歴史と系譜


  <はじめに>
 群馬県高崎市吉井町馬庭、樋口家十三代高重が馬庭に居を移して以来、樋口家は代々馬庭の地に郷士として棲み、武芸を指南してきた。そして十七代定次が念流八世を継承して後、同地の念流は「馬庭念流」と呼ばれ、現在に至っている。

<念流の歴史について>
 馬庭の地に伝わる念流(俗称を馬庭念流)は、わが国兵法の源流と言うべき流派である。江戸後期に生まれた竹刀剣法とは大きく趣を異にし、技法としては守りを主体とし、敵に勝つより、負けぬ法を重視する。それは自身を守る「自衛の剣」として、地域の農民、町民によって受け継がれ、上州一帯を念流の最盛地とした。

 念流の鼻祖は、奥州相馬の住人相馬四郎義元と伝えられ、後に出家して「念阿弥」「慈恩」「念大和尚」と名乗った。義元は四郎左衛門忠重の子とされ、忠重は新田義貞に属して戦功のあった武将であった。しかし義元五歳のときに殺害され、義元は密かに乳母に抱か
れて、武蔵国今宿(横浜市)に逃れたという。七歳のとき、相州藤沢の遊行上人の弟子となり、「念阿弥」と称した。十歳のとき、京都鞍馬寺で異人に会って妙術を授かり、十六歳のとき鎌倉において神僧から秘伝を受け、さらに筑紫の安楽寺で剣の奥義を感得した。その後還俗して仇を討ち、再び禅門に入り名を「慈恩」と改めた。慈恩は諸国を遍歴して武芸を教え、晩年に信州伊那波合村に長福寺を建立し、自らを「念大和尚」と称した。時に応永十五年(1408)、念大和尚五十八歳。没年は不詳である。

 念大和尚に板東八人、京六人の「十四哲」といわれる高弟があり、その一人が念流の祖である樋口太郎兼重である。樋口太郎兼重は、後に念流を伝える樋口家十一代目の子孫であった。樋口家の先祖は源義賢(木曽義仲の父)に属していた中原兼遠であり、樋口姓は中原氏の長男の樋口次郎兼光に発する。兼光の母は木曽義仲の乳母であった。巴御前は兼光の妹である。兼光は信州伊那郡樋口村(長野県辰野町樋口)に住んだため樋口姓を名乗り、義仲四天王の一人である。平家物語にもあるように、樋口兼光は義仲討ち死後、京で斬首されている。しかし樋口家は伊那郡樋口村にて、存続することになる。

 兼光から十一代目に当たる樋口太郎兼重は、同じ伊那郡の波合村に居を構えた念阿弥慈恩の高弟となり、念流の兵法を修める。後に念流は家伝となり、兼重念流を称したという。兼重の子孫たちは念流を受け継ぐが、十三代高重の代に上野国吾妻郡小宿村(長野原町応桑小宿)に移り住み、さらに上州多胡郡馬庭村に移転した。この高重の代に、家伝の兵法は念流から新刀流に変わる。

 「樋口家系」には、「念流八世 又七郎定次、父業を継ぎ新刀流を修め、業祖の遺流を復せんと欲すれ得る処なく」とある。父から学んだ兵法は新刀流であったが、定次はこれに飽きたらず、遠祖が残した念流を求めた。ある日、眼病治療の旅を続ける友松偽庵と名乗る者が、馬庭に逗留したのである。定次は、友松偽庵が念流正統七世であることを知り、偽庵に入門を乞い、許されて念流の修業に邁進した。定次は十七年後天正19年2月(1591)に印可を与えられ、念流正統八世を名乗るようになる。そして馬庭で念流道場を開く。慶長三年(1598)偽庵より伝書を受ける。

 念流正統を継いだ定次は、馬庭の地に定住し郷土兵法家としての生活を送った。しかし慶長五年、村上天流を名乗る村上権右衛門と木剣試合を行うことになる。このとき勝利を山名の八幡宮に三日三夜祈願した。満願日「神明の力により本望が達せらるなら、この木剣にて神前の大石を打ち割らせお力添えあるを示し給え」と気力をこめて大石を打ち割る、これを太刀割石と云い現存している。慶長五年(1600)三月十五日鳥川原で村上天流を打敗る。この後、当主を弟の頼次(九世)に譲り、定次は旅に出ている。

 念流歴代の宗家はそれぞれ流儀を守り、武術家として実績を残している。なかでも「寛永御前試合」の「立合人名」に名を連ねた十一世定勝、堀部安兵衛の師とされる十三世将定、江戸城西丸で兵法を演じた十四世定高、小石川に道場を開いて隆盛した十六世定雄、「矢留の術」を編み出し、江戸に進出した十八世定伊などの活躍が目を引く。十九世定高の代に明治維新を迎えるが、武芸諸流派が衰退するなか、馬庭の地で念流は生き続けてきた。1867年に二十世定広が道場
「傚士館」を設立し、この道場は現在に至るも念流道場として使用されている。

 代々の念流継承者は郷土の兵法家として生きており、武芸を仕官のために使わなかった。念流の門弟には武家の子弟もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していった。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものだった。

初祖;相馬四郎義元入道慈恩:
2世;赤松三首座禅師慈三:慈恩の弟1394年相伝
3世;小笠原東泉房甲明
4世;小笠原新次郎氏綱
5世;小笠原備前守氏景
6世;小笠原庄左衛門尉氏重
7世;友松清三藤原氏宗(偽庵)
8世;樋口又七郎源定次(樋口家17代);これより樋口家にて相伝。
9世;頼次(18):定次の弟
10世;定久(19)
11世;定勝(20):寛永御前試合
12世;定貫(21)
13世;将定(22): 堀部安兵衛(赤穂浪士)が入門。
14世;定蒿(23):寛政6年江戸城内にて演武
15世;定広(24)
16世;定雄(25):1796年「麻利支天社」建造
17世;定輝(26):千葉周作との抗争
18世;定伊(27):「矢留術」の演武
19世;定高(28):横浜に道場建造
20世;定広(29):1867年「傚士館」道場建造
21世;定督(30)
22世;定英(31)
23世;定周(32)
24世;定広(33)
25世;
定仁(34):現当主、平成10118日襲名 。

 

念流に戻る