さち通信U〜ときたま更新。

☆ちなみに、「さち通信」とは、『ナチュラルセラピー祥』の月いち会報のこと。

2007年1月〜3月


2007.1.2


あけましておめでとうございます。
どうも、今年もよろしくお願いします。

先の大晦日は、13年ぶりに実家で、母や妹夫婦、甥や姪っ子たちと過ごした。
まあまあ、姪っ子は、3歳と5歳で、遊びに付き合わされて、私たちは大変でした。

高い高いや、「え?こんなのでいいの?」というほど他愛のないギャグで大爆笑なので、楽なのだが、
しかし、何度も何度も繰り返し同じギャグを要求されるのには参った。ほんと、体力勝負ね。
お開きの頃には、私たち二人とも目の下にクマができていました。ははは。

しかし、姪っ子をよく見ていると、感心するところがいろいろあった。

下の妹が、姉のすることを逐一、追いかけていって、自分が横取りしようとするのだが、
姉は、ちょっとは抵抗するものの、すぐ諦めて譲ってあげるのだ。
しかも、妹は突き飛ばしたり、無理やり奪い取ったりするのだが、
姉は、それでもこだわらずに、さっさと次の遊びに移行してゆく。
一人取り残された妹は、すぐつまんなくなって、また姉のところへ行って、
姉のやっていることをぶんどるか、一緒に遊ぶ。これの繰り返しだ。

私などの感覚だと、ケンカになりそうなものだと思うのだが、そうはならない。
一度、自分の大事にしているものを壊されかけた時も、少しぐずったが、妹を怒鳴るでも、
手を出すわけでもなく、すぐに立ち直り、また仲良く遊んでいた。
波動は、アナハタチャクラからそう変わらないので、叱られるから無理に我慢してやっているわけでもない。

へ〜大したものだ。優しいんだねえ。

また、中2の甥っ子が、あまり笑わないのを気にしているようで、
自分たちが大爆笑の私のギャグを、甥っ子に聞かせて、しきりに彼を笑わせようとしていたのにも驚いた。
実によく見ている。元気のない人を気にかけているのだ。
ま、私の体力までは気にしてないけどね。

恐らくは、親よりも、敏感に家族の間に流れている空気に気づき、なかば本能的にそうしているのだろう。
家族全体でひとつの生きものなのだ。
人の身体が、自ら歪んだり、症状を出すことでバランスを取るように、
家族もまた、誰かが負荷を抱えれば、家族間、世代間でそれに対する補正作用が働く。



お開きの後、そのまま、月寒神社に初詣。
深夜にも関わらず、この小神社にたくさんの人が詣でていて、ビックリ。
お守りやお札を売っている社務所も大盛況。
ワタ飴やフランクフルト、そば、甘酒なども出ていて、半分、お祭り気分な感じ。

日本人って、ほんと不思議だ。
やはり、宗教や神さまが好きなのかね。
現世利益だけではなくて、神道の精神ももっと、広がるといいね。

 

2007.1.7

香功練功日記風
ひさしぶりに、香功をする。しばらく、なまけてましたね。
正月休みで、そう邪気も受けなかったので、おさぼり。
お正月は、肉類を食べすぎたり、酒量がやや増えたりして、不摂生になるせいか、
ちょっと、歯茎が傷んだりもした。

いつものように、ガヤトリーマントラは聞いたり、唱えたりしていたものの、
不摂生がたたって、大分、身体のなかの気が淀んでいる感じになった。
外を歩くことも、あまりなかったし。(寒いからねえ。冬は足弱になりそうで困る。)
そんなところで、仕事も始まったので、練功してみた。

やっぱり、間があくと、その効果がよく分かる。
内気が、が〜っと巡って、全身から邪気の排出がなされ、すっきりする。
現在、日々、浄化中の経脈とチャクラも、加速されて、ずこずこと邪気が取れていく。
これって、私にとっての「刀」だねえ。
別に、何かと戦うわけじゃないけれど、帯刀していると、すっとした清浄さを心身にもたらしてくれる、そんな感じ。
「やっぱり、いいわあ」と、しばし自己満足に浸る私。
いや、これって、やはり7種か?!

ふと気づくと、7種落ち。そうやはり、基本的に私は修行系なのだね。


さて、いただいた年賀状を見ると、東京町田市時代にお世話になったクライアントさんが多勢、
ここを見ていてくれているようです。ありがとうございます。

また風邪やインフルエンザの季節になりましたね。
湿度に気をつけて、ガヤトリーマントラや蒸しタオル、足湯など、できるだけ自然な方法で乗り切ってください。
手当ての本をご紹介します。


『うごいてやすむ〜幸福になる気功』  天野泰司著  春秋社


この本も健康関係のなかでは、波動の高い良書です。
気功本というよりも、基本的な身体の法則や心と身体のケアについて、やさしくシンプルに解説してあります。
簡単な気功、蒸しタオルや足湯、てあて、など、わかりやすく、よくまとまっていると思います。
特に、お子さんをお持ちのお母さん、一人暮らしの方にお薦めします。
参考にしてみてください。

 

2007.1.14

意外なことに
自然に恵まれた土地に住む人たちは、みな幸せだろうか?

都会から離れ、自給自足、あるいは、それに近い暮らしをしている人たちの写っている写真。
それを通して波動を見ると、意外にそんなこともないことが分かる。
私としては、あれ?っという感じだった。

特に、子供たちの波動は、その豊かな自然の恩恵をそれほど受けていないかのようだ。
それほど緑もない、汚れた空気の都会に住んでいる子供たちと、さほど差を感じられない。
その波動の示すところは、あまり幸福な状態とはいえないものだ。

確かに、緑が豊かで、空気や水が清らかな方が、健康にいいのは言うまでもない。

しかし、人が、心が安らぎ、幸せを感じているかというと、これはまた別問題らしい。
環境要因よりも、もっと重要なのは、人間関係のようだ。
特に、子供たちにとっては、親子関係であろう。

雑多な都会にも、波動の高い人間も多勢いる。
大自然の恵み一杯の大地に、波動の低い人間も多勢いる。

素直に自分らしく生きること。
田舎でも、都会でも、そのように生きられたら、幸せを感じられる。
あとは、どんなとこに身を置くのが自分らしいか、だねえ。

 

 

2007.1.21

感情の麻痺
それにはっきりと気づいたのは、大学を出て、サラリーマンになってからだろうか。
外の世界を見ていても、どこか、曇りガラスの向こうから世界を見ているような感覚。
非現実感とでもいうような。
世界がリアルに感じられない・・。


子どもの頃、自分の感情を表現することが、許されずに抑制されることはよくあることだ。
特に、怒りや悲しみ、憤りなどのネガティブな感情をそのまま表現することは、多くの親にとって歓迎されない。
泣くな、怒るな、いい加減にしろ。

そうして、見捨てられる恐怖と、自分が大切にされない悲しみが加わり、一層、感情は抑圧を受ける。
このような感情の抑圧は、消えてしまうことはない。
それは、確実に蓄積され、いずれ、何らかの形で表面化し、解放の動きを見せるようになる。
それが、心の病として出る場合、肉体の病として出る場合、
人間関係や親子関係の歪みや、トラブルとして出る場合もある。


傷ついた子どもは、嫌なことがあった場合、どのように対処するのだろうか。
トラブルを引き起こしかねない、ネガティブな感情を感じた時、子どもは心を閉ざす。
その記憶を閉ざし、ネガティブな感情を抱いたことさえ、忘却の彼方へと押しやろうとする。
そうしなければ、そこにいられないからだ。

こんなことが、いつも続くとどうなってゆくか。
すこしずつ本来の感情は麻痺し、いづれ、身体感覚さえ麻痺してゆく。
感情は、身体感覚と一体なのだから。
感情の麻痺は、身体感覚の麻痺を生み出し、運動や知覚神経の麻痺さえ生み出す。

忘却は、あまり賢い手段とはいえない。
大人の場合は、もうすこし洗練され、忘却の前に、認知や理解により、問題を整理し頭で納得しようとする。
しかし、その認識力もすでに、過去のトラウマのエネルギーによって汚染されており、あまりあてにはならない。
それが徹底的に不条理なことだった場合、思考や分析では、心から納得できるものではない。
相手は、非線形の感情なのだ。
しかし、うまくゆけば、時の恵みにもあずかり、心の隅へと押しやることに成功する。
感情は抑圧されたままに。


子どもの頃に、自分の感情との付き合い方を、大人から教えてもらえたら、
生きることがどんなに楽になるだろうか。
私の中の喜怒哀楽の全てを受けとめてもらえたら、どんなに幸せだろうか。


私は、以前、年をとるごとに、嫌な記憶やトラウマが積み重なってゆくのを感じて、
このままでは、いつか気が狂ってしまうのではないかと思ったことがある。
現在は、感情解放の技術があるので、気が楽だが、当時は、本当にぞっとしたものだ。


『ナチュラルセラピー祥』の施療によって、実は一番救われているのは、私自身だ。

 

2007.1.25

あの歌手のその後の話
そう昨年の12.26で書いた歌手の話だ。
最近聞いた、風の噂では、なんと、彼女は腎臓結石(左右とも)で治療中とのことだった。
やっぱりねえ。腎臓、変だったもの。
後出しジャンケンではないよ、ちゃんと書いてる。
自分の診断能力を確認できて、まあ、良かった。

ただねえ・・。
波動で異常は読み取れても、実際に医学的検査で出てくるか、というと必ずしもそうではない。

大分前に、軽い頭痛のクライアントさんに、脳に、波動的にはかなり強く異常を感じて、
「下手をすると命に関わることもあるから、病院で検査してみて下さい。」と言ったことがある。

その結果、異常は何も出なかったようだ。
まあ、こちらとしては、施療中にどうかなったら大変と思って、
まずはこれで安心して施療できると思ったものだが、
波動的診断と、医学的診断のギャップを説明しても、あまり理解してもらえず、
すっかり不信感をもたれてしまった。

そりゃあ、そうだって、医学的検査と全く同じ結果が出る方がおかしい。
今回のように同じ結果となることもあるが、
同じ結果が出ないからといって、間違っているというわけではない。

筋反射リーディングは、自分の生体システムを使って、
他者の生体の異常を感知するのだから、長所短所がある。

もちろん、長所は、波動(気)レベルの異常が分かるので、
問題の早期発見と、より原因に近いエネルギー身体の施療が、波動レベルの高い精度でできること。

短所は、やはり、相手と同調するので、病邪気をもろに受けてしまうことだろうね。
それと、人によっては理解が得られないこともある。
ま、あとは、それなりの精度の実用レベルまで行くには、習得が難しいというのもあるだろうね。


まあ、コンサート行って、歌手の体をリーディングしている、私って、やはり、○○か?!(笑)

 

2007.2.1

身体の認識と気づき
まあ、人間の治療はむずかしいと感じる、今日この頃、皆さんいかがお過ごしですか。
ほんとに暖冬で、雪像も溶けてしまうのではと、
久々の雪祭りを楽しみにしている私たちは、ちょっとハラハラしている。

例年では、スギ花粉の先触れに、なんとはなしに、くしゃみをしていた頃である。
北海道には、スギはほとんどないので、この時期のわずらわしさからの解放は、やはり嬉しい。


さて、テーマが深いので長くなるとあれなので、簡単に。
ようするに、施療に際して、「施術者」自身の身体の認識度が、施療効果に影響するってことだ。
認識っていっても、解剖学的な知識として、ということではなく、
自分の脳がちゃんと、自分自身の身体の存在と機能を実感として、把握しているって意味。

例えば、目を閉じて自分の身体をイメージしてから、簡単に絵に書いてみるといい。
あるいは、あらかじめ解剖図で骨格などを見て大体、把握してみてからやってみてもいい。
自分の身体をイメージしてみて、はっきりと形をイメージできない部分や、
イメージできても、解剖学的な図からかけ離れたイメージになる部分は、
脳が、自分の骨格なり、臓器なりをはっきりと認識できていない場合がある。


多くの理由は、解剖学的知識の欠如を除いて、脳の歪みにある。
人間の身体というのは、実は潜在意識を具現化したものである。
実際、経脈、ナーディーなどは、「意識」を綾なす外的表現である。

実体としての身体のイメージに、欠損や歪みがあるということは、
意識のレベルにおいても、欠損や歪みの領域があることを意味する。
そして、そのことに関わることは、なかなか気づきや、認識を得られない。


頭蓋骨が調和し、脳の歪みが取れてくると、今までよくイメージできなかった身体部位が、
少しずつ、イメージできるようになっていることが分かる。
それに応じて、ん〜これは上手く言えないのだが、「気づきが増えているような感じ」と言えばいいのか、
今まで分からなかったことが、いつの間にか自然と認識できるようになっている。

当然、イメージできないところは、気の巡りも良くない。
施術者自身の身体にそのような部位がある場合、患者の施療効果に大なり小なり影響が出る。

まあ、物理的な力に頼って刺激を加える場合は、さほどでもないだろうが、
意識するしないに関わらず、「気」を制御する高度な治療法ほど、影響が大きくなる。
施術者自身が十分認識できていない身体部位があると、同じ患者の部位に対して、
働くべき「気」がそこに、十分作用しない。浸透していかないということが起こるのだ。


よって、施術者は、できるだけ自分自身の身体をよく認識できるような「身体作り」をした方が良い。
解剖学を学び、それに沿って、イメージングをしたり、
ゆったりとした気功や太極拳などの動きの中で、自分の身体(骨格、筋肉、経脈、内臓など)を
内観してゆくトレーニングも役立つ。
上手くゆけば、精神的にも、いろいろな気づきが起こってくるだろう。

 

2007.2.7

歯が抜けた!
といっても、私の母である。
年は、70にもう近いくらいの年ではあるが、親知らずが抜けた。
それもポロって感じで。

実は、2ヶ月以上前に、「ちょっと歯がぐらついて、歯医者に行こうか迷ってる」とのTELLあり。
気になって、御飯がうまく食べられない状態らしい。

「うむむ」、安易な歯の治療は、寿命を縮めかねない。
で、「じゃあ、しばらく身体調整するから、まずはそれで様子見よう」と提案した。

最初の施療。
上の第三大臼歯つまり、親知らず。歯の痛みはほとんどなく、ただ歯茎がなんとも「いずい」感じらしい。
これで、普通の歯科に行ったら、レントゲンとって、麻酔打って、切って、引っこ抜いて、抗生物質を1週間は飲んで、と
身体にとっては、かなりのダメージとなるだろう。
幸い、痛みがないので、施療をして、時を待っても大丈夫だ。

で、施療後、すぐ母の歯茎やほっぺが、ぷっくりと腫れあがった。
内部で炎症を起こしていたのだろう。治癒力の向上で、急激に免疫系が働いたようだ。
それも、二日ほどでおさまった。

それから、しばらく週に一回の施療を続けたが、歯のぐらつきは、もとの安定した状態までは戻ることなく、
やはり、舌で触ると、ぐらつく感じが続いた。歯茎の状態はすっかり良くなり、改善されたけれど。

「身体がその歯を不要と判断したら、押し出されるようにポロっと抜けてくるから、それまで待つように」
と、母には話していた。

普通は、ほっておけば、あのまま炎症が進んで、腫れて痛んで、歯科に行って抜歯するしかないだろうが、
施療を受け、できうる限りの治癒力を自由に使える身体知性が、
この歯をどのように処理してくるのか、とても興味深かった。

はたして、もう一度、使える歯にするのか。
もう不要と判断して、自然と抜ける方向で行くのか。


そして、先日、施療のあった次の日の朝、「抜けたよ」とTELLが入った。
何気に舌の先で押すと、ポロっと抜けてきたらしい。痛みもなく、血もほとんど出ずに。
2日くらいして聞くと、あのあと少し腫れたが、1日でおさまったとのこと。

そうか、そう来たか。
歯科に行っていたことを考えると、この自然の成り行きはとても素晴らしい結果といえよう。
身体の英知の可能性をあらためて見直した。

 

2007.2.13

雪まつりに行ってきたさ。
そう、なんといっても、暖冬で雪像が溶けちまうのではないか、と心配された雪まつり。
結局は、うまいぐあいに寒くなり、雪も降り、最終的には例年以上の人出となったらしい。

で、感想。
なつかしいなあ、と思って見ていたのも、最初だけ。
あとは、まあ、子供の頃の祭りに大人になってから行ってみると、
「こんなものかなあ」的な感じっていうのかしら。
子供の頃の、無邪気な喜びはほとんどない。

さっちゃんは、はじめからそうだろうなと予想していた、と言うが。

子供のように、単純に、お祭りの雰囲気と大きな雪像を見て喜ぶというようには、もうならないね。
会場の設営の雰囲気や、雪像の配置や数や良し悪し、出店の人や様子、人の流れなどの方が気になるのだよ。
はは・・。
ま、雪像の作成チームに参加してたりすると、またちょっと違った感じになるのだろうけどね。★


先日、フォーカシングのワークショップに参加してきた。
東京のスクールカウンセラーの天羽和子さんが講師の「子どもとのフォーカシング」。
フォーカサーはフェルトセンスを絵で描いてみて、リスナーはそのプロセスに寄り添っていく。

フェルトセンスを絵の形で表現してみると、おもしろい。
体感だけでやるよりも、やりやすい場合があると思う。
いろいろな気づきや発見があるし、内なる声のままに手を動かして、色や線を描いていると、
そのままフェルトシフトへと導かれることもあるだろう。

私のリーディングでは、一枚の絵の中の波動が落ちている部分、高い波動の部分が分かるので、
例えば、家族の絵を描いたものを見ると、誰との関係で問題があるのかが分かる。
その相手についてのフェルトセンスの絵を描いてもらう、
というような感じで、フォーカシングプロセスは比較的容易に発展するだろう。

まあ、絵でもいいだろうし、粘土でも、踊りでも、発声でも、フェルトセンスを表現する方法は色々あるだろう。
大事にそれを行い、フェルトシフトまで進み、癒される形になるところまでいけたら、
創造的な表現が、即、自己セラピーとなる。
そういうアートセラピー的なのって、いいよねえ。
いつか、やってみたい形ではあります。

 

2007.2.17

仙骨のちょっとした秘密
そう、今回はちょっと治療のお話。
ついてこれる人向けであります。
仙骨は、骨盤中央の逆三角形の骨。この骨の治療法を、私は最初に学んだ。

そして今、私は、直接、仙骨に働きかける治療はしていない。
一度、完全に捨てたのだ。

しかし、仙骨のことは忘れたことはない。
もしかしたら、君もそうだろ。
仙骨という骨は、やはりどこか魅力があるのだろう。
多くの人が、「そこには何かある」と思うのは偶然ではない。

仙骨の前には、生命を紡ぎだす器官が鎮座し、ムーラダーラ、スワディシュターナチャクラが位置する。
霊的進化を司るクンダリニーエネルギーとも関係しているという。
そして、全身にかかるストレスに対する主要なバランサーでもある。

そして、仙骨を調えるいくつかの治療法が存在する。
だが、真に重要なのは、仙骨ではなく、仙骨を包含する球体のエネルギー磁場である。
これを自分は、『セイクラム・スフィア』と呼んでいるが、この球体磁場こそが、頭蓋の蝶形骨と共鳴するのである。
決して、骨としての仙骨の波動が、蝶形骨と共鳴するのではない。

頭蓋骨のうち、蝶形骨のみが、セイクラム・スフィアと共鳴する。しかも、強力に。
肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体の各体のセイクラム・スフィアが同時に覚醒する時こそ、
その真価が発揮される時だ。
かの人の、若き日に一時その身に起こった啓示は、これである。

しかし、皮肉なことに、仙骨への直接の調整によって、セイクラム・スフィアは出現することはない。
それは、仙骨の歪みがなければ出現するというものではないし、誰にでもあるというものでもない。
仙骨をただ追うと、それははるかに遠のく。かの人の身から、去っていったように。

頭蓋骨と仙骨が、一定レベルの調和を達成したときのみ、それは姿を顕し始める。
そして、セイクラム・スフィアによって、自ずともたらされる蝶形骨の精妙なる波動は、
単に頭蓋骨への手技治療などでは決してなしえないレベルのものである。
確かに、そうであった。

まあ、そういうことだ。
君よ、仙骨の夢は、ただの夢ではない。

 

2007.2.27

ちょっと不思議な感じ
そう、今回もまたちょっと治療のお話。

まあ、時々、不思議なもんだなあ、と思うことがある。
私は、はじめに仙骨の調整を学び、以後、治療法はいろいろと学んできた。
そうすると、特に私の興味を引く、身体部位っていうのがあることが分かる。
はじめは、仙骨。それに上部頚椎や頭蓋骨と脳。あとは、経絡やチャクラなどに興味が集中する。

昔、リフレクソロジーなども一通り、学んだこともあるが、どうも反射区にはあまり興味がわかない。
もっとも、虹彩や白眼の反射区だけは、何回かブームが来ては、去っていったが。
それに、筋肉や筋膜も治療対象としては、ほとんど意識に入ってこない。


興味を引かれる部位は、偶然ではないのだろう。
臨床上の疑問を解決すべく、可能性を探っていった結果だが、
たぶん、過去世に治療師だった頃のことも、関係しているような気がする。


それに一番不思議なのは、
それまで、目にしていたことや、知識として知っていたことでも、
「時が来るまで」、その重要性にまったく気づくことができない、ということだ。

あるいは、はじめから、なにかうすい皮膜のようなものがかかっていて、見えていながら、見えていない。
その時が来て、誰かが皮膜を取って、はじめてはっきり見えるようになる。そんな感じだ。

少しずつ少しずつ、明らかになるので、もどかしい気分になる。
授業料を支払って、ひとまとめに教えてくれる、という感じにはいかないらしい。
8〜9割がた、そこに肉迫して、「大分いいとこまできたから、じゃ、教えてやろうか」、ってな感じだ。

授業で、ただ教えてもらったとおりの治療をするよりも、確かに、足腰は強くなる。
しかし、いろいろなことが分かってきて、たまに、
「ああ、私は結局、どこに向かっているのだろう」、と思うことがある。
知らないほうが、無邪気でいられて幸せということだってあるものだからね。

 

2007.3.4

仙骨のちょっとした秘密2
仙骨に興味を抱いている方から、質問を頂いた。
要するに、「何故、仙骨の調整では、セイクラム・スフィアはできないのか?」ということである。

そういわれても困るが、そうなのである。
どんなに仙骨を調整したところで、それは現れることはない。
仙骨は、頭蓋骨に対して代償変位しているため、仙骨だけをいくら調整しても、
頭蓋骨が調和することは永遠にない。

頭蓋骨が調和しなければ、仙骨が完全に整うこともないし、セイクラム・スフィアが起動することもない。
もし、頭蓋骨を完全に調えることができれば、全身の骨格の全ての歪みが整うだろう。
そして、また脳も調うだろう。頭蓋骨の歪みは、脳の歪みを反映しているのだ。


セイクラム・スフィアは、実は、陽の気を放つ、「太陽のセイクラム・スフィア」と、
陰の気を放つ、「月のセイクラム・スフィア」の二つがある。
前者は、仙骨の2番前面、後者は仙骨4番の前面にその中心があり、
仙骨を包含して、エネルギー場を作っている。
それはいづれも、頭蓋骨のうち、「蝶形骨」と強く共振している。

セイクラム・スフィアは、人間の「中心」であろうか。
否、中心ではない。
中心ではないが、中心の力の直接的顕れのひとつであり、それとつながっている。
(ここでいう中心とは、人間の普遍的生命エネルギーの形成力の中心を意味している。)


ま、今回はこんなところで、どすか?

 

2007.3.16

また、あれが出ちゃいました。
みなさん、しばらくでしたね。
ここのところ、ちょっときつい好転反応が出てきていたもので、文章など書く気分になれませんでした。
今日当たりやっと、これを書けるような余力が出てきました。

まあ、2年前のきつい痛みを伴う、トラウマになりそうな好転反応ほどでは全然ないです。
あの時は、あまりに辛い痛みが2ヶ月も延々と続きましたねえ。
ええ、神さまにも祈りました。ご先祖様にも祈りました。亡き父にも祈りました。
「この痛みをなんとかしてください」と。
ホントに辛いと、人間、素直になりますね。すべてを懺悔したくなります。


今回は、それほどではありません。神頼みをするほどは、追い込まれませんでした。幸い。

施療の研究をしながら、身体のいろいろなところを調整したり、開いたりしていると、
たまに、歪みや邪気の超渦のようなところにぶち当たり、一気にそれが噴出してくることがあるのです。
それは、もう「あ!」と思っても、もうだめで、後戻りができません。
どんどん好転反応のプロセスが進行して、出るべき症状が出てきます。
その毒素が出切るまでは、収束しないのですね。


それまで何年、何十年と身体システムに、包み込まれ、同化してきた歪みが、
それを改めて異物や歪みと認識して、体外に排除、解放しようとするわけですから、
治癒能力は、非常に高まっているわけです。
好転反応は、生命力が低下して病体へ傾斜した結果、出ている症状とはまったく異なります。


で、今回の私の症状は、ま、風邪かインフルエンザのようです。年齢遡行すると、生後13ヶ月と出てきます。
左の側頭葉の歪みを解放した後、なんともいえない化学薬品のような味とも匂いともつかない感じが
口中に出てきて、次に、徐々に風邪を引いた時のように、のどにウイルスが張り付く感じになりました。
普通なら、単純に風邪を引いたかと思うでしょうね。

それから、ちょっと寒気が出てきたなと思っていたら、ほどなくして今度は、咳が始まりました。
のど、気管に痰が出てきているのですが、その痰の切れが悪いため、咳が止まりません。

ずっと経過をリーディングしていたのですが、私が生後13ヶ月の頃、引いた風邪とインフルエンザが
再発しているようです。多分ひどい状態だったのでしょうね。病院の化学薬品による治療を受けたのでしょう。
その結果、自分の免疫系で完全に処理されることなく、ウイルスや細菌はフリーズしたまま、
身体システムに包み込まれ、脳内に留まったようです。


脳内のウイルスの感染部位が、免疫系によって押し出され顕わになると同時に、のどや気管にも次々に感染部位が現れます。
まあ、私自身、体力的に疲労している時期でもなく、この程度の好転反応なら、
いつものように1日前後で経過するだろうと思ったのですが、ちょー甘かった。
脳内の1ヶ所が終わったと思ったら、なんと感染部位があちこちにあって、出るわ出るわ。全然終わる気配なし。
そのうち、5歳とか6歳の頃の未解決風邪まで出てきて、一度に3、4回分くらいの風邪を背負いました。


とにかく、ウイルスや細菌が処理されて、痰が出ているのですが、切れが悪い。
そのため、咳が出て、特に夜、まったく眠れませんでしたね。うとうとしても勝手に体が反射的に咳をし続けます。
2日ほど完徹しました。その間、ず〜っと咳をしていましたので、咽喉が潰れて声が出なくなりました。
これって、病院へ行くと「気管支炎」と診断されるのかもしれませんね。
まだまだ、声は「森進一」か「もんたよしのり」です。
ダンシンオールナイッ!


今回、改めて、風邪やインフルエンザをちゃんと経過させることがいかに大事かを痛感しました。
化学薬品による対症療法はよほどのことがない限り控えて、自己の免疫系を励まして、経過させることが大事。

私の脳内の広い範囲でフリーズしていたウイルスは、その後の脳の成長において大きな歪みを生み出していたのです。
私固有の、体の歪み、癖、思考なども、この影響を受けています。
予防接種なども同様で、調べるとさまざまな副作用があり、問題になっているようですし
単なる一時的な副作用だけではなく、私が体験したような「脳や身体の健全な成長」に与える永続するダメージもあります。
タミフルもそうですし、医者のいうことをただ真に受けているだけではだめですね。



ちなみに、あまりに好転反応がきつい時は、私とて、頼るものがあります。
今回は、ホメオパシーとフラワーエッセンス、プロポリスを使いました。
ホメオパシーとフラワーエッセンスは、脳内の包み込まれたウイルスを表に出すことに力を発揮しました。
寝不足だし、ウイルスがあちこちから次々に出てくるので、「マジ?かよ・・」と暗い気持ちになりましたが、
それもフラワーエッセンスが助けてくれました。

今回、ホメオとフラワーエッセンスを使い分けてみて、再度、思いましたが、
フラワーエッセンスは、感情の浄化専門というわけではありません。
適切に、身体システムが必要としているものを与えれば、ホメオパシーと遜色なく、肉体的問題にも有効ですね。
バッチ博士が晩年、フラワーエッセンスだけで治療をしていたというのも、十分にうなずけます。

しかしながら、ホメオもフラワーエッセンスも好転反応自体が治まるわけではなく、
ただその経過プロセスを早めるだけで、なんとかしたいほどの苦痛が消えるわけではありません。
(ま、私自身が、そのような「選び方」をしているためでもあるのでしょうが)


こういうふうなきつい好転反応のことを書くと、《ナチュラルセラピー祥》の身体調整は、
誰でもこういうことが起きるのではないかと思う人が必ずいるので書いておきますが、そんなことはありません。

私のような激しい好転反応が出た人は、これまでクライアントさんでは一人もいません。
私が自分自身に施しているものは、まあちょっと特殊なものだということです。
クライアントさんの好転反応は、もっとずっと穏やかで緩やかなものなので、ご安心ください。


今夜あたりは、やっとよく眠れそう。やれやれ。

 

2007.3.24

気功練功日記風
いやあ、おかげさまで、長い好転反応から抜けてやっと復調しました。
また、ひとつ私の体から、長年影響を受けていた毒素が出ていきましたね。
大変だったけれど、良きことです。

母は、「そうやって、薬を使わなくても治ってゆくんだねえ」と感心しておりましたが、それはそうです。
まだまだ現代医学に毒されているなあ。
ま、その人の現在の体調や年齢、既往歴によって、一概には言えないとこもあるけれども、
基本的に、風邪やインフルエンザは、自然に経過させるのがいい。

まあ、自然といっても、足湯や蒸しタオル、場合によっては、ホメオパシーやフラワーエッセンスなども使うけれども、
身体のやりたいこと邪魔することなく、ちょっと手をかしてあげるくらいに手当てすると、
必要なプロセスが自然に経過してゆく。後に、副作用を残すこともなく。★



で、気功ですが、今回は香功ではなく、「八段錦」のお話。

香功を続けていると、時々、物足りなくなる部分もあるんですねえ。
特に、私の場合、結構、運動不足なものでしてね。
こう、手を回したり、筋を伸ばしたり、大きく胸を開いたり、全身を回したり、腰を落としたり、
など全身運動的な動きが欲しくなります。
練功後にこう、身体が軽く汗ばみ、ちと熱を帯びるくらいの感じが欲しい。

香功は、その点、ストレッチ系の気功とは全く異なり、この欲求を満たすように動きを変えたり、
大きくしたりすると本来の効果がなくなる。
呼吸も乱れず、身体も清浄になるが、いまいちホットにはならない。


で、その欲求を満たしてくれそうな、気功を探してたのですが、どうも気に入るのがなくて。
太極拳もいいけど、いまひとつ気に入るものがない。

ひとつだけ「佛家金剛動静気功」という良さそうなのがあるのですが、波動だけで実体が分からない。
まあこれも実はホット系ではなく、香功に近い系列の仏教気功のようで、とても良さそうな感じを受けます。


それで、結局、「八段錦」に落ち着きました。有名な古典だし、短いし、簡単だし、波動もそこそこだし。
やってみると、やはり、気持ちが良いのですねえ。しばらくこれも深めてみようと思います。


ま、やはり、肝心なのは、「続けて深める」ってことだと思うわけで。
一時のマイブームで終わらずに、そこから豊かな実りを得るまで、続ける。
「学ぶ」段階は、新しいものへの好奇心が引っ張っていってくれます。
しかし、「深める」段階は、自分自身の地味な探求が必要になります。

では、ご機嫌よう。

 

2007.3.31

吹奏楽部のコンサートに行ってきました
札幌の中学の吹奏楽部の発表会に行ってきました。
甥っ子が吹奏楽部なので、聴きに行きました。
仕事の後で行ったので、たくさんの参加校のうち数校しか見られなかったのですが、今日はその感想を。

席に座って、最初の学校の演奏が始まり。
いきなり、「こりゃ困ったことになったな」というのが率直な感想。
というのも、呼吸が浅くなり、身体が捻れてくるような波動が音楽とともに流れてくる。
舞台も、何か、もあんとしたヨドミが漂っている感じ。

指揮者の先生も子供たちも、それなりに一生懸命に演奏しているのだろう。
しかしながら、どんなに一生懸命にやっても、音楽は正直だ。

指揮者の意識、演奏者の意識の波動は、楽器の音に乗って、聴衆の身体や心に受け止められる。

ただ音を正確に出せば良いというわけではない。
そんなものはいづれ、機械やロボット楽団にだってできるようになるだろう。
人間が演奏するということは、演奏者の意識がその音の波動に乗り、
単なる「音波」以上の「生きた音」になる、ということだ。

当然、指揮者の意識、演奏者の意識が高ければ、その演奏は人間の生命力を鼓舞したり、
胸を打つ、素晴らしいものとなるだろう。
ちなみに、セラピストの私は、「意識の高低」を、
その波動が、人間の生命力を阻害するものなのか、高めるものなのかを基準にし、
さらにそれを、ムーラダーラからサハスラーラまでのチャクラの段階で区分している。

で、いきなり、最初の演奏がそのような次第だったわけで。
幸い、次の学校は、邪気のないそれなりの演奏で、ほっとした。
全部が全部、そのようなものではないらしい。
この学校は、先ほどのに比べると、呼吸は楽だし、舞台の雰囲気も明るく感じるし、ずいぶんすっきりとしている。


また、その次の学校は、邪気はさほどではないし、すっきりとした感じもあるが、どこか違和感を感じる。
聴きながら、探ってみると、みぞおちの辺りにとても重苦しいものを感じる。
これって、フォーカシング的だよね。

これは、多分、生徒たちの緊張、ストレスなのだろうなあ。
何故、これほど緊張しているのか。
失敗することを過度に恐れているのだろうか。演奏を楽しんでいる意識ではない。
普段、どのような指導を教師から受けているのかを窺がわせるところだろう。

このように、演奏者の意識が「音に乗る」ということをもっと理解して、
生徒たちへの指導も考えてやってほしいものだ。
失敗することへの恐れや緊張の波動を音に乗せるのではなく、
もっと音楽を演奏することを楽しんでいる、喜びの波動が音に乗るようにしてあげてほしい。


楽団などでは、指揮者の意識を越える演奏を、演奏者たちがすることはあまりないと思う。
演奏の全体の質、波動は、かなりの程度、指揮者のレベルに依存するだろう。
つまりは、先生も普段からちゃんと心身のコンディションを高めていないと、生徒の演奏全体に影響を与えるということ。
もし、その演奏がいささか下手なのだとしたら、必ずしも生徒たちの側にばかり、責があるとはいえない。

コンテストなどでは、同じ指揮者のもとで、同一条件で、その実力を測るのが本当だろうねえ。実際、無理だけど。
野球などのスポーツの監督よりも、音楽の指揮者の演奏における影響力ははるかに大きいだろうし。

それか、コンテストでは、まず、指揮者の力量をはかり、一定レベルの指揮者の学校だけを予選通過校として、
本選で、その吹奏楽部が競い合う。というのはどうだ。
こうなると、先生の責任が重大になって、大変だけどね。
生徒の側から、「先生、もっと指揮者としてのレベルを上げてください」と言うことは、なかなかできないだろうから。

ではでは。

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