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『私にとってのディズニーランド』

 

東京ディズニーランドができてから40年。

そんな話を聞くと思い出す事がある。

 

高校の修学旅行でオーブンしたばかりの

東京ディズニーランドに行けるものと思っていた。

そう固く信じていた。

 

ところが、私たちの学年は人数が少ない。

学校の経費削減のため、2年の時に

3年生と一緒に修学旅行に行く事が決まった。

 

私たちの2年上の先輩たちまで

修学旅行は京都、奈良だったのに。

私たちの後輩たちはみんな

ディズニーランドに行くのに。

 

あれから40年。

まだ一度もディズニーランドに行ったことはないが、

ディズニーランドと言えば、そんな思い出がよみがえる。

                          2024/12/1

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『制服の規制』

 

中学の時は制服がなかった。

高校入学の時に母が初めて用意してくれた。

(ほとんど姉のおさがりだったけど)

 

私の高校の制服の特徴は

紺色の幅広いネクタイを蝶結びにする。

女子はみんなその蝶結びに憧れていた。

 

普段はジャージで登校し、全体朝礼がある日や

テスト期間中、校外学習、土日の外出時も

一時帰省のときも制服を着なければいけなかった。

 

蝶結びの紺色のネクタイには憧れてはいたけれど、

スカートでもズボンでも、それは自由だったけど、

土日の外出時や一時帰省のときぐらいは

私服でもOKにしてほしかったな。

 

今になって、そんな事を思う。

                          2024/6/23

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『卵かけごはん』

 

幼い頃、施設に入る前に

毎朝、家で卵かけごはんを食べていた。

 

だから施設に入ってからも

時々、卵かけごはんを食べたくなった。

それは大人になってからも続いたと思う。

 

でも、気がつけばこの歳になって、

卵かけごはんを食べたいとは

思わなくなってきている。

 

幼い頃、毎日、毎日

食べ続けたせいかなあ。

                          2024/5/6

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2つしかなかった。』

 

中学卒業する時も高校卒業する時も

私には進路の選択肢が2つしかなかった。

入所施設か、家に戻るか。

 

高校受験をする事に決まっていたのに、

それもそのはず、当時の養護学校高等部は

学力ではなく、食事やトイレなどの身の回りの事が

自分でできるかが合格基準だった。

 

私はかろうじて合格した。

 

それからずっと「家に戻る」という選択はしなかった。

入所施設よりも家に戻ったら社会との関わりが

ますますなくなると思ったから。

 

だから、今こうして

地域の中で自立生活しているのかもしれない。

 

でも進路の選択肢に、色んな制度や支援があって、

3つ目に「自立生活」という項目が当たり前にあったら

私たち重度の障がい者もまた違った選択をしてたかもしれない。

 

今の支援学校の進路の選択肢には、

もっと多くの選択肢があることだろう。

 

そう、私は願いたい。

                          20234/2/24

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50年以上前の餅つき機』

 

私が物心つく頃には

もう母の実家には餅つき機があった。

それも洗濯機みたいな大きい餅つき機。

 

私たちが泊まりに行くと、祖母は必ず

その餅つき機を出し、餅をついてくれた。

 

私たちは面白がって、その餅つき機の中を

何度も覗き込んでは遊んでた。

祖母には「まだおめだちのヨダレが入る。」と言われながら。

 

最近になって私は気がついた。

50年前に餅つき機がある家庭はそんなになかったと

私の家でも餅はうすときねでついてたし。

 

50年以上も前に大きな餅つき機の中を覗き込むなんて

私たちは貴重な体験してたんだなあ。

                          2023/12/30

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『一日遅れのクリスマス』

 

今日はクリスマスイブ。

私もケーキやチキンを買って

今日と明日の夕食は

クリスマスメニューにしようと思う。

 

子供の頃は施設でもクリスマス会があったなあ。

サンタさんにお願いしたプレゼントにいちごのケーキ。

 

その頃からかなあ。県内の福祉施設などに

ケーキを寄付してくれる会社があって、

それで私たちは24日と25日の2日間、

お昼にケーキを食べることができていた。

 

あれから50年近く

その寄付は今でも続いているだろうか。

 

施設のクリスマスよりも私にとって、

クリスマスが終わって故郷に帰省し、

姉と一緒のクリスマスが好きだった。

 

大きなケーキのどこを食べるか騒いだり、

大きな靴下を枕元に用意したり…。

 

一日遅れのクリスマスだったけど、

家族と過ごせるのが一番うれしかった。

                          2023/12/24

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『子供の頃の朝食メニュー』

 

子供の頃に居た施設では、私は

カレーライスもラーメンも納豆も食べられなかった。

本当の事言うと、大人の都合で食べさせてもらえなかった。

 

私は固い物は食べられないと勝手に決められ、

その流れでカレーライスなどの刺激物も「禁」になったみたい。

 

特にカレーライスは子供には大人気のメニューなのに。

カレーライスやラーメンを食べさせてもらえる

友だちがうらやましかったなあ。

 

私は食べられなかったけど、

今思うと不思議な朝食メニューがあった。

 

納豆、うずら卵、ベビーチーズ、味付けのり。

これをみんな混ぜてご飯にのせて食べてた。

一番人気の朝食メニューだったかもしれない。

 

最近、休日のお昼に納豆とチーズと大葉の

ホットサンドイッチを使って食べることがある。

 

食べるたびに思い出す。

あの頃から納豆とチーズは合うと

みんな知ってたのかなあ。

 

ついでに、いくら豚汁がボリュームあっても

お昼にご飯に豚汁、漬物だけというメニューは

子供心に味気無かったなあ。

                         2023/11/18

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『施設での夏休み』

 

施設生活の私たちにも

普通に学校の夏休みはあったけど、

故郷に帰省できるのは

お盆休みの1週間だけだった。

 

夏休みになると、施設では

午前中は自習時間、午後は昼寝の時間があった。

子供の私たちにはどっちも苦痛だったなあ。

 

おばけ大会や花火大会もあったなあ。

 

私は低学年のとき、おばけ大会を

あまり怖がらなかったから、そのせいか

4年生のおばけ大会でお風呂場に行ったら

糸こんにゃくの固まりを投げつけられた!

それは強烈な記憶として今も残っている。

ドラキュラの頭が天井から降って来たりして。

 

そんなおばけ大会も、先生たちの後片付けが大変だからと

5年生の時に廃止になった。

 

花火大会は、4日間も午後に雷雨が続き、

その度に延期になった年もあったなあ。

 

勤務時間外の先生たちも家族を連れて

手伝いに来てくれたのが花火大会だったなあ。

 

施設でも、花火大会は夏の一番のイベントだったなあ。

                         2023/6/25

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『シロツメクサの思い出』

 

久しぶりに道端にシロツメクサを見かけ

そういえば施設に居た頃、面会日に

父がよく花飾りを編んでくれたことを思い出す。

 

小学校高学年の頃、母は仕事が忙しく

土曜日の面会日には父が来るようになった。

土曜日の面会日は授業参観日でもあったけど、

父は教室には来ず、部屋で私が戻るのを待ってた。

 

私が部屋に戻ると、父は読んでいた本を閉じ

母から頼まれた手紙や新しい衣類、

姉から頼まれた少女コミック(月刊誌)を

カバンから出してくれた。

 

そういえば、スライムが施設で流行ったきっかけは

父が私にスライムを買ってきたのがきっかけだった。

 

父は口数が少なかったけど、

お昼の介助も3時のおやつの介助もしてくれら。

3時のおやつが終わると私と手をつなぎ裏庭まで散歩。

その時に父はいつもシロツメクサで花飾りを編んでくれら。

 

部屋に戻ると父は

「今度の面会日にはお母ちゃんと姉ちゃんが来るからな。」と

言って帰って行った。

 

子供の頃に居た施設は面会日が

月2回、第二土曜日と第四日曜日と決まっていたから。

                         2023/6/3

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『私にとっての「そ」の字』

 

私には重度の言語障がいもあるけど

一度も文字盤を使ったことがない。

それは50年前、施設入所の時から、

私は喋る事が何よりの言語訓練だと

訓練の先生も学校の先生もそういう指導方針だった。

 

小学校の頃、言葉がなかなか伝わらなくて

泣きわめいた事も何度かある。

その時さえ文字盤を用意する話は出なかった。

 

その頃、私は手で床にひらがなを書いて

伝える方法を覚えた。

先生たちには「書かないで喋って。」って言われてたけど。

 

ところが、書き順がわからなくて

上手く書けないひらがながあった。

それは「そ」の字。

何度書いても「い?」と「て?」と言われた。

 

今でも「そ」の書き順はわからない。

 

私にとっての「そ」の字は、発音しづらいし、

書くにも書けないひらがななのだ。

                         2023/4/30

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『どんでん返しの期末テスト』

 

高校1年の保健体育の期末テストは

〇×形式の問題用紙で実に簡単だった。

それは1学期も、2学期も。

 

だから3学期も同じだろうと

保健体育は一度もテスト勉強しなかった。

(私だけじゃなくてクラスメイト全員が)

 

そして、3学期の期末テスト

保健体育のテスト用紙を見て私は青ざめた。

(私だけじゃなくてクラスメイト全員が)

〇×形式の問題用紙ではなく、

「〇〇について書きなさい」という問題用紙だった。

それも5問も。

 

「2度ある事は3度ない」と思い知らされた瞬間だった。

 

その1週間後、私たちの机には同じ問題用紙が配られたのさ。

2023/1/15

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『ディスコ大会』

 

「ディスコ」と言うのは

もう40年前の言葉だろうか。

 

高校時代、年に一度寄宿舎の行事として

秋にディスコ大会があった。

 

私が居た頃は自分たちで企画して

アマチュアバンドを呼んだこともあった。

 

裏方の準備と会場準備は男子が担当してくれて、

私たち女子は会食の準備。

ひとくちおにぎりやカナッペ、お菓子やジュースなどなど。

 

その後、部屋に戻り寮母さんに手伝ってもらい

ちょっとしたおしゃれをして

集会室であるディスコ会場に向かった。

 

生バンドの演奏に合わせて歌ったり、踊ったり、

手作りのミラーボールが生バンドの人たちに妙にウケたりして。

 

寄宿舎の行事なので上級生も下級生もなかったし、

寮母さんたちも全面的に協力してくれた、

 

ただ、私が高3の時、学校側からクレームがあったらしい。

「高校生がディスコ?『ディスコ大会』と言う名前が良くない。」と。

 

それに対して私は今でも思う。

寄宿舎内の行事だよ。私たちは

ハメを外す事なんてなく楽しんでいたよ。

 

たとえ『ディスコ大会』と言う

言葉がふさわしくなくても。

2023/1/15

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『ロミオとジュリエット階段?』

 

高校の寄宿舎は1階が男子で

2階が女子の部屋だった。

1階には食堂やお風呂場、洗濯場があり、

2階には集会室や体育館につながる渡り廊下があった。

私たちが行き来できるように階段とスロープがあった。

 

その階段を『ロミオとジュリエット階段』と呼ぶ人もいた。

すぐそばには色気も素っ気もないポリバケツの

大きなくず入れあるのに。

 

紅一点のクラスだった私は期末テスト期間になると

その『ロミオとジュリエット階段』からこう叫ぶ。

 

「〇〇くーん、明日のテストの山どこー!?」と。

今思えば、本当に色気も素っ気もなかったなあ。

できるだけ赤点とりたくなくて必死だったから。

 

でもさー、何回か赤点とっても私の場合

その後の人生になんの影響もなかったよ。

2022/12/10

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『イチゴの思い出』

 

今は野菜も果物も季節を問わず、

何でもスーパーに並ぶ時代。

私が幼い頃は、そんなことも少なかった。

 

だから母は、施設に居る私のために

家の畑でとれたイチゴを冷凍して、

お盆休みに帰った時、食べさせてくれた。

それが5年ぐらい続いた。                                         

 

母はおぼえているだろうか?

 

2年以上も故郷に帰れない日々が続いている。

 

先日、お彼岸に母にイチゴを送った。

 

母はその意味に気づいているだろうか?

 

たぶん、気づいてないなー。

 

「こんなに高い物買って!」って、言っていたから。

 

「先にお仏さんにあげでから食うからよ。」とも言ってたし。

2022/4/3

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『子供の頃の風邪』

 

子供の頃、私はよく風邪を引いていた。

それも熱は出ず、長引く鼻風邪を。

 

熱は出ないので、甘いシロップの薬を飲みながら

普通に施設で仲間と生活していた。

 

ところが、毎年3月になると風邪が流行り

私も仲間たちも熱を出し寝込むほどだった。

 

それで何度か面会日が中止になったことがある。

 

今で言うとあれはインフルエンザだったかもしれない。

 

あれから40年以上

私の孫に近い?後輩たちは、

まさにコロナ禍にいる。それも2年も。

 

両親や兄弟と面会できないなら、

せめて電話やオンラインで

ちゃんとつながっているだろうか。

 

大切な事だから、気になるんだよなあ。

2022/1/30

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『故郷の大晦日』

 

幼い頃から故郷を離れている私でも

いつも新年は故郷で家族と迎えていた。

 

大晦日の夕飯は我が家もご馳走だった。

刺身、カレイ、タコ、イカ、ホタテなどの

海の幸がならんだ。

(イカとホタテは姉と私のリクエストだったけど。)

 

そんな事を思い出しながら、

故郷に帰省せず迎える2度目の新年。

 

2021年の大晦日は、ウーンと贅沢しよう!

 

またいつか、故郷で家族と迎える新年が

来ることを信じながら…。

2021/12/31

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『子供ながらに嫌だった事』

 

子供の頃の施設で小さな事だけど、

嫌だった事がいくつかある。

 

毎食後に「おしっこ」って、たのんだら

職員に「食べたらすぐ出すのねぇ。赤ちゃんみたい。」と、笑われた事。

どうして「赤ちゃんみたい。」と 笑われなきゃいけなかったんだろう?

 

夕飯が食べれなくなるからと、楽しみなおやつを

私たちの目の前で半分にされた事。

どうして私たちに何も聞かず、 毎日半分にしたんだろう?

 

クリスマスの朝、職員が忙しいからと、

枕元にプレゼントが届けられなかった時。

どうして私たちの楽しみを わかってくれなかったんだろう?

 

思い出すと次から次へと出てくる

嫌だった事、がっかりした事。

 

小さな事だけど。 遠い昔の事だけど。

 

子供心は敏感なんだ。

2021/10/30

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『運動会』

 

遠足は施設主導、運動会は学校主導

思い出すと、そんな気がする。

 

やっぱり遠足のうが楽しみだっけど、

写真は運動会のほうが多い。

 

小学校の時、運動会は

ちょうど今頃、実りの秋にあった。

 

中学生のお兄さん、お姉さんたちと応援歌練習。

 

競技は学年別ではなく、障がいの程度に分けられていた。

 

走れる人は走って、

よつんばいの人はよつんばいで、

寝返りの人は寝返りで。

 

運動会当日は、母といっしょに祖父母も来てくれた。

 

お昼には毎年、芋の子汁(豚汁)が振る舞われた。

 

中でも一番の思い出は、よつんばいで競って

いつも勝てなかった2つ上の先輩に

4年生の時、初めて勝って本当にうれしかったな。

 

大人になっても先輩にはその時の悔しさを言われ続けたけど。

 

そういえば、運動会はいつも快晴だったなあ。

 

そして、忘れられない一枚の写真がある

2021/9/19

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