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| 遠くで声が聞こえる。声。人の話し声。ああ、一体何日ぶりの事だろう…。 「あんな得体の知れない…」 微かに聞き取れた内容は、多分彼を非難するものだ。けれどそれには、人が人を気遣う時の、独特の調子が含まれている。彼の求めていた物。最も渇えていた物。人の住む空間、その柔らかな暖かさ|彼はこれが夢でない事を祈りながら、そっと目を開けた。その目に映るのは、灼熱の太陽が支配する蒼空でも、凍てつく満点の星空でもなかった。狭い視界−どこかの建物の中だ。彼は安堵して息をついた。 声の聞こえてきた方に頭をめぐらすと、ちょうど戸を開けて入ってきた女性と目が合った。手に持っているのは、おそらく水が入っているだろう椀。わずかに水の匂いが漂ってくる。彼女は彼を見て微笑んだ。 「目が覚めたのね」 その笑顔が一瞬誰かの笑顔と重なって見えて、胸が微かに痛んだ。周囲の反対を押し切って助けてくれた、今はもう存在しない女性<ひと>の…。 「水よ、飲める?」 彼はゆっくりと身を起こしてうなずいた。一気に飲み干したいのをこらえ、わざとゆっくりと喉の奥へと送り込んだ。すべて飲んでしまってから、彼はほう、と満足気に息をついた。そして急に思い出したように、傍らに立つ女性を見上げ、言った。 「ありがとう」 「良かったわ。見付けた時は危なかったんですもの」 その女性はイリシャと名乗った。 「僕はクィールと言うんだ。助けてくれてありがとう。本当に助かったよ」 「クィール…希望、という意味ね。素敵な名前だわ」 「名前はね…」 クィールは微かに自嘲した。見知らぬ異国にたどり着いた両親にとって、クィールはまさに『希望』であった事だろう。しかしクィール自身にとっては『希望』などではなかった。 「君の方こそ良い名前じゃないか。水に咲く花<イリシャ>、だなんて」 砂漠においては、水は何にも増して貴重な物である。だからこそ砂漠に住む人々は、自分の子供達に水にちなんだ名前を付ける事が多い。何よりも水に飢える事のないように、水と深く結びつく事を願って。 「ええ、私の自慢なの」 イリシャはその名の通り、花がほころぶように笑ってみせた。 「あなた、何だか兄に似ているわ」 しばらく話をした後で、イリシャがぽつりと呟いた。 「お兄さん、に?」 イリシャは寂しそうに笑ってうなずいた。 「兄は商人だったのだけれど、ここからもう少し奥に行った所にある村の人にね、頼まれて、塩を届けに行ったの」 そして、それっきり帰ってこなかった、とイリシャは語った。 「兄と一緒に行った人がね、途中、砂嵐に巻き込まれてはぐれてしまった、と言って、その一ヶ月後に帰って来たの」 その男はイリシャの兄も村へ向っていると思い、いくつかの共有井戸を回って、無理をせずに帰ってきたという。 「結局、兄は帰って来なかったわ。私達、両親を早くに亡くしてたから、一人きりになってしまったけど、周りの人達がとても良くしてくれるから…」 「お兄さん、どこかで生きていると良いね」 クィールは涙をこらえる事ができなかったイリシャの背を軽く叩きながら言った。 イリシャは顔を手で覆ったまま、無言で頷いた。 クィールは、しばらくゆっくりしていけばと言うイリシャの言葉に従って、彼女の家に滞在する事にした。二、三日して動けるようになったクィールは、水汲みや家の補修、イリシャの持つわずかばかりの畑を耕すなどして、少しでもイリシャに恩返しをしようと働いた。村人達は最初、クィールを遠巻きにして眺めていたが、徐々に慣れてきて、一週間もする頃にはぎこちないながらも笑みを見せてくれるようになった。クィールには、それが嬉しかった。それは、クィールが何よりも欲しかった物で、もう二度と手に入らないかもしれないと、半ば諦めかけていた物だった。 「クィール、体の調子はどう?もう、大丈夫?」 イリシャは時々そんな風に、心配そうに尋ねたりした。クィールにはそういった暖かな気遣いが嬉しかった。それが何よりも大切な宝物のように思えるのだった。 「イリシャ、その…ちょっと、いいかな…?」 イリシャは、日課である機織りの手を止めてクィールを見上げた。 「なあに?どうしたの?」 「あの…君のおかげで体の調子も良くなっんだけど…その、もう少しここにいてもいいかな?あ、もちろん、君が良ければ、の話だけど」 しどろもどろになりながら伝えた彼の希望に、イリシャは花のような笑顔で応えてくれた。 「もちろんよ、私も、あなたがもう少しここにいてくれればいいのにって、思っていたところだったのよ」 ここでなら、うまくいくかもしれない。今度こそ、求めていたものが得られるような気がする−クィールは、幸せな気分のままそう考えた。そう、感じる事ができた。けれど、そう思う心のどこかで、それを信じ切れない自分がいた。本当に、これでいいのだろうか、と。いつか突然、この夢から醒めてしまうのではないだろうか、と。 クィールは確かに幸せを感じていたけれど、その隣には、当然のような顔をして不安が居座っていた…。 |