山形城

馬見ヶ崎川が流れるこの盆地地域はかつて最上と呼ばれ街道が五道交わる大駅であった。
時は下り南北朝、、、出羽巡見使として斯波兼頼が入り二代目から最上家と名乗りここに山形の近世までの発展が始まった。
さらに時は下り兼頼から十一代目義光の時に山形城下は奥羽最大の都市となり、繁栄を極める。
それもつかの間最上家改易の後は大名左遷の地として歴史の表舞台に上ることなく明治を迎えるのであった。

山形城は出羽の中心的役割を果たした城で斯波兼頼公が山形盆地に築いた平城です。江戸時代は東北の押さえとして幕府から重要視されていました。当時の城下町人口は推定3万人とされており、全国有数の城下町でありました。しかし、最上家改易の後山形城は延べ12回も城主が変り、大名左遷の地とされていました。そのたびに石高も減り、最上時代に57万石あった石高も最終的には5万石という小禄になってしまいました。
現在、本丸を発掘調査中で櫓門や御殿等の復元計画があります。敷地面積は三の丸を含めると小田原城・江戸城・大坂城に次ぐ日本四番目の大きさを誇ります。

平成二年に古写真を基に完全木造で復元された櫓門。規模は江戸城の櫓門に匹敵する。

※平成17年から行われていた本丸大手橋の復元工事が完了し本丸大手橋が完成しました。画像はしばらくお待ちください。

 本丸大手門の一文字櫓は正確な資料がないため復元を現在は見合わせております。枡形の高麗門と土塀の復元については文化庁の許可が下りました。ただし山形市の財政状況から言ってなかなか厳しいものがあるようです。
 しかし本丸北不明門は当時の設計資料が残っているため何とか復元しようと思えば可能性はありますが、現在は市営球場がありその下に石垣が埋もれている状態です。

平成21年度の山形城の姿です。

復元が完了した本丸一文字門の石垣

出羽の太守最上義光の銅像

山形城の規模

山形城は全国の平城の中で四番目の大きさを誇ります。最上家のときに造られた三の丸は、ほぼ江戸時代通して形は一定していました。二の丸は鳥居忠政の時代に改修されています。幕府主導で改修されたという説も存在しています。郭を大規模に変更した点から見ても幕府主導の改修はなかったとは言い切れません。しかし山形城は規模こそ大きいですが、石垣は一部にのみ使われるだけにとどまり城自体の洗練さでは他の近世城郭に見劣りをしてしまうかとも思えます。

山形城二の丸西堀付近から撮影。江戸時代には、写真中央部の土塁の上に、三層の巨大な櫓が一基立っていたそうです。