Nではよくやったが、SRV250ではやったことない。さすがに師匠のウィリーはうまい。ハンドルを機敏に回してバランスをとり、長いこと前輪浮かしてる。

 

信号からの発進加速では遅れをとるものの、クルマの多い市街地では問題なくついてけた。しかし、郊外に出てからは四輪を抜くときの加速が他のマシンと圧倒的に違うからきつかった。かっとび組は、行きに高速道路を使わなかったが、ほとんど加速の必要のない高速道路に比べ、郊外の長めのストレートはコーナー出てからの加速力を要求されるから、郊外奥深くに行くに連れ高速ワインディングが多くなると、高速道路より下道の方が、小排気量車で大排気量車のかっとびに挑むのは難しいと分かってきた。箱根のような連続コーナーなら250でも大型をカモれるんだが。

 

途中、監督が左に寄るように合図出しながらスピードを落とし始めた。何だろうと思ったら、後ろに白バイがいた。よく見てるわ。

 

とうとう江場ちゃんに抜かれた!自分のメカニックに抜かれたライダーの悲しさといったらない。

 

11:30 昼飯休憩。「監督と平さんはおっかない」と師匠。平さんはわかんないけど、確かに監督はおっかなそうで、星一徹風だ。でも、おらが監督に「本間さんの弟子の南郷です!」って自己紹介したら、「あんまりイイ先生じゃないなー」だって。口悪いけど、面白そうな人だ。

 


4744 師匠のペケJを前に、左から本間師匠、江場ちゃん、河崎監督


4746 ウェアもダンディーな平さんとBMW 1100RT

 


4748 師匠とおら

 

タンクのデザインにYAMAHAの文字が無く、代りにチューニング・フォークのエンブレムがついてるペケJ 1300があった!その持ち主に話を聞いたら浜松にある平さんのお店、平レーシングでやってくれるそうだ。おら同様チューニング・フォークのエンブレムにこだわる奴はやっぱりいた!しかも、彼はヘルメットの色に合わせてタンクの色も黄色にしたと。普通はタンクの色に合わせてメットの色を決めたり塗ったりすると思うんだけど変な人。ちなみにおらは、SRV250のダーク・ブルーに合わせて、同色系のアライのジェット・ヘルを使い、サーキットではTT600の青に合わせてこれも青が基本色のアライのレプリカ・フルフェースを使っている。

 

13:00 これからは峠になると。これ以上SRV250で無理に師匠を追っかけるのは危険と感じたし、江場ちゃんが「平さんはゆっくり走る」というから、おらは平さんについてくことにした。平さんとも走りたかったからちょうどいいぞ。でも、平さんは無茶しないというだけで、SRV250でついて行くには厳しいペースだった。ストレートが長いともうだめ。それに公道でステップをガリガリし続けるのはおっかない。数台を置き去りにしたものの、平さんには途中で離され、おらは他の2台としばらく必死こいて走り続けた。このときおらの前を走ってたのは、国内販売されたばかりのヤマハT-MAX。500ccのスクーターだ。スクーターといえば一般的にはシティー・コミューターという位置付けだが、T-MAXはスポーツ・スクーターという新しいジャンルの二輪で、実際彼は速かった。排気量こそSRV250の2倍あるといっても所詮はスクーターのはず。それなのに、普段峠ではビッグ・バイクにも負けないおらと同じペースで走る。彼はT-MAXのバンク角の限界を探ろうと、目的地に着いた後も、休憩時間に逆戻りして走ってた。T-MAXのバンク角について皆で話し合ってたときの監督の一言が、「転倒してみないとバンク角の限界はわからん」だ。んーん、面白い星一徹だなー。

 

道の駅で休憩。平さんに初めて「リア・ブレーキ使いますか?」と話しかけたら、「Uターンの際に使います」と。「サーキットでは?」の問いには、「使わない」って。師匠もそう言ってたが、ヤマハのライダーには「リア・ブレーキ使わずの掟」でもあるんだろか。しばらくして、平さんの横に座ってたおらに「あれ400?」と今度は平さんが話しかけてくれた。「250です」と言ったら、「それじゃきついねー」って。平さんは優しいなー。それに比べて師匠や江場ちゃんは、おらをほっといて好き放題走りやがって。でも、このとき、江場ちゃんのおかげで、平さんといっぱい話せた。監督、平さん、他1名とおらを除いて、全員名古屋周辺から参加してたから、江場ちゃんが、「彼は東京から来た」とおらのことを平さんに話したら、「どんな仕事?」と質問され、「半導体の製造装置…」と答えかけたら、自分こそ本家本元の兵器産業の人間のくせに、江場ちゃんが「死の商人でしょ」って。それから、平さんと自衛隊の話におよんだ。平レーシングは浜松基地の近くにあり、自衛官が良く来るらしい。浜松基地は、おらの仕事の故郷みたいなところだ。でもおらが40になってサーキット始めたことを話したら、「40の手習いですか」だって。ほんとのことだけど、失礼しちゃうなー。ヤマハ主催で平さんが校長の“SUGO TZ125 ロードレース体験入門スクール”に一昨年参加したジョーのことを話したら、平さんは奴のことを、「背の高い白いつなぎの人ですよね」ってちゃんと覚えてた。おらでさえ奴のつなぎの色までは覚えてないのに。おら、「11月のSUGO TZ125/R6 ロードレース体験入門スクールに参加しますから、よろしくお願いします」と言ってから、「でも9月の鈴鹿のスクールは抽選に外れてしまって…」と思わせぶりに言ったんだけど、「R6使って、あの価格は安いよねー」って。おら値段の話をしたいんじゃなくて…。おらの意図に全然気付いてくれない、ダンディーな鈍感男!

 

平さんは、「仕事柄いろんな二輪に乗ってきたが、このBMWはツアラーとして歴代最高」だって。120,000kmは乗ってるそうだ。平さんは大のツーリング好きで、今では二輪といえばツアラーのことしか頭にないみたい。WGPライダーがツーリング好きってのは、おらには理解し難いが、ホントに二輪がお好きなんだろう。ちなみにBMWのツアラーは、おらの知る限り、二輪車で唯一ABS付き、かつシャフト・ドライブ。先進性はいいのだが、おらはあの水平対向エンジンの横への出っ張りが妙に気になる。


4752 平さんと


4753 河崎監督と (おらの表情が、平さんの横にいるときと随分違う。河崎監督おっかねーど)

 

ここからは街中を延々走った。街中では排気量の差は出ない。おら走りながら、FISCOサントリー・コーナーでのTT600の異状の原因が本当にギア抜けなのかずっと考えてた。師匠に「ギア抜けすることありますか?」って聞いたとき、「めったにないです」って言われたが、江場ちゃんは今日シフト・ダウンしたときにギア抜けしたと言ってた。今後はサーキット用にR6買って、TT600はサーキット用のセカンド・マシン兼今回のようなツーリングではハンドル上げてツアラーとして使い、SRV250は普段の足と関東周辺のツーリング用にしようか、なーんて贅沢なことを考え始めてた。

 

15:00 郡上八幡の“民宿いよじ”着。部屋割り待ってる間に、「将来、本間さんが監督になったら、交渉事等なんでもできますから、コーディネーターやらせて下さい」って河崎監督に頼んだら、師匠が「その節はお願いします」って恐縮してた。ほとんど冗談なのに変な人。この後おら大失敗やらかした。監督に「もてぎ行きます!」って監督率いるヤマハのWGPでの走りを応援に行きますって言ったつもりだったのに、監督に「もてぎ?」と不思議そうにされた。おらはWGPのヤマハ・ワークス・マシンYZR250のテスト・ライダーである師匠と一緒に来てるヤマハの監督だから、てっきり河崎監督がWGPヤマハの監督だと思ってたのだ。その後江場ちゃんから聞いたところによると、河崎監督は全日本に参戦しているレーシング・チーム・ヤマハの監督であり、WGPにはヤマハがチーム参戦してるわけじゃなく、ワークス・マシンを開発し、それをサテライト・チームに提供してるんであって、WGPヤマハの監督なんてのは存在しないのだ。後でおらが勘違いしてたことを師匠に話したら、「大丈夫」って言われたけど、おらヤマハで使ってもらえるかなー?おらそれまで師匠の為にも、監督に気を使ってたんだけどなー。

 

監督、平さん、師匠は、始終サイン攻めにあってた。特に平さんの人気は絶大だ。ありゃ結構苦痛だろうなー。おら字ヘタクソだし名字の字画が多いから、サイン求められたら拒否する。求められたことないけど。それに平さんは、女に追っかけられることが多いだろうが、相手するわけにもいかないから、さぞや忍耐が必要だろうなー。だからお太りになって、自分が平忠彦とは容易には気付かれぬようにしてるんだろうか。おらは、著名作家になっても、実名出さず、由美かおるとの対談を除き、メディアには登場しないと心に決めてる。


4807 平さんのサイン付き、汚れた英雄の第1巻

 

宿で同室になったのは、江場ちゃんと年長のペケJ 1300ライダー高田さん。二人ともかなり横に大きくて、おらはまるで相撲部屋に入門させられたって感じだ。

 

もともとデザインが気に入って買ったSRV250だが、かみさんがこの日の為にピッカピカにしておいてくれたから、何か見違えちゃって、おらが「SRV250が50台の中で一番カッコいい」と言ったら、江場ちゃんに「みんな自分のが一番と思ってる」ってケチつけられた。SRV250はこの中に1台しかないし、デザイン重視の二輪なのだ。たくさんあるペケJなんかと一緒にしないでほしいね。でも、最近のヤマハの二輪はTDM850とゴロワーズ・ヤマハのYZR500を除き、いいデザインのがないなー。

 


4771 おらの長男SRV250。何と凛々しいことよ

 

師匠はおらと同じで風呂嫌いらしい。おらは冬の朝は風呂に入るが、2分程つかって体温めるだけの烏の行水で、冬以外は髪洗う為に朝にシャワーあびるだけ。でも、海景色か雪景色のある屋根なしの冬の露天風呂は好き。

 

18:30-21:00 宴会だ。ラッキーにも平さんの斜め前に座れて、また話ができた。平さんの子供っぽい一面が垣間見れた。師匠はいつになく、はしゃいでたなー。師匠の性格が今だによく分からん。シャイなのかなーと思ってたけど、そうでもないみたいだし、ウィリーばっかりしたり、犬っころと遊んでる師匠を見て得た結論は師匠はガキだと言うことだ。「二輪乗りはみんなガキなのかも」のおらの一言に、同室の高田さんが「私も、いい歳して、とよく言われるから、確かにそうかも」とうなずいてた。その高田さんはマイ・ウェブ・サイトおたくだった。

 

同室の2人に「イビキかくからね」って言われて、その体型から見ても真実味があったから、おらいったい今夜は寝れるんだろうかと心配だったが、すぐ寝れた。でも朝目覚めたらホントに江場ちゃんのでかいイビキが聞こえた。しかし2人に言わすと、寝付いたときのおらのイビキが凄かったらしい。色男のおらがイビキかくなんて幻滅だがホントかしらん?でも高田さんは優しくて、「疲れてるときはしかたない」って。

 

 

8月26日(日)

09:00 朝食とって記念撮影してから出発。昨夜到着した連中が加わりこのツーリングは総勢60台程に増えた。しばらく走って休憩。その際、おらがメットのシールドをはずしちゃってうまく取りつけられず、江場ちゃんに頼んだら、平さんが「どれどれ」ってな感じで、シールド取りつけてくれた。平さんってすごく親切。平さんもアライのジェット・ヘルだった。ヤマハ・ファンのおらは、できるだけ自分をゴロワーズ・ヤマハ仕様のライダーにしたい。ところがメットが大きな問題だった。おらは、NAVAなき今は、ヘルメットはアライのファン。でもヤマハはSHOEIのメットを販売してるからヤマハのワークス・ライダーはみなSHOEIを使ってると思ってたからだ。案の定、監督と師匠は二人ともSHOEIのフルフェースだった。でも後日、中野王子がアライのメットをかぶってることを知って問題解決。

 

10:00 次は行きに使った道の駅までのワインディング。ここが今回のツーリングのハイライトだったな。師匠たち数人が、出発定刻前にいきなり出て行った。おら出遅れたが追っかけることにした。はるか遠くだが、最後尾がまだ見える。おらは追いつこうとエンジンも焼けよと、レッド・ゾーンを使いまくって走ったが、ストレートがやたら長くなりだしてからは、最後尾が見えなくなり、完全に離された。しばらく前も後ろもいない1人旅となり、走ってる道が正しいのかどうか不安になりかけた頃、1台のR1に追いついた。それは後続車を待っててくれた誘導ライダーだった。助かったなー。おらはこの計500Kmほどのツーリングを通して、いったいどこをどう走ってるのか全く見当がつかなかった。分かってたのは岐阜県の郡上八幡周辺を走ってたってことだけだ。しばらく走った後、分岐路にさしかかり、R1のライダーはおらを先に行かせて後続車の誘導の為にそこに待機した。

 

このツーリングを通して驚かされたのは、60台もの二輪を難なくさばいている主催者側の手際のよさだ。途中で待機してる誘導ライダーやら、最後尾をガソリンやツールを積んで走るライダーがちゃんといる。おらが今年たった4台で行った日帰りツーリングでさえ、内1人が2回も迷子になって往生したくらいなのに。

 

途中の長い登りのストレートで、左前方にミニパトが隠れて止まってるのが見えた!結構な登りで、せいぜい80Km/hくらいしか出てなかったからちょっとブレーキングしただけで無事やり過ごせた。でもかっとび連中が捕まってないのが不思議だった。後で師匠に聞いたら、フル・ブレーキングしたと。あの道を逆に走って下ってたら、おらたちゃどえらい被害にあったろう。また江場ちゃんに負けた。くやしー。TT600で走れなかったことをこのときホントに悔やんだ。師匠のかっとびをこの目で見れなかったのが何より残念なのだ。

 

11:30 ゴールの名宝スキー場までのちょっとの間のことだ。師匠がとろとろしてるから、おらが抜いたら、今度は師匠がおらを抜き様バック・ファイアーかました。わざと抜かせたナ!そのすぐ先のトンネル内でも数発やられた。トンネル内でのバック・ファイアーはキクー。おらもCB400Nではよくやったが、師匠はいい歳こいてまだそんなことやってんのか。いつか仕返しするぞ。

 

12:00 名宝スキー場のバカでかい駐車場に着いたとたん、小雨が降りだした。おらここで初めて今日のツーリングがYSP中部支部1DAYツーリングを兼ねていて、ここがその集合場所であることを知った。他のYSPからも続々とやって来て、200台程の二輪が集結した。ほとんどヤマハ車の壮観な眺め。記念撮影して、焼肉食べ放題した後、ビンゴと大口オーナーとのじゃんけんによる賞品争奪戦。

 

師匠が、江場ちゃんにしきりとペケJ 1300のクラッチが重いと訴えてる。おらがクラッチ・レバー握ってみたら軽い!これで重いのならTT600のあの重さはなんなんだ!後日ある人のTZ125のクラッチ・レバー握ってみたらスカスカに軽い!乾式ってこんなに軽いのか。WGPライダーが指一本でクラッチきるわけだ。TT600のクラッチの重さと、フロント・ブレーキ・レバーの近さは、やはり何とかしないといかん。

 

他のYSPから来てる二輪の中にカワサキのゼファー1100があった。カッコいい!ヤマハ車ばかりで食傷気味だっただけに、なんて新鮮なんだ。江場ちゃんに、「ネイキッド買うならこれにする」って言ったら、「裏切り者」だって。おら既にトラで裏切ってるんだがなー。だいたいおら、いつの間にヤマハ信者にされたんだ?宗教団体に入れられるときもこんな風にいつのまにかなんだろか。おらはただのチューニング・フォーク信者のつもりだったのに。おら浮気性なのかもしれんが、一度はカワサキにも乗ってみたいよ。だってカワサキのネイキッドは昔からワルそうなタンクとテールのデザインが何とも言えないんだもん。しかし数日後、スズキとカワサキの二輪事業での提携ニュースがあった。2社の二輪事業提携は遅過ぎたくらいかも知れんが、カワサキのネイキッド・デザインだけは残して欲しい。

 


4779 左から江場ちゃんのTRX850改900、師匠のペケJ 1300、おらのSRV250

 

 


4787 「平さんよりいい被写体だよ」と言ったら、えらく喜んでたアメリカンな彼女

 

15:00 イヴェントが全て終わり解散。郡上八幡ICからみな高速道路で家路に向かう。おら、とてもその日のうちに東京まで帰れんと思って翌日休暇を取っておいたが、まだ時間は早いし、明日雨に降られたら嫌なので、そのまま東京まで帰ることにした。帰り際に駐車場で師匠に「なにか技見せて」とお願いしたら、バーンナウトやってくれた!WGPレースで優勝者がやる、前輪ロックさせながら後輪空転させ白煙あげるあれだ。おら生まれて初めてナマで観た。しかも真横で。で、おらもSRV250でやろうとしたら、前輪がどうしても動いちゃってできない。おら、シングル・ディスクのブレーキの弱さのせいかと思ったが、パワーないからできないんだって。

 

その後に監督がもっと凄い技見せてくれた。これには驚き、感動し、師匠には悪いが笑えて、あきれた。それは郡上八幡ICに向かう途中の信号待ちで、監督と師匠が2列のフロント・ロー(最前列)、おらはセカンド・ロー(2列目)で監督の後ろに止まってたときのことだ。いきなり監督が右に止まってる師匠のキーを抜いて、左側の路上にポイッと投げ捨てた!みんな唖然。あわててペケJを降り、キーを拾いに行く師匠。やっぱり二輪乗りはいくつになってもガキだ。他では絶対に見られない、監督のような人格者なればこその超ウルトラ難度の技を見ることができ、おらはこれを見れただけで、このツーリングに参加した甲斐があったと満足した。この技を後世に引き継げる人格者はおらしかいまい。

 

江場ちゃん、誘ってくれてありがとう!本間利彦と走れたどころか、河崎監督や平忠彦とも一緒に走れたなんて、おら東京から来た甲斐があった。でも江場ちゃんのライディングを後ろから見てたら何か滑稽で笑えた。まん丸に膨らんだ物体が疾走してるんだもん。ライダー体型というのがあると、ライディング・スポーツの記事にあった。痩せ型で腕と脚の長い体型が理に適ってるそうだ。そういやWGPの解説でも度々ヴァレンティーノ・ロッシの手脚の長さについて、その有利さが語られている。江場ちゃんも、師匠も、ライダー体型ではおらにはかなわん。別におらの手脚が特別長いってわけじゃないが…。やっぱり破門されるかなー。

 

後日宿で同室だった高田さんのウェブ・サイトを覗いたら、おらのことが書かれてたので、抜粋する。

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愛車トライアンフ600で参加するつもりが、マシンの不調でセカンドカー250ccで登場、並み居るビッグバイクの中で、スロットルを全開にし、体を前後に揺さぶり加速する姿は、誠に滑稽であった。

彼はバイクにとりつかれた重症患者であった。40歳間近でロードレースに目覚め、チャレンジしているようです。その戦歴が左膝に幾重にも縫い合わせた手術の跡、それに負けじと、もう一人の南郷氏の友人TRX850氏が、私は膝の半月板がない、大腿骨も骨折した。大腿骨術後の痛々しい治療に、二人は息が弾む、重りをここにかけこうして筋肉を引っ張り、体を支えながら・・・生々しい話であった。私は、怖くなった、えらい人達と同部屋になった。彼らは、少年のように深夜までバイクを語り合った。

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おらも江場ちゃんに劣らず滑稽だったのね。

 

今回登場したゲスト二人の主な戦歴を紹介すると、

河崎裕之:

1961 WGP125@鈴鹿で優勝

1970 全日本251cc以上クラス チャンピオン

1981 WGP500@オーストリア3位、ランキング10位

戦歴が古いからインターネットではなかなか情報を得にくい。1961年ってのはたぶん間違いだろう。でなきゃ、20年の長きに渡って一戦で戦ってたってことになる。「YZRの育ての親」的人物らしいが、1981年はスズキのライダーとしての記録だった。あるウェブ・サイトにあった次の文に目を引かれた。

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86年型YZRは、開発を行った河崎裕之が、「歴代最高のマシン」 と自画自賛したほどのマシンである。謙虚なべテランが言うことだけに、重みのある言葉である。

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この文を書いた人は、謙虚の意味を誤解しているようだ。

 

平忠彦:

1980 全日本350ccチャンピオン

1983 全日本500ccチャンピオン

1984 全日本500ccチャンピオン

1985 全日本500ccチャンピオン

1986 WGP250フル参戦、最高位はサンマリノGPでの優勝、ランキング9位

1987 WGP500フル参戦、最高位はチェコGPでの3位、ランキング6位

1990 エディ・ローソンと組み、鈴鹿8耐優勝

 

平さんは、恐らく初代仮面ライダーと双璧をなす日本で最も名の知れたライダーだろう。二輪に興味のない多くの女性でさえその名を知っている。しかし平さんの二輪レース界に留まらぬこの知名度は、上記の戦歴から来るものだけではなく、どうやらあのルックスと、汚れた英雄の映画化から来るようだ。でも平さんは周りがスター扱いするほどには、自分をそう思っていないようだ。たとえば、記念撮影のときに、おらは平さんら精鋭だけの写真を撮りたくて、平さんに焦点合わせてたのに、「あの人に一緒に撮ってもらえば」とか、ヤマハのスクールにしても、ST600仕様R6にお値打ちに乗れるとは考えても、平忠彦がお値打ちに教えてくれるとは考えない。ぱっと見はちょっと近寄り難い雰囲気があるけど、実は優しくて素朴な人。

 

監督は1970年代の、平さんは1980年代の二輪レース界の重鎮であり、今回のツーリングにおける師匠の気苦労が伺われる。

 

 

東京への帰路、東名高速道路を走ってる際にガソリンがなくなりかけて、いつものように走りながらフューエル・コックをリザーブに回そうとしたら、なんと左手の握力がなくなってて、どうしてもフューエル・コックを回せない。とうとうSRV250は停止してしまい、高速道路の左隅に置いて、右手でフューエル・コックを回した。こんなことってあるんだなー。フューエル・コックでなく、ガス残量が少なくなると燃料インジケータ点灯で知らせる方法に法規改正されたことに納得した。でもこのことを知らないと、出戻りライダーはえらいことになるという例にその日お目にかかった。東京まであと一息の、駿河湾の眺望の良い由比パーキング・エリアで休憩してたら、おらと同い年ぐらいに見えたつなぎのライダーが現れたので話しかけた。47歳の彼は、10年ぶりの二輪復帰の初日だそうで、中古のスズキを大阪で買い、東京まで帰る途中だという。久しぶりに二輪に乗るから、安全の為につなぎ着てるそうだ。彼は途中でガス欠になったので、フューエル・コックをリザーブ側にしようとしたがフューエル・コックが見つからず、高速道路の出口まで二輪を押して行き、ガソリンを買いに行ったと。最近の二輪にはフューエル・コックがなく燃料インジケータの点灯に変わってることをおらが話すと、「そういえば何か点灯してた」と。

 

21:00 自宅着。SRV250は大したもんだ。帰りの東名では四輪1台とニ輪2台に抜かれたが、140km/hクルージングで、2日間ほとんどレッド・ゾーン付近を使いっぱなしで1,200km走行したのに何の不調もなし。それに電気系のトラブルは8年間で1度もない。さすが国産。8年間でたった5,000kmのSRV250の走行距離がいっきに伸びた。

 

翌日SRV250でバック・ファイアーやってみた。ウィリーもやってみたが、SRV250では1速でよっぽどスピード落としてるときじゃないとできないし、おらの技量ではとても師匠のように長くはできん。調子に乗って、発進時にも何回かウィリーしたら、あやうく振り落とされそうになった。発進時にステップに足乗っけないでウィリーすると、下手したら二輪だけ行っちゃって危ないぞ。

 

今回のおらの執筆で、師匠はとばっちり食って監督と平さんの怒りをかい、レーシング・チーム・ヤマハをクビになるかもしれない。そのときはおらと共著で、“本間利彦 サーキット・ライディングの全て”を執筆して印税わけあえば大丈夫。かえって今より豪勢な生活ができるかも。売れなかったら、江場ちゃんも会社辞めさせて、“本間レーシング・スクール”を3人で経営。おらが女性ライダーの参加を募る広告モデルやって、師匠がインストラクターやって、江場ちゃんには戦闘機装備品の知識を活かしてなにか画期的名な二輪用のメカを開発してもらう。

 

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