さち通信U〜ときたま更新。 |
☆ちなみに、「さち通信」とは、『ナチュラルセラピー祥』の月いち会報のこと。
2008年3月〜2008年9月
2008.3.10
やっとこ、雪どけ模様。
ここんとこ、札幌は気温が高まり、雪が溶け始めています。
春の気配ですなあ。
といっても、まだ最高気温は、5度くらい。気温だけなら東京ではまだ真冬状態ですな。
しかし、雪が溶ければこちらはもう春ってな感じで、急に薄着になるから不思議です。
「え、それって、でも、寒くないの?!」と、道行く人に突っ込みを入れたくなるような格好の人が多いのですねえ。
そのような光景にも大分、慣れましたけどもねえ、つい突っ込んでしまう。
しかしあれですな。陽が燦々と射すと、それだけでなんかうきうきっとしてくる。
ああ、なんとか冬を乗り切れた安堵感、のようなものが自然と湧いてくるんですねえ。
そんな今日この頃、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
★
気功はですねえ。
ここのところは、「小周天」を再考しておりました。
身体の正中面を流れる任脈(腹側)と督脈(背側)の流れが、一つの循環ルートとなることを『小周天』と云います。
ま、私の小周天は、まあ私流の勝手なそれでして、一般的な教科書的なものとは多分大分異なります。
ちなみに、
下の文字列に私の小周天の気を封入しておきますので、
興味のある人は、この文字列にちょっと軽く意識を集中してみてください。
うまくいけば、身体の正中にそって流れる気を感じられるやもしれません。
★順行(後ろから前)・小周天★
★逆行(前から後ろ)・小周天★
私の場合、
「要は、任脈と督脈がつながればいいのよね」という観点からのみでやっており、ごく自然なものです。
というのも、小周天で有名な古い中国人の方の写真を拝見したことがあるのですが、
どうも私のやり方で診ると、あまり健康的とは思えなかったのですなあ。
ま、ご本人はそれで病気や虚弱体質を克服されたと書かれてはあるのですが・・。
で、無理のない形でと、自分なりに取り組んだわけです。
任脈も督脈も、身体の体表近くを流れるルートもあれば、身体の奥深くを流れるルートもあります。
特に重要なのは、脳内を流れるルートなのですが、これが結構難しいんだよねえ。
頭部や脳中を走る経絡は、頭蓋骨や脳の歪みに応じてその軌道が影響を受けます。
それゆえ、流れが凍った川のようになって詰まり、ほぼ分断されているようなところがかなりある。
この川の詰まりを溶解して、流れを回復してゆく作業が、これまた大変なのだ。
そうだねえ。
あたかも、「青の洞門」のように岩盤をのみでコツコツと掘り進んで、トンネルを掘るような気分かなあ。
実は、この詰まりは、単なる脳や頭蓋の歪みではなく、いわゆるカルマという問題も含んでいる。
みんなね。驚くよ。
この脳の中にどれだけ過去生のカルマが反映されているかを知ったら。
私などは、人間の脳は、人間の諸機能を司り、開発されるのを待つ潜在能力の眠る宝庫というよりも、
過去生のカルマを正確に諸体に反映する機能こそが、その主な役割ではないかと思っています。
自分の身体と脳内の経絡のありさまをみるにつけ、あらゆる古の教えが、
負のカルマを積まない正しい生き方を奨励しているのが何故なのか、分かろうというものだ。
健康、才能、思考、感情、想念、霊的進化が、カルマにより非常に大きな影響を被るのである。
2008.3.28
香功練功日記風
最近、香功の初級と中級の動画を二つほど見つけた。
二作品とも、女性気功師?であった。
ひとつは、まあまあこんなものかいなという感じ。
もうひとつは、これはやばい。(笑)
関西方面のおばちゃんとおねえちゃん(のように私には見えなくもない)が(失礼)
綺麗な?服着て、三人で舞うという感じである。
これはまずいだろうという動きが随所に散見され、あれこれとつっこむ楽しさはあるが、
こんなに大ざっぱでいいのかいな、と微妙な気分にさせられる動画であった。
それで、自分の動きとあらためて比べてみたのだが、
やはり、初級はさほど変わりはないが、中級に関してはけっこう異なっている。
前腕の高さや開き方、手と足の左右の組み合わせ、手首の使い方や、上体の使い方など、
ぱっと見には、あまり大きな差には見えないだろうが、体への作用の仕方が全く異なるものになる。
中級って、けっこう上級なのよねえ。
★
最近、施療の方では、「前硬膜帯」の評価、調整がずいぶんと進展した。
前硬膜帯は、簡単にいうと、前頭葉と側頭葉を分けている膜だが、
蝶形骨の小翼突起に強く付着しているため、頭蓋の調整にとっては重要な1ファクターである。
ところが、私自身の前硬膜体の歪みが残っていたため、リーディングで正確に評価することが、
今までできていなかったことが判明。
前硬膜帯を支配しているチャクラを覚醒してはじめて、正確な前硬膜帯の状態を把握できるようになった。
同様に、サザーランド支点に存在するチャクラを覚醒してはじめて、
大脳鎌、小脳鎌、小脳テントの状態が正確に分かるようになった。
このようなことは、ままあることである。
自分自身のその部位にゆがみがあると、クライアントの同部位の状態を正確に読み取れないのである。
気を読み、扱う治療は、単に物理的刺激や圧力を加える治療よりも、
より正確で高度ではあるが、しかし、施術者の身体や心の状態に大きく依存してくる。
このへん、むずかしいねえ。
施術者が、自分の身体のそこかしこにゆがみを抱えている状態だと、
施療中のクライアントから受け取る感覚情報にそれなりの誤差が生じてくるわけだ。
当然、結果にもそれが反映してくる。
施術者は、治療技術を高める努力をする一方、自分自身の身体を治してゆく必要がある。
2008.4.14
太極拳と書道と・・
私には、時折訪れる衝動がある。
それは、太極拳と書道と、密教系の修行のようなこと?がやりたくなるのだ。
太極拳をちゃんと学んだことは一度もないが、
どこからともなくその風が吹くと、ぐいっとそちらに引っ張られる。
例えば、ネットでそれ系のサイトを検索したり、見たりする。または本屋さんで、立ち読みする。
しかし、何度確認しても今の私には必要がないことが分かっているし、それに費やす時間もない。
頭でそう理解して、風が過ぎ去ると、また落ち着きを取り戻す。
私が時間を費やすなら、今は気功の方が有益なのだ。
武道でいうと、実は、「杖道」をやってみたいという衝動も時々襲ってくる。
町田にいた頃に、その衝動にも意味があろうかと、一度見学に出かけたこともある。
しかし、やはり諸々の理由で無理であった。
にもかかわらず、いまだに本屋で見かけると手にとってしまうことがある。
書道もそうだ。
中学校以来、筆をもったこともないが、なぜかやってみたいという衝動だけが存在する。
しかし、準備やあれやこれやのことを冷静に考えてみると、今それを乗り越えてまで
やりたいとは思わないし、たとえはじめたとしても、すぐに面倒くさくなってしまう可能性大であろう。
で、その衝動を中和する?ために、
最近、「とめはねっ!(河合 克敏著)」という高校書道部を舞台にしたマンガを読んでいる。
不思議だが、どうも中和されているように思う。
たまにブームがやってくるのは、密教系の修行だ。
まあ、マントラを唱えたり、印を組んだり、それに、法具かな。
例えば、金剛杵は、独鈷、五鈷、七鈷、九鈷と所持しており、とっくに一時のブームは去ったのだが、
それでも、時折、造形の美しい金剛杵はないかと、サイトを見ていることがある。
マントラを唱えたり、祝詞を唱えたりという衝動は、仕事上必要なこともあり、
それなりに満足させているのであるが、そう一般的な欲求とはいえまい。
おそらくは、こういう衝動は過去世と関係があるのだろうが、
こうしてみると、我ながら、何か「修行系」が好きな人間なのだと思わずにはいられない。
こう、「型から入って、さらにその型を乗り越えてゆきたい」、みたいなフィーリングがある。
それがときに、心にゆらゆらと立ち上がってくるのである。
ところが、この稼業に入って、修行系にはつきもののある程度の苦痛に耐える、
身体が悲鳴をあげているのを承知で負荷に耐えるということが心身ともにできなくなった。
これでは、他人がこしらえた修行体系やトレーニング体系に合わせて、
他人に混じって修練することは中々難しい。
やるなら、マイペースでできるものしかないわけである。
まあ、いつか時間が取れたら、太極拳も書道も杖道も親しんでみることもあろう。
それまで、私の内側の衝動の発振元よ、待っててくださいな。
2008.4.20
心臓の二つのリング
心臓部には、いくつものチャクラが存在する。
私が認識しているチャクラは、今のところ以下の7つである。
・・・・・・・
・・・・・・・
という書き出しでノリノリではじめた今回のお話であるが、途中まで書いて、
これは公開しても良いものなのかどうか不安になった。
なんかこう、引く感じというか、賛成されていない感じというか、
ゾクッと来る、ちょっと怖い感じがあるんだよねえ。
これはマズイのかも。
なので、止めます。スミマセン。m(__)m
しかし、ここのところ、頭の中にあったのはこれのことだったので、
概略だけでも記しておきます。
『心臓には、複数のチャクラと固有のナーディーのネットワークがあって、
それは、「心臓の叡智」ともいうべきものを作りだしている。
これに呼応するものが脳内にもあり、この二つの共鳴場において、
「身体知性、身体の叡智」というものが立ち顕れる・・。』
というようなことであった。
これくらいなら大丈夫のようである。
ではでは。
2008.4.30
私の立ち位置
本来、歪みや症状は、自然治癒力の理由ある表現である。
病気は、システムが壊れているというよりは、生体システムの修復機能が働き、
それなりのバランスをとっている状態、あるいは負のエネルギーを解放している状態である。
そのため、普通、病気や症状を治療すると、その正常な自律的生体システムに介入することになり、
ほとんどの場合において、その治療による反作用が脳、心臓中枢に顕れる。
なぜか。心臓や脳がその症状の表現を望んでいるからである。
身体の叡智は、病気でいることを望む。
人間の知性は、病気は悪である、滅すべしと望む。
私は、身体の叡智に従うことが正解であると考える。
病気は治すべきものではない。
それそのものが、すでに治ろうとする動きであるから。
私の立ち位置は、身体の叡智の邪魔をせず、そのプロセスに寄り添うようにいることである。
私の治療は、そこから始まる。
そうして、
どうしたら、反作用のない働きかけができるのだろうか。
どうしたら、病気という表現を速やかに経過させることができるだろうか。
どうしたら、その意志を読み取れるのだろうか。
どうしたら、私に流れ込む母と父の歪みを解放できるだろうか。
どうしたら、私のカルマとトラウマを解放できるだろうか。
どうしたら、高いレベルで、組織の再生を可能にできるだろうか。
どうしたら、身体の叡智の、その本来の力を顕現できるだろうか。
これらの疑問に対しての現在の答が、今の私の提供している治療である。
2008.5.13
また、来ました。(泣)
来ましたね。好転反応。ここ数日、とても痛いです。
「前硬膜帯」。
上でも書きましたが、それを支配する4つのチャクラを覚醒しましたところ、
特に、左の小脳テントとの交接部のチャクラがビンゴ。
そのチャクラ周辺の歪みの解放とともに、チャクラからも邪気が放出され、
ほぼ同時に、腰椎1、2番、胸椎12〜10番までの脊髄神経が急激に病みだした。
調べると、ガンの波動が出ています。
まあ、痛み方としては分かりやすく言うと、「ギックリ背中」という感じですかね。
最初は、動きは、そ〜っとしか動けず、高齢のおじいさんのようでした。
「またやっちゃったのか、オレ?」と、数年前のあまりの痛みに泣きを入れた好転反応を思い出し、
痛みがどこまでひどくなるかと、どきどきしていました。
さっちゃんも、前回の大変な好転反応の介護のつらさがトラウマになっていて、
「もうあれは嫌。怒るよ・・」と言われてしまいました。
そんなこと言っても・・。(>_<)
しかし、まあ、邪気の解放は喜ばしいことで。
解放されれば、それだけリーディングと施療の精度は上がります。
興味深いのは、脳の中にこのような邪気が閉じ込められているということです。
どうやら妊娠の初期に母親の邪気をその部位に巻き込んでしまったのが原因のようです。
さらに、そのチャクラの解放と同時に、特定の脊髄神経が病み出したのもおもしろい。
潜在的には、ずっとその部位に悪影響を与えてきたと推測されますが、
ということは、体の痛みや症状の中には、その部分の直接の問題というよりも、
このような脳の歪みや邪気の解放によって出現しているものがあるということですな。
ま、私の考えでは、多くの慢性的な症状は、基本的には、これだと思っています。
それを迂闊に治療することで、身体の自然な毒出しに反することになる。
それゆえ、治療による反作用で脳や心臓が傷害を負う。
しかし、今回は、自己治療によって痛みの経過が進むので、少しホッとしました。
前の時は、いくらやっても、「出すものは徹底的に出します」ってな感じで鎮痛には全く効果がなかったものねえ。
痛みの位置も今は、胸椎の10、11番の周囲に限定されて来ました。
これくらいなら、あと一週間もすれば、回復するでしょう。多分。
2008.5.31
川畠成道、ヴァイオリンリサイタル
先の好転反応による背中の痛みも軽快し、復活いたしました。
やれやれです。
さて、先日は、川畠成道(かわばた なりみち)くんのヴァイオリンリサイタルに行ってきました。
もうかれこれ、3回目になりますかね。
いやあ、彼は良いです。
私は、ホントはクラシックなどは、とんと理解できないのですが、
まずはただ波動だけを調べて、良ければそれから聴いてみるという感じです。
リサイタル。
演奏中は、ずっとアナハタ・チャクラに響くヴァイオリンが心地よかったですね。
ピアノのダニエル・ベン・ピエナールの演奏も柔らかなタッチで素晴らしかった。
なんというか、技巧的なことも十分すごいのでしょうが、
私は、曲目というよりも、純粋、誠実、優しさ、清らかさ、繊細な強さ、
といった川畠くんの放つ波動の方をより強く感じていました。
木漏れ陽の清流のそばで音楽を聞いているような、
透明な球体のなかで碧い海に揺られているような気分。
ああ、自分が母親だったら、自分の息子にはこういう感じに育ってほしいと思うだろうなあ。
音楽は、その演奏者の気や波動が音に乗ります。
一流(と評価されている)のシェフの作る邪気たっぷりの料理があるように、
素晴らしい(と評価されている)演奏者の巧みな邪気に満ちた演奏曲もあるのです。
その点では、彼はクラシックでは世界でもトップクラスの良質の気を放っていると思います。
(ま、所詮、私は素人。世界のクラシックに精通しているわけではない人間の発言ですが。)
しかしながら、人間生きていると波風があります。
そうしたなかで、長年月、安定した高い波動を保ち続けるのはなかなかに難しいものです。
ファンとして、川畠くんの末永い活躍と更なる発展を願っています。
さて、現在までに8枚のCDリリースがありますが、どのCDもアナハタ以上の波動です。
私のお薦めは、デビューアルバム「歌の翼に」と2ndアルバム「アヴェ・マリア」です。
この2枚は、ヴィシュダーチャクラの波動で、超ブラボーです。
2008.6.16
足の裏の感覚
こどものころから、札幌の6月は好きな季節である。
暑くもなく、寒くもなく、おだやかな日差しと、風が吹くとちょっと肌寒いくらいなのが心地いい。
ここのところ、ふと気づくと、足の裏の感覚がやけにはっきりしている。
敏感になっている。
足の裏から入ってくる情報、床とかじゅうたんとかの触感が豊かに感じられる。
鮮烈で、気持ちがいいのだ。
これは以前は、感じられていなかったことだ。
多分、麻痺していた感覚が戻ってきたのだろう。
不思議なことだが、麻痺している時は、麻痺していること自体に気づくことができない。
ま、もっとも完全に麻痺していたらそれはさすがに気づくのかもしれないが。
厚い皮をかぶっているかのように、覆われている時は分からないのだが、
それが外れた時には、鮮明な違いが感じられる。
外れて初めて、ああ、こんなに麻痺していたのだなと気づく。
私の身体には、そういうところがかなりあった。
身体感覚の麻痺もしくは鈍麻領域は、
おそらく、精神の感受性にも大きな影響を与えているのではないかと思う。
うちにそれなりの期間通ってくださっている多くの方は、
施療によって、心にも変化が生じていることを確認している。
変化といっても、人格が変わるといった大きなものではないが、以前の自分よりも
心が安定している、感受性や直観がするどくなっている、
自他への認識力・理解力が上がっている、などである。
これなどは、身体の大小の停滞支点の解消、チャクラの固着の解放と決して無関係ではないだろう。
身体の麻痺領域、停滞領域が回復すると同時に、心身の感受性も回復してくるのである。
病気の場合、もしそれが原因のひとつであるならば、
その人の思考や価値観、それに伴う行為自体を自然の「法則」に則ったものに修正する必要がある。
若い頃はよく、身体を治すのと同時に、考え方も見直してほしいと話していたと思う。
だが、現在の施療の形がはっきりするにつれ、そのことにはそれほどこだわらなくなってきている。
たとえ、身口意が自然の法に反していても、それゆえ限界が来て病気になっていたとしても、
まがりなりにも、それで今まで生き延びては、来たのである。
実際、それを示して、変えることを示唆、要請しても、
拒絶、もしくは、分かっちゃいるけどやめられないという人がほとんどであった。
人の心や行為が、法則にかなったものにならなければ、
治癒することが難しくなったり、何度でも病への道を辿る危険があるというのは真実である。
私は、必要な軌道修正をできる限り言葉ではなく、
身体を通して意識に自然な変化を呼び起こすことで成し遂げようとしている。
ま、大きな気づきを得て変わってゆく人もいるし、
少しずつ、自分と向き合いながら、時間をかけて変化を遂げる人もいる。
魂の呼びかけを受けていながら、なんとかして自分を欺き続けようという人もいる。
そこら辺は、本人のカルマということで、時期が訪れるまで見守るしかないのだが・・。
2008.7.6
夏だ、柿ピーがウマい。
私は、一日の施療が終り、ちょっと疲れやストレスを感じているときだけ、缶ビールを1本飲む。
銘柄は、よく覚えてはいないが、
自然食品のお店で見つけたオーガニックの、リーディングでも合格したものだ。
その際、グラスに注いだビールを、
私の施療に関わってくださった多くの方たちへの感謝を意を込めて捧げものとする。
そうして、さっさと飲みたい気持ちを抑えつつ、1分ほどじっと祝福が終わるのを待つ。
そして、「いだだきます。」と言ってから、一口やり、
のど越しを味わってから「ぷうわは〜!」とわざとらしくあえて言います。
それを見ているさっちゃんは何も言いません。(笑)
で、おつまみに登場するのは、柿ピーです。
これまた、コンビニやスーパーなどで手に入るものでは、湿疹が出たり、胸やけになるので、
苦心して通販で探して見つけた高波動「柿の種」と「ピーナッツ」とを別々に取り寄せ、我が家で合体させます。
また、これがウマい。苦労した甲斐があるというものっす。
で、わかったのだが、北海道って、ピーナッツ食べる習慣あまりないのだね。
ま、節分には、鬼を祓うのに、煎り大豆ではなく、落花生をばら撒くくらいかな。
町田にいた頃は、名産の秦野が近かったので、良質なものが百貨店で簡単に手に入った。
ところが、札幌市内の百貨店ではまったく見かけない。
自然食品のお店でさえ、中国産のがひっそりと置いてあるだけであった。
このたび、2年ぶりに通販で柿の種と秦野のピーナッツが入手でき、柿ピーが復活した。
・・・ささやかな楽しみだなあ。でも幸せ。
2008.7.23
ここのところの風景
風景とはいっても、私の心のこと、である。
いつものように施療と研究の日々なのである。
そして、研究は進展はしているのだが、少しゲンナリもしている。
病気の原因をできる限り遡っていく試みは、大分、果されようとしている、のではなかろうか。
生活習慣の歪みというのは、今回のお話では無しである。
やや極論になるが、不自然で無茶な生活が長期間続いたこと、
それだけが原因で病気になるということは、実際にはそうないだろう。
私の関心は、それ以前の要素の方にある。つまり、身体が生来もつ内因の方だ。
個々人が元々もっている身体の歪みの方が、生活習慣よりも私は上位にあると考える。
仙骨からはじまり、上部頚椎だの、蝶形骨だの、頭蓋仙骨系だの、経絡だの、チャクラだの。
まあ、いろいろと身体を診る視点の変遷はありましたね。
で、現在私の日々の臨床でとらえている風景は、
「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」でいうところの第一次呼吸のタイド、潮流である。
この舞台には、仙骨も頚椎も蝶形骨も経絡もチャクラもある。フォルムのない身体もある。
タイドに現れる停滞支点を観察すると、徐々に身体の内側から表面化してきたものが、
施療のたびに、ひとつ、またひとつと固有トリートメントプランに従って消えてゆく。
チャクラに目を移すと、施療のたびに、負のエネルギーが表面化し、
関連する身体箇所に歪みの渦を生み出しているのが見て取れる。
チャクラの自浄作用が働いているのだ。
「身体は、浄化の場である」と、私は感じる。
これらの歪みのエネルギーは、一体どこから湧いてくるのか。
湧いては、消えてゆく。
というのは施療という介入があるからだが、もし適切な介入がなければ、
これらは、ほどなく身体や精神の歪みとして現れるものである。
つまり、症状として自覚されるものとなる。
このような歪みや邪気の解放現象、これこそが多くの病気の本質ではないかと思っている。
湧き出る歪みのエネルギーは、微細エネルギー身体やチャクラ、脳などから来る。
最上位からは、自分の過去世のカルマの負のエネルギーが下降してくる。
さらに、両親からの負の情報エネルギーが、受精の瞬間からセッティングされる。
引き続き、胎児期、出産時、乳幼児期と子どもの試練は続き、
直接、間接に、親から受けるトラウマの累積は目を覆うばかりとなる。
この辺でもう自分自身の才能、性格、心身の傾向性などはほぼ決まってしまう。
人が死に至るときにかかる病は、すでに誕生と同時に決まっているといっても過言ではない。
その種は、受精の瞬間にはもうセットされているのだ。
この種が展開し、ある人は、数十年を経て、またある人は数年でその症状、病気になる。
親は、肉体生命も与えるが、また同時に死に至る病の種も与えることになる。
身体という場を通して、そのプロセスを経過させることで、負のエネルギーを解放する。
病気という形で表現させることで、歪みのエネルギーが解放される。
私が現在、ゲンナリしているのは、両親からの負の情報伝達によって生じた脳の歪みである。
受精の瞬間に、両親の精子と卵子に含まれる親のそれまでの人生の情報(トラウマなども含んでいる)
がもたらされるのだが、そのうちの負の情報の脳神経系への打撃、刻印である。
それは、あまりにも多く、かつ恐ろしいほどに決定的なパワーである。
何が恐ろしいというのか。
脳に生じた歪みというのは、その自衛システムから必ず出口を見出し、そこを通してそのエネルギーを解放しようとする。
体幹部に生じた停滞支点を辿ってゆくと、脳の特定部位にその起源を見い出すことが出来る。
そして、一旦体幹部に解放口を設置されると、元の脳の方の歪みは影に隠れてしまい容易にとらえがたくなる。
このようなすでに外部に出口を見いだした脳内の隠れた停滞支点に対しては、
どうもそのエネルギーのレベルが低下したためか、
「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」の施療において、身体の叡智の固有トリートメントプランにのっかってこない。
緊急性がないためであろうか、優先順位が下がっているのだ。
しかし、実際には当初、外部に解放しなければならないほど脳にとっては大きなダメージだったのであり、
エネルギーレベルではある程度の均衡はとれているとはいえ、問題が解決したわけではまったくない。
しかし、とりあえず生命に支障がなければ、身体の叡智はそこ、つまり脳の障害部位に治癒エネルギーを投入しないのだ。
そのため、開口部において、徐々に徐々に歪みは拡がり続ける。
単に自然治癒力の低下が、病気の原因なのではない。
身体の中には、明らかに歪もうとする、病態になろうとする、強いエネルギーの渦がいくつも存在している。
それで、身体という自然は、「問題ない、OK。」と判断しているのである。
えい、もう、身体の叡智は頼りになるのか、ならないのかどっちだあああ!と叫びたくなる。
この話を聞けば、私が多くの治療法に関してどう考えているか分かろうというものだ。
「その症状、治しちゃって、ホントに良いの?」
その答は、蝶形骨と前硬膜帯に着目すると見えてくる。
その治療の後に、蝶形骨と前硬膜帯に歪みが現れていなければ上手くいっている。
なぜなら、もともと人間による治療行為を受けていない素に近い身体は、
上述の脳を守るプログラムが働いて、前硬膜帯付近の歪みはそう大きくなることはないからである。
反対に、骨盤と下顎でバランスをとっているため、骨盤と下顎の歪みは大きくなっている。
これが、自然なバランスというものだ。
もし、その治療の後に、蝶形骨と前硬膜帯に、はじめにはなかった歪みが現れているならば、・・・。
そして、ふと骨盤を見ると、きれいに整っているならば、・・・。
私は、このような治療法をすべてひとくくりに「対症療法」と呼んでいる・・・。
まあ、自分の過去世のカルマのせいなら仕方ないかな、とも思えるが、
自分の人生において、能力、性格、健康、運勢、
これらのほとんどの苦しみが、両親からもらった強力な負の情報に起源があるのだと分かったら、
おそらく、ゲンナリするのは私だけではあるまい。
というか、こんなことは知りたくない、と思う人もたくさんいるだろう。
親自身もそれを意図していたわけでもないし、
父と母からどれだけ負の遺産を引き継いだとしても、結局、自分の力で支えて生きていくしかないのだから。
ま、ここのところは、そこらへんに取り組んでいるわけであります。
2008.8.12
いやあ、涼しいっす。
猛暑の続いている地域にお住まいのうちの新旧のクライアントさんと、
たまにここを読みに来てくださっている皆さん、残暑お見舞い申し上げます。
全国的に暑さ、大変なことになってますね。
ところが私の住む札幌の方は、今年の夏は涼しいんですねえ。
もしかしたら、冷夏なのか?と思うほどです。
8月に入ったら、ぐんぐん行くのか?と思ったら、もう失速して秋へと向かい始めました。
今日当たりは、30度近いですが、乾燥しているので楽なものです。
快適。とはいえ、ちょいと、物足りない感はありますねえ。
風は澄み、空は高い。
★
さて、前回お話しました、ここのところ取り組んでいた「受精時に親から伝わる負の情報」の問題は、
おかげさまで、とりあえず現時点での解決をみました。
試験段階を経て、さっそく臨床に適用しています。経過を観察しているところです。
ま、良い感触を得ていますので、大丈夫でしょう。
また、「感情麻痺」と、それが進行した「感覚麻痺」に対するアプローチも進展しました。
アストラル体を見渡すと、フォルムの中、もしくはオーラの層に、閉じた空間を見出すことがあります。
この中には、マイナスの感情のエネルギーが封印されています。
ある時期に感じた、辛い感情を回避するために抑圧したエネルギーです。
この記憶に関して、本人は容易にアクセスすることができません。
ま、実際、そのために作り出した回避システムなのです。
例えば、頭、前腕、腰、首などの領域にそれがあります。
なんで、そこに?と、その閉じた空間の現れる部位には個人差があります。
それは、他の領域とは隔絶した状態で、ほとんどエネルギーに動きがありません。
また、オーラにある場合は、身体の特定の部分の周囲に重い雲のように滞留しています。
いづれも、負のエネルギーであり、その部位や接する部位の生命エネルギーに影響を与えています。
時間の経過が進むと、エーテル体レベルでは、実際に感覚の鈍麻が生じてきます。
この閉じた空間を解放すると、中にあったエネルギーは、チャクラを経て体外へ排出されます。
同時に、アストラル体とエーテル体の再構成が行なわれ、徐々に麻痺が解消してきます。
そして、それまで浮かんでこなかった関連記憶を思い出すことも多いです。
う〜む、こういう問題も「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス」の枠組みで、
一次呼吸の正常化のみによって自動的に解消されてこないものなのか、ちょっと考えますね。
治療は、できる限りシンプルに、介入を最小にしたいので。
ではでは。
2008.8.19
天の気、地の気、火の元素
ここのところ、香功は寝かせているのだが、気功的な修行がなされていないということではない。
実際、クラニアルセラピーの毎回の施療そのものが、気功的でもある。
私の身体のチャクラや経絡や丹田が総動員されているのであるから。
さて、最近、気づいたのだが、
天の気を受けるのは、頭頂の百会穴。
地の気を受けるのは、会陰穴とばかり思っていた。
ま、天と地のはるかな遠方からやってきて中心線を上下する気もあるのだが、
それはまた経穴を介さないのであるから別の話である。
で、百会ではなく、いわゆる「旋毛(つむじ)」である。ここから、天の気が入ってくる。
そして、脳を通り、「口蓋垂(のどちんこ)」へ至り、全身へと下降してゆく。
また、地の気は、「会陰穴」から入り、尾骨の先端付近の「長強穴」に至り、
全身へとかけ上り、細胞組織を満たしてゆく。
こういう流れもあるのだねえ。
そう、これも、ふと気づいたのだが、
一人施療を終わると、ごっそりとピッタ・ドーシャ、火の元素が大量に消費されていることが分かった。
マニプーラ・チャクラがフル回転して、施療後に火の元素を補っている。
他のドーシャは、ピッタほど消費されていない。
ヒーリングには、火のエネルギーが必要なのだ。
これは、うっかりすると恐いことである。
病んだ人へのヒーリングは、大量の邪気を受けることはもちろんだが、
やはり、自分の生命エネルギーが使用、放出されるのだ。
私とて、短時間でも、ある程度までプラーナは補充できるが、限度がある。
無理をすると、「これは命を削っている・・、まずい」という感じが出てきて、ちょっと恐くなる。
それもあって、私は治療者を志望している人には、まず身体を作るように勧めているのだ。
気功や太極拳などで、ある程度の火のエネルギーを保持、管理できるようになる必要がある。
幸い、私のプラクリティは、肉体・エーテル体は、ピッタなので、
まあ、これだけは、治療者向きであったといえるのかもしれない。
2008.9.14
お気に入りのドラマ
まあ、たまにはこんな話も。
私から積極的にテレビの番組を見にいくことは、そうないのであるが、
私がずっとハマっているのは、「Dead Zone(デッド・ゾーン)」という海外ドラマ。
シーズン6まであります。
「スティーブン・キング」の原作であるが、ほとんどオカルトホラー的な要素のない、
私が見ていて、それなりに納得のできる展開になっている。
「触るだけで、すべてがわかる。過去も未来も・・」 というわけで、ストーリーは、こんなです。
婚約者サラとの結婚を控えて幸福な日々を過ごす高校教師のジョニーは、ある日、交通事故に遭って昏睡状態に陥ってしまう。
それから6年。長い眠りから目覚めた時、彼を取り巻く世界は一変していた。
サラはすでに他の男と結婚してしまい、唯一の肉親であった母親は他界。
そしてジョニーの身には、触れた人間の過去や未来が“ヴィジョン”として体感できる未知の超能力が備わっていたのだ。
その不思議なパワーは、ジョニーを想像もしない数奇な運命へと導いていく…。
詳しくは、こちらを参照あれ。 http://www.paramount.jp/deadzone/
ジョニーの力は、「スーパー・サイコメトラー」ってな感じの超能力である。
「ヴィジョン」の描き方も唸らせるし、お話の展開も安っぽさがなく、丁寧に作られていて好感が持てる。
ジョニーのヴィジョンは、的確である。基本的に外れることがない。
人間の能力の不確実さ、ファジーな要素がない。
ま、能力が不安定だと、物語上、制約がでてきて困るからだろうが、
この精密機械のような精度は、実際の人間の能力としては、ありえないだろうね。
しかし、ジョニーは、自分でヴィジョンを選択することはできない。
誰かから、あるいは何かから、一方的に必要なヴィジョンを見せられるのである。
そして、今回も事件に巻き込まれてゆくのは、主人公の宿命。
私が面白いと思うのは、ジョニーが未来を予知した時である。
ふとしたことがきっかけで、友人、知人の事件や死のヴィジョンを偶然見ることになる。
そして、それを回避するために彼は、奔走をはじめる。
つまり、現在の状況に意図的に介入することで、未来の危機を回避しようとするわけだ。
「いいのか、ジョニー、人のカルマに介入しまくってるぞ!(爆)」
と、あまりにも迷いなく他者の死すべき運命に、介入しまくるので思わず突っ込まずにいられない。
何度も何度も、介入するのだが、そのたびに確認しても、最悪の未来のヴィジョンはなかなか変わらない。
「がんばれジョニー!」
しかし、私がもし同じように、他者の死のヴィジョンを見せられ、
回避できる可能性を理解できるのなら、基本的にはジョニーと同じ方向に行くだろう。
もっとも、介入はできうる限り少なくなるよう、私なりのやり方を模索するだろうが。
私は、ジョニーは、その人の運命に介入することを許されたがゆえに、ヴィジョンを見せられたと解釈する。
だから、その《無私》(ジョニーが代償を要求したことはもちろん一度もない)の
「他者のカルマ」への介入によって、ジョニーが負のカルマを積むことは、そうないだろう。
まあねえ、やはりドラマだから、ギリギリのところで危険が回避され、
本人も「ああホントに危なかったんだ、助かった、ありがとう。」と感謝してもらえるからいいけれども、
上手に介入して、うまく危機回避ができても、その危険度がちゃんと相手に認識されていないと、
感謝されるどころか、おせっかい呼ばわりされたり、迷惑な変人扱いされたりしかねないよねえ。
(ううむ、助けられた方がカルマを積みそうだ。)
それに、本人も危機を通して学ぶべきことが学べないので、
再度、同じ危機を呼び込むことになるかもしれないしねえ。
ま、よく深慮しなければならない要素があるとは思うが、
結局、今の自分の理解力と行動で出来ることを誠実にやるしかないのだねえ・・。
2008.9.19
感情解放のワザ。
「感情」というのは、やっかいである。
自分の喜怒哀楽が、過去に受けた他人の影響によって、過剰反応していることが多い。
私の「怒り」の感情は、本当に今現在の私の真実の怒りだろうか。
否、私の怒りは、過去の人間関係において築いてきた集大成としての「私」の怒りであり、
今のゼロから生じた、「新鮮な」怒りではない。
ほとんど多くは、過去の繰り返し、再生である。
それは、再生されるほどに過敏に反応するようになってゆく。
また、霊的憑依によっても、自分の感情が影響を受ける。
精神的に追い詰められている人の憑依を外すだけで、ずいぶんと気分が楽になることもある。
もっとも、憑依はあくまでも二次的なものであることが多いので、
本当の問題を解決しない限り、ほどなく再憑依されることになるが。
過去に受けた傷が大きいと、解離を起こし、感情麻痺で蚊が止まったほどしか感じないなんてこともある。
私がまだ、少年の頃は、感情が揺れ動かないハードボイルド(?)な感じが、
ストイックで、かっこいい、なんて思っていたこともある。
わざと、動揺しないように、感情をコントロールしたのだ。
そのころは、それがどんな結果をもたらすかなんて、分からなかった。
いつの間にやら、感情が鈍磨して、感覚がおかしくなっていった。
もう少し大人になると、今度は、「瞑想」が感情を浄化してくれると知る。
静かに、意識をアージュナーにおいて、心の内をただ見ている。
確かに、浄化が生じる。
が、けっこうな時間がかかる、根気のいる作業だ。
それに、今、つらい感情に振りまわされている時に、
ゆっくりと座って自分の内に向き合うのは、なかなかに困難なことだ。
この仕事で、「感情解放セッション」を提供しようと思ったのは、
私自身が、感情麻痺で、悩んだ経験があるからだ。
瞑想、フォーカシング、プロセス指向心理学、TFT、EFT、ヨーガ、気功、キネシオロジー、ホメオパシー
これらの経験が、現在の感情解放の技術の元になっている。
初期には、解放の際におもに経絡を使い、それから各身体とそのチャクラを診るようになった。
今では、肉体からメンタル体を見渡し、脳の歪みから経絡、チャクラの歪みまで、
広い範囲で関係するネガティブな感情を処理することが可能になっている。
たまに自分自身に適用すると、気分が、すっと楽になり、こだわりから解放されるのが分かる。
つまり、過去に色づけされた感情で、堂々めぐりをしていたわけだ。
それから、もう一度、その感情を新たに感じようとしてみても、前のようにリアルには感じられない。
暗い世界から、明るい世界にすっと引き上げられたような感じさえ受ける。
いやあ、我ながら効くなあ。☆
でも、やはり、感情解放セッションは疲れます。やっている間は、
ずっとそのネガティブな感情のエネルギーをトレースしているわけで。
通常の施療よりも、より邪気を受けますし、大量の「気」を投入します。
一日、二人が限度ですわ。
2008.9.24
ひとりの人間の力
クラシックコンサートに行ってきました。
今回は、「日本フィルハーモニー交響楽団」と、お気に入りの「川畠成道」くんの共演である。
一曲目は、「スメタナ」の「交響詩《モルダウ》」であった。
この曲は、日本フィルの演奏である。
その波動は、肉体のレベルのマニプラ・チャクラに響く。
不思議なことに、私の「臍(へそ)」のチャクラにもびんびん響いている。(マニプラではない)
これは?と思って、ちょっち調べてみると、
ああ、指揮者の「@@@」さんの臍チャクラが覚醒しているのである。
この方には、へその奥にまあるいエネルギーの球体があるのだ。
これが、どういう働きをしているのかは、よく分かりません。
私は、普通にしていると意識の焦点が、エーテル体以上にあることが多いので、
今回の日本フィルの演奏では、はじめ気感としては、さっぱり感じなかった。
そんで、肉体のレベルに焦点を移動してみると、
ううう、これはまるで気のストリームに打たれているようである。
ああ、これか。ここで演奏を感じなければいけないのだ。
しかし、まだ体感に優れない私にとっては、
この体にぶつかってくるストリームが、どういう意味なのかはイマイチ分からない。
結局、オーケストラは、指揮者の波動に支配されることが多い。
今回の指揮者は、邪気がなく、集中しても、安心して聞くことができた。
というのも、講演会などで、邪気の強い人や病気を持っている方の話を、
不用意に集中して共感して聴いていると、終わるころには、ぐったりと具合が悪くなっていることがある。
演者の心と体の状態に同調して、邪気の影響を受けているためだ。
また、基本的には指揮者の限界が、オーケストラの限界でもある。
今回は、演奏中の指揮者の意識の波動が、肉体のマニプラ・チャクラにあった。
オーケストラ演奏中は、2曲目以外、ずっとこの波動が続いた。
そして、2曲目。
この曲は、「メンデルスゾーン」の「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調」である。
日本フィルと、川畠成道くんのヴァイオリンである。
それは、すぐに分かった。
川畠くんのヴァイオリンは、アナハタ・チャクラに響き渡る。
それも、肉体、エーテル体、アストラル体の3体を貫いて、響き渡るのだ。
いや、実は、肉体のレベルでは、もっと上のヴィシュダーに響いていた。
聴いていて、胸から喉にかけて、何か膨れ上がって来るのが分かる。
しかも、3体を貫いている感じが、音の厚みのようなものとしても感じられる。
日本フィルの演奏が、肉体のレベルまでしか影響を与えていないためか、
川畠くんとの違いは、私にとっては如実である。
こんなに違うものか、と思わずにはいられなかった。
決して、日本フィルの演奏のレベルが低いというのではなく、
ヴィシュダーやアナハタのレベルの演奏ができる人間の方が、稀少である。
そして、中盤にさしかかる頃には、日本フィルの演奏が、
マニプラからアナハタ・チャクラの波動にまで上がってきた。
川畠くんの演奏に全体が引っ張られて、全体がアナハタ以上の演奏になったのである。
「ううむ、こりゃ素晴らしい・・。」
クラシックのよく分からない私やさっちゃんでさえ、
今、なにか分からないけど、とても素晴らしい演奏を聴いている、と思ったのだ。
ここのところ、数か月おきにクラシックコンサートに行っていることになる。
なんというか、すこ〜しではあるが、何かが分かるようになったきた感じもある。
それは、何か、まだ言語化できないが、そんな気がしてる。