さち通信U〜ときたま更新。

☆ちなみに、「さち通信」とは、『ナチュラルセラピー祥』の月いち会報のこと。

2007年7月〜9月


2007.7.1


香功練功日記風
ここしばらく、お休みしていた香功の練功をまた再開した。
というのも、治療法の研究の方が忙しくて、おちついてやる香功の時間がなかなか取れなかったためだ。


やると、「やはり、いいよねえ」と、ひとり悦にいる。

今日は、口元にほんのりとした笑みを浮かべつつ、
息を詰めずに、ゆったりとおこなうように心がけてみた。

やっていると、いろいろな想念が横切るたびに、笑みが消えたり、呼吸が途切れたりしている。
気がついたら、そっと笑みを浮かべ、やわらかに呼吸を再開する。



香功をやっている人は、最後のタントウは、できれば10分弱くらいやると良い。
あまり、短すぎてもいけないし、長すぎても効果は変わらない。


さらにいうと、病気の人は、練功後、しばらく横になると良い。時間にして、30〜60分くらい。
眠れるなら、そのまま寝てしまっても構わない。
高まった治癒力が細胞を修復し、健康の回復を助けるだろう。
しかし、寝しなにやると、人によっては寝つきが悪くなるかもしれないので、要注意。


今のところ、まだ香功をしていても、身体から良い匂いがしてくるということがない。
練功を続けていると、確かに、周囲の匂いには敏感になってくる。
緑豊かな屋外でやると、さまざまな匂いを発見するだろう。

また、明らかに鼻中隔にあるヤコブソン器官にも作用しているので、
無臭のフェロモンなどにも敏感になるのかもしれない。

しかし、いまだ自分の身体から発する匂いが、白檀のような匂いとして感じられるという経験はない。
まあ、練功中にそういう匂いがするようになったら、香功もそれなりになってきた、ということになるのだろうか。


では。

 

2007.7.9

香功練功日記風
香功の音楽CDの新しいのが出た。といっても、これまでのカセットがCDになったものだ。
ま、早速注文してみた。

で、久しぶりに、この動作のナレーションが入っているヴァージョンで練功してみた。
すると、自分が動作名称を結構忘れてしまっていることに気づかされた。

普段は、CD「香功 2001」の音楽を使うか、音なしでやっているのだ。

と、中級に入って、音楽のテンポがいつもより速くて、ついていくのがやっと。
すちゃ、すちゃ、すちゃ、すちゃ、とこんなに速かったっけ、と驚く。
アワアワしましたね。(笑)


初心者がいきなりこのテンポで中級を練功すると、かなり雑になると思う。
中級は、ゆっくりしたテンポで、音がなくてもよいから、ビデオやDVDで動きを十分に覚えてしまった方が良い。
それから、CDのアップテンポに乗せてみる。

しかし、なぜに中級は、このテンポなのだろうか。
まあ、ビデオの方もけっこう速いテンポだと思うが。

今のところ、私には、中級をこの音楽のように速いテンポで動くことに意味を見出せないのだが、
なにか理由があるのだろうか?
ちょっと検討してみることにしましょう。



で、今日は、久々に本のご紹介。
なんのかんのと忙しくて、完読することが最近は少ないのだが、この本は一気に読んだ。

『目覚めよ仏教!ダライ・ラマとの対話』 上田紀行著 NHKブックス

★こんなに激しく語るダライ・ラマ、はじめて見た!
仏教にこそ、世界を救う力がある。そう信じる二人が、ダラムサラで熱い想いを語り明かした。

利己化する世界のメカニズムに対するクールな認識の上で、仏教の果たすべき役割を激しく訴えるダライ・ラマの核心を、
仏教復興という志で共鳴する著者があますところなく引き出した好著。



この本のなかで、ダライ・ラマは、
愛や思いやりこそが、人間としての基本的な価値、土台であること。
それが、私たちの抱えている精神的な苦しみに対して、お金よりもなによりも、ずっと効果的であり、
はるかに大きな影響力を発揮する、と述べています。

そして、愛や思いやりはいかにして育まれるか、というと、
それは、この世に生れ落ちたそのときから、母親から与えられる愛情によってである。
宗教でも、教育でも、法律でもない。
ただ人間の根本である生物学的な要因から生じるのである、と語ります。


私は、毎日の施療のなかで、多くは、胎児、乳幼児期に形成された歪みを相手にしていますので、
このダライ・ラマの言葉は、重くのしかかります。
では、他者から愛を受け取ったり、他者への自然な思いやりや愛を持てないほど、
母からの十分な愛情を与えられなかった子どもは、どうやって再生してゆけばいいのだろうかと。


難しい仏教の教義的な話は、ほとんど出てこないので、
気楽に読めると思いますが、考えさせられる本です。

 

2007.7.24

治さずに治る
私の理想とする治療は、簡単に言うと、「治さずに治る」というものだ。

それは、病気や症状は、それが顕在化するには必然的な意味があるだろう、という考えが元にある。
その意味を無視して、対症療法的に症状を取り除いたり、コントロールすれば、
治療による人為的な反作用が、心身に起きる。

当面、その症状は楽になるだろうが、治療による反作用が新たな病気の種となる可能性は否めない。


これは、あまり知られていないことなのだろうが、
基本的に、歪みの起点は、より上位の微細身体にあり、
そこから、エーテル体、肉体レベルに下降してくる。

歪みを下降させ、肉体レベルにまで展開することによって、人間存在として総体的にバランスが取れる。
その歪みは、より上位の身体においてはエネルギーを失い、沈潜化し、姿を隠す。


どんなに、肉体やエーテル体において、異常のない完璧に見える治療を施したとしても、
その強制力は、アストラル体やメンタル体レベルに、相応する混乱を発生させる。
つまり、歪みが逆行するのだ。
そして、それはまた時期を経て下降し、新たな症状となる。


だから、病気を治療してはいけないのだ。

といって、病気のままでいていい、というわけではない。

この辺のジレンマを解決するために、自分なりに研究を続けているのだが、
なかなか最後の終着点にはつかないようだ。

それがまた、おもしろい。

 

2007.8.7

治癒へ向けてのクライアントの努力
うちにも、いろいろなクライアントさんがやって来るが、
まあ、10年以上もこの仕事をやっていると、さすがにいくつかのパターンのようなものが見えてくる。
例えば、こういう振るまいをする人は、いづれこのようになって、で、結局、こうなる・・。のような。

残念ながら、大抵、その予測が裏切られることはない。
しかし、その行動パターンは、本人の病気の発生とも無関係ではなく、
真の意味で病気の治癒が起こるとするなら、
そのような人生の振る舞いごと方向性が変わらねばならないだろう。


うちは、目先の症状を相手にする対症療法ではありません、と看板に書いてあるし、
ことあるごとに、そう説明するようにもしているのだが、
「なるほど、対症療法ではないのですね。分かりました。で、この症状を早く何とかしてください!」
と言われることが、結構、あったりするもんだから、ちと困る。(笑)


もちろん、気持ちは分からないではないのだが、よく伺ってみると、
自己責任でできる不自然な生活習慣の見直しのなされていないことがほとんどであり、
治癒プロセスを、ほとんど施療者に丸投げしている状態だ。

病気に対するうちの武器は、クライアントさんの天然の治癒能力だけであり、
今現在、滅茶苦茶な食生活やストレスにさらされている状態では、そう上手くいかないのは自明のこと。
そのような生活の最中にいることに対して、さほど問題意識がないことも多いから、なお難しい。
事情があって早急に変えられないなら、せめて施療間隔を詰めるなどしてほしいところだ。


まあ、そうはいっても、歪んだ生活習慣、想念習慣にも意味があり、
これまでの人生、ベストではないにしても、それなりにベターな選択をしてきていることや、
頭では分かっていても、実際にはなかなか変えられないことが多いので、
生活改善については、最近は以前ほど言わなくなった。

施療が進展するとともに、少しずつ本来の自然なバランス感覚が戻ってくるので、
それに任せていた方が、時間はかかるが、無理や反動がないこともある。

言わなくなったからといって、それを重要視していないわけでは決してないが。


生活習慣の改善も含めて、できるかぎり、クライアントさんが、施療のプロセスに加わるように希望している。

セッションをより有効に活かす人もいれば、ただ受けてお終いという人もいる。

施療を生活のペースに上手く組み込んで、体調を整えたり、散歩や運動をするようにしたり、
日記をつけたり、啓発される本を読んだりして、精神的な気づきを深めていく人もいる。
少しずつ、食事や添加物のことに興味を持ったり、自然な手当てを覚えていく人もいる。
フラワーエッセンスや感情解放セッションを利用して、過去や生い立ちを清算し、再生の機会にする人もいる。
仕事が忙しくなかなか生活習慣を改善できないので、せめて施療の予約だけは優先させている、という人もいる。

このようなクライアントさんの健康へと向かおうとするエネルギーに、
施術者も自分でも分からないところで感応し動かさていると、感じることがある。
そのクライアントさんにとって必要なことが、私から導き出されることがあるのだ。


決して、セラピスト好みの「良い子」でいなさいというつもりはないが、
人は、結局のところ、本当に自分の求めているものを手にするのである。

 

2007.8.16

暑い・・・・
蒸し暑い。異常だよな。北海道じゃないようだ。
夜になっても、昼間に十分、蓄熱した部屋の温度は30度以上ある。

町田にいた時は冷房病に悩まされたが、ああ、エアコン、がこれほど恋しく感じるとは。
部屋にいても、だくだくと汗が流れていくので、水分をこまめにとらないと、うっかりすると熱中症になりかねない。
よく眠れないし、・・ギブです。(笑)


と、話はうって変わって、先日、20年ぶりに大学の同窓会があった。
建設業界から足を洗った私としては、今やあまりに異なる世界にいるので、
出席するか、けっこう迷ったが、出てみることにした。

20年ぶりの懐かしい顔ぶれなのだが、しばらく戸惑った。
大学の時の自分の感覚が思い出せないのだ。
みんなの顔は大体うろ覚えているのだが、彼らに対して自分がどういう風に振る舞っていたのか思い出せない。
彼らの私に対する接し方で、なんとなく、ああそんな感じの自分だったのかな、と少しずつ分かってはきたが。

ま、それでも結局、思いのほか楽しんで過ごすことができた。
幹事さん、ご苦労様でした。


ああ、でもそれなりにたいへんだったけれど、
あきらめかけたこともあったけれど、私は、私の道を歩んで来れてよかった。
そう思う一夜でした。


PS
みんな、身体を大事にしてください。

 

2007.8.27

秋だね・・・・
あれ? っていうくらい急に、空気中に秋の気配が入り込んできた。
夜になると、十分に涼しい。眠りごろな気温だ。
北海道は、お盆過ぎると、やはり急に涼しくなるのは今も変わらないのだねえ。

もちろんまだ日中は30度近いのだが、湿度も高くないし、さわやかな感じである。
こんな感じなら、多少気温が高くても、いましばらく夏の余韻を楽しんでいたいものだ。★



本屋さんは、私の人生で最も多く足を運んだお店だろう。
街に出ても、時間があれば書店をぶらつくことがほとんどだ。

今ではもうそんなこともないが、30代半ばくらいまでは本屋に並んでいるあまたの本は、
宝石のようにきらきらと輝いて見えたものだ。
そのなかには、いまだ知らない希望と英知があると信じていた。
実際、私の場合、人生で迷った時に救いを求めたのは多くの場合、書物だった。

そんな私が、この仕事を通してモノの波動や気の質がある程度、識別できるようになって、
過去に読んできた本を振り返ってみた。

すると、その多くが実は「救いや開け」ではなく、「迷いや苦しみ」を深めるような波動を放っていたことが分かった。
なるほど、そうでしたか・・・。苦労したわけだよねえ〜(泣)


本との出会いは、人との出会いにも似ている。
波長同通の法則により、自分の水平的な知識や理解力、
自身の放っている波動と大差ない(少しはましかもしれないが)似通った波動の本に惹かれることが多いのだ。

不思議なことに、人は、救いとなる本が目の前にあっても、
わざわざ隣に置いてある迷いを深めるような本を、そうとは知らず手に取るのである。
そんな本を幾冊読んだところで、苦しい落ち込んだ状態から本当に浮上するのはなかなか難しいだろう。


このような状態を打破し、真に活かされる書物との出会いを結ぶ方法は、
「心に正直に」、「私らしく生きる」、そして、「徳を積む」ことと、「正しい信仰を持つ」ことである。
この善なるカルマにより、波長同通の法則を超えて垂直的な恩寵がもたらされるのである。

・・・そして、良書があなたのもとにやってくる。

 

2007.9.8

香功練功日記風
なんとまあ、明日は「第4回香功全国大会」が千葉県市川市において開催されるという話だ。
そうですか。いやあ、東京にいたら参加してたのに。残念。

詳細は、こちら。 http://www.qigong-nakazato.com/0708/index.html


香功の実践者は、全国で地味に増えているそうである。
ア、そうなんだ。よかったねえ。
私は、香功は大切な気功だと思っているので、実践者が増えて、スタンダードとして残ってゆくことを望む。★



香功の初級功で、
予備式(開合) の次に、第一節の金龍擺尾(きんりゅうはいび)が来るのを実践者なら、当然知っている。
しかし、これは実は、第一節が(開合+金龍擺尾)なのだ。

第三節の仏塔飄香(ぶっとうひょうこう) において、まず5回開合してから、次の動作に入るのと同じである。


ちなみに、波動的には、こうなる。

★第一節(開合+金龍擺尾)★  ←この文字列に情報を入力したので、ここを見ていると初級の第一節の効果が身体に作用します。



これに対して、開合なしの波動。

★第一節 金龍擺尾★



どうであろうか。この違いが分かるであろうか。
分かる方は、けっこう「気」に対する感受性が敏感な方です。


第三節の「仏塔飄香」において、
なんでまた最初に準備動作でやった開合が
再度ここで出てくるんだろう、無駄?
と疑問に思った人もいるでしょう。・・・私だけですかね。

何かの間違いか?、うっかりか?
しかし、これは間違いではなく、開合に続いて、八の字を描かないと効果がでないからなのです。

実に良くできているよねえ。

 

2007.9.18

香功練功日記風
全世界、4000万、香功愛好者の皆さん、お元気ですか。

・・だそうである。「4000万」、て、どうやって数えたのか分かりませんが、(笑)
とにかく、香功の新刊本が出たのである。
その帯に、堂々4000万人と書いてあるのである。


内容は、絶版になっていた本とほぼ同じような感じである。

ただ、香功の思想的背景とか、中国での現在までの状況とか、
田老師がすでに千の風になっていることや、高級功のことなどに触れられていないのは、
正確な情報を知りたがりの私としては、いかがなものかと思わないでもないが、
ま、高齢者対策香功としては、別にそんなこた、どうでも良子さんなのかもしれない。

要は、必要最小限の注意事項とモチベーションの上がる効果の説明があればよいというところか。


しかし、やはり本だけでは正確な動きはよく分からない。
特に中級功は難しいねえ。
それでも注意事項などは参考になるので、今まで手に入らなかった方は、
これを機会に購入してみるとよいだろう。


『からだに優しい かんたん気功  香功』  仲里誠毅著  荒地出版社  

 

2007.9.29

整体波動リーディング療法
という呼び名であった。
町田で『ナチュラルセラピー祥』をやっていた頃は。
文字通り、身体の気や波動から情報を読み取り、その情報に基づいての整体、ということだ。

身体の声を聴く、「リーディング」ということは、はじめに学んだ仙骨の治療から今に至るまで、
常に私の治療の根幹にある。それは、おそらくこれからも変わることはないだろう。
リーディングの精度を上げることについては、今も日々研鑽を積んでいる。


リーディング能力がなければ、いつまでも人の作った治療や理論に従うだけだったかもしれない。
世にあるいくつもの治療理論に対し、どう折り合いをつけていけばいいのか、混乱していただろう。
何かしらの疑問を抱きながら、大小の不安を覚えながらの臨床を続けていたかもしれない。
治療の効果も、安全性も、基本的には、はじめはただ言われるままに信じるしかないのだ。


私にとって、「治る、治らない」、「快か、不快か」、その程度の大ざっぱな判断基準は役に立たない。
治療によって、
症状は治っていても、身体が壊れていることがある。
とても心地よくても、身体が壊れていることがある。
対称性が整っていても、身体が壊れていることがある。
心が明るくなっても、身体が壊れていることがある。
その手法できれいに整えても、身体が壊れていることがある。

この辺のことが見抜けなくてはならないのだ。

私は、人の生命をあずかるものとして、
自分で安全性の確認の取れない理論や手法に信を置くことに不安を感じる。
だから、なんとしてもそれが分かる能力を開発する必要があった。

リーディングは、身体性の開発と認識の拡がりにより、深まる。
そして、それに比例して、治療効果も高まる。
うちの治療が、よくヴァージョンアップするのはそういうことだ。

ある時、ふいにそれまで見えなかったものが見え、知覚される。
知覚されたものは、治療の範囲に入るようになる。
(施療者にはっきりと知覚されない部分に治癒力が及ばないわけではないが、「切れ」は相当劣る。)


私の治療は、リーディングの深まりとともにある。
手技療法家としての身体性に劣る私にとって、その成長は、本当にヨチヨチ歩きから始まった。
誰から教わっても、鈍い私にはまるでできなかったのである。
最終的に、人から方法を教わることを諦めた。自分で考え、観察して、自分でできる方法を編み出していった。

今では、まあ、万能ではもちろんないけれども、
それは私に、治療においての安心と信頼、そして指針を与えてくれる、なくてはならないものである。

『ナチュラルセラピー祥』の治療は、本質的に「リーディング・セラピー」である。

 

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