Round 17  2001 WGP#13パシフィックGP@もてぎ 観戦記

2001.10.14

 

FIM2001ロードレース世界選手権(WGP)シリーズ第13戦、パシフィックGP@もてぎの開催日が近づいてきたので、おらはいよいよ22年間眠らせといたケッタ・マシン、ZUNOWを復活させることにした。もてぎは徒歩でコースを観て回るには広すぎるからだ。

 

ZUNOWは、ただのケッタじゃない。おらが、高校生のとき、手を尽くしてそれなりの部品を買い集め、おらの手でホイールから何から全て組み上げた、どこへ出しても恥ずかしくないロードレーサーだ。オートバイのメカには弱いおらでも、ケッタのメカのことなら全て分かる。簡単だからな。それにしても、高校卒業してから全く乗ることがなくなり、何度か始末しようと思ったことのあるZUNOWだが、今まで持っといてよかった。こいつなら簡単に両輪はずしてクルマに積める。

 

FISCOにトランポで来る連中の中には、パドック内の移動用にケッタ持って来る連中がいるし、岡田がこの前自分のケッタを自慢してたから、そのうち修復しようと思っていたZUNOW。でも、22年間ほっといたケッタがそう簡単に復活するだろうか?と考えると億劫でなかなか手をつける気になれなかった。しかし今回必要に迫られ、とうとう重い腰を上げた。そこらへんの自転車屋では、ロードレーサーの修復に必要なものは揃わないから、家の近くでロードレーサー扱ってる店をインターネットで探して行ってみた。何とその店はCHERUBIMの工房だった。大阪のZUNOW、東京のCHERUBIMはおらがケッタ野郎の現役だった頃には有名なフレーム・メーカーだった。CHERUBIMのオーナーは、おらが昔出入りしてた名古屋のカトーサイクルを知ってた。カトーサイクルがまだ潰れてないなんて嬉しいなー。カンパニューロの部品も置いてあった。おらはシマノが全世界の自転車部品を席捲していることを知ってたから、カンパニューロはてっきり潰れてると思ってた。でも、おらがケッタやってた頃はサンツアー > シマノだったように思うが、サンツアーは潰れたようだ。今のロードレーサーは、ハンドルから手を離さずにシフト・チェンジできるように、変速レバーの代わりにブレーキ・レバーを横に押すようになってたのには驚いた。でも22年前から馬力は上がっていない。ロードレーサーの馬力とはもちろんおらの脚力だ。それにしても、CHERUBIMの工房がこんなに自宅近くの田舎にあって、おらが偶然そこに行くことになるなんて、おでれーたなも。

 

修復は思いの他簡単だった。前後輪のチューブラー・タイヤ、リム・セメント、フロントとリアのブレーキ・ワイヤー、フロントとリアの変速ワイヤー、ハンドル・バー・テープの購入代しめて\9,000と、簡単なメンテナンスで済んじゃった。エンジンや電気系のないロー・テクものはこれだからいいや。バイクだったらこうはいかん。

 


5149  22年の時を越えて復活したおらの愛車ZUNOW

 

ケッタ・ロードレーサーは芸術的な美しさだ。シンプルなだけに、この美しさはバイクの比ではない。このZUNOWにはイタリア製のカンパニョーロの変速機を始め、サドルやらハンドルやら欧州メーカーの部品を多く使っている。おらはガキの頃から欧州文化が好きだったんだなー。現在クルマもバイクも欧州ものに乗ってる原点がここにあった。ZUNOWのフレームは薄い青。これも昔から青が好きだったんだなー。今乗ってる四輪ビーマーも、二輪SRV250もTT600もみんな青だ。

 

さて、いよいよパシフィックGP@もてぎ観戦記だ。おらには初めてのプロのモーター・レース観戦。本間師匠や中野王子に会えるかなー。おらつなぎ着て行って、いかにもWGPライダー同士ってな感じで、選手と並んで写真撮りたかったけど、かみさんに「絶対変」って言われた。大人げないかなー。でも、つなぎ着てたらひょっとしてレース後に、師匠がYZR250に乗せてくれるかも。江場ちゃんにそのへんを聞いてみたら、「絶対ない」と言われたから、つなぎはやめた。

 

10月6日(土)

かみさんと共にビーマーでもてぎに向かい、12:00に到着。八王子からの道のりは空いてた。おらがもてぎに来たのはこれで2回目だ。この日は快晴で暑い一日だった。もてぎで貸してる電動アシスト自転車は既に貸し切り。ZUNOWを積んで来た甲斐があったが、かみさんの足がない。

 

会場に入ってまずはヤマハ・ブースでヤマハの応援旗をもらってから、「本間さんの商品ない?」とキャンペーン・ガールを困らせた。でも、その子は師匠のこと知ってた。師匠はこんないい環境で仕事してるのか!キャンペーン・ガールは、アンブレラ・ガール兼任か?録画したテレビ中継を後で見たら、この子らしきのがアンブレラ・ガールやってた。

 


5165 ヤマハ・ブース前に何台か並んでいたマシンの中で、ひときわ注目を浴びてたのが中野真也レプリカ外装セット装着のMAJESTYだ。欲しい!イタルジェットよりいい。中野真也レプリカR6とつなぎも売れー。CBR600F4iにはロッシ・モデルがちゃんとあるぞ


5173 たわけたヤマハ信者を発見

 

この日は予選2日目。予選前の練習走行の間、おらは一度もコースを観ることがなかった。というのも、ライディング・スポーツ等の古雑誌売ってる露店を見つけ、そこで1時間の長きに渡ってねばったからだ。何故かって、本間師匠の足跡を知るのに、こんな貴重なチャンスはないからだ。おらは我が物顔で露店を半分占領し、延々と雑誌を物色した。露店の店主の佐々木のおじさんは愛知県一宮市から来たそうだ。大口顧客のおらに烏龍茶を買って来てくれたり、買った雑誌をクルマの駐車場まで運んでくれたりと親切にしてくれた。

 

おらが古雑誌と格闘してるとき、場内放送のアナウンサーが師匠にマイクを握らせた!師匠は1人で随分長く話してたな。もてぎはホンダの本拠地だから、師匠の演説が聞けるなんて思ってもみなかった。

 

WGPの決勝はいつも125cc、250cc、500ccの順なのに、予選は違うようで125cc、500cc、250ccの順だった。メイン・スタンドからホーム・ストレートを見ててもおもしろくないから、ZUNOWで一通りコースを周って予選を観ることにした。最初に行ったダウンヒル・ストレートにおらの目は釘付けにされた。なんだこの長い下りのストレートは!ストレートの行き付く先は小径90度コーナー。みな、250m〜300m手前でブレーキング開始してた。コース図を見るとこのダウンヒル・ストレートはホーム・ストレートより長い。自分が走ってる以上に、寒気のする光景だった。でもさすがに新しいサーキットだけあって、90度コーナーには300Km/hでそのまま突っ込んだとしても、コース外までは飛び出しそうにない、おっそろしくでかいグラヴェルが用意されてる。ダウンヒル・ストレートのブレーキング地点は、ハード・ブレーキングだけでなく、S字70RとV字コーナーも見える、なかなかいい観戦場所だ。

 

更に奥へとコースを逆回りに、ヘアピンに行ってみたが、ここはつまらん。そこから更に先に行った、コース外側からS字の中間点を正面に見る場所では、V字コーナーも見えるから、最高の観戦場所かも。パッシング・ポイントでもあり、最も転倒するライダーが多かったのがV字コーナーだ。


5176 コース外側から見たS字

 

コースを1周して思ったが、もてぎはFISCOのような高速コーナーがなく、多くのストレートをストップ・アンド・ゴーで繰り返す、超大型ジムカーナみたいなコース。危険を避けての設計かもしれないが、おらはものたりなさを感じたな。

 

ピット・ウォーク券ってのがあり、何だかよくわからんが買ってみた。予選日は予選の前と後に、決勝日はウォームアップ走行前に30分程ピット・ロードに入ることができて、各チームのピットの様子が見れたり、選手のサインもらえたりっていうしろものだった。1回\2,000だから安い。狙い目はたぶん予選の後だ。かみさんがアプリリア250ccの原田のサインを、おらがヤマハ500ccの中野のサインをゲット。原田は元ヤマハだからヤマハ信者のおらのコレクションになり得る。

 


5198 ゴロワーズ・ヤマハのピット。左は中野、右はジャックのマシン。一回走る毎にここまでバラすとは


5202 さっそうと登場の中野王子。王子は30分以上に渡って、延々とサインしてた。しかも、自らサイン後に握手を求めてくる。こんな人いないよ。若いのにえらすぎる


5212 ごめんなさい、ホンダです。7点 

 


5219 ペトロナス・スプリント・ヤマハのピット。左がユージー、右が松戸のYZR250


5238 マールボロ・ヤマハのピット。左がチェカ、右がヴィアッジのYZR500

 


5241  2001シーズンのWGPで唯一の女性フル参戦選手、250ccクラスのポエンスゲン。サーヴィス精神旺盛だった。トップ・クラスのライダーからすると、いつも周回遅れでうっとおしい存在なのかもしれんが、毎回のように決勝進出タイムをクリアしてるのは大したもの


5243 またホンダ。ホンダは金あるだけあって、めんこいのが多いのー。左から6点、10点、9点、3点

 


5251 もてぎ敷地内のホテルツインリンクは予約がとれず、敷地内のキャンプ上でテントを張った。場内からゲートまで渋滞しそうだからもてぎから出たくなかったのだ。でも予選日は全然渋滞しなかった

 

予約でいっぱいで21:30と随分遅い時間にもてぎの敷地内にあるホテルツインリンクのレストランに夕飯を食べに行った。メニューはイタリアンと中華。バーベキューでもやらん限り、他に飯食えるところは、もてぎの敷地内はおろか、外に出ても近くにはない。レストランでは原田が岩城浩一ら4人ほどの仲間と、その横ではロッシが5人ほどの仲間と随分長く居座わってた。ホテル内唯一のレストランだから、選手はみなここで食事を取るはずだ。もてぎにWGP見に来てここで食事しない手はない。師匠に会いたかったが、ヤマハの面々は誰も見かけなかった。とっくに食事を済ませたんだろう。

 

10月7日(日)

決勝だ。この日は晴れたり、曇ったりの天気だったが、観戦するには涼しくてちょうど良い気温だった。テントたたんでチェック・アウトし会場へ。かみさん用に電動アシスト付き自転車を借りようと、貸し出し開始時間の08:00に行ったが、07:00から整理券を配ってたようで既に遅し。

 

キャンギャルには目もくれず、古雑誌の佐々木のおじさんとこにまた行った。この日もまたそこで1時間ぐらい費やしてしまい、ウォームアップ走行は全く見れず。結局2日間で、師匠の活躍していた1988年1月号(これ以上古いのはなかった)から1993年1月号のほぼ全てと、1993-1999年の二輪レース界の知識を得るため1993-1999の各シーズン分一冊づつを買った。計60冊ほどで、定価販売だから、まけてもらっても\27,000ほどした。ほとんどが、ライディング・スポーツでサイクル・サウンズも若干あり。レーシング・ヒーローズなんて雑誌もあった。

 


5264 佐々木のおじさん


5330  60冊!これ読むの大変だわ

 


5401 師匠が表紙のレーシング・ヒーローズ。どの写真を見てもこの頃の師匠の目つきは今では考えられない鋭さ。今まで気がつかなかったが師匠の眉は上杉鉄平のように濃い。おらに少し分けてくろ

 

やっと古雑誌漁りにけりをつけて、1コーナーに面したメイン・スタンドに腰を据えた。メイン・スタンドは結構すいてる。ここはホール・ショットが見れるだけでなく、大画面映像も順位表示塔も見える。ただ、オーヴァル・コースがロード・コースの外側にあるから、スタンドからロード・コースまでが遠過ぎる。選手のライディング・フォームを見たいのなら、ホール・ショット見た後は、ファイナル・ラップまで用なしの場所だ。

 

125ccクラスはランキング・トップのエリアスが転倒して、宇井の独走優勝。

 

この日のパドック券を買ってあったので、その後パドックに行ってみた。パドックには各チームのプレハブ小屋がある。なんだかたこ部屋みたいだ。パドック・パスを持ってる連中は、その小屋に出入りする選手を狙って、サインをねだってる。パドック・パスの用途はこれか。

 


5299 ゴロワーズ・ヤマハのたこ部屋

 

師匠は松戸のチームのピットにでもいるのかなーとペトロナス・スプリント・ヤマハのたこ部屋を探してたら、20人ぐらいは入れそうなヤマハのでっかいテントを発見。サテライト・チームのものではなさそうだ。中を覗くと書類眺めてる師匠がいた!でもこれから250ccクラスの決勝で師匠は忙しいだろうし、中にキャンギャルがいるわけでもないし、250ccクラスのスタートも見たかったから、おらは挨拶だけしてピット・ガレージの屋上へ向かった。


5282 お仕事中の師匠

 

ピット・ガレージの屋上から、250ccクラスのスタートを見た。ここからはスタート地点は間近に見えるが、その先の1コーナーも何も見えんからレース観戦にはむかない場所だ。おらはスタートを見終わってからパドックを出て、ZUNOWでコースのところどころを観に行った。

 


5284 ファースト・ローの奥から、ポール・ポシションはアプリリアの原田、2番グリッドはホンダの加藤、3番グリッドはアプリリアのメランドリ


5287 ペトロナス・スプリント・ヤマハの松戸とユージー

 

250ccクラスは原田、メランンドリ、加藤が第一集団で争ってたが、メランドリの転倒に加藤が巻き込まれ、原田の独走優勝。加藤はシーズン初のノー・ポイント。YZR250の松戸は7位、ユージー19位。125、250クラスとも外車を駆る日本人選手のポール・トウー・ウィン。次は500ccクラス。中野いけ!

 


5303  500ccクラスのレース前に、米国同時多発テロ被災者の冥福を祈って黙祷。シャンパン・ファイトもなし

 

おらはホール・ショットをメイン・スタンドで見てから、今度はコース内側の観戦エリアに向かった。小高い丘になった観戦場所があり、そこからは130RとS字が良く見える。でも、ロッシの独走となったレースがつまらなくて、おらは寝てしまった。


5304  500ccクラスのホール・ショットはヤマハのヴィアッジ

 


5305 コース内側から見た130RとS字の入り口。先頭はホンダのロッシ。望遠レンズが必要だなも

 

芳賀はおきまりの転倒。ジャックはブレーキ・トラブルで棄権。そしてロッシの前を走っていたヴィアッジが転倒し、ロッシの独走優勝。これでロッシは今シーズンのタイトルを決定付けた。中野は6位。こりゃ、あと唯一欲しかったジャックのサインを得るのは無理そうだ。

 

125ccクラスのランキング1位エリアス、250ccクラスのランキング1位加藤、500ccクラスのランキング2位ヴィアッジがみな早々に転倒してしまうという、各クラスとも大荒れのレース。特に今年の売りの、250ccクラスでの加藤と原田、500ccクラスでのロッシとヴィアッジの一騎討ちが見れず、レースとしてはつまらないものとなった。決勝で転倒しちゃいかんよ。

 

レース終了後、再度パドックへ向かった。松戸選手のサインをゲット。松戸は優しそうだ。その後、また師匠に会えて少し話をした。2000年はジャックと中野の駆るYZR250でランキング1、2位を占めてるだけに、松戸の7位は「おめでとうございます」とも、「残念です」とも言いにくい、微妙な順位だ。

 

パドック・パスは決勝日より、予選日の分を買った方がいいだろう。パドックにいたらレース見れないもん。それに選手のサインも予選の時の方がもらいやすいんでないかな。ただエリア2先行特別割引入場券が3日間通しで\10,000なのに比べ、パドック・パスの一日\10,000はちと高過ぎる。表彰台はメイン・スタンドに向いてるからパドックにいては見えない。

 

アトラクションとして、往年のホンダのライダー、マイケル・ドゥーハン、フレディ・スペンサー、高橋国光が走ってた。ヤマハ信者のおらとしては気にいらない。日本で開催されるWGPは、日本GP@鈴鹿、パシフィックGP@もてぎと、どちらもホンダのサーキットが舞台。これでいいのかヤマハ。でもSUGOは観客入れるにゃ場所が悪いから、ヤマハは何とか関係の深いトヨタの力を借りて、将来FISCOにWGPを持って来れないものか。昔FISCOでWGPをやってた頃もあるのだ。それにしても、ヨーロッパ・ラウンドに比べて、観客の少ないことよ。おらは去年までWGPの存在すら知らんかったが、こんな首都圏に近いもてぎでその一戦が行われてることを知った時には驚いたもんだ。くそ暑い鈴鹿8耐はあんなに混むのに、気候の良い時期の首都圏近くのWGP@もてぎに人が集まらんとは、おらには理解できん。8耐の伝統ってやつ?それとも大学野球やパ・リーグには人が入らんでも、高校野球は人気があるのといっしょで、マスコミに躍らされてるの? WGP全戦テレビ中継してるNHKガンバレ!

 

録画したテレビ中継を後日見たらNHK解説者の難波氏が、マールボロ・ヤマハのピットで、YZR500のプロジェクト・リーダーの中島氏にインタヴューをしてた。ってことはYZR250のプロジェクト・リーダーもいるんだろう。その人が師匠の上司?江場ちゃんによると難波氏は師匠と同期のヤマハのライダーだと。

 

田宮模型からゴロワーズ・ヤマハ仕様YZR500のプラモデルが市販されてて、会場で売ってた。でも、残念ながらロゴは“GAULOISES”でなく、タバコ広告規制地で使用される“GO!!!!!!!”の方だった。中野のとジャックのと両方のゼッケン・シールがある。欲しいのはやまやまなれど、昔買ったCB400Nとパトリオット4セットのプラモデルを、おらは今だに手付かずのまま持ってて、プラモデル買ってもどうせ作らないの分かってるから、買わなかった。

 

帰路は通常使う水戸ICまでの道のりが込むと読み、遠回りだが北ゲートから出て那珂ICに向かった。常磐道に入ってから水戸IC付近での渋滞はなかったが、しばらくしてからどえらい渋滞。これだから四輪での移動は困る。


5328 左上が師匠、左下が松戸、右上が中野、右下が原田のサイン


5335 広告やチケットなど

 

おらは中野とジャックのゴロワーズ・ヤマハの二人のサインを貰う為に、ゴロワーズ・ライトを1カートン買い、カートン・パッケージに中野のサインを貰った。それをきっかけにゴロワーズ・ライトを再び吸い始めたおら。まずいけど、今度は長く吸い続けるぞ。ヤマハ信者の修行だと思うべし。宗教嫌いのおらが、いつのまにかヤマハ教にどっぷりと浸かり始めてる。江場ちゃん、師匠、中野におらはたぶらかされてるんだろか?でもホンダのキャンギャルがおらの目を少し覚ましてくれた、パシフィックGPであった。

 

 

次は汚れた英雄と40の手習い男の再会についてだ。おらは10月9日(火)浜松へ出張に行ったついでに、平さんに会いに行った。だって豪華ツーリングのとき、おらが浜松によく行く話をしたら、平さんに「是非来て下さい」って言われたんだもん。おらはずうずうしいから、日本のあいまいな社交辞令にはついて行けんのだ。こんなおらは京都にはとても住めんだろう。だいたい日本が自衛隊持つなら、憲法第九条は絶対に書き替えるべきだ。子供心に憲法第九条を知ったときにゃー、「大人ってあいまいでずるいなー」と思ったのを今でも覚えてる。選挙にも行かないおらがこんなことを言うのはおこがましいが、日本の大人がそんなだから、日本人のモラルがおかしくなってるんだ。よっぽどの女でなけりゃ誘われてもついてかないおらだが、平さんに誘われたら、例えそれが社交辞令と分かってても、おら積極的になるわな。でも、本書を執筆して平さんにアップデートの連絡続けてなければ、いくらおらでも、さすがに平さんに会いには行けなかったろう。本書執筆の苦労が報われた。

 

平さんがおらのこと覚えてるか心配だったが、平さんに電話したらまっ先に、「サーキット人生、全てプリントアウトして読んでる」と。平さんが本書読んでくれてたとは嬉しかー。でも、ツーリング記では平さんのこと随分面白おかしく書いちゃったし、8耐悪く言ったのはまずかったかなー。おら、浜松までの新幹線で、平さんを特集した昔のライディング・スポーツを読み、平さんはWGP@サンマリノでの優勝より、苦汁を嘗め続けた8耐で1990年に初優勝したことの方がよっぽど嬉しかったらしいことを知ったのだ。今まで何度も日本シリーズで優勝目前までいきながら、江夏の21球やら、加藤の「巨人はたいしたことない」インタヴューで敗れ去った、12球団で唯一日本シリーズを制してない近鉄が、今年の日本シリーズに勝つようなものか?予言してる訳じゃないぞ。ついでだが、中日の監督は坂東英二にやってほしかった。

 

17:30、平レーシング到着。浜松の客先からクルマで20分程の場所で、店内は小さいけど、敷地は広くて奥に大きなガレージがあった。平レーシング仕様のマシンをそこで仕上げてるようだ。お店には田宮模型のYZF-R1 平レーシング仕様プラモデルが売られてた!後に田宮模型のウェブ・サイトを見たら、YZR500平忠彦仕様も現役で売ってた。店内には、MV AGUSTA F4平レーシング仕様¥560万が置かれていた!

 

「“サーキット人生!”では失礼なことばかり書いてすいません」とお詫びしたら、平さんは「大笑いして読んでる」って。話せる人だ。おら河崎監督のe-mailアドレスを知らないから、本書を送ってない。だから師匠は命拾いしてるんだな。だいたい河崎監督はパソコンなど使う人じゃないと思う。

 

何と平さんは「ラッセルさんを知ってる」と。「ラッセルさんは速い」って。

 

平さんは今は四輪には乗らず、二輪一本やりらしい。ホントに二輪が好きなんだな。おらはWGPライダーだった平さんがツーリング好きなのを不思議に思ってたから、他のWGPライダーもそうなのか質問してみた。やはり平さん以外にツーリング好きなWGPライダーは皆無とのことで、「多少なりとも二輪界に影響力を持つものが、二輪に乗らないのは惜しいことだ」と残念がられていた。平さんは1997年から始まって、現在69回を数えるツーリング紀行、“風道浪漫”を執筆中だ。平さんはその中で自らをツーリング・ライダーと称している。おらは本書を執筆しだしてまだ8ヶ月程だが、執筆を続けることの大変さを痛感しており、仕事とはいえ、5年に渡ってツーリング紀行を書き続けている平さんには感心しきりだ。しかし平さんがツーリング・ライダーとしての執筆で、おらがサーキット・ライダーとしての執筆ってのは、あべこべのような気がする。

 

平さんは、先のWGP@もてぎには行っていないし、長いこと8耐にも足を運んでいないとのことだった。「もうレースは十分やったから」と。平さんにはレース界での活躍を活かした、レース界での貢献の道を選んで戴いた方が、おらのようなサーキット派には嬉しいが、二輪販売に占めるサーキット・マシンの数などたかがしれているから、二輪業界全体のことを考えるのなら、ツーリング・ライダーとして業界に貢献される方が正解なのかもしれない。それに、ご自身の好きなことでなければ、長続きできまい。今はツーリング嫌いのおらだが、もしおらも五体満足でサーキットを離れられて、平さんのようにツーリングを楽しむことができればいいなー。

 

おらが持参したライディング・スポーツに、薄いブルーのTECH 21のつなぎ姿の平さんが写ってた。おら好みの色であることを話したら、ケニー・ロバーツがおかま色と言ったそうな。ちょっとない、いい色だが、確かに女が着たら色気満々の色で、男が着るのには抵抗あるかも。平さんやおらのような色男が着るにはカッコいいが、ケニー・ロバーツが着たら気持ち悪いだろう。

 

本書の読者の平さんに、おらへのアドヴァイスを求めた。「選んだ二輪が悪かったねー」と言われてしまった。そして、「ケガしたら大変だから無理しない方がいい」と。平さんのことを勉強してきたおらは、「平さんこそ最初はよく転倒したそうじゃないですか」と反論すると、「今は地位もあることだし」と。おらの地位などごみ屑みたいなもんだが、おらは「若ければ残りの人生を惜しむかもしれませんが、自分としてはもう十分すぎるほど長く生きてきたと思ってるので、好きなことやって太く短く残りの人生を全うしたい」といつもの調子。また平さんには鈴鹿で走ることを薦められた。いつか走行会で走りたい。

 

記録によれば平さんの最初のレースはFISCOでのMCFAJで、リザルトは入賞外になっていたから、どのくらいサーキットを走ってからレースに出たのかお聞きしたところ、オンロードを始めた年にいきなり出場されたそうだ。平さんは結果を気にせずレースに出る、ええカッコしいとは無縁の人か?おらの場合は江場ちゃんにたぶらかされて、いきなりレースに出ることになったが(結局出れなかったが)、普通はある程度のタイム出してからじゃないと、レースに出ようなんて思わんもんだ。

 

平さんのFISCO談義が聞けた。サントリー・コーナーまでのストレートを走っていて、コーナー手前で前輪ディスクが平さんのマシンから転げ落ちていった。サントリー・コーナーのグラヴェルは狭くて、そのまま突っ込んだら死にかねないから、平さんはステアリングを回して自ら転倒したそうだ。マシンはオシャカで、ケガはなかったと。あらかじめ、そういう対処方法を知っていたわけではなく、とっさの判断だったとのことだが、こういうことできる人っているんだなー。おらにわざと転倒する度胸あるだろか?そのまま突っ込んで死ぬような気がする。

 

若かりし平さんがレースを始めた理由をお聞きしたら、「最初からプロになることを目指してた。運が良かったかも」と。おらそう思う。だって、自分の素質など最初から分かるはずないもの。でも素質だけでなく、そのへんの考え方にも、月給取りになる人間とプロ・スポーツ選手になる人間との違いがあるんだろう。

 

「おらの方が平さんよりカッコよく写るまで」とお願いして、一緒に写真に写ってもらったが、3枚撮ってもダメ。「しょせん2枚目には勝てません」と、おらは諦めた。


5340 3回目の撮影で笑顔も消えた平さんと悪徳マネージャーらしき人物

 

帰り際に、おら自分の手帳の11月12日(月)、13日(火)に書いてあるSUGOの文字を平さんに見せ、「行きますから」と言ったら、「レースに出るの?」だって。この日は平さんが校長のSUGOレーシング・スクールの日なのに!今度は抽選でなくて書類選考だから、おらは年齢でひっかかるに決まってると思ってたが、選考通ったんだ。やっと気がついた平さんが「韓国から10人来るそうだからWGPでしょ」と。面白いこと言って、WGPオーバー40出場を目指すおらをおちょくってくれるなー。でも韓国じゃWGPというよりアジア選手権だ。おらはテニスでは、オーストラリアで現地の人間に1勝0敗、米国では2勝0敗と、全英、全仏の試合経験はないものの、全豪、全米もどきでは圧倒的な強さを誇っているのだ。

 

30分くらいかなーと思ってたのに、1時間近くもおじゃましてた。平さんは現役時代は無口だったらしいが、饒舌だったなー。本間利彦独占インタヴューのときと違って、今回はただお会いできればいいと、特に聞くことを考えずに会いに行ったおらだが、話してるうちにいろいろ聞きたいことが噴出した。でも平さんの口が止まらないから、平さんの話が終わる頃には、聞きたかったことの多くを忘れてた。

 

聞き忘れたが、実は一つだけ会う前から聞こうと思ってたことがあった。普通ヘルメットかぶると髪がペタンコになるのに、なんで平さんはあんなにフワフワしてるのかだ。髪質の違いだろか?それとも資生堂の整髪料 TECH 21をまだ有り余るほどお持ちなんだろうか?

 

あらためて、平さんってホントに心が広くて優しい人だと感じたなー。平さんには何でもワガママ言えちゃいそうだ。おらが平さんより年上の女なら溺愛する。ライディング・スポーツに平さんのことを述べた河崎監督らしい言葉が載ってた。「人間としてはすごくやさしい男で、自分が厳しくされてきたから、後輩達には優し過ぎるかもしれないね」と。おら河崎監督が厳しすぎるんだと思うな。汚れた英雄の北野晶夫は河崎監督の軍隊式ではやっていけんだろう。

 

一緒に行ったおらの部下が、「頂点極めた人はオーラがある」と感動してた。別に頂点極めたからでなく、平さんだからそうなんだと説明してやったが、日頃いつも一緒にいるおらにはオーラがないってことか!おらは男にオーラを発散するなんて無駄なことはしない。

 

青年期までの苦労、2枚目なとこ、ライダーとしての腕前は共通した部分だが、純粋な平さんと荒廃した精神を持つ北野は全く異なる人種だ。やっぱりおらが執筆したい作品、“実録 汚れたひでお”のモデルは師匠しかいない。師匠はおらには今のところウブなところしか見せないが、江場ちゃんや岡田とつきあいがあるくらいだから、ほんとはすけこましなはずだ。そうあってほしい。でないと“実録 汚れたひでお”のモデルはつとまらない。

 

 

“汚れた英雄”を読んだ。本来のおらの趣味とはかけ離れた小説で、5点満点の2点。内容も随分古い1960年代のもの。でも、サーキットをやりだしたおらにとっては、必読の書だった。サーキット・ライダーだけでなく、メカニックも読むべき書だな。主人公のライダーとしての生き様だけでなく、実在するライダーやマシンやレースが描かれているから、その歴史を知る上でも参考になる貴重な作品だ。汚れた英雄におらは完全に感化され、おらがサーキットやるべき人間であったことを再認識できた。


5672 汚れた英雄全4巻

 

話の概要は、こういったものだ。レーサーとしての稀有の才能を持つ主人公の北野晶夫が、走りの芸術を完成させる為、必死の努力で腕に磨きをかける。と同時に、北野は驚異的な色男ぶりを発揮し、世界中の金持ち女をたぶらかし、金銭的には数千億円の資産を得、オフ・シーズンには豪華な生活を堪能する。しかし、北野は金や女に溺れることなく、二輪レースに生き甲斐を求め続ける。年々、性能を増すホンダ他の日本車勢に圧倒され始めるが、北野は日本車に乗ることを嫌い、不利な外車で如何に戦うかに情熱をそそぎ、MV AGUSTA始め様々なバイクを駆ってWGPチャンピオンの栄冠を何度となく勝ち取っていく。

 

おらが感銘した部分をご覧あれ。それにしても北野といいおらといい、色男同士ってのは、いろんなことで共通点があるもんだ。

・「MVアグスタ350ccが横転し、北野がMVから吹っ飛ばされた瞬間、北野は無意識の内にエンジンを切ったため、MVは火を吹かなかった」

・北野はこの世の全ての女に自分を惚れさせることができる、まさにゴルゴのような男だ。でも北野はゴルゴより随分性格悪い。

・北野が大転倒した後の走りにおける、恐怖との戦いの描写。

・北野は傘をさすのが嫌い。おらも傘をさすのが嫌いで、よほどの雨でなければ濡れる方を選ぶ。

・ウィリーのことを竿立ちと表現。

・おらがよく行く航空自衛隊浜松基地の滑走路で、二輪の第一回全日本ドラッグ・レースが開かれている。

・聖蹟桜ヶ丘やら調布やら、おらが生活してた場が登場する。

・ロベルト・ヴィアンキが北野に「君もいまに、自分を押さえて走ることを覚える。それまでに命が保つかどうかが勝負だ」と。おらもどうしても自分を押さえられず、FISCOで走るたびに転倒する。

・「全米を統括している二輪レース組織AMAはFIMと反目し合っている」とあった。また「アメリカでは暴走族のせいもあって四輪に比べ、二輪の人気はない」と。どうりでWGPがアメリカで開催されない訳だ。

・北野の瞳の色はダーク・ブラウン。おらもそうだ。ストロボ焚いて写真撮られると、目が猫みたいに光っちゃう人は瞳が黒くないはず。

・北野はヨット・パーティーでEx-Duke(エックス・デューク:元公爵)の役を演じさせられる。おらもデューク。

・さすがの北野も高速コーナー手前でマシン・トラブルによりギアが抜けずシフト・ダウンできなかった際、コーナーで転倒した。このときヴィアンキ250は、30m吹っ飛んで大破するが、北野は猫のように空中で回転して着地し無傷。

・防音室の中でMGAの新車をジャッキ・アップし、エンジン、ミッション、デフ、リア・アクスルを廻して慣らしを済ませる。こんな慣らしの仕方があったのね。

・女優のエヴァが北野に向かって言う言葉。「どうして、あなたに夢中になったか、わけが分かったわ。あなたがいつも死と背中あわせに生きているからね」

・「女と事が終わり、これからマシン・テストに向かう北野の心は虚しかった」とある。つまらん女との情事の後は虚しいものだ。それに比べて、サーキットを走り終えた後の充実感といったらない。

・北野が開き直って女に言う言葉。「僕の心は、誰にも束縛されない。限りなく自由だ」

・この言葉は特に気にいった。おらの常用語にするぞ。「僕たちは永遠の恋人だ。そして、おそらく、一生結ばれない」

・ヴィアンキが北野に、「たとえ、稀代の女たらし、汚れた英雄、と呼ばれるのが…」と。唯一汚れた英雄という言葉が登場する場面だ。ヴィアンキの言葉は続く。「脆くはかなく崩れる幸せとは知っていても、女は君のような男に愛されていると錯覚しているときが、ただ一つの現つだ。幸せな現実が永遠に続くものでないことを知っているから、悦びは何倍も深くなる」と。若い時にこれ読んでこんな言い訳自分にしてたら、おらホントの女たらしになってた。

・「触れなば落ちん」の表現には笑えた。でも、しつこすぎる。

・北野は、「すでに数百回も目を通してあったコースの公図に、さらに目を通す」し、コースの下見は必ず徒歩で行う。

・北野の言葉、「確かにホンダには魅力がある。それに僕は日本人です。でも僕は贅沢で我がままで女性の美しさに弱くて、とてもじゃないが、軍隊式の日本チームじゃやっていけそうもないんでね」とホンダには興味を示めさない。

・北野のライヴァルであるマイク・ヘイルウッドがロー・ギアを壊し、「ロー・ギアを使うべきところをセカンドで廻ってるときには、レースをやめたくなったよ」と。

・随分ホンダを悪く書いて、ヤマハには好意的とはいわないまでも、北野がアマチュア時代に使っていたバイクはヤマハ。大藪はヤマハ信者か?

・「1966年10月15日、.河崎裕之などが50cc、国内レースに出た」と、ヤマハの河崎監督が登場する。

・大藪のあとがきに「北野晶夫にモデルはありませんが、レース記録や出てくるマシーンの性能は、ほぼ正確です」とある。メカに関してはどえらい詳細に書かれてて、メカ好きにゃ面白いだろう。でもおらにはちんぷんかんぷんだ。

・実名出しての歯に衣着せぬ書きっぷりには驚いた。大藪はこんなの書いて誰からも訴えられなかったんだろか?

・最後の角川春樹の解説は、おらの思いを見事な文章に具現化している。「現代の英雄として生きるためには、栄光と同時に常に悲劇を背負っていなければならない。挫折のない栄光など決してありえないし、最大の挫折が死ということになる。つまり、現代の英雄は窮極のところ悲劇的な死と裏表となっている。死によって英雄たり得る資格を持ちえるのだ。北野晶夫の死は美しい。なぜなら、彼の終局的な生き方は「レースに勝つ」ことだけに絞りこまれているからだ」でもおらは、「美しくあり続けるためには若くして死ななければならないところに、人生それ自身の本当の復讐があるのかもしれない」、なんて皮肉れたことは考えたこともない。

・これだけの長編読ませといて、ラストの数10ページはなんなんだ!えらく駆け足で執筆したようだが、最悪の終わり方で、全然言霊入ってない。北野にガキがいることが分かって、最後の最後に女に利用されて、二輪では転倒してロケットのように120mも吹っ飛ばされても左鎖骨骨折だけで済むような男が、こともあろうに四輪で死ぬなんて。


4544 現代に蘇った稀代の女たらし、北野晶夫が筑波を走る

 

おらは普段の生活で差し障りがない限り、源氏名を使うことが度々ある。例えばタクシーを呼ぶときなんかだ。おらの実名の名字が難しくて、一度で正しく聞き取ってもらえることは万に一つもないし、漢字まで聞かれた日にゃ、説明するのが大変だからだ。源氏名は最初“今中”を使ってたが、一度どういう漢字か聞かれて以来、もっと簡単な“山崎”に変えて4、5年経つが、これで不便をしたことはない。でも“北野”に変えたくなってきた。おらにはその資格があろう。

 

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