出羽国の歴史

 ここでは斯波兼頼山形入部から話を興したいと思います。南出羽大まかに分けて日本海沿いの庄内地域、内陸部の最上川沿いに南北に盆地が続く最上・村山地域、出羽国最南端の盆地が東西に広がり会津地域と接する置賜地域に分けられます。そして庄内地域は武藤家、置賜地域は伊達家、最上・村山地域は、最上家(斯波家)が支配しておりました。最上家は11代当主最上義光登場まで、伊達家に属国のように支配されておりました。この内最上家については後ほど簡単に説明をします。戦国時代に入ると、伊達家は南に、最上家は北に兵を進めました。武藤家は、長尾家(後の上杉家)の支配を受けており豊臣秀吉の奥州仕置きの前年に、最上義光に攻められ滅亡いたしました。羽柴豊臣朝臣の天下になると、伊達家は、岩出山(後に仙台)に転封され、米沢は蒲生家の支配を経て上杉家の領地となります。後に最上家は、関ヶ原での功が認められ、山形57万石の太守になりました。しかし、最上家は13代当主最上義俊の時にお家騒動で改易処分になります。しかしながら、最上家が出羽国に残した功績は計り知れません。例えば最上家の家老である北盾大学頭利長という人物は庄内平野に北盾大堰とよばれる用水路を造り、約2000石分の耕地を新たに開拓しました。

出羽の太守:最上義光の銅像

江戸時代になると徳川将軍家の政権が安定し山形城は大名左遷の地、庄内の鶴ヶ岡城は、徳川家の譜代大名家である酒井家(14万石)が治めました。最上地方一円は、新庄に新城を築城し入部した戸沢家(6万石)が治めました。米沢地方は、関ヶ原で西軍に味方した上杉景勝が30万石(後に15万石)で入部しました。このころに現在の山形県の原型である形ができあがりました。庄内の酒田には全国でも指折りの豪商本間家が存在し、度々酒井家や他大名に多額の大名貸しを行っていました。一方米沢の上杉家は、環境にも恵まれず30万石から15万石に石高が減らされ財政が圧迫されました。一時は徳川家に領地を返上することさえ考えていたようです。後に上杉家は寛政期に九州の秋月家から養子を迎えました。この養子こそ上杉家の寛政の改革を成し遂げた上杉治憲公なのです。この後上杉家の財政はなんとかやりくり出来る様になりました。

幕末になると、各藩は討幕派と親幕派に分かれました。庄内藩は親幕派としてオランダからスナイドル銃を買い、薩長連合と一戦を交えました。それに対し、新庄藩は親薩長派として庄内藩をはじめとする奥越列藩同盟と戦いました。しかし新庄藩は奥羽越列藩同盟との戦いに敗れ同じく奥羽越列藩同盟に加わらなかった久保田藩に藩主一家や家臣が落ち延びました。

新庄城天守台跡

鶴ヶ岡城土塁

最上家

奥州大崎の地から斯波兼頼が山形に入部して、誕生13代義俊までの、266年間山形を治めた名家。戦国期には、羽州探題に就任。南に勢力を持った伊達家としばしば戦を起こす。11代義光は、出羽の太守として最上家全盛期をつくり、最上57万石の土台を造った。しかし、義光の嫡男最上義康は上山城主里見越後守に暗殺されてします。義光は次男で家康の小姓となっていた家親を跡継ぎとしたが家を継いでから僅か三年で死亡(毒殺説あり)した。そのため、12歳の家信(義俊は後の名)を当主としたが有力城持ち大名が反抗しお家取り締まり不届きで近江大森に1万石を与えられ転封となった。