落語ネタあれこれ

ここでは、さまざまな落語ネタについて、好きだとか嫌いだとか、よくわかんないとか何とか書いてみようと思っています。
落語案内ではないので、演目について知らない人には「何のことやら?」だと思います。

あくび指南 穴どろ 馬のす 宮戸川 後生鰻 看板のピン 天狗裁き 妾馬 しらみ茶屋 桃太郎
湯屋番 小言念仏 阿部松 心眼 親子酒 池田の猪買い たらちね 不精床 子ほめ 長短
熊の皮 文七元結 時そば 芝浜 唐茄子屋政談          
                   
                   
                   

 

あくび指南

 けだるい夏の午後、寄席の客席で
「ちょいと番頭さん。舟ェ上手へやっとくれ。これから河岸い上がって一杯やって、夜は吉原(なか)へでも行って遊ぼうか・・・舟もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で・・・はああ・・・」(ちょっと違うかな?)みたいなのを聞いていると、川に舟を浮かべた、のんびりした舟遊びの風情が目に浮かぶようです。噺の風情も、全体にのんびりとした空気が漂う噺ですね。この噺は、わりとよくかかる噺ですが、あまり頻繁にききたいものではありません。気持ちがぼーっとしてしまう。基本的に賑やかな噺が好きなので、この手の噺はダレます。

「あくびがうつる」ということがあって、この噺は、中であくびをする場面が出てくるので、客席であくびがうつってしまう人がいても不思議はありません。私もこの噺をきいていて、あくびをしたくなることがあります(まだしたことはないけれど)。ただ、この噺でお客さんにあくびをさせてはいけない、と言っていた噺家さんがいたような気がします。ちょっと、あくびをうつしてしまう噺家さんのほうが上手いのかな?と思ったのですが、そんなに単純なものでもないようです。

穴どろ

 暮れのお話です。この噺はどういうわけだかわりと好きな噺です。やっぱり、黒門町の文楽さんのイメージが強烈。「俺はいまここに3円落っこってたら、拾うよ」なんて、実におかしいセリフですね。情けなさが募るというか。どことなくにぎやかな雰囲気(わずかな描写ながら、出かけていく店の若い衆や、並んだ料理など)と、暮れに3円に困って歩く男、表の寂しい雰囲気がうまく対比していて、情緒も感じるのです。

 穴どろ、というタイトルですが、この噺の主人公は、泥棒なのかな・・・。まあ、他人の家に上がりこんで飲み食いしてるんだから、泥棒かなあ?赤ん坊が這い出してくると、喜んであやしたりして、いい人っぽいのに、泥棒にされてしまって、なんだか気の毒のようにも感じるのです。穴から上がっていって、3円もらったんですかねえ。落語に「それからどうしたの?」は、無いということはわかっているのですが、気になることが時々あります。これもそういう噺のひとつ。

馬のす

 これも黒門町の文楽さんの得意ネタ。「電車混むね」 こんなセリフが実にオカシイ。今もやる人がいるのかな。「馬の尻尾を抜くとどうなるか!?」という、その結論をききだす。というだけの、筋書きも何もない、実に、たあいのない噺ですが、好きですねえ。最後のサゲに向かって、ぐだぐだぐだぐだと、引きずっていく。聴き手も、「いったいどうなるんだろう?」と、微妙な緊張感をもってついていくのです。……で、あの、しょーもないサゲ。とってもステキです。まさかあんなサゲだとは思わないもんね。サゲを知っている人は、今度は「このオトコ、どうやってぐだぐだと話を引っ張るだろう・・・」という、別の面に楽しみが向いて、それはそれでまた面白いのですね。

 この間、ある方のこのネタをききました。「電車混むね」の部分は、適当になにか入れごとをするようですね。時事のお話とかをするのかな。私だったら、毛生え薬でドーピングにひっかかったオリンピック選手の話でもするかな。

宮戸川

 どういうわけだかよく寄席でこの噺を聞きますが、どうもこの噺を好きになれません。きくのが億劫な噺です。なぜなんだろう。場面転換はあるのだけれど、どうも話が盛り上がらない感じというか、地味というか、ぱっとしないというか、場面が全部夜だから、ってワケでもありますまいが、きくのがめんどくさいです。
 この噺、お花がはじめっから半七といい仲(古い言い方)になりたくて仕組んだ(悪い言い方かな)って解釈だと、もしかしたらすこし面白い話になるのかなあ?

 だいたいこの噺は、途中で「ここからは本がやぶけてわからない」とか言って切るのが普通で、まずサゲまではやりませんね。たぶん誰もやる人がいないと思いますし、消えていって当然だろうと思います。その、続きの部分は、落語らしくない陰惨な話だよなあと思います(ここに、宮戸川の名前が出てくる)。それを知っているからこの、前の部分も聞きたくないのかなあ。・・・あとで知ったのですが、この手の噺は、稽古するとき、ちゃんとサゲまで教わるそうです。寄席ではかからなくても、ちゃんと噺家さんの中では伝わっていくのですね。

後生鰻

 この噺自体はさほど嫌いではありません。衝撃的なサゲですなあ。初めて聞いたときはびっくりしました。その意外さに笑ったかどうかは記憶にないけれど。
 ただ、今は最後のほう、どうしても笑えませんなあ。落語をきくときは、想像力をはたらかせますよねえ。あの、鰻屋がお休みの日におじいさんが通りかかる、あのあとは、かなり恐ろしい場面ですね。キリを振り上げる鰻屋さん。たとえ冗談でもできるこっちゃありません。いかなる狂気に取り憑かれてしまったのやら。この噺も、そのあとどうしたんだろう、と、とてもとても心配になってしまう噺です。そう思われないように演じるのがむずかしい、という噺らしいですが。後味の悪いはなし。歌丸さんのをきいたら、ちょっと工夫がしてありました。なるほどね。

看板のピン

 これ、好きな噺です。前半の、親方(?)は、ずいぶんカッコ良いじゃあありませんか。真似したくなるのもわかります(動機が不純なのがイケナイ)。とんとん、っと盛り上がっていって、最後のオチもすっきりして効果的だし、どっと笑って終わるところが実に気持ちいい。よーく考えると、このオトコ、あとどうしたんだろう?なんて思いますけど、そんなことは知ったことではないもんね。最初に出てくる親方は、なんだかんだ言って、昔は相当なものだったのでしょうね。でなければなかなか中の目までわからないでしょう。

天狗裁き

 だんだんスケールが大きくなるのが面白いですね。先が見えていても、はたしてどうなるんだろう……という、気持ちで聞けます。「はじめ女房が聞きたがる…」で、客席から笑いが起きますから、みーんな、わかっていても可笑しいのですねえ。もしかしたら、日常生活の中であの口調で、「はじめ女房が聞きたがる…」とか言われると、条件反射で笑ってしまうかも?
 私が知っているのはおそらく、柳家の系列のものなのでしょうかねえ。この間、古今亭志ん生の落語の本を読んだら、お奉行さまが天狗のところへ連れていく話になっていて、びっくりしました。なんと天狗さまとお奉行様は知り合いだったのですよ。古今亭では。志ん生だけかなあ?確かに、天狗が裁きに関係しなければ「天狗裁き」ではないかもねえ。ただ、私としては柳家権太楼さんがやっている型の、天狗がさらっていくほうが、自然な気がします(自然か?)。
 途中の、お奉行さまが「はじめ女房が聞きたがる…」ってところ、ネタバレしない工夫はないものかなあ。あれでいいのかもしれないけれど。

妾馬(八五郎出世)

 きらいな噺です。めでたい噺となっているようですが、どうも好きになれません。お殿様のところへお鶴が行くのですね。当時、断ることができた時代かどうか?なんて思ってしまうのです。もしかしたら嫌々ながら行くのかもしれない。その気持ちを考えてしまうのです。たとえ生活は苦労がなかろうと、嫌なところに行って暮らさなければならないとしたら。お世継ぎが生まれ、八五郎が殿様の前でいかにゴキゲンでも、そのときのお鶴の胸のなかはどうなんだろう?ってな、余計な勘繰りをしてしまうのです。
 
 まだそれほど前ではないのだけれど、この殿様を、ぼんやり育てられたちょっとバカ殿気味の設定にしている妾馬を聞きました。そういう設定にすることで、笑いは増えたかもしれないけれど、私は嫌な噺だと思いました。この噺は人情噺ですが、笑うところもあって、滑稽話にしようと思えばできるものでしょう。だけれど、殿様にはちゃんとしていてほしいし(そうだからこそ、八五郎のことを面白いとも思えるのでしょう)、殿様、お鶴、八五郎それぞれの愛情のようなものを感じさせてこそ、滑稽話ではあっても深みのある噺になるのではないかと思うのです。そういう設定の演出に出会ったら、その設定の妾馬に限って、好きな噺になるかもしれません。

しらみ茶屋

 このお噺は、先代の雷門助六さんのやっているのを、テレビかなんかで見たんだと思います。先代の助六さんは、私の知った頃にはもう相当のおじいさんで、とってもなんというか、軽やかというか、力まずに品のいい語り口の噺家さんでした。
 これは噺としてはほんとうに、ごく軽い噺だったように思います。登場人物が社長さんとかいう設定だった気がするので、ちょっと古い新作…、っていうのも変か。社長さんと幇間が両方あったころの噺ですかねえ。いずれにしても、日常生活に普通にしらみがいなくなった今、廃れていく噺でしょうか。なにしろ助六さんの鳴り物入りの賑やかで艶気のある語り口がとても印象的でした。

桃太郎

 桃太郎っておはなしは、わりとよく寄席でかかる軽い演目ですね。今までも何回かきいています。お父さんが子供に桃太郎の話をしてきかせると子供が寝てしまって、子供なんてのは罪がねえ・・・という、これは昔の話で・・・というお話ですが、寄席でこの話をきくたびに、どうにも違和感を感じてしまいます。わからなくはないのだけれど、こういう話をすること自体が、この「桃太郎」という話に出てくるおとっつぁん並にオクレテるんじゃないかなあ?という気がしてなりません。この話に出てくる子供にもあまりにリアリティがないように感じます。さほど面白いネタでも、技巧的に聞かせる部分のある話でもなく、寄席でかかるとちょっとゲンナリしてしまうネタです。

湯屋番

 この手のひとりキ●ガイもの、けっこう好きです。どうしてなんだろう。だいたい、がちゃがちゃウルサイ噺が多いからだろうか。割と前半さらっとやることが多いのかな。十代目の文治さんなんかは、お茶漬けさらってんで差し出すとアーラ若旦那胃が丈夫だこと・・・とかなかなか前半もニギヤカでステキでした。
 こういう噺はやっぱり芸風の明るい人がしゅっと出てきてさんざん場をかき回してくれるのがウレシイですね。番台の上の所作も大袈裟なくらい。なにしろ気になって軽石で顔をこすっちゃうくらいのインパクトがあるわけですから。でまた、この手の噺は、うわぁ!!ってところと、「・・・オイ見てみねえな・・・」っていう落差が大変オモシロイ。ベートーヴェンのフォルテとピアノの交錯とつながるものがある気さえしますです。
 通常まあ、下駄がなくなっちゃったじゃねえか!(着物でやる人もいるみたい)ってなって、最後の人は裸足で帰します。ってサゲだけれど、最近気がついた(もっと早く気づけよ!)。下駄がなくなっちゃったって言っても、持ってっちゃったワケじゃなくて、誰か履いていってしまったんだから、考えてみると、その、履いてった人の下駄は残っているのでしょうな。だから裸足で帰る人はいないのです。あまった下駄を、若旦那が履いて帰ることになったのかな。しかし、湯ゥ屋の帰りに、他人の下駄を引っ掛けて帰るなんざぁ、気味が悪いやねぇ。

小言念仏

 実にまあ、筋書きもなにもない、ただダラダラと念仏を唱えつつ、間に小言が入るっていうだけの噺ですが、まあ、緊張と緩和といえばそういうネタなのかもしれませんね。念仏を唱えている、次はどんな小言が出てくるかな……と、みんなが思っているところに、「メシがこげてるぞ〜!」でまた、「なんまいだぁなんまいだぁ…」という、落差がおっかしいのでしょうね。これ、浄土宗系の、「なんまいだぁ」が、似合うのでしょうね。他の宗旨の念仏だと合わないかも…って、こういうの、なんかの噺のマクラにもありましたね。日蓮宗のお題目は派手だとか。

 実はこの噺、サゲを私、知らないかもしれません。っていうか、どれがサゲかわからない。まあどこで切ってもいいんでしょうけど。どじょうがおとなしくなって「ざまぁみやがれ…なんまいだぁ…」っていうのが一番サゲらしいサゲかな。と思ったのですがどうなんだろう。

阿部松

 おうのまつ、ですが、変換できません。6代目横綱阿部松緑之助のはなしです。谷風梶之助を初代横綱とする説もあって、それだと3代なのですが、今の相撲協会では初代を明石志賀之助としているのだそうです。調べた。なんと今、阿部松部屋があって、同名の親方がいるんですねえ。知らなかった。あとで知ったのですが、親方の名前は歌舞伎や落語と同じで「何代目」と継がれていくものだそうで、今もこの噺の登場人物は代が変わって名前が残っているそうです。
 なにかの本に、あまり面白くないのでやり手が少なくなっていく噺じゃないか、というようなことが書いてあり、意外な気がしました。私、この噺かなり好きなんです。まあ、確かに笑うところはあまりないんですが、とても噺としていいな、と思うのです。でも、笑いは少ないし、寄席ではかけにくいのかなあ。ぜひ、残っていってほしい噺です。宿屋の主の橘家さんといい、錣山(しころやま)親方といい、その間のやりとりは、とてもきいていてキブンが良いではありませんか。あなたが相撲にしてほしいというのなら体は見ずに弟子にします、なんていいですねえ。笑うネタとしてはイマイチかもしれませんが、人情噺としていい噺ですよねえ。

 どうしてこうなってしまったんだろう?と最近思うのですが、最近噺をきいていてつまらないことが気になります。この噺の場合だと、特に宿屋でのおまんまの場面など、どんだけ食ってんねん?ということですわな。いかに大食らいだとはいえ、人間が食べられる量ですから、笑いをとろうとしてあまりムチャなごはんの量にしてしまうと、聞いていて「ありえねえ」と思ってしまいます。

心眼

 先代桂文楽さんの得意ネタで、今でも大切なネタとしてやられているようですが、私はこの噺、どこが人情噺になっているのか、よくわかりません。一度ナマで、誰かの高座に接すると印象が変わるのかなあ?この噺は、前半で目が見えなくなった、という悲しさを描いて、後半は場面が変わるわけですが、ここのところはきいていてまあ、(気持ちはわかるけれど)気持ちのいい場面ではありません。たぶん聴き手が女性ならなおさら聴いていてキブンが悪いところでしょう。それを、サゲの一言で、はたして帳消しにできるものだろうか。今のところ、私は、この噺がそれに成功しているとは思えないのです。人間の業をよく描いて悲しい噺かもしれませんが、なんとも後味の悪い噺だなあ、と、きくたびに思います。
 柳家喬太郎さんがじっくりとやったこの噺にはそれでもなんだか納得した。難しい。

親子酒

 もともとは、小噺からのネタでしょうね。最後の部分だけで話になってしまいますものねえ。これにいろんなのがついて、親子酒という噺になっているのでしょう。これは、最後のほうは一緒ですが、前のほうはじつにいろんなやり方があって、別の噺かと思うくらいです。だいたい、江戸のやり方だと、お父さんがお母さんに冷えるから何か暖まるものが飲みたいねえ、というところから始まることが多いですね。上方のやり方は枝雀さんのCDでしか聴いたことがない気がするのですが、息子さんがうどん屋さんに寄る場面もあります。ここは枝雀さんできくと実に面白いところです。この手の、上方と江戸では上方のほうがいろんな場面があることがあって、その点でこの噺は上方バージョンのほうが好きです。こういうのは、以前上方落語を江戸に持ってきたりしたこともあるのだから、なんとか持ってくるわけにはいかないのですかねえ。そう簡単なものではないんだろうか。

池田の猪買い

 西のネタです。場面をどこかに移して、江戸でやる、ということもできるのでしょうけど(そうしたら、どこにするんだろう)、江戸でやってる人はいないでしょう。最初はご隠居のお宅から、池田の山猟師の家、そうして、山に登って鉄砲を撃つわけです。めちゃアウトドアなネタではありませんか。
 寄席では落語家さんが次から次へと出てきては、いろんな噺をします。昔から、ネタがかぶることを寄席では慎重に避けていて、そのために楽屋にネタ帳というのがあって、落語家さんは高座に上がる前に、「今日は子供のネタはもうかかっているから違う話にしよう」とか考えることになっています。いつぞや、寄席で何か噺をきいているうちに、やや息苦しい感じがして、それがまあ、ネタこそかぶっていないのですけど、そこま出たネタが、わりと屋内でのやりとりで進むネタが多いからじゃないか、と思ったことがあるのです。落語とはいえ、ずっと家の中にこもってばかりいては気がくさくさするというものです。落語の世界でだって、表に出かけて野山を歩いてみたいとも思うわけです(そう言う割に旅ネタに苦手なものがあったりするのですけど)。そういう意味では、この「池田の猪買い」は、なかなか愉しいではありませんか。猪を鉄砲で撃つのですから、ひょっとすると血なまぐさいお話になるかと思うと、意外なオチがまっている、というのも、落語らしいですねえ。

たらちね

 みずからことのせいめいはちちはもときやうたうのさんにしてせいはあんどうなはけいぞうあざなをごこうともうせしが…。「ごこう」って、どういうあだ名なんだろう?
 前座ネタですね。関西で演じられる時は「延陽伯」か…。江戸の話では「千代女と申しはべるなり」なので、「千代」さんなんでしょうけども、「延陽伯」てな名前が昔はあったのでしょうか。謎だ。だいたいもう、わかりきっていて、よほどのことがなければあまり面白くない噺のような気がします。前座ネタは難しい、と偉い師匠がおっしゃるのもわかります。
「寿限無」もそうですが、長い名前シリーズ(シリーズって言っても他にあったっけ?)では、名前を読みながらお経のようになっていくのが、いつものパターンです。確かにウケるのでしょうけども、ワタシはどうもこれ、抵抗があります。「寿限無」では子供の名前、「たらちね」では、初対面のお嫁さんの名前をお経にするっておまい、なんて無神経な奴だよ!と、なんかムカツクのですよ。そんな細かいこと考えて落語聞いてるなんてオカシイんじゃないの?とおっしゃるかもしれませんが、ワタシは気になります!なりませんか!!?(誰にきいてるんだよ)

不精床

 わりあい軽いネタですが、このネタはけっこう好きです。わりと命がけでバタバタしている点が気に入っているのかもしれません。ただ、最初の「頭やっとくれヨォ」っていうやりとりは、よほどの噺家さんじゃないと、きいていてしつこく感じてしまう。もうやめる人が出てきてもおかしくないのではないかな。

 この噺、だれでもやるクスグリではないと思いますが、桶の中のぼうふらの沈むのを客が喜んでるところがなんだか好きです。のんびりしているというか。子供だったらこういうの喜ぶかもしれませんね。子供がやって楽しいことはきっと、大人がやったって面白いんです。いっつも、そう思います。小さい頃は、川に魚を捕りに行ったり、山に虫をつかまえに行ったりしました。きっと今だってそういうのは面白いんだろうなあ。海辺で夏、やどかりを捕まえている、子供よりお父さんのほうが楽しそうなことが、あるじゃあありませんか。「おとっつぁんなんか、つれて来なきゃよかった」 とか言われちゃったりして。
 眉毛をそり落とされた客が、どうすんだこれ!!と怒ると、「なぁに、片側町を歩きゃいい」 っていうのが本来のサゲらしい。イミわかんない。今回は噺の中身にほとんど触れていないという…。

子ほめ

 たぶん口演回数のもっとも多い噺じゃないでしょうか。落語らしい落語といえばそうなんですけど、いい加減にしてくれーって感じ。たらちねとか。そう思うだけに演じるのは実はとても難しいのかもしれません。
 前座噺、っていうのは、流行り廃りがあるものでしょうか。五代目の小さんさんのところでは、入門するとまず必ず「道灌」をやらされるそうですが、私はあんまり寄席で「道灌」をきいたことが無いような気がします。寄席が開くとたいてい最近はこの「子ほめ」とか、「たぬ賽」とか、「たらちね」に当たる気がする。もしかしたら、切れ場が作りやすいとかいう事情もあるのかなあ?「千早ふる」なんて、途中で切れませんからねえ。それとも千早は前座噺じゃない?

 前座噺はたいていあんまり好きではないけれども、前座噺も確かかなりいろんなネタがあったように記憶しています。錦明竹とか、松竹梅とか。すこし変化をつけてほしいですのう。

長短

 落語の題名というのはじつに、単純でございますな。あくびの指南をするから「あくび指南」 子供をほめるから「子ほめ」 不精な床屋さんだから「不精床」 こんなのばっかりです。この「長短」も、気の長い男と気の短い男が出てくるから「長短」 シンプルだ。
 けっこうこの噺は好きなのです。どういうわけだかが、自分でもよくわからないのですが。この、正反対の二人のやりとりに、おかしみを感じているのかな。
 最近思うのですが、どうも、この噺は、あまり若い人がやる噺じゃないのかな。どうも、気の長いほうの、ほんわぁ…っとした味がきちんと出ないと、短七のツッコミが活きてこないように感じるのです。ほんわぁ…、っと、ちゃきちゃきを交互に演じなければならないので、けっこう大変なおはなしなのかも?

熊の皮

 この手の、おかみさんにそそのかれて亭主が何かする、と言う噺は、どうも苦手な気がしているのです。私は独り者ですが、万が一結婚するようなことになったら、こうなりそうだ、と思うからでしょうか。しかし、この噺は、今はどっかに行ってしまわれた柳家三太楼さんの得意ネタで、まったくもう、聞いていてシアワセなネタでした。三太楼さん以外の噺家さんでもちょっと聞いたことがあるのですが、別の噺?っていうくらい迫力が違う気がしました。三太楼さんのですごいのは、お赤飯のお礼に行った先の、先生のキャラクターが活きていることだと思います。三太楼さんの噺には、なにかやりとりの楽しさ、みたいなものがあったと思います。本当に惜しい噺家さんだったと思います。いつか、何らかの形で戻ってきてほしいとつくづく思います。とか書いていたら三遊亭遊雀のお名前で早々と復帰しました。うれしい。

文七元結

 人情噺の代表格の一つですね。かなり好きなネタです。人情噺は年末のネタが多い気がしますね。好きなネタなんですが、聴いていて、いくつか気になることが。吉原の店に、長兵衛さんがやけにあっさりとお久を置いてきてしまうのです。それ以外の演出では聴いたことがありません。なぜ、借金ならどうにでもするから一緒に帰ろう、という演出がないのか、というのがいつも引っかかります。なぜなんでしょうね。
 ものすごく難しいし、ちょっとした演出でものすごく変わるネタのような印象を持っています。吉原のみせ(角海老だったり佐野槌だったり)のおかみさんの気持ちの出し方、それに対する長兵衛の改心、吾妻橋での五十両のやりとり(ここは本当に難しいと思う)、金は置き忘れただけだった、と言うときの文七の反応…。そんなことはしたくないがしなければならない…みたいな、厳しい選択の場面がものすごく多い噺です。それだけにそこをどうクリアするか、が、めちゃ難しいように思います。ただ、うまく行くと本当に会場中びちゃびちゃにできる、すげーネタだと思います。
 実は少しクサイ演出のほうが効果的なのかしらん?と、最近思っている…。

時そば

 別に今回は時そばである必要はなかったのです。
 あのぅ…夜って暗いですよね。この「時そば」では、「ひいふうみいよおいつむうななやあ、なんどきでぃ!」「九ツで」っていうやりとりがあります。九ツ。調べたら夜中ですね。そんな時間に江戸の人はうろうろしたのでしょうか。んー。街路に電灯もない時代、さぞや暗かったと思うのです。酔っ払いの出てくる噺「親子酒」や「替り目」なども夜の噺ですね。提灯も持たずに酔っ払って、月明かりでも頼りに帰ったのでしょうか。まあ、目が慣れる、ということはあって、くらやみでもある程度ものは見えますが…。春の闇、夏の闇、秋の闇、冬の闇、みんな違いますね。最近、夜の噺を聴く時は、そこいらあたりを想像しながら聞いています。
 「時そば」 すこし歳のいった、風格のある師匠がたの語りで聞くと、冬のさむーい夜の情景が浮かぶようで、なんとも情緒のあるおはなしですね。

芝浜

 人情噺の超名作だと思います。このネタの気になるところは、本当に女房は亭主を騙せたのか、という点につきます。腹掛けのドンブリに財布を入れてくるのです。湿ってたり臭くなってたりしませんかね。まあ、それは新しい腹掛けを用意すればいいのでしょうけど…。どこかで破綻しやしないかという気がしてしまうのです。
 志ん生のをこの間聴いたら、芝の浜から帰ってきて、金を数えた後、亭主を寝かせ、しばらくして女房が起こすという演出になっていました。これは、時間的に明らかに無理がある演出ですね。志ん生がやるから許されるようなものかも。どう無理があるかと言えば、「河岸に行く→鐘を聞く→芝浜で一服→財布を拾う→帰宅してお金を数える→寝る」これが済んで再び河岸に行く時間に起きてどうか、ということです。これは家と河岸が相当近くなければ無理な設定です。「一旦家に帰るのもバカバカしい」と言うセリフがあるので、そう近くはないはずです。「金を数える→寝る(翌朝)起きる」だとすれば、ワケもなく朝から翌朝まで寝たということになりますます無理な設定になります。
 馴染みのある演出では、浜から帰って一眠りして湯へ行って友達を連れてきてどんちゃん騒ぎ、寝てしまった亭主を翌朝起こす、というふうになっています。この演出でないと、私はこの噺は破綻してしまう気がします。ただ財布を拾う夢だけで改心もしないでしょう。苦しいときにどんちゃん騒ぎで一層家計を苦しくしてしまった自分の愚かさが反省に拍車をかける、ということと、時間的に無理がないようにするという意味で、ここに1日の間を置くのは、実はけっこう大事なのではないでしょうか。
 んで、思い切ってじゃあ、亭主が実は夢じゃなかったと知っていた、という演出にしたら?と思ったのですが、そうすっとあのステキなサゲが活きてこなかったりするのですねえ。
 おおみそかにしみじみ話をする夫婦の情景が好きなところです。いい噺ですね。

唐茄子屋政談

 「唐茄子屋」だけでもいいのかな。大阪の「みかん屋」だそうですけど、大阪版は聴いたことがありません。
 このネタはおかみさんが死んでしまう演出と息を吹き返す演出があるのですけど、死んでしまう演出だとどうなっても後味は悪いですね。これは息を吹き返す演出で固定してくれないかなあ。死んでしまってもなんのメリットも噺にとってない気がするもんね。息を吹き返すバージョンだとけっこう好きな噺です…。それでも長いネタで、だれずにきかせるのは難しい噺だと思います。吉原田圃の場面など、ちゃんと聴かせられる人でないとだれてしまうでしょう。
 この前、ある人でこの噺をきいていて、ふと思ったことがあるのです。あの、どこかの路地でひっくり返って、見知らぬ人に唐茄子を売ってもらう演出。ここは、単に笑いをとるための場面ではないんじゃないかな。もちろんこの人情噺を面白く聞かせるために笑いをとる場面ではあるけれど、ここも、ひとつの人情噺ですよね。見知らぬ唐茄子屋のためにひとはだ脱いでくれる人がいるわけです。笑いの場面ですが、考えてみればずいぶんいい話ですよね。ここで人の情けに助けられたから、若旦那は困っていた長屋のおかみさんに手を差し伸べようとした、というのは、深読みしすぎでしょうか。私は、このふたつのエピソードが何かの言葉でつながると、この噺に何かが加わる気がしました。
 誰の噺を聴いて、こういうふうに思ったのか、また、その人が、そういうつながる言葉を言ったのか…というあたりを両方とも忘れてしまったのですけど、何か、そういう印象だけが残っているのです…。

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