その3
『
かくれんぼ』

「ドォーン、ドォーン、ドォーン」
神社のほうから初太鼓の音が聞こえてくる。
ここは街から七キロほどクネクネ道を登った山腹の集落に、ひときわこんもりとした古木や大木が取り巻いた神社がある。その神社を遠巻きにして、ポツンポツンと民家が点在する集落があった。
南の方の細い農業用水路の下には、段々に狭い田んぼが幾つもあり、小川が通り抜けている。
川のむこうは低い山並みが重なり、遠山の一帯は住宅団地がかすんで見える。
正月の三日である。雪が舞っている中を、参拝客が長々と列をなして、ひとときのざわめきが村を包んでいた。
近所の子供たちは、誘い合ってかくれんぼをすることになった。
竜也たちは、十人くらい集まったので、みんな神社のほうに上っていった。参拝客の間をぬって本殿まで階段をかけ上がった。志津はしばらくたって、青い顔をして上がってきた。同じ中学二年生、となりのクラスである。
今日はみんなが知らない、眼鏡をかけて背が高く青白い新顔がいた。竜也のクラスなので誘ったのだ。誰かがたずねると一ヶ月前にこちらに移ってきた、名前は高橋正樹、と言う。ルールを教えてじゃんけんしたら、正樹が鬼になった。彼が目隠しして一、二、三と数え始めた。みんなすばやく人ごみの中に逃げこんでいった。
竜也はすぐ横の出店の前を通りすぎて、神社の裏側の道を渡ってくぬぎ林に出た。林はそそり立つ山に向かって三百メートルほどに広がっている。
左側のゆるやかな斜面は、大木の森である。その中の何本かに大きな空洞を見つけていた。
バサバサッと音がして、振り返ると志津が足をすべらせて起きあがるところだった。
――なんだ、俺が見つけた場所なのに。
と思ったが、下の方を指さして走った。
「ハァハァ、ハァハァ」
志津も入りこんできた。
「わたし、いつもまっ先に見つけられるし、鬼になったらダメなんで、ついてきたんよ。ごめんね」
そう言うと竜也の怒った目を見て身を引いた。竜也には気が短いところがあって、何度かなぐられているからだ。
「まっ、いいかな」
「はいっ」
志津がニッと笑い、右手を開いてキャラメルを一つ差し出した。
えっ、と竜也は言い、志津の手に目をとめた。親指から人差し指にかけて一センチくらいの傷あとを見て竜也は驚いた。それに気づいた志津は、さっと手をうしろに引っこめた。
「やけどなんよ。見られちゃった。てんぷら油をひっかけちゃったの」
志津は、うかがうような目をしてうつむいた。
竜也は、母から聞いたことがある。志津の母親は三番目の子供を産んだあと亡くなったと。それからの志津は食事を作ったり、体の弱いおじいちゃんや二人の妹弟の世話をしていた。そのうえ畑仕事をしなければならず、それでめったに遊びに出てこないこんだな、とは感じていた。
竜也は今、やけどのあとをみて、見たことを申し訳なく思った。
「このアメ、うめぇ」
ほっぺたをたたくと、志津もにっこりして口に入れた。
「このうちもらった大根うまかったよ」
「ほんと?」
「うん、その前のキャベツとかも、スーパーで買ってくるものより味がいいって母ちゃんが言ってた」
「店で売ってるのはきれいだけど、農薬使ってるんよ。あたしのは虫は手で取るし、肥料は、牛を飼ってる山本さんが堆肥を持ってきてくれる」
「そっかぁ。じゃーキャベツは、虫が食ってるのほうがいいんだな」
「レタスにはナメクジがつくんで、取るのが気持ちわるいんよ。でも慣れちゃった」
「なんでも虫がつくんだな」
「山の木や草は肥料やらなくても、ちゃんと育ってるわね」
「うん、木もあんなに大きくなるし、草も毎年生えてくるもんな」
「枯れ葉が落ちて、それを地面で虫がたべたり、目に見えない細菌が食べて肥料にしてる。だから自然の肥料なのね」
「そっかぁ、目に見えない生き物もいるんだ」
「うん。落ち葉の下には、ミミズやゾウリムシとか、沢山の虫が住んでいる。生きた土には、細菌や小さな虫たちがたくさん住んでる」
「木と虫たちが助け合ってるんだね」
「畑もそんな土にしないといけないんだって。化学肥料やったり薬を使ったりすると、野菜にもそれが残るんで、人間にもよくないそうよ」
「毒みたいのが残るんだな」
「野菜は病気にもなるんよ」
「えっ、病気に?」
「同じ場所に、同じ種類の野菜植えたら病気になりやすい。だからなるべく場所をかえてるんよ。トマトが一番難しいのね。こればかりは薬で消毒しないと」
「お前って、野菜作りの先生だなぁ」
「そんなこと、みんなおじいちゃんが教えてくれたんよ」
志津はニコッと笑った。
「ふーん。俺んちの畑は、じいちゃんが腰を痛めてから草だらけになっちゃった。これも自然だけどな」
「ふふっ」
かわいいえくぼを見せた。
「もうみんな帰っただろうな」
「あたしも夕ご飯の支度しなきゃ」
空洞から出て神社の方に戻ると、そこに正樹がひょろっと立っている。
「みんなどうしたんだい」
竜也は、少しうしろめたい気持ちで言った。
「みんな帰ったよ。あんたたちを見つけないと帰れないぞ、とか言って」
「ごめんごめん。俺たち、あの森のほうだったんだ」
空を見上げると、西空は赤く孔雀色にそまり、ゴオーッと冷たい風が木の枝を震わせていた。
∞
竜也と志津は三年生の頃から、気が合っていつも一緒だった。みんなと遊ぶとき以外にも、二人は誘い合って遊んだ。
夏の間は、蝉取りに熱中した。
竜也は、あちこちから蜘蛛を集めてきて、家のまわりは蜘蛛の巣だらけになっていた。
細い竹の棒の先に、竹の枝を丸く差し込んで、それに蜘蛛の巣を巻きつけて、それで蝉の羽にくっつける仕掛けである。
神社には、さまざまな蝉が集まってくる。にいにい蝉、あぶら蝉、みんみん蝉、くま蝉、ひぐらし、つくつく法師など。中でもみんみん蝉、くま蝉、つくつく法師はすばしこいので捕りにくい。
暑い日射しを浴びて、竜也は仕掛けを持ち、志津は麦殻を編んだ入れ物を持って神社に向かう。
あぶら蝉を五匹捕ったとき、すぐ近くの木でみんみん蝉が鳴き始めた。高い所なので仕掛けの棒が届かない。竜也は靴を脱いで木に登り、志津から棒を取ってもらった。
その時、入れ物からあぶら蝉が二匹逃げていった。ふたをしていた手を外したからだ。竜也は「ばかっ」とさけんだ時、みんみん蝉も逃げてしまった。腹を立てた竜也はスルスルと降りて、志津をなぐりつけた。志津は小さな手でしっかりとふたをしたままうつむいていた。
また、神社の裏のくぬぎ林のはずれのほうにイチゴ山があって、二人で麦殻で編んだ入れ物を持ってイチゴ採りに行った。入れ物いっぱいにイチゴを採って、草道を歩いていると「キャー」と志津がさけんだ。
見ると黒いヘビがいる。竜也は入れ物を志津に持たせて、そのヘビの尻尾をつかんで向こうに投げすてた。そのときまた「キャー」と言って志津が転んで竜也の入れ物からイチゴがこぼれてしまった。
そのヘビも投げすてて竜也は志津の背中をなぐった。志津は黙ってイチゴをひろい集めていた。
魚捕りにも行った。
夕方、長い糸に枝針を七本くらいつけて、餌はミミズ。糸の先に小石を結んで投げこんでおく。翌朝暗いうちに起きて引き上げに行く。志津は必ず入れ物のバケツを持っていく。
細い道は草に朝露があって、ズボンはびっしょり濡れるが、魚がかかっているか、どうか期待で胸がワクワクするひとときであった。
あるときはウナギが釣れていて、竜也が針を外すとスルスルと逃げて捕まらない。志津も捕まえたが、ニュルッとして川の中に逃げてしまった。竜也は志津の肩をなぐった。志津は、しばらくの間、逃げた川面を見つめていた。
五月から六月にかけて、リュックを背負いワラビ、ゼンマイ刈りに山に入った。
細い山道を奥へ奥へと進み、山と山との間の薄暗い場所、急な傾斜を登ったところにゼンマイを見つけた。
谷川を挟んで反対側の傾斜にもゼンマイを見つけ、竜也は谷川を跳び渡ったが、志津は「こわい」と言って尻込みするので、「思い切って渡れ」と竜也の声でぴょんと跳んだが、足が届かず岸にしがみついた、その手をしっかり握って引き上げた。膝から血を流している。竜也はシャツを脱いで引き破り、巻きつけてやった。
そこはあちこちに沢山のゼンマイがあって、竜也のリュックがいっぱいになったので、志津の分をとってやり、それもいっぱいになったので帰ることにした。
その山を越えて小道を歩いて、前の道へ戻ろうとしたが、どんどん奥へ行くばかりで、右も左もわからなくなってしまった。
日は落ちて山の中は暗く、道も見えなくなりそうであった。竜也と志津はまた反対の方向へ歩いていくと、道は川に出て行き止まりになった。
チョロチョロと水の音、暗闇のなかからホーホーとふくろうの声、気味が悪い。
「こわいよー」と志津は泣き声になった。二人はしっかり手をつないでいるが、竜也も泣きたいのを我慢していた。
そのとき「おーい、竜也ー、竜也ー!」とおじいちゃんの声が聞こえてきた。
「おじいちゃーん、おじいちゃーん!」
竜也は、思いっきりさけんだ。
このときの怖く寂しかったこと、助けにきてくれて喜んだことなど、竜也は昨日のことのように思い出すことができる。
∞
竜也の家族は、おじいちゃん、お母さん、それに二つ下の久美である。お父さんは交通事故で亡くなった。おじいちゃんは営林署に勤めていた、という。
お母さんは八年前のことを今でもあきらめきれない、と話す。
その事故は、新しい建設会社に替わって三日目に起きた。
朝の出勤途中、大型トラックがカーブを曲がりきれず衝突してきた。お父さんの車はめちゃめちゃになり、病院に運ばれたときはすでに息がなかった。
前の会社で、お父さんは堤防を造る現場の責任者だったけれども、作業中にクレーンが倒れ、作業員が二人亡くなってしまったのだ。事故は、クレーン運転手の不注意によるものだったが、父は責任を感じてその会社をやめた。その時は、会社のほうからやめないでくれ、と家に何度もきたけれど、父の気持ちは変わらず、給料の安い会社に移ったのである。
会社を替わっていなければ交通事故にもあわなかったのに、とお母さんはくやしくてならないのである。
その夜、おじいちゃんはコップ酒を呑んでいた。腰を痛めているがお酒は欠かさない。
「安夫のおじいちゃんは、神社の付近に山を持っていたのを全部売り払って、その金で海産物の商売を始めた。最初はな、ずいぶんいい商売だったけど、店を大きくしたり、住宅団地やゴルフ場のために、どんどん奥の山がこわされていくに連れて海水は汚れ、昆布や魚の量が安定しなくなり、破産してしまった。今でも借金がかなり残ってるんで、安男の親は夫婦げんかが絶えないんだ」
「なんで山が減ると海が汚れるの?」
「そんなこと、学校でまだ習わんかな。お前たちによく知ってもらって何とかしなけりゃ地球もおしまいになる。山はな、雨をためる力を持っている。でも山土だけで木が生えてなければ、降った雨はそのままドロ水になって川から海に流れる。木は根っこでしっかり土をつかんで、また枝葉で大きく地面を守っているので降った雨はゆっくりと川に注ぐ。ゆっくりとしみ出る水ほどきれいなんだな。木も大きいほうが根っこも張っていていいんだけど、今は大木といえば、神社とかお寺のまわりしか残ってないよな」
「うん、そうだね」
「木はほかにも、人間たちや動物の役に立ってるんだけどな」
「知ってるよ、二酸化炭素を吸って酸素を出すんだよね」
「うん。それが自然なんだけど、山が減っていくと、そのバランスがこわれてしまうんだ。空気中の二酸化炭素が増え過ぎると、人間たちが生きていけなくなるんだ」
おじいちゃんは、静かにコップを置いて続けた。
「志津のじいちゃんはな、大阪から移って来たんで山は持たないし、田んぼと畑は、ここから出ていった人から買ったものだ。田んぼの農業用水路は、あの人が頑張ってくれたお陰でできたんだ。あの人はあちこちの山仕事や、道路工事に雇われて生活してきた。無理を重ねて身体が弱ってしまったんだ」
「今度、僕のクラスに高橋という者が転校してきたよ。背が高くってやせっぽちだけどね」「お宮の裏に大きな家が建ってる。そこの息子だろう。田舎の山を安く買ってそれを高く売りつけてもうけてるらしい。お前のクラスの安男のじいちゃんもあの人に売ったんだ」
おじいちゃんは、しわの目を細めて遠くをみつめていた。
そこへ台所から、お母さんがりんごを持ってきて、皮をむきながら言った。
「おじいちゃん。わたしの仕事なんだけど、今度レジ係から事務になりそうよ。そうなったら、帰りが遅くなるかもしれない」
「どうして?」
「なんでも、レジの仕事がみんなより遅いって」
「それぞれ人によって、早い遅いはあるだろう」
「遅いのは自分でもわかってるのよ。若い人のようにはいかないもの、くやしいけど」
「遅くても正確ならいいのにな」
「もう店長から言われたので仕方ないのよ。事務になると売り上げと、金額が合わない時はなかなか帰れないそうなの。でも食事の準備はしておくから」
「いいよ、あんたも大変だな」
――母ちゃんにも仕事の悩みがあるんだな。
竜也は、初めて母の苦労に触れた思いがした。
∞
翌日、竜也は親友の安男と志津を誘って、正樹の家に行くことにした。
三人で神社の裏山に出て眺めると、すっかり葉を落とした裸のくぬぎ林の一画に、周囲を塀で囲まれた、すごくでかい家が建っている。
近づくにつれて、胸がドキドキするほど大きく立派に見えてきた。
入り口の門でおそるおそるボタンを押した。
「はい、どなたですか?」
インタホンの声がした。
「こんにちわ。正樹くんいますか?」
「ええ、いますけど今から塾に行くので遊べませんよ」
お母さんの声のようだ。
玄関の音がして門が開いた。青白い顔の正樹が薄笑いしている。
「ちょっと君の部屋を見たいと思って」
「いいよ、ちょっとだけなら」
門から玄関まで十メートルくらいで、きれいな石を敷き詰めてある。右側の広い車庫には外車と思われる車が二台光って見える。左側の噴水の池には、ゆったりと美しい鯉が泳いでいる。
正樹の案内で二階に上がった。広い部屋には、大型スクリーンのテレビと、ピカピカの机や椅子があった。カレンダーに何か書いてあるので、近づいてみるとピアノ、そろばん、英語、習字など習い事がびっしり書きこんである。
大きい本棚には、百科事典、英和辞典、高校受験の参考書のほかに昆虫図鑑、動物百科などがぎっしり並んでいた。
「へえー、すげーな。街まで通ってるんだな」
安男が目を丸くして言った。
「塾なんか嫌なんだけど、母ちゃんが車で送り迎えするんで仕方ないんだ。福岡では塾が当たり前なんだよ」
正樹は眉を寄せた。
「金持ちは違うなぁ、俺んちなんか借金だらけなんだから。ま、金があっても俺はこんな勉強は苦手だからな」
安男は頭をかいた。
「これじゃー、なかなか一緒に遊べないよな」
竜也が、カレンダーを指さして言った。
「正樹、早く早くしなさい。時間だよ」
下のほうから母親のせき立てる声がとんできた。車のエンジン音が聞こえる。
「じゃー、またな」
三人も家を出た。
――正樹は、まるで池に飼われてる鯉みたいだな。
竜也は池を見ながら、そう思った。
∞
「兄ちゃん、安ちゃんだよ」
妹の久美がかけこんできた。
外へ出てみると、横なぐりの雪の中で目を細めた安夫が、ポケットに手をつっこんで足ぶみしていた。ふくろうのような目をしていて、口は大きい。
「きょうは二十本もらうかな」
ニヤッと笑う。
安男は竜也と同じクラスで、学校のテストではいつも先生にしかられているが、サッカーの選手であるし、誰とでも気軽に話すので、女の子にも人気がある。安男は、折り紙とか竹トンボ作りも、尊敬するほどうまい。安男はサッカーのプロになって、おじいちゃんの借金を返すのだ、と言っている。
小さなゴールは、おじいちゃんが庭のすみに作ってくれた。その時、はしごから落ちて腰を痛めたのである。
十本ずつ、キックとゴールキーパーを交代して降りしきる雪の中、二人は白い息をはずませて戦った。
安男のキックは右と思えば左に、左と思えば右にくる。また、上と思えば下にくる。まるで見当がつかなくて正確だ。股の間を通されたりすると、竜也は腹が立つけれど、すごいなぁ、と敵ながら感心するのだ。
汗をかいて腰をのばしたとき、あたりはうす暗く雪はやんでいた。久美が合間に持ってきたモチはそのまま置いてあった。
三十本のうち安男が二十五本、竜也は十三本であった。
「やっぱ、負けたか」
竜也の口ぐせである。
「いんや、お前が強うなったんで苦労する」
安男は、またニヤッとしてアメを三つさしだした。
「じゃあまたな。宿題が頭いてぇ」
安男は口にモチを押しこんで、細道をかけ降りていった。
「強いなぁ…、夫婦げんかか」
――親のケンカも頭いてぇだろうな。
竜也はそう思いながら、軽くボールをけりこんだ。
∞
夫婦げんかは小さなことから始まる。
「このみそ汁、味がないや」
お父さんが小声で言う。
「そんなことないでしょう。みんなどうね?」
「このくらいでいいよ。血圧にもいいしね」
おばあちゃんは、足が悪くなってからは、特にお母さんの味方である。おいしかった、と言い、お父さんに片目をつぶって、よろっと立ち上がった。
「みそ汁は、料理の基本だからなー、毎日こんなことじゃ仕事にならん」
「お味噌だってお金がかかるんだからね、ぜいたくは言ってられないよ。あんたたちもそう思うだろ、どうね?」
「……」
安男も妹の小夜も、ガブガブ飲んで梅干しをおかずにしている。小夜は三年生である。二人ともお父さんの言う通りだと思っている。
「ごちそうさん」
おじいちゃんが、いそいそと帽子をかぶって外へ出ていった。
雲行きがあやしくなってきた。
おじいちゃんは、夫婦げんかの原因を作った自分を情けなく思う。わしもあのとき店を広げなければよかった。ばあさんがあれほど止めるのも聞かず、借金して店を大きくした。もっともうけて立派な家を建て、安男たちも大学までは絶対行かせてやりたい。思うようにはいかないもので、仕入れた分が売れずに残るようになったし、海が汚れて仕入れも安定しないことも重なったのだ。
「これほどの借金かかえて、ぜいたく言えるの?」
「これはぜいたくじゃない。普通の話だぞ、こんなもんでケチってなんになる」
「おじいちゃんの借金を毎月払っているんだよ。私が、近所の手伝いでお金もらわないと払えないんだよ。そんなことを考えたら、文句ばかり言えないはずだよ」
「借金、借金いうな。おじいちゃんは家族のことを思ってやったことだ。少しずづ払っていればなんとかなる」
「なんとかならないから言ってるんだよ。こんな借金だらけの家、うちだけだよ。つべこべいいなさんな」
「つべこべとはなんだ。俺が主人だぞ」
「安い給料しかもらえないあんたに、主人の顔されても迷惑だよ。安男が小さいのもあんたに似たんだよ」
お母さんはがっちりと大きいが、お父さんはやせて小さいので、いつもお父さんは見上げて言い合っている。
「安男が頭が悪いのはお前に似たんだ。お前には田んぼの力仕事がちょうどいい」
「あんたはちびすけなのに、口ばっかしなんだから。あんたに何食べさせたって五十キロから太れないよ。借金はもう払わないよ、じいちゃんがなんとかすればいい」
安男は、ナイフと折り紙などをバックに入れて家を出た。ケンカのときは、いつも自分のことまでとやかく言われるのが頭の痛いところである。
「ちびすけとはなんだ、お前の料理が悪いから太らないんだ。このかいぶつが!」
「ちびすけが借金を払いなさい。私はしらんよ!」
だんだん声が大きくなる。
「六千万の借金、どうするの!」
「何かと言えば借金、借金とうるさいやつだ!」
「借金があるんだから、そのつもりでものを言いなさい!」
「お前から命令されることはない。こいつ!」
「やめてー、母ちゃん!」
小夜のさけび声が聞こえてくる。
つかみかかっていくのはお父さんだけど、軽く投げとばされたり、七十キロの体で押さえこまれてしまうのだ。
家の飼い犬はジッと静かにながめている。一度は庭先でお父さんが押さえこまれウンウンうめいているとき、お母さんの大きなお尻に噛みついて助けたことがあるらしい。
声が大きくなると、近所の飼い犬がほえはじめる。まるでケンカをとがめているようである。馬鹿らしくなって、ほえるのをやめた賢い犬もいる。
ケンカはいつ起こるかわからない。付近には七軒の家があって、安男の家から五軒目の竜也の家まで、はっきり聞こえてくる。台風で傾いた家のすきまから、すぐ前の山に突き当たってそのまま戻ってくる。
夜の場合は、犬の声も混じって大変なさわぎで、近所の人は寝不足になり、これが二日も続くと、翌日は田んぼで居眠りしたり会社を休む人もいる。でも大きな借金に同情しているのか、苦情を言いにくる者はいない。
安男は近所に恥ずかしい思いをするし、借金もおじいちゃんが家のことを思って商売を始めたもので、海が汚れたりして失敗したのだから仕方がないことなのだ。お母さんがうるさ過ぎるのだ、と思っている。
おじいちゃんがなかなか戻らないのでさがしていたら、小雪が舞う田んぼの積み上げたワラの中で震えていたことがあった。
∞
こんなとき安男は、志津のところへ行って折り紙を教えたり、志津の弟に竹トンボを作ってやる。竜也の家に立ち寄って久美をさそっていく。
「志津ちゃん、あそぼ」
久美が呼びかけた。
「うん、ちょっと待ってね。おじいちゃん、喘息がでてるから」
志津は、コンコンと咳をして真っ赤になった、おじいちゃんの背中をさすっているところだった。
「志津、もういい。おさまった」
おじいちゃんはうつぶせのまま言った。
「おじいちゃん、今朝この薬飲まなかったでしょ、はい」
コップに水を入れてさしだした。
「おう、いつも忘れるんでのう」
安男は自分のじいちゃんは、今ごろどこにいるのかな、またワラの中だろうか、と思って志津のおじいちゃんを見ていた。
「きょうは折り鶴、教えてね」
志津は折り鶴をたくさん作って、おじいちゃんの病気を治したい。
「うん、教えたる。ちょっと難しいけどな」
「あたしもよ」
久美が口をとがらして言った。
「お前は風船だな。それができるようになってからだな」
志津はコタツ机を持ちだしてきて、安男の横にすわった。
安男の手もとを見ながら折っていく。志津がその折り方を手をそえて教える。久美はちらちらと安男を見て風船を折っている。
「ここから難しいのね」
志津は、紙に顔をくっつけるようにして折っている。
「うん、ここからきっちり折らんとダメだよ。ここに合わせるといい」
「できた。できたわ」
「それができたら、今度いろんなのを教えてやるからな」
「できたよ」
久美が風船を見せた。
「おー、できたな。だけどここがそろってない」
風船をほどいて順番に折っていき、ここからきっちり折るんだぞ、と言って久美にわたした。
そこへ妹と弟がやってきた。
「ぼくには竹トンボだな」
安男はカバンからナイフと竹を取りだして、さらさらとけずりはじめた。みんなそれをみつめているうちに竹トンボができあがった。
「すごいねぇ。兄ちゃんにも作ってよ」
久美は兄の喜ぶ顔が浮かんだ。
「お安いご用だ」
安男は胸を張った。
∞
その夜、久美が九時すぎに帰ってきた。
「兄ちゃん、はい」
と竜也に竹トンボを差し出した。
「どうしたんだ?」
「安ちゃんが作ってくれたんよ。うまいでしょ。ほら、兄ちゃんのもね。鶴もね、志津ちゃん折れるようになったよ」
竜也は竹トンボをポキッと折って捨てた。
「俺、子供じゃないんだから、面白くねぇよ」
「何よ、せっかく作ってくれたのにー」
久美は涙声でさけんだ。
安男は志津を好きなんだろうか、志津はどうなんだろうか。と竜也は気になっていた。かくれんぼのときだけは、俺がせっかく見つけたとこに来たりして……。
――釣りなら負けないぞ。
と思って竜也は言った。
「明日、魚釣りにいこうや」
「ほんと? じゃあ安ちゃんと志津ちゃんたちもね」
「うん。正樹も連れて行こう」
翌日はよく晴れていた。朝日が顔を出しているけれど、田んぼはまだ山の陰になっていて、一面に霜がおりて白っぽい。川はゆらゆらと湯気におおわれていた。
「あの魚は焼いて醤油つけて食べたらいいよね」
志津はおじいちゃんが元気なとき、二度だけ釣りにきて教えてもらっている。
「塩をつけて焼いてもいいぞ」
安男はうきうきしているようだ。
仕掛けは疑似針を使う。水面の上を虫が飛んでるように見せかけて釣り上げるのである。
枝の針は五本ついている。上流の深みから浅くなったところに安男が立ち、久美、正樹、志津、竜也が並んだ。
「おう、きたぞ」
まっ先に安男が声をあげた。
続けて二匹、一匹、一匹と釣り上げる。
久美も一匹、一匹と釣れている。
釣りは初めての正樹も三匹釣り上げて、やったー、と喜んでいる。
竜也と志津にはまったくこない。
「場所なんだな、ちょっとさがってみよう」
竜也は下流の深みの近くに移動した。志津もついてきた。
すぐに釣れはじめた。
二時間ほどたって竜也はアメを三つずつ配った。
「この辺で一番は誰かな、俺なんだろうな」
安男が笑った。
そこで、みんなカゴの中を数えてみた。
安男が十五、久美九、正樹九、志津十一、竜也十二だった。
―負けたかな。
竜也は口ぐせをのみこんだ。
日が山をこえて照らされ暖かくなってきた。釣れなくなったので糸を伸ばして、山側の日陰のほうに投げると釣れるようだった。
「あっ」
志津の声、見ると耳のあたりに針がかかっていた。
よく見ると耳たぶに竜也の針が食いこんで、血がにじんでいる。針を取ろうとしても外れ止めがあるので抜けないのだ。志津は顔をゆがめていた。
じっと考えていた安男がナイフで糸を切って、針の根本に巻いてある糸を切り離し、反対側から針を抜き取った。
「すごい。やっぱり安ちゃんだ」
久美が手をたたいた。
そのとき、上流のほうから人影が近づいてきた。
三人のうち、一人は竜也に見覚えがある北校の剣道部だ。その男が「相手がわるい。やめろ」と小声で言ったが、一番大きい者が安男の前にきた。
「よう、釣れてるようだな、何匹釣れたかな」
「十五だよ」
「俺たちは三人で七匹だ。場所替わろうじゃねえか」
「まだ昼までここで釣るんだよ」
「俺たちは北校の六年だ。顔を知らねえ者はおらん。お前は何年だ?」
「六年だよ。上でも釣れるときがあるよ」
「文句をいわんで、さあ交代だあっちへ行け」
「いやだ。まだ昼まで釣るんだ」
「なにお!」
安男の竿をもぎ取るとポキッと二つに折ってすてた。
やっと新しく買ってもらったのに……、安男がにらみつけた。
「なんだその目は!」
いきなりこぶしでなぐった。
安男は二メートルふっ飛んで倒れたが、すぐ立ち上がった。
傍にいた正樹もなぐられた。正樹は倒れて石で頭を打って起きあがれない。
竜也は怒りが突きあげていた。
竜也は、相手の竿をつかみ取ると、折り曲げて川に投げこんだ。
「このやろう!」
男がなぐりかかってきた。
顔を引いてかわすと同時に、折れた安男の竿をひろいあげて相手の手首を打ち、続けて足首を打った。身をかがめたとき顎をけると、男はあおむけに倒れた。
もう一人が竿をめちゃくちゃに振り回してきた。右から左に振りおろし振りあげるとき、ビシッと手首を打つと竿が飛び顔をしかめて、手首を押さえしゃがみこんだ。一人は遠くを立ち去っていくところだった。
竜也は倒れている正樹を引き起こした。頭から血を流している。傷口が少し口を開けている。
「たいした傷じゃないけど、帰ったほうがいい」
竜也がタオルを貸してやると、傷を押さえて帰っていった。
安男は折れた竿を竜也から受け取ってじっとみつめていた。何を思ったか、入れ物カゴのヒモを解き始めた。そのヒモで竿をつないで結びつけた。
「わー、さすが安ちゃんだ。すっごいねぇ」
久美が喜んで手をたたき、志津も笑って手をたたいた。
竜也はそっぽを向いた。
――だから安男は好かれるんだな。
俺はあんなこと思いつきもしない。残念……。でも勝負はこれからだ。
それから昼に近づくほどあたりが鈍くなり、誰も釣れなくなっていった。
「もうダメだな、引きあげようか」
竜也が言って、みんな数え始めた。
安男二十三、久美十四、志津十六、竜也二十であった。
――また負けたか。
安男の家も大変だからな、ちらっと竜也は思った。
∞
家に帰り着くと、ぷりぷり怒ったお母さんがいた。
「きょう、高橋さんから電話があったわよ。あんたたちが怪我をさせたんだ、と。病院に入院したそうよ」
「違うよ、北校のやつなんだよ。あのくらいの傷で入院なんて……」
「でも大怪我だと言って騒いでいたよ。もう遊びに誘わないでおくれって」
「なんだ、大げさな」
竜也は、正樹の母親に腹が立ってきた。
翌日、三人で病院へ行った。学校の近くである。
正樹は包帯で頭を真っ白にして、ベッドに横たわっていた。
「痛むのかい?」
竜也がたずねた。
「いや、傷は一センチでレントゲンも撮って、先生はたいしたことないって言うのに、親が騒ぐんで、包帯巻かれちゃった」
「家に戻ったら、あんたの母ちゃんが、誘わないでくれって言ったらしい」
「だから嫌なんだ。俺は遊びたいんだけど、母ちゃんが縛り付けるんだから」
「俺は三センチの怪我したけど、そのまんまで治ったよ。手も足もあっちこっち怪我したけど、お医者にかからんじゃったよ。もちろんそんな金もないんだけどな」
安男は笑って言った。
「俺、家出したいと思うことがある。塾は母ちゃんが決めてしまうし、学校の先生にも何かと文句を言うんで恥ずかしい。だからいくら塾に行っても成績は良くならんよ。その分学校ではいい加減になるから」
「嫌な塾は、あんたがきっぱり断ればいいじゃんか」
竜也は励ますつもりで言った。
「断っても断っても口うるさく決めてしまうんで、駄目だよ」
「父さんは?」
「父ちゃんは母ちゃん任せだから。商売のことしか頭にないんだよ。でも俺、三年生のときからいじめを受けていて、父ちゃんが心配してこっちに引っ越すことを決めたんだ」
「どんな?」
「学校は毎朝母ちゃんが車で送ってくれてたんで、友達のワルガキが帰り道の公園で待っていて、なぐったりけったりされたんだ。それで車をやめたんだけど、今度はお金をせびられるようになって、俺学校へ行かなくなった。登校拒否だな」
「そっかぁ、苦しんだんだな」
「俺、前に福岡で鉄棒から落ちて、足を折って入院したことがあるけど、誰も見舞いにきてくれなかったよ。一緒に遊ぶ友達もいなかった」
「塾を減らせばいいじゃんか。母ちゃんに負けないで」
「母ちゃんは、いい大学に入るためにとにかく学校で一番になれって、俺の頭じゃ無理だよ。俺、昆虫が好きだから勉強のふりをして、蝉とか蟻とかを調べてる。今は父ちゃんが蜜蜂を飼ってるんでそれを調べてる」
「へえー、蜜蜂から刺されないんか?」
「滅多に刺すことはないよ。巣をいじったりすると刺されることがある。刺した蜂は死ぬんだよ。天気のいい日は出たり入ったりしてるけど、冬の間は花がないんで砂糖水をやってるよ」
「俺んちに大きなスズメ蜂が巣を作っていて、何度も刺されたよ」
安男は頭を指さした。
「スズメ蜂は蜜蜂の巣を襲うんだ。秋になるとスズメ蜂も巣を作って、蜜蜂を子供の餌にするんだ。近づくと巣を守るために攻撃してくる」
「蜂蜜は何時採れるんだい?食ってみたいな」
「春の四月くらいだ。今度父ちゃんが採ったらあげるよ。その頃に新しい女王蜂が生まれて、古い蜂たちが巣別れしていく。一つの群は、一万匹くらいの中に女王蜂は一匹で新しい住みかを探す。働き蜂の寿命は三十日で、巣の中で成虫になった蜂は十日間は巣を作る仕事、十日間は幼虫に餌をやる仕事をして、そのあと十日間は蜜や花粉を運ぶんだよ」
「お前、昆虫博士になれるよ」
竜也は感心して言った。
「うん、俺、きょうは嬉しい。あんたたちが来てくれて……」
「お前んち、金持ちだから悩むことないよな」
安男がニヤッとして言った。
「いくら金があっても、悩みはあるよ。父ちゃんと母ちゃんはガタガタだよ。」
「どうして?」
「父ちゃんは十日も帰らないことがある。前は三日くらいで帰っていたし、いつも連絡していたのに……。こんなこと話したくないんだけど、どこに行ったのかもわからないんで、母ちゃんが疑ってるんだ」
志津が持ってきたミカンをそっと置いた。
「どうもありがとう」
正樹は涙ぐんでいた。
「お金持ちも、悩みがあるんだな」
安男は鼻をふくらませた。
∞
竜也のお父さんは仕事のかたわら道場を開き、無料で剣道を教えていた。道場といっても、学校の講堂で毎週土曜日の午後五時から二時間である。
北辰一刀流小野道場の名は、お父さんが亡くなったあとも、そのまま指導者が引きついでいた。
竜也は机に写真を置いてある。剣道着で笑顔のお父さんの腕にぶらさがっている。またお父さんに抱かれている写真が何枚もあった。それを見て、お父さんのようになりたい、と思うようになり三年生から道場に通いはじめた。
その写真に向かって「父さん行ってきます」「ただいま」、と言うのが習慣になっていた。道場までお父さんは走っていた、というので竜也も走っている。道場では一、二を争うほどになっていた。
今年も三月二十五日、春の対抗試合があった。
東西南北それぞれ五人の選手で勝ち抜き戦である。竜也は東校の副将で出場することになった。
最初は西校との対戦。
相手の先鋒が強いのか、いきなり中堅まで倒されてしまった。竜也は小手、面の連続わざが得意である。相手は、いずれも正眼の構えから小手を打つに見せて面を決めている。
竜也は、正眼の構えでジリジリと間合いをつめた。
打ちこみの間合いになったとき、予想通り打ってきた。相手が小手に振った一瞬早く、竜也の小手が決まった。
次峰、中堅、副将まで勝ちぬき大将との対決になった。
大将は背が高く上段の構えである。竜也は、右に移動しながら間合いをつめていった。相手は面を打ちこんできた。それをはね返して小手を決めた。
決勝戦は南校である。
相手の先鋒にまた中堅まで倒された。上段の構えから面を打つに見せて、胴をねらってくる。竜也は、正眼の構えで間合いをつめて打ちこみを待った。予想通り面にきた時、ふみこんで胴を決めた。小手、小手、面と奪った。いずれもきわどい勝負であったが、竜也には一瞬の早さがあった。
いよいよ大将との対戦を迎えた。
相手はやはり上段の構えである。少し疲れを感じてきていた。踏みこむとさがり、引くとつめてくる。右に移動しながら、乱れを誘うが全くスキを見せない。
じっくりこちらの疲れを待っているようだ。このままでは疲れが増すばかりなので、早い勝負を決断した。スピードの差が勝負を決めると考えた。間合いをつめて相手が引いたところを、更に踏みこんで得意の小手、面を打った。小手は相打ち、面が決まった。十人抜きが成立したのだ。
会場は、拍手とどよめきに包まれた。
竜也は汗をぬぐいながら、お父さんの笑顔が浮かんできた。鳴りやまない大きな拍手の中、仲間が集まってきた。胴上げをしようというのだ。
「やめてくれ!」
竜也はどなってその場を離れた。みんなはあっけにとられて見送った。
不思議に喜びがわいてこない。
一人で勝ちぬいたということは、負けた味方のレベルが低いからなのだ。
道場では強くなることはもちろん大切であるが、それよりも心身をきたえて、人間性を高めることを第一の目標にしている。それが、お父さんの時から道場の教えであった。
メンバーへの指導が足りなかった、という思いが竜也を責めたてるのだった。
∞
竜也は空を眺めた。黒い雲から今にも雨が落ちそうだ。植え付けには絶好の天気である。これで昼から雨が降ってくれると最高だ。
家の横の畑は一面草におおわれていたのだが、一週間前から草むしりをはじめて、あと一息である。
これまでは、おじいちゃんの手伝いをしてきただけなので、何をどのように植えればいいのかよくわからないが、志津に出来ることが自分に出来ないことはない、と思ていた。五月は植え付ける時期だ、と志津も言っていた。
昨日まで、学校の帰りに種物屋から買ってきた。苗はトマト、キュウリ、ピーマン、ナス、キャベツ、レタスなど。種はダイコン、レタス、ジャガイモ、サトイモなどである。
植え方は、夕べおじいちゃんに教えてもらってメモしている。
トマトとピーマン、ナスは五本ずつ二列に、支柱は裏の竹やぶから細竹を切ってきた。 キュウリは間隔を開けて三本、地を這わせるので周りに藁を敷き詰めた。キャベツとレタスは十本ずつ並べて植えた。
ダイコンは土を深く掘り、三十センチの幅で蒔いて薄く土をかぶせた。
そこまでやって、ハーハーと口で息を弾ませていると、おじいちゃんが出てきた。
「おぅ、やってるな。畑仕事はボチボチやらんとダウンするぞ。ほう、なかなかうまく植えてるわ」
「ほんと? これでいいかな」
「トマトはもっと間隔を開けたほうがいいけど、まぁいいだろう。ダイコンは全部ばらまいたのか?」
「うん」
「三粒ずつ蒔いておけば、あとの手間がかからんのだけど、間引き菜を食べればいいからな」
「トマトとピーマン、ナスは八月の台風に備えて、支柱同士をしっかり結んでおくんだな」
「そっかぁ。うんわかった」
「トマトは難しいぞ、実が付く頃に病気になりやすい。雨のあとは必ず消毒すること。またトマトやナス、ジャガイモのあとに植えないこと」
「志津も言ってたよ」
「ミニトマトといって、小さいトマトは病気にならんから、これも三本ほど植えておくんだな。それにゴーヤも二本植えれば充分だ。ニンジンはどうする」
「植えてみるよ」
「ニンジンは芽を出すのが難しい。薄く土をかけて毎日水やりをしないと芽が出ないから」
「うん、買ってくる」
「あとは何か植えるんか」
「ジャガイモとサトイモだよ」
「ジャガイモはもう遅い。四月のはじめなんだから」
「でも植えてみたいよ」
「まあ、できんことはないけどな。小さいのが……。サツマイモは植えないのか」
「あっ、忘れてた。焼き芋がいいよね」
「うん。昔の主な食料じゃった。これは栄養があって作りやすいんでたくさん作って、戦争で隠れた穴ぐらに保存していたんだ」
「サトイモはあの草を取って植えるよ」
「サトイモは、土がいつも湿ってるくらいがいい。だから乾かないように草を刈ってきて、根本に敷いておけばいい。あの木の陰になるとこがいいんじゃないか。ほかの苗もそうしておいたほうがいい。それにしても何の風の吹き回しかな。お前がこんなことするとは考えもしなかった」
「だって、志津でもやってるんだよ」
「そうかそうか。肥料はどうするな、人間が食事するように野菜も肥料がないと育たない」
「志津は、山本さんとこからもらってるらしいよ」
「わしは落ち葉で肥料を作ってたけど、難しいから。山本さんに頼むかな、すぐ持ってきてくれるぞ」
「あとはまかせてね」
竜也は少し得意になっていた。
「ああ、野菜を育てるのも楽しみだからな。イノシシがミミズを食べに出てくるんで、畑の周りに網を張っておけばいい。サツマイモもイノシシの好物だからな」
「えーっ、それで網があるんだね」
「いい経験だ。お前がどんな野菜を作るか、わしも楽しみにしてるぞ」
おじいちゃんはニッコリして、曲げた腰に手をあてて、家に入っていった。
∞
夏休みになった。昼を過ぎると蝉が暑さをかき立てて、柿の葉が白く日をはじいて風にゆれている。
志津は、昼ごはんの片付け物をかごに入れて洗い場にむかう。裏の小道をななめに降りていくと、チロチロと水音が聞こえてくる。
最近は山の水が減ってきているので、水道料金が高くなっていた。できるだけお金を使わないことを考えるようになっていた。
志津は、片づけ物のあと掃除をすませて前の畑に出た。
真上の日がカリカリ背中を焼きつけてくる。草は取ったあとから次々と出てくるのだ。ふとキャベツが穴だらけになっているのが見えた。チョウの幼虫である青虫がついている。家に戻って入れ物をさがしていると、おじいちゃんが薬ぶくろを持って現れ、志津に声をかけた。
「また頼むな。気いつけてな」
その手は青白く、落ちくぼんだ目をしょぼしょぼさせている。
おじいちゃんはいつも思う。志津には苦労をかけるばかりだ。母さんも働き者だった。年が離れた二人の子を産んだ。いちばん下の子を産んだ時、忙しい時期だったので三日休んだだけで田んぼに出た。無理をして身体をこわして入院し、すぐに亡くなった。どうか志津は元気になってほしい。
志津は薬ぶくろを持って本通りに出ると、わずかな登り道を神社の方向に向かった。
道はそこから二つに分かれ、左に折れて学校への道を急いだ。山と川に挟まれた山沿いを歩いていくと川の瀬音が聞こえている。
まもなく、学校の手前の石橋が見えてきた。橋にもたれて見下ろすと、滝水の白いしぶきが日を浴びてまぶしい。ここは泳ぎ場になっており、上流の集落からも子供たちがやってくるのだ。
去年の夏休みも、志津は竜也たちとここで遊んだ。
志津は石拾いが好きなので、泳ぎの日には必ずついていく。
竜也、安男、志津、久美、小夜でやってきた。川では男が五人、そのうち同級生が一人泳いでいた。
その顔を見て志津はいやな気分になっていた。学校で源二は女の子ばかりねらって、何かと言いがかりをつけているのだ。父親が山を売って、奥さんのほかに女がいる、と聞いていた。だから女の子をいじめるのだろうか、と志津は思っている。
「おお、のろまっ子もきたんか」
源二が、急に泳ぎをやめた。
志津は学校を遅刻することが多い。朝ご飯の片づけと洗濯をしたときは、必ず遅刻するのである。
竜也と安男は、飛び込んでいった。志津は浅いところで白い石を拾ってふくろに入れていた。久美も小夜も石をさがしはじめた。
「石でもさがしとんか。泳げんやつはここにくるな」
そばに来た源二は志津のふくろをもぎ取って、水しぶきの中へ投げこんだ。
すると、竜也がその方向に泳いでいき、ふくろをつかんで戻ってきた。
「誰が捨てたんか」
竜也は源二を見た。源二は、となりのクラスである。背が少し高く、太っていて目が細く鋭い。
「俺だ。お前ら、泳ぎもしない女の子ばかり連れてくるな」
そう言うなり、源二はこぶしで竜也の胸をついた。みんな水からあがってこちらを見つめている。
「ここはみんなの川だ、誰が来てもいいじゃないか」
竜也は、ちらと志津を見て言った。
「お前らは女ばかり連れて歩いて、いい気になって。弱虫がなめた口をきくとたたきのめすぞ、さあ帰れ、帰れー!」
源二は、また竜也の胸を突いた。
「お前に命令されることはない!」
竜也はそう言い、源二に近づいた。
源二は白い歯をむき出して腰をかがめ、顔を近づけて腕をふりあげた。
「ガッ」
竜也のこぶしがまっすぐその口に命中し、足では源二の膝をけっていた。
「ウーッ」
源二は、口をおさえて尻もちをついた。
おさえた指から赤いものがふき出していた。前歯が折れている。志津は思わずタオルを渡した。源二は受けとると口にあてたまま、足を引きずりながら去っていった。辺りを見ると、仲間たちは向こうの方に去っていくところだった。
∞
病院は学校の近くにある。受付で紙に記入し、おじいちゃんの薬をもらうように頼んだ。受付に名前を書きこんだ。志津は薬は飲まなくていいけれど、ときどき身体の具合を診てもらっている。
「じいちゃんの具合はどうね」
先生は、しきりに眼鏡をこすりながら言った。
「はい、寝たり起きたりです」
「無理がたたったんじゃな」
先生は、眼鏡をかけカルテをのぞいて言った。
「じいちゃんは、大阪では会社勤めをしてて、やり手だったんだよ。でも、ばあちゃんが喉をやられて亡くなってから、あんたが体が弱いのを考えて田舎に移ってきた。それからは休みなくあちこちの仕事を受けて、無理が重なり体をこわしたんだよ」
「あたしも年をとったら、おじいちゃんのようになるんですか?」
「いやいや、じいちゃんとあんたは病気が違う。じいちゃんは心臓が弱ってるし、寒くなると喘息も出るんだな。あんたは気管支炎だからはげしい運動ができないんだよ。じいちゃんはずっと薬を飲み続けるだろうけど、あんたの場合は用心して体力がついてくれば良くなっていくだろう。仕事のあと、あんたをいつもおんぶして見えておったよ」
志津にとってそれは初めて聞く言葉だった。
病院を出て、近くの店でペットボトルをもらった。帰りは木陰の道を涼しい風が吹き抜けていた。
志津は、帰り着くと薬をおじいちゃんに渡し、すぐ畑に出てキャベツの青虫を取りはじめた。やがてボトルいっぱいになると、二十メートル離れたところに逃がしてやる。指でつぶして殺せばいい、とおじいちゃんは言うけれど、志津は殺せないのである。
今朝、警備会社に勤めるお父さんの言葉が、志津の気持ちを沈ませていた。
「九月には、大阪に行くかも知れない。田舎にはなかなか仕事がないからなぁ。じいちゃんも一緒だ」
そうなると、竜也や安男たちと別れることになる。安男はいい友達で楽しいが一方的なところがあって迷惑することもある。
竜也は口は重く手が早くて、何度かなぐられたけれど思いやりがあって温かく感じられる。小さい頃から竜也と山や川に行ったことなどを決して忘れることができない。志津はそんな友達と別れるのがつらかったので、草むしりにも力が入らなくなっていた。
∞
むんむんと暑さがこもる家から、子供たちがとび出してきた。
ガランとした神社の境内の木々には、蝉の声が響きわたっている。竜也は正樹に電話したが、塾に行ってる、と母親が言った。
かくれんぼの仲間はそこから本殿まで上って鬼を決めるのだ。
鬼が数えはじめた。竜也は裏のクヌギ林へ走った。木にとまっていた蝉が「キキッ」と逃げていく。志津も走ってきた。
――また来たのか。
目の前の大木から二十メートル下の、ゆるやかな斜面を下りていったところに、おじいちゃんが教えてくれた穴ぐらがあった。戦争のときかくれた穴がいくつもあるという。竜也は、入り口の板をはずして中にふみこんだ。
「気味が悪いねぇ。何だか、こわいみたい」
志津がつぶやく。
中は少しカビの匂いがした。幾つかの小さな穴から、薄明かりが入りこんでいる。
「おじいちゃんが教えてくれたんだ。戦争が終わったらサツマイモをつめこんでいたそうだよ」
と竜也は言い、穴の中を見回した。上の方に、象の鼻より大きな木の根が通り抜けている。
「これ、前にかくれた木の根っこかもね」
志津はその方向を指さした。
「うん。あの木は三十メートルの高さだから、根っこも相当あるんだな。何百年かたってるらしいぞ。でも近いうちに、全部切りたおしてクヌギを植えるとか」
そうなれば、神社の浄め水や水道の水が心配になる、と聞いていた。
ザーッ、と突然さわがしい音がして、入り口付近を雨がたたきはじめた。夕立だ。ピカピカッと明るくなり、パリパリパリッと穴がゆれた。
「キャーッ」
志津は竜也の首に巻きついた。と、その時、コキンと竜也の首の鳴る音がした。
その音で、ハッとして志津は離れたが、恥ずかしさのあまり顔は真っ赤になっていた。
「あたし、今度の九月に転校するのよ。父ちゃんが大阪に行くことになって……」
志津がうつむいて言った。
「えっ、ほんと? じゃあ、もうすぐだな」
どうして?冷たい風が胸をかすめ、不安がこみあげてきた。
竜也は入り口でひろったクギを出して、木の根っこに自分の名前をコリコリとほりこんだ。「貸して」と言い、志津もその横に小さくほった。
「もうこっちには帰って来ないんかな」
「ううん、お正月とかは帰ってくる」
志津は、涙をポトンと落として顔をそむけた。
志津が転校していって四ヶ月がたち、正月を迎えていた。夕べから雪が降り続いている。
夕方、志津の妹が家に来た。
引っ越しておじいちゃんが亡くなり、三ヶ月目にお姉ちゃんが肺炎で亡くなった。お姉ちゃんは学校でたおれた。医者の話では水が合わなかったのかな、無理も重なったようだ、と。カバンには錆びたクギと白い石が入っていたという。
翌朝、雪の中を竜也は神社に向かった。赤やピンクの着物をきた子供たちや成人になる人の着物姿がまぶしく感じられた。
そのきれいな姿に志津を重ね、竜也は鼻がつーんとなった。目の前がかすみ何度もつまづいて、人ごみの階段を上っていった。
クヌギ林の前ですべって手をついた。以前、志津もここで転んだとき、やけどの手にはしっかりキャラメルをにぎっていたのだ。
見わたすと左の森はなくなって、クヌギの苗木が積もった雪の中から、小さく首を出していた。時折、風が吹いてきて、木の葉からパラパラと雪がすべり落ちた。
穴ぐらに入ると、カビの匂いがなつかしい気がした。象の鼻の根っこに、ほりこんだ名前が見えてきた。あの時サッとかくしたやけどの手、巻きついた時のやわらかな香り。そして、志津はうつむいてお正月には帰ると言ったのだ。
――これも、死んでるのかな……。
竜也は太い根っこをなでて、志津の文字にひたいを押しあてた。
小さい頃の蝉取りや魚捕りのこと。また、ゼンマイ採りで道に迷って、竜也の手を強く握って志津の泣いていた顔が浮かんできた。
「ドォーン、ドォーン!」
太鼓のこだまが響いている。この透き通るような神社の音は志津のもとにもに届くのだろうか。
竜也はそっと首をかしげた。すると、コキンと悲しい音を立てた。
〜おしまい〜