精神論という非科学的な根拠に支えられる、

科学技術立国の構想

 

 

例えば「科学では説明できない事がある」という決まり文句がある。

確かに今の科学では説明できない事なんて沢山ある、世の中謎だらけ。

でもそれは、今の科学が未熟だからであって、未来科学はその限りではない。

最近の認識技術の発達で、「科学」という言葉の範疇は

哲学、心理学をも取り込んでどんどん肥大化してる。

今、科学とまったく無関係ともくされる事象のいくつかも、

いつか「科学」の領域に取り込まれる日が来るのだろう。

 

一方、未来科学に対する身勝手な期待も時折みかける。

例えば「コールドスリープで、不治の患者を未来に送る」類いの話。

もし全ての患者を未来に送ったら、不治の病の研究ができないではないか!

未来においても、不治の病は不治のまま…。

時間の経過が不治の病を克服してくれるのではない、

研究素材となる患者の犠牲と医師の研究が病を克服しているのだ。

コールドスリープ装置が開発された日には、

装置の使用権をめぐって患者間での争いが始まるのだろうか。

研究素材となる順番は、くじ引きで決めるのだろうか…。

 

そういえば医学生の解剖実習には、生前に自分の体の提供を希望した人の体が使われるそうだ。

こんな事を書いておきながら、また死後の事にもかかわらず、

自分の体を練習台として提供する勇気は今の私には無い。

 

これらの事から何が言いたかったかというと

大多数の人にとって、科学とは「成果を与えられるモノ」であって

「根拠を理解するモノ」ではなく、

ましてや「自ら発展に貢献するモノ」では有り得ないという事だ。

 

「果報は寝て待て」

なぜ日本の科学はこういった存在になってしまったのか?

それは大多数の人にとって科学者が身近な存在ではないから、だと私は考えている。

科学の成果は身近でも、それを生み出す人間が縁遠いのだ。

今の日本では、文系大学生が理系大学生と顔を合わせる機会はほとんど無い。

文系学部と理系学部はほとんどが別キャンパスで地理的に隔絶しており

部活やサークルも各学部ごとに活動している。

理系人間と文系人間の人生行路は高校卒業後大きく分岐し、その後交わる事はほとんど無い。

高校までと違い自由に過ごせ、縦社会の社会人と比べ人間関係のシガラミが少ないモラトリアム期間

異分野の同年代と本音で話す機会が無いのは、大きな損失ではなかろうか?

長い時間を共に過ごせば、互いの専門分野を話す機会もあるだろうに。

異分野の人にも理解してもらえる言葉を模索するようにもなるだろうに。

筑波研究学園都市なんて、私に言わせれば科学者隔離政策だ。

自殺者が多いという話からも、その弊害を感じてならない。

 

理科系人間の隔離。これは理系離れの要因にもなっていると思う。

私が理系離れの要因と考えるのは次の4つだ。

 

●男性社会

●理科系人間の都市部からの隔離

●過酷な労働条件

●生涯収入の低さ

 

まずは「女性の不在」

大きい! これは非常ぉ〜に大きい!!

過酷な大学受験を乗り越えて、ようやくたどり着いた大学生活。

しかしそこには女がいなかった…。

この状況をアンタはどう思うよ?

 

次に「田舎の生活」

大学の工学部も、事業所 or 研究所も大概は郊外にある。

まぁ「娯楽が少ない and 交通の便が悪い」のは言うにおよばず…。

他にも、専門書を買うときは、地元では品揃えが悪く、いつも新宿まで自腹で出かけねばならない。

専門書(5000円前後)は結構高い買い物になり、当たり外れも大きいので、

中身を確認してからでないと、とても買う気になれないのだ。

結果、専門書より電車賃の方が高くつくありさまであり、正直「ふざけるな」と言いたい!

企業は利益を出すことが大命題であるから、

営業部門以外が郊外なのはある意味仕方がない。

しかし、工学部を都市部の文系学部と同じキャンパスに設置することは

上記した理由から「科学者が社会に認知される」ためには有効な手段だと思うのだ。

 

そして「残業が月に()40()100時間、場合によってはサービス残業」

例えば、定時出社の終電帰りな技術者の父を見て、

その息子は技術者を志すようになるだろうか?

女性比率が高ければ、労働条件も少しは落ち着いたモノになるのだが…。

大学生活にしてもしかり、実習中心の工学系では、時に高校時代よりも時間を拘束される。

研究室は担当教授しだいだが、休日も活動している研究室が多い。

以前、工学部硬式テニス部でレギュラーだった研究室の先輩とテニスをした事がある。

私は中学時代に軟式テニス部に所属して以降、テニス経験は8年ほどのブランクがあったのだが

その先輩にサービスエースのみで勝ってしまった(4ポイント先取制)

確かに、サービスは中学時代の私の得意技ではあったけど…

つまり工学部に所属していると、その程度にしか練習時間が取れないのである。

結果、文系学生とは生活時間が合わず運動部は文系と理系で分かれて活動している。

 

最後に「長時間労働、低賃金」

文字通り、割に合わない話である。

また、最近は特許に対する相当の対価が見直されつつあるが

それで利益を得るのは少数のエリート技術者のみである。

確かに特許執筆も技術者の仕事であり、私自身この一年ほどで4本の特許を書いている。

しかし、そのほとんどはノルマで無理やり書かされた金にならない特許である。

金になる特許というのは今後の成長分野における基礎的技術なのだが、

そういった分野は会社に見込まれたエリート達が担当している。

(まぁ確かに、技術を基礎から理解しようなんて気概のある技術者はそう多くはなかったりするが…)

大半の技術者には、金になる特許を書く機会はなかなか訪れない。

「低賃金分は特許で取り戻してね」なんて言われたら、たまったものではないのだ。

 

とまぁ、理系離れの犯人探しを始めたら、容疑者には事欠かない。

つまるところほとんどの理系職種は、見返りの見合わないハイリスクなだけの仕事なのだ。

今、理系職種を仕事とするには、これらの障害を乗り越える強い意志が必要である。

政治家の方々は、理系のこういった状況を把握しているのだろうか?

科学技術立国の構想が、学生の志-すなわち非科学的な精神論-に支えられているとしたら

とんだお笑い種である。

確かに志は一個人の人生を変える力となるだろう。しかし環境が変わらなければ社会状況は変わらない。

理系の抱えるリスクを放ったらかしにして、技術立国が成り立つわけが無い。

 

現在、国立大学の法人化が決定しているが、大学経営が効率化された結果

工学部系の郊外への移転により、ますます科学者が社会から隔離されるのではなかろうか?

金の配分を変えて競争を促せば、実験要員たる学生の自由時間の犠牲により、目先の技術は発達するかもしれない。

しかし理系の雇用の受け皿である技術職の労働環境が改善されねば、理系人口は先細りするだけだ。

このままでは、技術は育っても技術者は育たない。

結局、政治家の本音は「技術成果に興味はあっても、技術者に興味は無い」という事なのだろう。

 

けれど無い袖は振れない訳で、これではただの無い物ねだりである。

しっかーし、我々は今「国策、科学技術立国」という大義名分を手にしている!

今こそが好機!!

我々の地位向上のため、人並みの生活を勝ち取るために、立て技術者よ!

といったところか…。

 

 

とはいえ、技術者側にも問題はある。

自己犠牲を美徳とする古い体質だ。この体質がエスカレートすると

次のような発言を聞くことになる。

「オレはこんなにサービス残業してるんだから、お前もしろよ!」

本来、サービス残業に対する不満は経営者に向けるべきモノだが

その矛先は、経営者に優遇されている身近な隣人に向かうのだ。

結果、互いに労働条件改善の足の引っ張り合い。

お上に不満は漏らしにくいと思うが、足の引っ張り合いは勘弁してくれ。

 

先ほど、「理系と文系の大学生に対話の機会を」と書いたが、

おそらく最初は軋轢が生じるだけであろう。

まだまだ青くかつ自由の少ない理系学生が、悠々自適な文系学生を目の当たりにして

黙っていられる訳がない。

しかし、文系学生にとっての理系人間が「異世界の人」であるよりは

「技術成果は欲しい、でも技術者はやっかいな隣人」であった方が

まだしも技術者の待遇を日常的事柄として考えてもらえるのではないか?

文系大国日本においては、文系の日常に介入しないかぎり理系の境遇は改善しないと思うのだ。

また、理系学生の方も「古い美徳を振りかざしても、文系の理解は得られない」と気づき

一皮向けてくれるのではないか?

 

実際、周りの理系出身者と話していても、

専門用語の羅列になるだけで、独自のロジックを語る機会が少ないように感じます。

既存のロジック(常識、一般論)を知識としてストックはしていても、

自らロジックの構築に取り組んでいる人がどれだけいるのだろうか?

ロジックすらも他所から仕入れて済ませてはいないか?

結局覚えるばかりで、考えてはいないのではないか?

 

具体例として、以前に私が同期とした「自動車免許の使い方」についての議論を紹介します。

「免許を取ったのは車に乗るためでなく便利な身分証が欲しかったから、ゆえに免許はAT限定」

という私の言い分に対し、同期から

「免許は車に乗るために取るもんだろ!身分証のためなんて動機が不純じゃないか?

しかも限定免許かよ!!

それは男としてどうなんだ!? あきらかに間違ってる!!」と言われた事があります。

一方、彼は常日頃から

「外国に行きたくは無いけど、会社に能力をアピールするためにはトイックの勉強しないとなぁ…」

と口にしていたので、私はこう反論しました。

「外国で話すためでなく、点数のために英語を勉強する事と、

運転をするためでなく、身分証のために車の免許とる事と、一体何が違うの?」

それに対する同期の返答は「なんだかむかつく…」

いや、「むかつく」って…。

人の人格批判までしといて、自分の矛盾を指摘されたら逆切れ?

 

「免許を取る」というのはあくまで手段であって、「免許の使い方」は人それぞれが決める事。

この大前提を認識してれば、そう簡単に人格批判には至らないと思うのだけど…

「点数のための英語の勉強」は一般的な行為であっても

「身分証のための免許取得」は非常識という事なのだろう。

やっている事は変わらないのに、その良し悪しは常識的か否かで判断される。

信号の色にかかわらず、みんなで渡る事は肯定され、一人で渡る事は否定されるのだ。

 

個々の常識は、それぞれ異なるコンセプトから生み出さた論理である。

当然、個々の論理には矛盾し合うものが存在するわけだが、常識という言葉で無理やり一括りにされている。

「常識で考えればわかるだろ!」とか、「当たり前だろ!」なんて発言は、

反論ではなく「ただの罵声」であり説明責任の放棄でしかない。

結局のところ「常識とは、自分の都合を押し付けるための方便」というのが私の考えだ。

 

なぜ、常識というものが、世の中でこんなに幅を利かせているのだろう?

それは多くの人にとって、学生時代に異分野の人がいないため

人との交流のほとんどが、「共感」で事足りたためではないかと、私は邪推している。

特に理系は、就活においても学業(偏差値)の評価が大きいためか、均質化しているのを感じる。

 

一個人の人生経験に限りがある以上、一個人が共感できる事にも限りがあるわけで…

共感できない事柄は、推理と想像で補うしかないと私は考えている。

共感に言葉はいらない。

(ややもすれば、 YesNoに答えるだけで共感できたつもりになっていないだろうか…?)

しかし共感の通じない人とは、まず推理や想像によって自他の違いを明確にし、そのギャップを埋める説明が必要になる。

この事前説明が面倒で、常識や一般論を持ち出してしまう事がままあるのだ。

異文化コミュニケーションにおいて、常識への依存や一般論の多用は誤解や矛盾の温床となる。

けれども常識という前提(インフラ)を棄てて、それに代わるロジックや言葉を一個人が生み出すのは

非常に手間のかかる話であり、訓練や慣れ、さらには覚悟が必要なのだろう。

 

むろん一般論を排し、独自のロジックや自分の言葉で会話してくれる同期も何人かいます。

そんな人は揃いも揃って大学時代にサークル等で文系学生と交流していた人たちなのが

私の「文理の学生を同キャンパスに」という主張の根拠となっているのです。

ある意味、言葉の壁に守られる事で、他国の文化とのギャップを感じる機会の少ない日本人にとって

理系と文系という、国内の2大文化が交流の機会を持つのは

異文化コミュニケーションのよい訓練にもなるのではないでしょうか。

 

 

 

(追記)

半ば愚痴入ってた本コンテンツですが、恥ずかしくなったので多少修正。

合わせて、このページのタイトルを「科学技術創造立国という妄想」に変更し、

ちょいとケレン味を加えてみました。

今後、多少なりとも技術者の生活水準が改善されれば良いのですが…。