『制服の規制』
中学の時は制服がなかった。
高校入学の時に母が初めて用意してくれた。
(ほとんど姉のおさがりだったけど)
私の高校の制服の特徴は
紺色の幅広いネクタイを蝶結びにする。
女子はみんなその蝶結びに憧れていた。
普段はジャージで登校し、全体朝礼がある日や
テスト期間中、校外学習、土日の外出時も
一時帰省のときも制服を着なければいけなかった。
蝶結びの紺色のネクタイには憧れてはいたけれど、
スカートでもズボンでも、それは自由だったけど、
土日の外出時や一時帰省のときぐらいは
私服でもOKにしてほしかったな。
今になって、そんな事を思う。
2024/6/23
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『卵かけごはん』
幼い頃、施設に入る前に
毎朝、家で卵かけごはんを食べていた。
だから施設に入ってからも
時々、卵かけごはんを食べたくなった。
それは大人になってからも続いたと思う。
でも、気がつけばこの歳になって、
卵かけごはんを食べたいとは
思わなくなってきている。
幼い頃、毎日、毎日
食べ続けたせいかなあ。
2024/5/6
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『2つしかなかった。』
中学卒業する時も高校卒業する時も
私には進路の選択肢が2つしかなかった。
入所施設か、家に戻るか。
高校受験をする事に決まっていたのに、
それもそのはず、当時の養護学校高等部は
学力ではなく、食事やトイレなどの身の回りの事が
自分でできるかが合格基準だった。
私はかろうじて合格した。
それからずっと「家に戻る」という選択はしなかった。
入所施設よりも家に戻ったら社会との関わりが
ますますなくなると思ったから。
だから、今こうして
地域の中で自立生活しているのかもしれない。
でも進路の選択肢に、色んな制度や支援があって、
3つ目に「自立生活」という項目が当たり前にあったら
私たち重度の障がい者もまた違った選択をしてたかもしれない。
今の支援学校の進路の選択肢には、
もっと多くの選択肢があることだろう。
そう、私は願いたい。
20234/2/24
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『50年以上前の餅つき機』
私が物心つく頃には
もう母の実家には餅つき機があった。
それも洗濯機みたいな大きい餅つき機。
私たちが泊まりに行くと、祖母は必ず
その餅つき機を出し、餅をついてくれた。
私たちは面白がって、その餅つき機の中を
何度も覗き込んでは遊んでた。
祖母には「まだおめだちのヨダレが入る。」と言われながら。
最近になって私は気がついた。
50年前に餅つき機がある家庭はそんなになかったと…。
私の家でも餅はうすときねでついてたし。
50年以上も前に大きな餅つき機の中を覗き込むなんて
私たちは貴重な体験してたんだなあ。
2023/12/30
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『一日遅れのクリスマス』
今日はクリスマスイブ。
私もケーキやチキンを買って 今日と明日の夕食は
クリスマスメニューにしようと思う。
子供の頃は施設でもクリスマス会があったなあ。
サンタさんにお願いしたプレゼントにいちごのケーキ。
その頃からかなあ。県内の福祉施設などに
ケーキを寄付してくれる会社があって、
それで私たちは24日と25日の2日間、
お昼にケーキを食べることができていた。
あれから50年近く
その寄付は今でも続いているだろうか。
施設のクリスマスよりも私にとって、
クリスマスが終わって故郷に帰省し、
姉と一緒のクリスマスが好きだった。
大きなケーキのどこを食べるか騒いだり、
大きな靴下を枕元に用意したり…。
一日遅れのクリスマスだったけど、
家族と過ごせるのが一番うれしかった。
2023/12/24
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『子供の頃の朝食メニュー』
子供の頃に居た施設では、私は
カレーライスもラーメンも納豆も食べられなかった。
本当の事言うと、大人の都合で食べさせてもらえなかった。
私は固い物は食べられないと勝手に決められ、
その流れでカレーライスなどの刺激物も「禁」になったみたい。
特にカレーライスは子供には大人気のメニューなのに。
カレーライスやラーメンを食べさせてもらえる
友だちがうらやましかったなあ。
私は食べられなかったけど、
今思うと不思議な朝食メニューがあった。
納豆、うずら卵、ベビーチーズ、味付けのり。
これをみんな混ぜてご飯にのせて食べてた。
一番人気の朝食メニューだったかもしれない。
最近、休日のお昼に納豆とチーズと大葉の
ホットサンドイッチを使って食べることがある。
食べるたびに思い出す。
あの頃から納豆とチーズは合うと
みんな知ってたのかなあ。
ついでに、いくら豚汁がボリュームあっても
お昼にご飯に豚汁、漬物だけというメニューは
子供心に味気無かったなあ。
2023/11/18
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『施設での夏休み』
施設生活の私たちにも
普通に学校の夏休みはあったけど、
故郷に帰省できるのは
お盆休みの1週間だけだった。
夏休みになると、施設では
午前中は自習時間、午後は昼寝の時間があった。
子供の私たちにはどっちも苦痛だったなあ。
おばけ大会や花火大会もあったなあ。
私は低学年のとき、おばけ大会を
あまり怖がらなかったから、そのせいか
4年生のおばけ大会でお風呂場に行ったら
糸こんにゃくの固まりを投げつけられた!
それは強烈な記憶として今も残っている。
ドラキュラの頭が天井から降って来たりして。
そんなおばけ大会も、先生たちの後片付けが大変だからと
5年生の時に廃止になった。
花火大会は、4日間も午後に雷雨が続き、
その度に延期になった年もあったなあ。
勤務時間外の先生たちも家族を連れて
手伝いに来てくれたのが花火大会だったなあ。
施設でも、花火大会は夏の一番のイベントだったなあ。
2023/6/25
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『シロツメクサの思い出』
久しぶりに道端にシロツメクサを見かけ
そういえば施設に居た頃、面会日に
父がよく花飾りを編んでくれたことを思い出す。
小学校高学年の頃、母は仕事が忙しく
土曜日の面会日には父が来るようになった。
土曜日の面会日は授業参観日でもあったけど、
父は教室には来ず、部屋で私が戻るのを待ってた。
私が部屋に戻ると、父は読んでいた本を閉じ
母から頼まれた手紙や新しい衣類、
姉から頼まれた少女コミック(月刊誌)を
カバンから出してくれた。
そういえば、スライムが施設で流行ったきっかけは
父が私にスライムを買ってきたのがきっかけだった。
父は口数が少なかったけど、
お昼の介助も3時のおやつの介助もしてくれら。
3時のおやつが終わると私と手をつなぎ裏庭まで散歩。
その時に父はいつもシロツメクサで花飾りを編んでくれら。
部屋に戻ると父は
「今度の面会日にはお母ちゃんと姉ちゃんが来るからな。」と
言って帰って行った。
子供の頃に居た施設は面会日が
月2回、第二土曜日と第四日曜日と決まっていたから。
2023/6/3
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『私にとっての「そ」の字』
私には重度の言語障がいもあるけど
一度も文字盤を使ったことがない。
それは50年前、施設入所の時から、
私は喋る事が何よりの言語訓練だと
訓練の先生も学校の先生もそういう指導方針だった。
小学校の頃、言葉がなかなか伝わらなくて
泣きわめいた事も何度かある。
その時さえ文字盤を用意する話は出なかった。
その頃、私は手で床にひらがなを書いて
伝える方法を覚えた。
先生たちには「書かないで喋って。」って言われてたけど。
ところが、書き順がわからなくて
上手く書けないひらがながあった。
それは「そ」の字。
何度書いても「い?」と「て?」と言われた。
今でも「そ」の書き順はわからない。
私にとっての「そ」の字は、発音しづらいし、
書くにも書けないひらがななのだ。
2023/4/30
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『どんでん返しの期末テスト』
高校1年の保健体育の期末テストは
〇×形式の問題用紙で実に簡単だった。
それは1学期も、2学期も。
だから3学期も同じだろうと
保健体育は一度もテスト勉強しなかった。
(私だけじゃなくてクラスメイト全員が)
そして、3学期の期末テスト
保健体育のテスト用紙を見て私は青ざめた。
(私だけじゃなくてクラスメイト全員が)
〇×形式の問題用紙ではなく、
「〇〇について書きなさい」という問題用紙だった。
それも5問も。
「2度ある事は3度ない」と思い知らされた瞬間だった。
その1週間後、私たちの机には同じ問題用紙が配られたのさ。
2023/1/15
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『ディスコ大会』
「ディスコ」と言うのは
もう40年前の言葉だろうか。
高校時代、年に一度寄宿舎の行事として
秋にディスコ大会があった。
私が居た頃は自分たちで企画して
アマチュアバンドを呼んだこともあった。
裏方の準備と会場準備は男子が担当してくれて、
私たち女子は会食の準備。
ひとくちおにぎりやカナッペ、お菓子やジュースなどなど。
その後、部屋に戻り寮母さんに手伝ってもらい
ちょっとしたおしゃれをして
集会室であるディスコ会場に向かった。
生バンドの演奏に合わせて歌ったり、踊ったり、
手作りのミラーボールが生バンドの人たちに妙にウケたりして。
寄宿舎の行事なので上級生も下級生もなかったし、
寮母さんたちも全面的に協力してくれた、
ただ、私が高3の時、学校側からクレームがあったらしい。
「高校生がディスコ?『ディスコ大会』と言う名前が良くない。」と。
それに対して私は今でも思う。
寄宿舎内の行事だよ。私たちは
ハメを外す事なんてなく楽しんでいたよ。
たとえ『ディスコ大会』と言う
言葉がふさわしくなくても。
2023/1/15
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『ロミオとジュリエット階段?』
高校の寄宿舎は1階が男子で
2階が女子の部屋だった。
1階には食堂やお風呂場、洗濯場があり、
2階には集会室や体育館につながる渡り廊下があった。
私たちが行き来できるように階段とスロープがあった。
その階段を『ロミオとジュリエット階段』と呼ぶ人もいた。
すぐそばには色気も素っ気もないポリバケツの
大きなくず入れあるのに。
紅一点のクラスだった私は期末テスト期間になると
その『ロミオとジュリエット階段』からこう叫ぶ。
「〇〇くーん、明日のテストの山どこー!?」と。
今思えば、本当に色気も素っ気もなかったなあ。
できるだけ赤点とりたくなくて必死だったから。
でもさー、何回か赤点とっても私の場合
その後の人生になんの影響もなかったよ。
2022/12/10
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『イチゴの思い出』
今は野菜も果物も季節を問わず、
何でもスーパーに並ぶ時代。
私が幼い頃は、そんなことも少なかった。
だから母は、施設に居る私のために
家の畑でとれたイチゴを冷凍して、
お盆休みに帰った時、食べさせてくれた。
それが5年ぐらい続いた。
母はおぼえているだろうか?
2年以上も故郷に帰れない日々が続いている。
先日、お彼岸に母にイチゴを送った。
母はその意味に気づいているだろうか?
たぶん、気づいてないなー。
「こんなに高い物買って!」って、言っていたから。
「先にお仏さんにあげでから食うからよ。」とも言ってたし。
2022/4/3
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
『子供の頃の風邪』
子供の頃、私はよく風邪を引いていた。
それも熱は出ず、長引く鼻風邪を。
熱は出ないので、甘いシロップの薬を飲みながら
普通に施設で仲間と生活していた。
ところが、毎年3月になると風邪が流行り
私も仲間たちも熱を出し寝込むほどだった。
それで何度か面会日が中止になったことがある。
今で言うとあれはインフルエンザだったかもしれない。
あれから40年以上
私の孫に近い?後輩たちは、
まさにコロナ禍にいる。それも2年も。
両親や兄弟と面会できないなら、
せめて電話やオンラインで
ちゃんとつながっているだろうか。
大切な事だから、気になるんだよなあ。
2022/1/30
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
『故郷の大晦日』
幼い頃から故郷を離れている私でも
いつも新年は故郷で家族と迎えていた。
大晦日の夕飯は我が家もご馳走だった。
刺身、カレイ、タコ、イカ、ホタテなどの
海の幸がならんだ。
(イカとホタテは姉と私のリクエストだったけど。)
そんな事を思い出しながら、
故郷に帰省せず迎える2度目の新年。
2021年の大晦日は、ウーンと贅沢しよう!
来ることを信じながら…。
2021/12/31
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
『子供ながらに嫌だった事』
子供の頃の施設で小さな事だけど、
嫌だった事がいくつかある。
毎食後に「おしっこ」って、たのんだら
職員に「食べたらすぐ出すのねぇ。赤ちゃんみたい。」と、笑われた事。
どうして「赤ちゃんみたい。」と
笑われなきゃいけなかったんだろう?
夕飯が食べれなくなるからと、楽しみなおやつを
私たちの目の前で半分にされた事。
どうして私たちに何も聞かず、
毎日半分にしたんだろう?
クリスマスの朝、職員が忙しいからと、
枕元にプレゼントが届けられなかった時。
どうして私たちの楽しみを
わかってくれなかったんだろう?
思い出すと次から次へと出てくる
嫌だった事、がっかりした事。
小さな事だけど。
遠い昔の事だけど。
子供心は敏感なんだ。
2021/10/30
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『運動会』
遠足は施設主導、運動会は学校主導
思い出すと、そんな気がする。
やっぱり遠足のうが楽しみだっけど、
写真は運動会のほうが多い。
小学校の時、運動会は
ちょうど今頃、実りの秋にあった。
中学生のお兄さん、お姉さんたちと応援歌練習。
競技は学年別ではなく、障がいの程度に分けられていた。
走れる人は走って、
よつんばいの人はよつんばいで、
寝返りの人は寝返りで。
運動会当日は、母といっしょに祖父母も来てくれた。
お昼には毎年、芋の子汁(豚汁)が振る舞われた。
中でも一番の思い出は、よつんばいで競って
いつも勝てなかった2つ上の先輩に
4年生の時、初めて勝って本当にうれしかったな。
大人になっても先輩にはその時の悔しさを言われ続けたけど。
そういえば、運動会はいつも快晴だったなあ。
そして、忘れられない一枚の写真がある…。
2021/9/19
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