さち通信U〜ときたま更新。

☆ちなみに、「さち通信」とは、『ナチュラルセラピー祥』の月いち会報のこと。

2008年10月〜2008年12月



2008.10.10


さっちゃん、生霊に倒る!@
たまに、訪れる定食屋「@@」。
まあ、特別おいしいからというわけではないが、仕事の都合上、仕方ない。

で、そこで、さっちゃんは、遅めのお昼ごはんで「ふわふわオムライス・プレート」を頼んだんです。
ところが、なかなか出てくるのが遅い。20分以上も経ちましたかね。


やっと出てきた、オムプレ。
「なんじゃあ、こりゃあ!」とさっちゃん。(もちろん、実際はもっと優しげに)
メニューの美味しそうな、ふわふわのオムライスの写真とはまったく異なるもの。

うす焼き玉子の白身でろでろナマ状態。

これは、オムライスといえるのか?少なくともメニューとはまったく違う。
以前注文した時は、まともだったのに。これはひどすぎる。


と、いうわけで、店のウエイトレスのおばちゃんに、
「これって、いかがなものなんでしょう・・。」と、ソフトにクレームした。

おばちゃん、こちらは別に作り直しを要求したわけではないのだが、
「すぐ作り直してきます。(汗)」と皿をもっていってしまった。


5分ほどして、なんとプレートに乗っていた、フライとサラダだけを別の皿に移して持ってきて、
「これだけ先に食べていてください」と言う。

「おいおい、あんた、おかずだけ先にって、どうなのよ!」と心で突っ込みを入れるさっちゃん。(優しげに)

そして、それには手をつけずにさらに待つこと10分ほど。
来ました、オムライス。

ガーン!

なんとなんと、さっきのオムライスの白身のでろでろ部分だけをそぎ落として、
それを、またさっきと同じようなうす焼き玉子(やっぱり白身でろでろ状態じゃん!)
を新たに上に乗せたものが出てきた。


「なに?なんなの?何かのいやがらせなの?  というか、この料理人(たぶんバイト)は下手すぎる!」

と、あまりの展開に戸惑うさっちゃん。
でも、おなかがすき過ぎていたので、仕方なく食べ始めた。



私はといえば、その間、自分のご飯を食べるのに夢中で、ま、オムライスごときで、何をそんなに。
さっちゃん、ちょっとむきになってるんでないかい、と思っていたのだが、
確かにメニューと比べるとあんまりにも違うことを確認。そして、店側のこの対応。


運ばれてきたときに、このオムライスからは、「敵意、怒りの匂いがする」と、直観が告げた感じがしたが、
「食べるな」とはこの時、言えなかった。私の失敗である。

で、再度、おばちゃんに、「これってさっきと変らないんですけど」と言おうとしたさっちゃんをなだめ、
さっさと食べて出よう、と促した。

すると、窓の外を、顔の怖い料理人が通って、こっちを見ていったのが目に入った。
う〜ん、やはり、これは何か良くない感じ。こちらの顔を見に来たのか?
料理人は、クレームをつけたことに怒っている感じがする。

半ば、腹立ちまぎれに、同じものを作ってよこした感が濃厚であった。


おばちゃんは、一体なんて言って、やり直しさせたのか?
オムライスも上手く作れない、この料理人は何なのか?
お店として、この対応の仕方は、どうなの?


などの思いが渦巻き、気分が悪くなった、さっちゃんは結局、めずらしく3分の1くらい残して、店を出た。

おまけに支払いの時には、あやうく、おつりを60円、間違われるところだった。
だめ押しである。


つづく。

 

2008.10.12

さっちゃん、生霊に倒る!A
そうして、しばらくして、さっちゃんを目まいと吐き気が襲うのである。
はじめはさほどでもなかったのであるが、徐々に目まいがひどく、立っていられないほどになる。

憑依されているのか見てみたが、通常の憑依霊がついている様子はない。
憑依じゃあないから、大丈夫と、たかをくくっていた。


ところが、しばらくしても目まいが治まらないというから、これはちょっとおかしいと私も思い、
はっと、オムライスの件を思い出し、もしやと思って調べたら、
アストラル体が強力な邪気に頭から肩にかけて覆われていた。もちろん、あの料理人が飛ばした生霊。
そして、胃の中には、あのオムライスが一向に消化されずに残っていた。
この邪気が、吐き気の原因である。

とりあえず、生霊の処理を行い、外したのであるが、時すでに遅し。
たっぷりと邪気を吸収した、さっちゃんは目まいと吐き気で居間の床に倒れこんでしまった。
私もちょっと本気になり、ちゃんと施療してみたが、そうすぐには回復してこない。
そこに寝かせて、しばらく様子を見た。


ま、実は、このとき私も好転反応が出ていて、かなりきつい状態
(またもや、のどや気管周辺の毒出しが始まっていて、声帯がつぶれ、ささやき声しか出なかった)だった。
私は、よりによって、こういうときに限って、あたかも試練のように人の施療をしなければいけない状況が襲ってくる。

そんな時は、これ以上、自分がダメージを負うことへの恐怖と被害者意識がうわっと湧いてくる。
その気持ちを受け止めて、「しかし、今はやるしかない。」と、どこかで小さく死を覚悟して始める。

普段の施療で、こんなことを繰り返していては、ほんとにすぐ死んでしまうので、
そういう事態には陥らないようにしているし、うちの休みが多いのもそのためだが、
たまに、お試しのように、よりによってという状況がやってくるのである。


で、施療が功を奏し、一眠りしたら大分、回復したように見えたさっちゃんだが、
それもつかの間、また症状がぶり返し、ぜはーぜはー言いながら、なんとか眠り支度をしてふとんに入った。
さっちゃんに、簡単なヒーリングを施して、私も眠った。


ま、翌朝は、おかげさまで、さっちゃんは、生霊のダメージから立ち直った。

それから、あの店での局面で、どうするのがよりよかったのか、
その日はあれこれと考えてみたが、どうもよくわからなかった。

しかし、今後は、あのようなクレームを付けた状況で、再度出てきた料理には気をつけよう。


生霊、恐るべし。

 

 

2008.10.21

生霊、その後
まあ、その後といっても、さっちゃんはすっかり良くなり、
後日談というわけでもないのであるが、ちょっと関連してお話します。


生霊、「サイキック・アタック」というものは、日常的に結構、
私たちは、それを受けたり、相手に放ったりしているものである。

たとえば、他人から嫌なことをされて、怒りや恨みの想念を相手に向けたり、
いらいらさせる相手に、不満や怒りの想いを持つことは、誰にでも心当たりのあることである。

このような時に、適切に感情の処理をしたり、または間をおかずに行為によって現実に対処して、
その不快な想念にけりをつけるようにすると、お互いにさほどの問題はない。

心ある人ならば、自分の至らなさや不寛容さを反省し、懺悔の想いを抱く人もいるかもしれない。
そのトラブルの展開から学びや気づきを得て、次回への教訓となす人もいるだろう。

確かに、一時的には、相手の生命フィールドに、想念の刃が振り下ろされることになっても、
まあ、それは、人間だものお互いさま、ある程度は仕方ないところもあると云えるだろう。



しかし、負の感情の処理を上手くできずに、たくさんの怒りや恨み、妬みの感情を
微妙に、確実に、蓄積している人もいる。
この人たちが、自分がそのような状態にあると、気づくことは困ったことにそうはない。
なぜなら、圧倒的な「被害者意識と自己正当化」の渦に飲み込まれていることが多いからである。


感情の主体は、あくまでも自分自身にある。
同じことに遭遇しても、感情の揺れ方、感じ方には、大きな個人差がある。
過去のトラウマの問題や血縁・両親からの影響、自分の人生の尺度などによって、
湧き上がる感情に温度差があるのは当然であろう。

しかし、負の感情をたくさんため込んでいる人の傾向として、
情報を受け取る自分の側の問題に目が向くことは少なく、
逆に、不快な想いをさせた相手だけに怨みが向かうようなところがある、そう私には見える。
(ま、普段から傷つくことが多かったため、かなり過敏になっている状態だし、
自分を守るためには、仕方のない心理的防衛なのではあるが・・。)


で、この方たちの放つ、サイキック・アタックは、かなりきついものとなる。
ため込んでいるゆえに、沸点が低く、「念」の力が強力なのである。
また、そのような強力な念は、本人が心から許し、解除するという明確な意図を持たない限り、
永続的に作用し続ける場合も多い。
つまり、本人はとっくにそんなこと忘れていたりするのだが、
その時に放った生霊だけは延々と作用し続けるのである。
まいるね、これは・・。



生霊は、他人から向けられることもあれば、家族から向けられることもある。
夫婦や親子、兄弟姉妹で、想念の斧で、頭をかち割ったり、首を絞めあったりしていることもある。

実際に、それが行われている報道が頻繁にあるわけであるから、今やそう不思議でもないだろう。
しかし、一見、また本人たちも仲が良いと思っているご夫婦や親子、兄弟、友人でも、
一段奥の層のアストラルレベルでは、そのような惨状にあることは、まったく珍しくない。

さっちゃんの例のように、ほどなく心身に変調が現れる場合もあるし、
はじめ気づかない場合でも、さすがに何年も続くと、実際に肉体レベルで病気やトラブルが発生するだろう。
お互いに、病気になられると家族は困るだろうに、その病気の一因を自ら作っているわけである。


生霊を、特定の相手に放つと、「瞬時」に放った本人のアストラルレベルにも同じ反作用現象が起きる。
それだけオーラやチャクラが汚れ、憑依霊を引きよせ、自分の本来の心身の健康と快適さを失うわけである。


そういうわけで、念うだけなら何を念っても勝手というわけではない、ということである。
社会法では裁かれないだけで、想念のレベルでは人に手をかけるということをやっている。
それは場合によっては、十分肉体のレベルで現象化する力を持っているのだ。


幸せになりたいと望むなら、心を「害のないもの」に浄化してゆかなくてはならない。

 

 

2008.11.10

治癒の源泉
人間の治癒系の源は、どこにあるのだろうか?

それは、宇宙の階層のどこかから降りてきて、人間に入る神秘的なエネルギーなのか。
あるいは計測さえ可能な、ある特定の周波数なのか。

そこにアクセスすると、どんな病気も癒される治癒のエネルギー層などあるのだろうか。


人間に働く治癒のエネルギーは、他の動植物にも共通して働くのだろうか。

そもそも、固有の治癒のエネルギーなどがあるのだろうか。
それは人間の身体の複雑な生命維持システムの総称なのか。

「良くなれ」と想って手をかざした時、あるいは痛む部位に無心に手を添えた時、
その手から出る気が、治癒エネルギーなのか。

脳幹が治癒力の源という説もあるが、これには私は微妙に違和感を覚える。

それは、頭頂から入ってくる天の気なのか。
会陰に入ってくる地の気か。
無私の愛の想いが、治癒エネルギーなのか。
それとも、聖なるマントラを唱えたときに感応する神仏の気なのか。

それは、自分自身の魂の波動なのか。
それとも、神の閃光たる内なる真我の波動か。


などなど私の「治癒エネルギー」に対する疑問は・・・、あらら、まあ、けっこうあるわねえ。
我ながら書いてみて、びっくりしました。(笑)


で、今のところの私が至った見解は、これ。



★治癒の源泉の波動★
★治癒の源泉の波動★
★治癒の源泉の波動★



この文字列に、治癒の源泉の波動を載せておきましたので、ちょっと見つめて感じてみてください。


この波動は、頸椎3番付近に位置するあるチャクラを活性化します。
(ちなみに、ヴィシュダーチャクラではない。)

このチャクラこそ、現在、私が身体の治癒の源泉に直につながるチャクラと考えているものです。

ま、このチャクラを覚醒したとて、どんな病気も良くなるというわけではない。
病気を扱うのは、そんなに甘いものではないです。
しかし、私は治癒力というものを考える点では、非常に重要なチャクラであろうと感じています。

 

 

2008.11.23

香功練功日記風
全世界4000万、香功練功者のみなさん、こんにちは。

久しぶりに、「やらなくちゃ」との想いが持ち上がり、香功をやる。

いやね、実は、内功はいろいろ研究と相まってやっているのではあるが、
動功は、ごぶさたであった。

やはり、時々、太極拳をやりたくなる病気が襲って来て、浮気して本を読んだりするのであるが、
読み終わる頃には、その気持ちがどうも萎えてしまう。

同じ時間をかけるなら、やはり、香功の方がいいやと思ってしまうのだ。


まあ、太極拳も良い先生に出会うことができたら、また話も変わるのかもしれないが、
本やDVDを見て、しこしこと一人で学ぶことを考えると・・・ね。



で、香功だ。

以下、香功の本から、「中国芳香智悟気功問答」という章の抜粋である。
Aは、田瑞生師の答えである。

Q なぜ香功では、「意念不要」なのですか?
A 「意念不要」は、この功法の核心として定められたものです。
  その大きな効力を保証し、効果が早い根本原因であり、またこれが副作用がないカギです。


Q 「意念不要」というのは、どういうことなのですか?
A 意守がいらないということです。つまり、自分自身の(体表、体内を含め)どこかの部位に気持ちを
  集中したりせず、自然にまかせるということです。


Q なぜ経絡のことを言わないのですか?
A まず香功は、経絡疎通にとても効果があるのですが、しかし具体的に言うことができません。
  もし練功者が経絡に意念を向けて意念を生みだしたら、香功の功理に反することになります。
  それから、この功法の気の巡りの独特のところは、全身のすべてのシステムの機能を全体として
  調整することで、局部の調整ではありません。だんだんに一番いい状態になっていくので、
  わざわざ経絡を語る必要はないのです。


Q 香功の気の流れの独特なものとは何ですか?
A それについて言えることは、点から面へ、無限に延び広がり、内外縦横に交流運動し、
  人が気の中にあり、気が人の中にあるという点です。全身「丹田に非る所無し」です。



・・と、いうわけで、
香功が一体どういうふうに人体に作用して、良い変化を生みだしているのか、
を知りたい人にとっては、やや残念なお答えである。

それを知ることは、副作用を起こしたり、練功の効果に良くない影響を与えかねないので、
そんな好奇心は、封印して、とにかくまずやってみよ、ということですね。

やっているうちに、そんな功理さえも突然に分かるときが来る。
それも香功の正果の「悟」の一つであると書いてあります。

まあ、実際、師にも付かずにやるわけだし、
偏差のことを考えたら、慎重にやるのが一番だし、確かにそうなんだけどねえ。

しかし、気功を一人でじっくり取り組もうなんて人には、この辺のことは少しは知っていたいものです。
時間とエネルギーを費やす価値があるのかどうか。

続けていくには、それなりのモチベーションが上がらないと厳しいからねえ。



私自身も、いろいろ浮気の虫が騒いでも、結局、香功に戻ってくるのは、
私なりに香功の功理を理解しているからでしょう。


で、もう少し香功の功理について、
私の見解を、差し障りのない範囲でお話しましょうか。


まず、香功の動きの一つ一つは、直接的には経絡に作用していません。
はじめから経絡に作用させることを意図した功法ではないのです。


香功は、田先生の答えにあるとおり、
基本的には(いわゆる正経には作用しないという意味で)、「点」に作用するようにできています。

「点」とは、何でしょうか。

それは、「全身の経穴」、そして、「七輪」と「三丹田」のことです。



香功の意図は、「全身の経穴」、「七輪」と「三丹田」の覚醒、
そして、身体の中心を天地に走る「三脈」を開くことにあります。


初級功は、すべての動きで、中丹田を活性化します。
中級功は、すべての動きで、下丹田を活性化します。
高級功は、すべての印で、上丹田を活性化します。


そして、初級、中級、高級功の各々で、一貫して、一連の流れにおいて、
最終的に「中脈」が開くように組まれています。
(ただし、そのように正しく行なうと、である。)


これが、香功が「禅密宗の結晶」とまで言われる所以でしょう。


賢明な方なら、ヘタに意念を持ってこのような功法を行なうと、
場合によっては、大きな偏差が生じる危険があることを理解できると思います。



この功法は、それをよく知っている、おそらくは、一人の人間によって編まれたものです。
このように大変シンプルで、かつ完成度の高い功法は、他に類がないと思います。(多分。)


もちろん、前回お話した「治癒の源泉」も活性化し、治癒力が最も自然な形で大変高まります。
治病に卓越した効果を見せるのも納得できます。


どうです?ちょっとやる気出てくるでしょう?


しかし、今読んだことは忘れましょう。(笑)
ちゃんと、香功の功理に則って、意念不要で練功に励んでくださいね。

 

 

2008.11.28

それでいいのか、サラ
いやあ、海外TVドラマ「デッド・ゾーン」のシーズン6、ファイナルシーズンの話である。

ネタばれになるので、あんまり詳しくは話せないけれども、
だが、「おいおい、それって、一体どうなのよ!」という言葉が口から洩れてしまう最終シーズンであった。

まあ、一話完結の単発のエピソードには不満はないのであるが、
このシリーズ後半の全体を通しての、副大統領スティルソンがカギとなる
近未来の「ハルマゲドンの回避」というテーマの落ちとしては、
ちょっと、お粗末じゃあないですか的なものになり、残念至極であった。


そして、サラだ。
まあね、ちょっとネタばれになるが、旦那のウォルトが死んだからといって、
すぐもと彼(サラの子JJの実父)のジョニーと一緒になるというのは、
それはすぐには無理があるわけだから、いろいろとあれやこれやと、もつれがあって、
で、最終的にはどこまでいってもお人よしのジョニーと結ばれる、という落ちになるだろうと思ってはいた。

しかし、なんだかいまいちわからない理由で、ジョニーに文句を言い、分かれ話を持ち出し、
タイミングよく、なぜかすり寄ってきたスティルソンといい感じになってしまうって、どうなの?。

どうも、よくわからない。サラの心情に感情移入できない。不自然な感じがぬぐえないのだ。
脚本家が、どう落ちをつけるか困ってしまった結果なのか?


いっその事、韓国ドラマのように、病気か、事故か、事件で、どちらかが死にそうになって、
あるいは、ほんとに死に、それで、再度、心情的に固く結ばれるという落ちはなかったのか。


ジョニーは、他人のヴィジョンを見、献身することで人間的に成長を繰り返してゆく。
一方、それに比べてサラの奥行きのなさと、ジョニーへの理解、思いやりの不足は、対照的である。
この二人、今後、上手くやって行けるのだろうか。


と、TVドラマの登場人物の行く末を案じている私であった。(小笑)

 

 

2008.12.7

『神の詩』、待ってたよ。
いやあ、やっと出たね。

『神の詩 バガヴァッド・ギーター』 田中嫺玉 訳  TAO LAB BOOKS

インド古典中、最も有名で、ヒンドゥー教が世界に誇る聖典。


田中嫺玉(かんぎょく)さんの名訳は、しばらく絶版になっており、手に入らなんだが、やっと復刊された。

昭和49年、日本翻訳文化賞を受賞。
昭和63年、この最初の版が出版された年、日本翻訳特別功労賞を受賞している。

なんとも、訳文の日本語の感性が良いんだよなあ。
復刊が望まれていたのも分かるというものだ。


仕事の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は
常に 離欲・放棄を行じているのだ
その人は あらゆる二元対立を超えて
容易に物質界の鎖を断ち 完全な自由を得る


愛するアルジュナよ
いま君が見ているわたしの姿を
見ることは まことに難しいのだよ
神々でさえこの姿を見たいと常に憧れている


心の修行は
足ることを知って常に心おだやかに
正直 率直 沈着であり
自己抑制をして心身の浄化につとめること


各章を読み終わってから、静かに目を閉じると、
アストラル、メンタル、ブッディ界を超えるはるかな高みからの光が、
サハスラーラ・チャクラに降りてくる。

聖典である。



それで、なんとここの出版社から、続いて田中嫺玉さん名訳の、これもやっぱり絶版中の

『インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯』

『不滅の言葉(コタムリト) 大聖ラーマクリシュナ(全5巻予定)』

が、2009年、2010年と続けて出るという。
うれしい限りである。


それが無明というものなのさ。
無明のなかにいると、真実のことが虚に、
虚のことが真実に感じられるんだ。
真実とはつまり永遠不滅のもの。
虚とはつまり・・・・この世のこと。
はかなく流転するもののことだ。


妻子のためなら、人は水がめいっぱいもの涙をだす。
金のためなら、涙の池で泳げるほども泣く。
だが、神を求めて誰が泣いている?
本気になって神を呼ぶことだ。


人間には我執があるから神が見えない。
雲がかかっているから太陽が見えない。
だが、見えないからって太陽がないわけじゃない。
太陽はちゃんとあるんだ。


嫺玉版のラーマクリシュナは、なんともあったかい、味のある、いい感じなのだ。

まだ、読んだことのない人はお楽しみにね。

 

2008.12.19

スティルネス〜静止の海
私の現在行っている手技である「クラニアルセラピー」は、クラニオセイクラルの一流派の
『クラニオセイクラル・バイオダイナミクス』の身体生理学に基づいて組み立てられている。

もっとも、その法則性には乗っかっているが、実際の技術自体は私流である。
単なる手技だけではなくて、筋反射を応用したリーディングで必要な情報を読み取り、
必要があれば、気の技法を使って適切な処理を行う。


で、その「静止点」の話である。
身体の中心軸である第一次中心線の一次呼吸の呼気と吸気の静まった凪(なぎ)のことだ。

第一次呼吸は、身体の様相で3段階あり、
CRIやミッドタイド、ロングタイドと云われる身体相で、約4秒、12秒、50秒で、呼気と吸気が入れ替わる。
中心軸から放たれる生命波の呼吸様の拡張・収縮現象である。

ちょっと大ざっぱな言い方だが、
この第一次中心線が、身体のどこかで途切れたり、折れ曲がったりすることなく、
一次呼吸が正しい生理的な周期で、身体の全領域に渡って、力強く行われている人は、健康である。

で、クラニアルセラピーでは、この一次呼吸を正常化させようとするわけだ。


頭蓋骨にコンタクトして、全身にある程度の最初の調和が訪れると、
スーッと静かな湖底に滑り込むような感覚がやってくる。
この静止の海の中で、身体の諸器官、チャクラ、経絡の歪みは溶解し、生体エネルギーはチャージされる。


そして、この静止点には「奥行き」がある。
初めは、ただこの静止の海に浸かっていて、時が至れば次のタイドへと移行していたのだが、
静止の海には、どうも「深度」があるようなのである。

今までの経験上、この深度はセラピストの身体の開発の程度に影響されるようだ。
もしかしたら、セラピストの「認識力」にも左右されるのかもしれない。


たとえば、私の場合、この静止の海に入ってからのクライアントに起きる変化の様子を見てみると、
初めは、頭蓋骨にコンタクトする間に、停滞支点が次々と解放され、ある程度の中心線の確立がなされる。
そうすると今度は、奇経が変化を起こし、内圧が高まる。
次に、天から地に向かって、中心線を押し開くようにプラーナが降りてくる。
それが終わると、地から天に向かって、同様にプラーナが上昇する。

次に、頭頂のチャクラから、会陰のチャクラまでの放出方向の歪みが解放、エネルギーがチャージされ、
今度は、会陰のチャクラから、頭頂のチャクラまでの吸収方向の歪みが解放、エネルギーがチャージされてゆく。


説明が厄介なのでここまでにしておくが、この後さらに、その奥にある身体構造にまで深度は深まってゆくのである。


はじめから現在の深度まで静止の海に浸れたわけではない。
ごくはじめは、停滞支点が解放され、中心線が天と地を貫くように真っ直ぐに整い、
一次呼吸が回復していた位だったと思われる。

その後、自分自身の身体の整うレベルが上がるにつれ、深く潜れるようになってきたというところだろうか。
同時にクライアントの施術おいて、そのような変化が表れてきたのである。


ま、静止の海といっても、実際は、施術者とクライアントの間で、かなり激しくエネルギーの交流が生じている。


学び始めのころ、静止点は、その入り口に施術者の関与はあったとしても、
本質的には単にクライアントの生体システムの内で生じる現象だと思っていた。

しかし、現在私の体験している静止点は全く異なっている。
施術者の意識と身体の在りようによって、クライアントに訪れる静止点の現れ方が異なる。
施術者のそれが深まるほど、クライアントのそれも深いものとなるのだ。


これは、けっこう大変なことだ。
技術ももちろん大切だが、技術だけではないのである。

一般に多くの人は、治療は、『技術』や『方法』であり、
治療法の名称が同じなら、誰がやっても大差ないだろうと思いがちだ。
しかし、実際には、「誰が」それを行うかによって、同じ技術でも結果は、全く別物になってしまう。

まあ、同じ料理のレシピでも、料理人によって出来具合に大きな差が出るのは不思議ではないのだから、
治療の分野でも、同じことである。

施術者は、その技術だけではなく、自分自身の心と身体をよく育む必要がある。
そして、それはそのまま、自分の施術に反映してくる。


しかし、静止の海のような非言語領域のことを観察して、言語化してくるのはなんとも難しいことである。

 

 

2008.12.27

それでいいのか、千春!
私は、10代から20代前半にかけて『松山千春』を好んで聴いていた。

振り返ってみると、私の性格に彼の歌が与えた影響は少なからずある。
今も気がつくと、「旅立ち」や「銀の雨」、「青春」を口ずさんでいるときがある。


で、先日、札幌で行われたコンサートツアー『天才』に出かけてきた。
6月に心臓の発作で倒れて以来、やはりどこかで心配していたが、
ひとまずは、見かけは元気そうな感じでほっとした。

しかしだ、今回はかなり用心して私もコンサートに臨んだから大丈夫だったが、
やはり、千春、体、あちこちと大分悪いようだ。

観ている間、彼の体に感応して、私の心臓の辺りが結構重ぐるしくなり、息詰まる感じだった。
心臓を守ろうとして、無意識に肩や首、後頭部がかなり緊張している感じが伝わってくる。
対症療法を受け続けていることによる頭蓋骨や心臓への人為的負荷もある。
糖尿病の合併症から心臓に来ているらしく、マニプラに関係する臓器はかなり疲弊している感じだ。


歌だけを聴いていると、声量も落ちておらず、さほど問題はなさそうに聞こえるが、
その声に乗っている波動は、お世辞にもよろしいとは言えない。

トークは、いつもの千春節で大変面白かった。
この度の心臓と糖尿の入院談はおみごとである。
爆笑だった。

そして、
「日本人は、物質的に豊かにはなったが、その心はいやしくなってしまった。
あの頃は、きびしい貧しさのなかにいたが、その心は豊かであった。あたたかかった。
結果だけに執着するのではなく、努力することそのものに美しさがあるのではなかったか。
矜持をもって、凛として生きてほしい。」
というメッセージがあった。


楽しかった。さっちゃんも大満足だ。
だが、その夜、彼の歌を聴いて、どこか晴れない気分が残ったのは私だけだったろうか。

人は、歌を耳だけで聴いているのではない。身体全体で聴いているのだ。
同様に、歌手は、音声を放っているだけでなく、身体全体で、その「気」を放っている。
当然、健康への不安も、糖尿病や心臓病などの病んだ気も声に乗って聴衆に届けられる。
気合や精神力だけでごまかせるものではないのだ。


だから、千春に言いたい。
「たばこは止めない」などと、言わないでほしい。
その姿勢は、なにひとつかっこよくない。潔くない。
曲作りに欠かせないとか、へ理屈はらしくない。

私に言わせれば、自分の悪習慣ひとつ変えることができない人間が、
他の人間を批判したり、天下国家を論じたところで説得力に欠ける。

身体は「自然」からの賜物だ。
北海道の大地を愛する人間が、その大地が産み落とした自分の身体という自然を自ら汚しまくっている。
その姿のどこに、「凛」としたものがあるのか。美しさがあるのか。

たばこを止め、食を正し、適度な運動と十分な睡眠を取り、治癒力を高め、
少しずつでも化学薬品の汚染から離れ、自立して健康を維持できるようになってほしい。

そして、良い歌をずっと唄い続けてほしい。

千春が、元気でがんばっている姿が、
多くの北海道民の心の支えになっていることを忘れてほしくない。

いちファンとして、切に願う。



では、また来年。よいお年をお迎えください。

 

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