俳句ー入り口

 

  は、「俳句」ショー 
                                       〜 こ の 神 秘

助 走
 未熟ながら初めて俳句に触れようとする人に、それも食わず嫌いの人に、と思ってここに五年間の旅の足どりをつぶやいていきます。
 俳句は「嘘も方便」=断定の文芸。子供の頃、親から「嘘をついたら閻魔(えんま)様から舌を抜かれるよ」「嘘は泥棒のはじまり」とか、たしなめられてきました。お陰様で正直に生きてきました。
 ところが、創作にあたっては正直過ぎても作品にならない。俳句は詞(ことば)を用いて「詩」に表現する作業。このことは「俳句をかじっていくうちに気付く」ことになります。映画、小説、短歌、詩のいずれも創作により作品効果を高めているのです。
 また記述に当たっては、すべて「・・・かもしれない」「・・・のほうがいい」ではなく、「・・・である」「・・・でなければならない」で述べていきます。あくまで現時点における見解なので、良否は読者に委ねます。なんでも気付いたことがあれば、知らせていただければ幸いです。
記述は章の区切りを、三段跳び方式。
助走→ホップ→ステップ→ジャンプ→着地。とします。
 
 あらゆる生物は(人を含む)、神秘に生まれ神秘に生き神秘に包まれて消えてゆきます。この大宇宙の中のちっぽけな地球。ここに生物にとって最適な条件=空気・水・温度、などが備わっていること。植物やちっちゃな蜘蛛や蟻、微生物までもが環境に順応した「生き方」を身につけていること〜実に神秘的であります。
 まさに神技としか思えない。別に神仏を尊崇しているわけではないけれど、ビッグバン以降、四十六億年前には地球が発生し、生命体の歴史を繙(ひもと)けば、驚異であり謎であり神秘に包まれています。
しかし、個々の生命は永遠ではない。人が望んでもせいぜい八十歳前後。宇宙の歩みの一瞬にすぎない。 
この一瞬を〜神秘的に生きてみたい〜
 小説、自由詩、短歌、川柳の直接的な言葉遣いに対して、最短の言葉で表現に神秘性を求めるのが「俳句の生命」です。
今はアナログからディジタルへ。より早く、更に便利に生活環境は時々刻々変貌を遂げています。手仕事は機械化され、ロボット化され、人がロボットに使われる時代。一方、日本ゆかりの文芸、いわばアナログの文化である「俳句」はディジタルを拒み、逆に益々光彩を放ちます。四季をもつ日本独自の文化には「精神的なゆとり」が必要なのでしょう。
現役の時分は理工系デジタル一途であった自分が、いま「アナログの文化」に惹かれているのは何故でしょうか。それは、拙速で人心の退廃が叫ばれる世の中に、人間らしい「ゆとり」を望むからです。
 俳句は、「人間、自然の風物」を対象とするので、対象の立場を理解することに努めます。おのずから人に、動物に、植物に対し「思いやり」の心が養われ、何よりも自分を磨く縁(よすが)にもなります。さらに環境にも関心が深まります。 
 最近気付いたのですが、これほど俳句熱が盛んな時節。障害者(口、耳、目ほか)の方々の関心はどれほどなのか。普及させるべく、呼びかけはなされているのか、どうか?調べておきたいところです。
 
 趣味としての俳句は、決して人から勧められてではなくいつの間にか環境によって始めていたというもので、いま活躍されている俳人たちも幼い頃の家庭環境の要因が大きいでしょう。
私は子供たちに習字教えていたのでむしろ童話に興味が興り、残っていたものをアップ。
俳句に染まったきっかけは、六年ほど前に娘が嫁いだあと、その部屋を自分の書斎にするため、片付けていたとき娘の机からポトンと小さな冊子が落ちた。高校の国語のテキスト、芭蕉の「奥の細道」。文語体(歴史的かなづかい)で江戸時代の初期、北陸から奥州を行脚し更に美濃に至り大垣で筆を止めています。
 紀行文も俳句もすべて文語体。教育を口語体で過ごしてきた私には、なじみにくいものですが「しづかさや岩にしみ入る蝉の声」。この句は三百年前に詠まれ、今も国民で知らない人は多分いないでしょう。
 でも、まだ俳句をはじめる気にはなれず二年間をブラブラ。趣味といえば書道と野菜作り・・・。書道の方は更に深めるには、県内に選ぶ師が見当たらない。展覧会などにも費用がかかるので、極貧の財布が悲鳴をあげてしまった。
 唯一の趣味、野菜作りの方も結構忙しい(休耕田を420坪お借りしている)。でも暇な時もある。かの芭蕉のテキストを引っぱり出して、顔を曲げて読み、習字教室のついでに図書館で俳句の本を読んでみた。どの本も難しく書かれている。また、書店を覗きあらゆる入門書に目を通しました。
やはり全て、俳句は簡単と述べながらも最初のページから、一流の俳人の句ばかりを掲げて解説。むりもない著者は子供の頃から師の指導を受け、俳句を専業にしてきた方々なので、我々のような人生の途中から趣味として入門する者の立場(意識)に立てないのも当然ですね。
 これではチンプンカンプン、一歩が出ない。
とりあえずある俳人の入門書[自由に楽しむ俳句]を一つだけ買い求め、これはのちのち役にたちましたが。先ずは「歳時記で季語を知り、それを五七五で詠めばいいんだな」と思って自分流に遊び気分で作るかたわら、かのテキスト「奥の細道」を畑で頭を傾げて読んだ。
思えば、娘が「俳句へのきっかけ」を作ってくれたようです。これも神秘かな〜
 先ず一歩を踏み出し、階段を一つひとつ踏みしめる。一つ上るに連れ「無知な自分に気づく」し、気づくほど楽しみは確実に増えていくようでした。
 勧められて最寄の句会に出席し失笑を買いながらも、少しずつ時間つぶしになっていったのです。
 ここに僅かな経験から得られた感想の一端を披露し、これからの入門者への参考になれば幸いです。

「俳句はいったい何者か?」
 ひと言で言えば「俳句は簡単そうで手強い、まさに知識の宝庫」です。森羅万象の知識が豊富な人ほど鑑賞眼(作品を理解し、評価する力)を持つ。鑑賞眼は、句作りを重ねることで体にしみこんでいく。そこに言い知れぬ魅力をたたえています。
 ある人類学者は「人の頭脳は命が尽きるその瞬間まで、蓄積を続ける」、と長年の研究の成果を唱えています。大分の文豪、野上弥生子も八十歳より益々意欲が募り、九十九歳の息絶えるまでペンを動かしていた、という。肝に銘じたいものです。
なお、私の姿勢は「句を観(み)て、人を観(み)ず」ですが、芭蕉は体が頑健ではなかったが、人柄は寛容で謙虚で人情家。従って自己の権威を主張する『俳論』は著していません。わずかに「おくの細道」に代表される紀行文と弟子が師の折々の教えを綴った去来の「去来抄」、土芳の「三冊子」が残るのみです。
俳句は「詞であり詩である」ことから、謙虚な人間像が一句一句に投影されることでしょう。 

 私は未熟なりに蕉風、蕪村風、一茶風、子規風、虚子風、また前衛風など。いろんな俳風の句を試みてみました。その中で今のところ「蕉風」に俳句の存在を見出しています。
 今は芭蕉の句風を目標にしています。芭蕉も人間、私も人間。「完全」という定義が完全でないように、有名な句であってもつまらない句もたくさんあるのです。盲信してはいません。
さらに、私にとっては退職後の趣味。著名な俳人は、若い時分から俳句一色、文化の技法は学んでいても、生産に係わってきた感覚は、我々と若干異なるのではないでしょうか。でも今は、そういう方々の貴重な恩恵を享受しているのです。芭蕉もしかりです・・・。やや、助走が長くなりました。私個人のいきさつと、未熟ながら不遜な思いを記して老若男女、現役(勤め人)の方々へのきっかけになればと願っています。 

 ともあれ、私たちがこの道を辿るとなれば、「俳界が果たして真の不易流行を目指した健全な俳句文化を追及しているのか、どうか」を監視していく立場を意識します。
 如何にその道の達人といえども、頂上を求めつつ、未完を嘆きつつ・・・「人生の旅人」を自称する芭蕉は五十一歳の生涯を閉じます。
晩年の芭蕉の一句
 
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

ホップ
 先ず俳界の歴史において、今もなお頂点に仰がれる松尾芭蕉。 江戸の初期、芭蕉はそれまでの俳諧連句の発句(五・七・五の十七文字) を俳諧として詠み、今日に至るまでゆるぎない「蕉風(侘び・寂び・しおり)」を確立した。人品ともに優れた師の俳諧には多くの優れた子弟が集まり、隆盛を極めた。芭蕉の没後、柱を失った俳諧文芸は乱れ、衰退の道を辿った。
その後明治に入って正岡子規が 短歌・俳句などの革新に生涯を賭けた。「俳句」の言葉は子規が生まれたときに発生していた。
 子規は芭蕉を仰ぎながらも、低俗化した業俳(職業俳人)を蘇らせる手段として「写生」を打ち出し、結社「ホトトギス」を創設。新聞社の文芸担当の立場を有効に活用した。子規の句は、絵画を描くごとく五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)で感じ取ったそのままに表現すること(純写生)こそ俳句文芸である、と主張した。子規の没後、同郷(愛媛県松山)の高浜虚子が結社を引継ぎ花鳥諷詠を説き「客観写生(写生+主観)」を提唱、一時ホトトギス王国を築いた。

現状の俳界=業俳(職業俳人)
●俳句の団体(主な俳風)
○俳人協会(有季定型を堅持)
                 ・会長 鷹羽狩行 正会員数12600
○日本伝統俳句協会(花鳥諷詠=ホトトギス)
                 ・会長 稲畑汀子 正会員数 6500
○現代俳句協会(古来の俳風を超えるべき、と唱える)
                 ・会長 宇田喜代子   正会員数 3000(想定)
○国際俳句交流協会(海外の愛好者との交流)
                 ・会長 有馬ョ人    正会員数 620
○その他
                 ・前衛俳句協会 ・滑稽俳句協会 など     

※準備するもの
・はいく歳時記(約三〇〇〇円以内)
 歴史の篩(ふるい)にかけられてきた名句。芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子などの例句が掲載されているもの。持ち歩きできるもの。小さな「季寄せ」も販売されているが、内容に乏しく推奨できない。
・電子辞書(約一〇〇〇〇円前後)
  晩飯を削っても買っておきたい。書物の広辞苑を抱えて歩くのは不便。体力があり余って、いちいちページをめくりたい人は、こ の限りでない。
・筆記用具(約一五〇円以内)
 もっと辛抱したい人は、新聞広告紙の裏を使ってもよい。
  〜これだけの費用で、ほぼ柩(ひつぎ)に入るまで利用できる〜

1、第一段階
作ってみよう
   五感で感じる、また感じたこと。目に映るものを見て、暑さ寒さ涼しさを体で感じて、風や花火や鳥の鳴き声を聞いて、花の匂いを嗅いで、食べて味わって、五・七・五で述べる。初心者は写生から始めるのが常道である。
なお、五・七・五=上(かみ)五・中(なか)七・下(しも)五または座(ざ)五 と呼ぶ。   
○見て(視覚)
    赤とんぼすいすいすいと飛んでいた  
                  赤とんぼ(秋)
○体で感じて(触覚)
    むし暑い家に一人で夕ごはん
                   暑い(夏)  
○聞いて(聴覚)
    竹藪にうぐいすの声美しい
                  うぐいす(春)
○嗅いで(嗅覚) 
    木犀の香(か)に包まれる縁側に
                  木犀(秋)
〇味わって(味覚)
    頭まで槍突きとおす唐辛子
                  唐辛子(夏)

たくさん作ろう
 俳句は五感で感じ取ったことを表現する。これは現在(今のひととき)でもいいし、過去の体験を思い出して記憶を辿って一句にしてもいい。
歳時記(春二〜四月・夏五〜七月・秋八〜十月・冬十一〜一月・新年一月=約五千季語)の中から、季節の季語を引っぱり出して五感で感じたことと結びつけて表現すればいい。この際、季語の意味例えば「赤とんぼ(秋)」の姿や生態などを把握しておけば季語としてうまく使うことができる。従って、歳時記は季語の意味を記述している本を持っていたい。最初はいい句を作らなければ!、などと誰しも悩むことがあるが、一つの句にこだわるよりも「たくさん作ることに」こだわるべきである。
一句一句を作っていくことで、五・七・五の韻律(リズム)が着実に身につく。今日が一句ならば明日は三句、とノートに記し次第に増やしていく。一つの季語「赤とんぼ」だけで視点をかえれば、

     赤とんぼ空一面に群れており
     店先のベンチにとまる赤とんぼ
     たっぷりと酒を飲んだか赤とんぼ

などと記憶を思い描いて作る。また、実際に見て聞いて感じて、また想像力も働かせて自由に作ること。
先ずは、「作ることに慣れること」「作る力をつけること」。
☆ともかく二百句以上作りましょう。
 その数が多いほど、その後の上達は早い。五・七・五のリズムに慣れることが先決である。(ただし、違反しても逮捕はされな    い)。
たくさん作るうちに言葉(語彙)を覚え、これから述べることを自然に体得していくのです。

句会に参加しよう
 最寄りの句会に参加して、こころざす同士との交流を持つ。月に二回(一回もあるが、やや継続性が希薄)決まった場所で開催されている。
  座の時間は限られている。遅くとも予定時間の十分前には出席するのがマナーであり、それだけみんなが時間を有効に使える。わきまえない人もまれに見かける。
 座の進行は、たとえば、各人が五句(何句でも良い)ずつ投句(提出)して、投票(互選)し最高点の句から順次、その句を選んだ人たちが選評(選んだ 理由を述べる)する。このことにより本人はもちろん出席者全員が学ぶこと ができるし、選評の場が充実しているか、どうなのか、その句会の値打ちが決まる。
何故自分はこの句を選んだのか、その理由を明らかにする。すると他の人は、ああ、そんな鑑賞(一句の背景を読み取る)もあったのか・・・とか、いや、そうは思えない、などと議論が進む。自分が思うことは(間違っているかもしれないが)発言して恥?を積重ねることも大切である。
 
 進行役は、経験豊かな人や未熟な人もいる中で、できるだけ全員が自由に発 言できるような雰囲気づくりに努める。
句会の場で高得点をもらえば、嬉しいのは人情。しかし、高得点の句が以外にも優れた作品、と断定はできないところも面白い。
 一例であるが、著名な俳人のもとで、句会を催したとき、三十人が五句ずつ投 句し、投票ゼロの中から俳人が二句を選んで秀作とした。高得点の句はこと ごとく選に漏れた。類句が多いのである。
 しかし、著名な選者が選んだ句が果たしてどうなのか?、と判別する姿勢も 必要である。
また、座の顔ぶれ(好みや鑑賞眼)によって選句が変わる。初心者の多いほ ど一見して わかりやすい(見え見えの)句を選びがちである。本当はどうなのか、いい句を見落とすことが多い。
さらに、各人が選んだ選句用紙を読み上げる、披講の役割も見逃せない。ゆっくりと丁寧に朗詠することで、全員が一句一句を耳で味わうことができる。

 有能な選者のもとで行う句会は、効果的である。適切な回答が期待できるし、 投句用紙を提出しておけば、丁寧に添削して後日返却してくれる。しかし、以外に添削が不適切であることにも気づかなければならない。
黒板やボードを利用し、いい句、良くない句に検討を加えるのも効果を高め ている。 
 句会を通じて、選者は参加者の発見を学び、参加者は選者の技法を学ぶ。双 方が学び合う場である」
句会なんてまだまだはずかしくって?・・・と思う人は、少しでもわかる者が身近に居れば都合がよい。
 私は選句にあたっては「場」に応じて有季定型が備わっておれば 文語体にこだわらず選ぶ姿勢をとる。「場」に応じて〜。これが果たしていいのかどうなのか・・・。
いろんな句風の俳句を作るのも一つの学び。無党派・無宗教の私は、全国俳句大会などで社会性の投句もしてみたが、反応は無い。俳句が川柳のように社会の風刺には向いていない。けれども、芭蕉は野ざらし紀行「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」は暗に社会性を帯びた生の声を一句に立てた。私はこの手法にはあまりにも未熟であるが俳句は諧謔(ユーモア)も大切な視点として磨いていきたい。
なお、句会でときどき見かける光景で驚くのは選句の際、回ってきた句をすべて書き写している人がいる。会の進行上そんな必要は全くない。限られた時間内に5句を選ぶにはそんな暇はないはずである。ついつい平板な句を選ぶ結果にならないか。候補を少し多めに選んでおいて吟味に時間をかけて5句にしぼることにしたい。
これまでのところ大分では、いずれの句会も選者を含めて「初心者の句会」のレベルに留まっている。

参  考。
@題詠―俳句の題(季語または言葉)。
   兼題=前もって決めておく題。
   席題=集まった席で、不特定の誰かに題を出してもらい、その場で作句する。
A雑詠―題詠に対して、どのような季語を使ってもよい(自由題)。
  当季雑詠=その季節の季語。
  嘱目=嘱目吟とも言う。句会場で、またはどこか特定の場所において感 じ取ったことを詠む。瞬時に作る力を養うことが出来る。
   
吟行にでかけよう
 俳句は部屋にいても、寝ていても作れるが、家を出て風物を全身で感じ取り、句を吟ずること。視野が広がるので新鮮である。また、現地で得た心象を持ち帰って作句も出来る。運動や観光を兼ねて。家の中ですすけた壁を見つめていても仕方がない・・・。

結社に加入してみよう
  結社(業俳=職業俳人)は、全国で三〇〇前後と推定される。どんどん増えている。
俳句の結社とは何か。簡単に言えば[業俳(俳句を職業としている)]。俳句の師匠らしき人が主宰となり、月刊誌を発行(誌代は年一万二千円程度)。何句か投句して、主宰が判定する。
   
 ・先ず結社を選ぶこと
     高校受験にあたってどの道を選ぶのか、と思案した頃を思い出す。
     私は、次の要件のもとに選ぶ。
    @「松尾芭蕉の俳風」に最も近い師(主宰)であること。
    A月刊誌に師(主宰)の姿がよく見えること。
    B主宰の選が厳正(営業臭がない)であること。 
    C指導者の層が厚いこと。
 
 少しばかり俳句界が見えてくると、いくつもの選択肢に気付く。結社の大半は芭蕉を頂点に据えてはいるが、それぞれ主宰(師匠)の能力・好み、により俳風が異なるのが、業俳の実態である。
前に述べたように、知能は柩に入るまで蓄積されることを思えば、広い視野でゆっくりと選択したい。何よりも大切な姿勢は、現状の結社に従属して個人が競合し一喜一憂するのではなく、結社に良き実績と教えを提示させ、主宰の句を読者が検証する。業俳の営業と職業俳人の腐敗を監視することこそ、我々に課せられた課題である。
 従って一つの結社だけにとらわれていては「井の中の蛙」に陥る傾向があるので、なによりも自分の求める「俳風」の結社をいくつか探すことが先決。そのうち現状の結社に失望することも一歩前進といえる。特定の結社に縛られていては見識は広がらない。

2、第二段階
  短歌や川柳や詩などと異なるところは、意外に決まりごとに縛られているところがある(国の憲法や、スポーツのルールのようなもの)。だからこそ妙味があって面白い。逆に、若者にも歓迎されるように「約束事から解放されたい」と自由な俳句を志向する俳風も存在する(現代俳句、自由律、前衛俳句など)。

◎決まりごと(約束)
  @有季定型(季語、五七五)
   ・有季(季語)
      赤とんぼあなたの家はどこですか
                  赤とんぼ(秋) 
     赤とんぼすいすいすいと秋の空
 〜赤とんぼ(秋)、秋の空(秋)の二つの季語。これを季重なりといっ て(基本的に)禁止されている(季語の焦点を絞るため)。
 
   ・定型(五文字・七文字・五文字=十七文字)
      赤とんぼ\あなたの家は\どこですか\

 A切字と切れ
   歴史が脈々と培ってきた俳句という、世界一短い詩の効果的な表現手法として定着した。
  ・切字(代表的な、や・かな・けり)
    木枯しや\十二回目も不採用\
 〜先ず木枯らしやで分断し、木枯らしを強く意識させ、あとの言葉との照合を狙う。また単純に分断して韻律を整える。
鑑賞)今日も木枯らしの吹きすさぶ中、ハローワークに採否の結果を聞きに出向いたが不採用。または、庭先を木枯らしが庭木をしきりに揺らしている。そんな日に不採用の通知を受けた。心は一層寒さに包まれる。

   木枯しの中を就職試験かな\
                 木枯し(冬) 
 〜言葉の最後にかなを置き、詠嘆(しみじみとした心の動き)の効果を持たせる。
鑑賞)木枯らしを全身に受けながら、木枯らしのように厳しい試験に臨むんだなぁ・・・。

   就活に落ちにけり\寒空に
                 寒空(寒=冬)
 〜就活に落ちにけり、と事実を訴え、下五にその時の情景を置き、侘びしさを強調する。
鑑賞)ああ、残念だなぁ・・・。寒い空のように・・・。ただし、一句の中に、切れ字は一つのみとする。
  
  ・切れ(切字のような助詞、助動詞を使わず、言葉の呼吸を分断)
   赤とんぼ\あなたの家はどこですか\
 〜赤とんぼ(体言)、で一呼吸。赤とんぼ、を強く脳裏に描き話しか けた。
鑑賞)赤とんぼを見つめている。とんぼの決まった住み処(か)はあるのだろうか、ふと問いかけて見たくなった。
   ただし、一句の中に、切れ は一カ所のみとする。
 
 B「一物(いちぶつ)仕立て」と「取り合わせ」
  ○一物仕立ての例
    木枯に押されて坂をのぼりけり\
                  木枯(冬)
 〜「木枯に押されて坂をのぼりけり」と言葉が連続し一つの事柄を詠む。
   木枯や\村に樹木にあばら屋に
 〜切字、はあるが、一つの事柄を詠む。

  ○取り合わせの例
   木枯や\十二回目も不採用\
 〜やの「切字(後述)」を使って、二つの事柄で表現。
   「木枯や」と「十二回目も不採用」との取り合わせ。何度受けても就職難で受からない。体も気分も木枯らしに吹き落とされる    木の葉のように寒々とした心情。
    青嵐\十二回目も不採用\
                 青嵐(夏)
 〜「青嵐」と「十二回目も不採用」の取り合わせ。

 次の言葉もある(別に日常、意識する必要はない)
  C一句一章と二句一章
   ○一句一章=一つの事柄(事物)を詠む。
   木枯に押されて坂をのぼりけり\
  〜このまま一つのことを一気に詠み下す。
   熱燗や\意識なくして横になる\      
                 熱燗(冬)
  〜切字、があるが一つのことを詠む。「二句一章ではない」。酒を のんでも飲まれるな、と言われるが酒飲みはままならぬ。酒   癖もいろいろ・・・。
   ○二句一章=二つの事柄(事物)を並べる。 
    熱燗や\頭の中は星ばかり\
 〜切字、で分断し「熱燗」と「星」、別々の事柄で相互の関係を響かせる。酔っ払って頭に星がチカチカする様子を描く。
   冷やし酒\頭の中は星ばかり\
                冷やし酒(冬)
 〜切れ、で分断し別の事柄で表現。

3、第三段階
 効果を高める手法。
 ○反復(リフレイン)=音を繰り返してリズム効果を高める。
      ・北風夜汽車の音晩酌      北風(冬)
   
     ・夕暮れ棚田風     秋の風(秋)
   
    ・山に入り鶯の声山のこゑ        鶯(春)

 ○対比=一対の相対(あいたい)する語を並べる。
     ・餡(あん)の
嫌いな人と好きな人   歳末(冬)
    
    ・夕暮れて夫は海鼠妻は酒       海鼠(冬)

     ・熱燗に酔つて最後は冷やし酒     熱燗(冬)

 ○否定=否定または禁止の言葉。
     ・セーターが暖かくない百均は      セーター(冬) 
   
    ・河豚の肝食うてはならん美味くても   河豚(冬)

  ○遠近・大小=状景の変化。
     ・鳥雲に地平線を越えていく        鳥雲に(春)
   
     ・大空に向かつてのぼるシャボン玉   シャボン玉(春)

 ○比喩(ひゆ)=人を動物、植物に見立てる。
     ・年を食い枯木となりて蕎麦を食う    枯木(冬)
  
     ・痩犬の虫歯のままで初詣         初詣(新年)

 ○擬音語・擬声語・擬態語(オノマトペ)
 擬音語
   ・ぽたぽたと雨漏りの中夜なべして     夜なべ(秋)

 擬声語
   ・かあかあばかばかなどと寒鴉      寒鴉(冬)

 擬態語
   ・ひらひらと縺(もつ)れもつれて蝶二匹   蝶(春)

※一般的な言葉を示したが、誰もが使い古した表現に独自の工夫をすれば効果的である。例えば、
   ぽたぽた→ぼたぼた、ぽつぽつ。その他〜

   かあかあ→がうがう、ぐわあぐわあ。その他〜

   ひらひら→びらびら、ふらりふらり。その他〜

 ○諧謔(かいぎやく)=滑稽味、軽妙なユーモア。俳句にとって重要な味の要素。
   ・放尿の孫に敗北寒鴉            寒鴉(冬)
〜孫と立ちション。孫ははるか遠くまで飛ぶが、自分は昔の勢いを完全に失っていてシュンとなった。生物の普遍的な「老い」を認  識した一瞬、鴉がアホウと笑っている。

   ・小夜しぐれ鼾(いびき)の鼻をつまむ妻     小夜しぐれ(冬)
〜雨の夜。あまりにもうるさい鼻をつまむ。

   ・凩や視線の合わぬ君とぼく           凩(冬)
〜昔のように顔を見つめて話すことがなくなった。日常見慣れているこ ともあるが、一抹の寂しさを凩に託した。

※ユーモア性は、俳句の命。大切な要素であるが、「おかしみの風雅」を伴っていること。その判別の難しいところ。
これらの句を、みなさんはどう詠むでしょうか・・・。

ステップ
 述べてきたこれまでの言葉は、日常あたりまへに話す「口語体」。現代人になじみ、読み書きに使はれています。
ところが、俳句の表現は専ら「文語」であり「旧かな」である。ひとことで言へば、この用法が短詞の表現を自在にし、神秘的表現に最も適してゐるからです。これは芭蕉がさうだからと言ふのではありません。もちろん現代人は今の言葉で自由に表現すべきだ、と俳句の改革を求め「有季定型」を否定し、「無季非定型、口語体」を目指す動きもあります。いづれを選択するかは国民の自由ですが、議論のあるところです。
一例を挙げれば、文語で過去や完了を表す助動詞。「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」「り」と六語あるのに対し、現代口語では「た」一つしかありません。例へば、

かむさりたまひ → おかくれになつ
くはれけり → 食はれ
聞き → 聞い
通り → 通つ
見えたり → 見え
あざりあへ → ふざけ合つ

「口語」と「文語」。
 広辞苑によれば、
  口語体=話ことば、を基準とした文体のことば。広く現代語を指すことが多い。 
         新かな、現代かな遣いとも言う。
  文語体=書きことば、現代の口語に対して、特に平安時代語を基礎として発達した文体。旧かな、歴史的かな遣いとも言う。
        切字の、や・かな・けり も文語である。

比べてみませう。(・印、文語は主に旧かなをつかふ)
    
        赤とんぼ雨に濡れながら飛んでいた(新かな)

   ・赤とんぼ雨に濡れつつ飛びゐたり(旧かな)
〜口語の中七が「雨にぬれながら」で字余りになるが、文語は「雨に濡 れつつ」で納まる。また、韻律(言葉から受ける印象)も詩情が漂ふ。

    竹藪のうぐいすの声美しい(新かな)

   ・竹藪やうぐひすの声美しき(旧かな) 
〜「や」は文語なので・のごとく全て旧かなを使ふ。

    木犀の香に包まれる縁側に
    
   ・木犀の香に包まるる縁側に

漢字で救はれます(旧かな をそれほど覚えずとも詠へる)
    
        おおおとこちいさくまるく掘炬燵

   ・おほをとこちひさくまろく掘炬燵
〜この場合は、「大男小さく丸く掘炬燵」と表記するケースなので、それほど旧かなを必要としません。多くがこのケース。

○文語・旧かなは先達の俳句を詠み、ヒントを得つつ自然に身についてゆく。
   
 大事なことを忘れてました。
☆推敲=作った一句を詠みなほし、納得のいくまで検討を加へる。
 私はとかく推敲を忘れる(面倒くさい)ので、心がけたい。
一度で五句作った句を翌日見直したとき、えっなんでーこんなのが?と四句削除し、残った一句もまだまだつまらない気がして捨ててしまふことがある。
手紙やメールも書き上げて送信したあとで、しまった、余分なことを書いた、書き足りなかった、とか経験があると思ひます。
喧嘩のときもついあらぬ言葉をくちばしるものです。
  かの芭蕉も一句を何ヶ月もそのままにしておいて、推敲を重ねました。折角作った一句も捨てる際には、推敲を行ふべきです。
  冷蔵庫に入れて(そのままにして)?後日見直すことも大切〜。
   
私の一句
   初日の出両手をかざし迎えけり
     ・ありのまま、であるけれど「ただごと=当たり前」の表現。
   ↓
    海神(わたつみ)の初日にかざす掌(たなごころ)
      ・海神(海を守る神)から現れた初日を手のひらに受けた。洒落てはゐるが、今ひとつ広がりに乏しい。
    ↓
   新玉の光あまねく掌(てのひら)に
     ・漢字が多いのかな。 
   ↓  
    あら玉のひかりあまねく掌に
     ・新年のしみじみと降りそそぐ感じに・・・。

 もう一つ
   重篤の友雪止んだと呟きぬ
    ・入院中で回復の見込みのない友を見舞ったとき、「雪がやんだ」とつ ぶやいた。「・・・友雪止んだ」の破調は句柄に沿わ          ない。
   ↓
   病める友雪になつたと呟きぬ
     ・友のつぶやきを反転させる。重篤ほどの切迫感はないが、この程度に。

 もう一つ
   浮雲の近寄りがたき由布の雪
     ・青空の由布岳の初冠雪の眺めを詠ふ。「近寄りがたき」が理屈でアクセントが固い。
   ↓
   漂へる雲に屹立雪の由布
     ・少し嘘をついて、雲の中に立ち上がらせてみた。しかし「屹立」の表現が大げさではないかな・・・。 
   ↓ 
   浮かびたつ初冠雪の豊後富士
    ・「浮かびたつ」がありきたりの言葉で、納得できない。
   ↓
   しろがねの由布初空をほしいまま
    ・発想を変えてみた。

○このやうに、言葉の表現を変へたり、上五、中七、下五を入れ替へたりしながら推敲は続く。完成しなくとも、なんとなく好きな句は捨てないでとっておきませう。柩の中まで・・・。
また、推敲も現時点の自分なりの創作であって、まだ未熟であることは承知している。推敲力も日進月歩である。                                                                                 〜この章は「旧かな」でした〜

ジャンプ      
句会にはいろんな句風が観られます。(→料理にたとえる)
 ・主観風=主に人の心情を詠う→肉食中心←季語を軽視。川柳・標語に接近

 ・写生風=風物を写しとる→菜食中心季語中心。スケッチなので含蓄・余韻に乏しい。

 ・客観写生=虚子が提唱したもの→肉・菜混合の洋食写生風に少し主観(心情)を投入。

 ・蕉風=風物と心情を詠う→30品目混交のかくし味←季語の本意と主観の均衡、含蓄・余韻をねらう。→次回「芭蕉の足跡」

 私は選句にあたり、句風には全くこだわらず、それなりに優れた一句を選ぶように心がけています。いずれの句会も女性が大多数。句柄も台所俳句どころか、今や男性を圧倒する堂々とした作品がならぶ。世情をを反映したすばらしい(おそろしい?)時代です。
先ず10句ほど候補を選び5句を選句。投票のあと、ゼロ票の句の中に優れたものをたびたび気付きます。そんな時は自分の鑑賞力不足にも気付くのです。

添 削 の 実 際
人の句を添削してみよう=自分の選んだ句から抜粋。

原句)  一文字(ひともじ)に思ひ残して日記果つ           (句会) 
    〜一物仕立て。理に叶うなめらかな韻律。いったいどんな文字を残してページを締めくくったのか、余情をかき立てる。
僅かに気になる点が「一文字」。想像が及びにくい。一文字で紙面 が不足することはない。何か印象的な一文字があった のかもしれな いが、私にとっては次のようになればと。なお、文語体に揃える。

添削句) 一行に思ひ残りし日記果つ


原句)  今ならば話してみやう冬紅葉                 (句会)   
   〜若い人の句なので、老人が向かい合ってる場面や、以前好きであっ たひとが重篤になり、見舞いに訪れたところかもしれない。やや背景が浮かびにくい。
 敢えて「恋を打ち明ける」感じを出したい。

添削句)  病む人にうち明けませう冬紅葉

この日の選に漏れた秀句
    
           元始太陽は女ぞ枯蟷螂                      (句会)
    〜鑑賞不足で見落とした一句。 
     古代、卑弥呼の時代は小国連合。国の発生当時は小さな国同士の争 いが絶えず、女性を王に据えれば安泰を保った。日の神、天照大神 は女の神として崇(あが)められていた。
枯蟷螂は、うすばカマキリで寿命七年。したたかに冬を越す。女ぞ、の係助詞「ぞ」で強調。また、上五・中七の反転、破調により効果を一層高めている。歴史的に女性は神・仏の神聖な場所、政治の表舞台から排除されてきた。しかし、今や立場は逆転しつつある。女性は性来生命の根源、男性は性来儚(はかな)い(涙)。 手練(てだれ)力量を示す堂々とした一句。

原句)  風に舞う銀杏落葉の真っ盛り                  (句会)
    〜正直な淑女らしく、感動をそのまま一句に仕上げている。この方の句はいつもほのかな発見があり学ばせていただいている。この技法だけの問題。この場合は何度か読み返せば、単に季語の説明だけとなっている。誰もが見る光景なので、 はっと驚かない。少し加工して(嘘をついて?)生々しくしたい。できれば文語を遣いたい。

添削句) 風は舞ふ銀杏黄葉の真ん中を  


原句)  降りしきる紅葉の中の訣れかな               (句会)
    〜なめらかな韻律で哀愁が漂う。終助詞「かな」で詠嘆を強調し好 ましい一句。少し「別れ」を強調 したい。  

添削句) 降りしきる紅葉に永遠の別れかな  


原句 ) 紫陽花の色褪せるごと時流れ                  (句会)
     〜口語体の含蓄のある一句。紫陽花の色の移ろいを、留まることのない時の流れに直喩して捉えた。時流れ、の「流れ」はこの場合、流れるの連用形(活用ラ行下一)としているので、言葉として完結しないので終止形へ。ただし、この用法も存在する。
      文語体では→流るの連用形(活用ラ行下二)を終止形とする。

添削句) 紫陽花の色褪せるごと時きざむ(口)
       紫陽花の色褪すごとく時流る  (文)                     


原句)  水尾引きて出船入船風光る                   (句会)
    〜座の進行役。人品ともに優れた方。写生句の典型、季語を自在に操る実力派の秀句。「出船入船」の反語的にたたみかけて、春の風を切って漁船が出入りする光景を見事に表現。ただ、「水尾」「引きて」が重複。複数の船を、       

添削句)  水尾いくつ出船入船風光る      


原句) 闇よりも濃ゆく汚れて夜業かな                  (句会) 
    〜高得点句。現役時の残業でしょうか。汗して一途に働き続けた思 いは全く同感。句歴百年?の実力派。「闇よりも」が季語を一層引き立たせる。「濃ゆく」の用語はない。「かな」は文語なので文語体に統一したい。

添削句) 闇よりも濃く汚れゐる夜業かな


原句) 枝豆や日本緑の島四つ                      (句会)
    〜取り合わせ、みごとな二物照応の一句。こんな句ができれば晩酌 も進む。秀句を借りて少し広げたい。
県を跨ぎ熊本の句会にもかよう「通人」の句作三昧。枝豆(秋)、緑(夏)と季重なり であるが、この場合「枝豆」に焦点を当て、強弱がはっきりしているので許容される。

添削句) 枝豆や緑の日本島いくつ


原句) 里鴉群がり寒空ひとまたぎ                     (携帯の友)
    〜夕どきによく見かける光景。あかね色の西山に向かう鴉の群。聾唖者を自認、でも社会俳句は作らないと言われる。芭蕉のように貧富健常の如何にかかわらず「人も儚い存在」を共感している貴重な友人。「ひとまたぎ」で句となった。少しばかり語韻をなめ らかに。

添削句) 寒鴉むらがり天空ひとまたぎ


原句) 何を問ふ鏡の前の裸木に                      (携帯の友)  
    〜自分を裸木に見立て(比喩)、「お前は、これからどう生きるのじゃ?」とか何とか、含蓄のある秀句。
私には「何を問ふ」がやや曖昧(あいまい)に思える。でも深みはこのままの方があると思う。好みの問題・・・。

添削句) いざ問はん鏡の中の裸木に


女の俳句
  全国の俳誌によれば、古い慣習を乗り越えて女性が男性を越えたのは昭和五十年。以後、永年家事労働に抑圧されてきた主婦は電化製品の普及やカルチャーブームに乗って、益々女性が羽を伸ばし今や男性が日陰にひっそり首をすくめている。   
そもそも、女性は命の母。たくましいのが当然である。

平成十一年の蛇笏賞は鈴木真砂女が受けた。句集「紫木蓮」によるもので、俳壇で最も権威あるとされる。当時九十二歳。
   
  戒名は真砂女でよろし紫木蓮(しもくれん)   真砂女
  白絣(かすり)尼にはなれぬ女かな
  如月や身を切る風に身を切らせ
  涅槃西風(ねはんにし)銀座の路地はわが浄土
  白魚の月の光に契りけり 

本人が好きな句としてあげた句である。大正生まれの真砂女は銀座路地裏の小料理屋の女将として、道ならぬ恋もし波瀾万丈のこの世を、俳句とともに生き抜いた。
ほかにも
  啓蟄や子鼠かかる鼠捕り
  野鼠の一匹走る黍(きび)嵐
  つぶやきを亀に移して鳴かせけり
  鮪(まぐろ)の頭(づ)胴を離れてうそ寒し
真砂女の句はやはり一見して「台所俳句」に始まり「台所俳句」に終わっている。これが権威ある賞を受けた。当時の俳界は極めて女性が少なく、家庭に縛られた主婦に比べ、小料理屋で自由な句作りの環境に恵まれていたが、一途な姿はそれなりに尊い。

  私はむしろ真砂女の一世代前の、明治二十三年生まれの杉田久女の俳句に興味を抱く。彼女は高浜虚子の「ホトトギス」に頭角を現わし活躍するが、才媛ではあるが奔放なふるまいを理由に、虚子から除名される。真相は不明であるが、むしろ句風に隔たりが生まれたからではないか、と思う。
久女を探索してみよう。

 朝顔や濁りそめたる市の朝         久女
  ・彼女は明治二十三年鹿児島で生まれ、太宰府の病院で死んだ。
大正期の代表作。初秋の空のもと、市の喧噪が聞こえ出すとともに、空に濁りを帯び(感覚)てきた。清廉な朝顔と照応させて喧噪を聞いている。
 
 夕顔を蛾の飛びめぐる薄暮かな
  ・夕顔は久女の好きな花だったようだ。「源氏物語」にも寄り添った。
ほかに、   
 夕顔やひらきかかりて襞(ひだ)深く
 逍遙(しようよう)や垣夕顔の咲くころに
 足袋つぐやノラともならず教師妻
  ・芸術肌に惹かれて、画家の夫に嫁いだが、一枚の絵も描かず田舎教師に安(やす)んじた夫への不満。平塚雷鳥らの「新しき女」やノラを演じた芸術座の松井須磨子や、大正のノラと騒がれた山口順子らを思い出す。 久女の我(が)が露骨に現れた句である。ノラ=戯曲「人形の家」の女主人公。家に夫に仕えることでなく、一人の人間として独立した女性像を描く。
 
 春蘭や雨を含みてうすみどり
  ・春蘭の花に雨露を宿している。雨気に花のうすみどりが浮き上がってみえるのである。  
 
 谺して山時鳥ほしいまゝ
  ・「英彦山」の前書きがある。この句は『ホトトギス』へ投句して没になったが、朝日新聞主催の名勝俳句では一等に選ばれた。
 女らしくない?雄渾な句である。一連の句は、女流俳句にありがちな低俗な台所臭を感じさせない、久女ならではの句境である。
 ほととぎすが、山々を我がもの顔に朗々と鳴きわたる状景。「ほしいまゝ」の措辞がおおらかな味を醸(かも)し出した。
 ちまちましない、駘蕩とした味が好ましい。この句は、芭蕉の句とともに私の憧れる一句である。

 女流の俳句は(男性も私も)、多く写生がそのまま平明写生に終わって、現実世界とは次元を異にする高次の作品の世界に引き込む力に欠ける。
今や叙景を中心に詠う写生俳句は、類想句が溢れている。脱皮したいところ・・・。
 
 戦前は圧倒的な男性俳句の中で、一割にすぎなかった女性は今や完全に逆転し主役の座を獲得している。いま主役たる女性たちの年齢が六十歳を越え、結社や全国の各種俳句大会などで実績を積んでいることは間違いない。

名 句 鑑 賞
  書道の規範は、時代の風雪に耐え抜いたもの。漢字は中国千七百年前、かなは日本九百年前の「書」。俳句の規範も風雪(歴史の試練)をくぐり抜けてこそ「名句」の評価が成される。評価に値する俳人、芭蕉・蕪村・一茶・子規・虚子の名句を鑑賞したい。

松尾芭蕉
 1644〜1694 伊賀の国(三重県)
少年の頃、城代藤堂家に仕え、良忠(蝉吟)の小姓となって宗房と号した。俳句は北村季吟に習っていたが、主君の夭折によって遁世を志し二八歳で江戸に下った。 江戸においては、はじめは水道工事などに携わっていたが門人(弟子)の杉風の援助で、深川に庵を結び全く隠栖の人となった。当時の江戸俳壇は、貞徳の古風や宗因の談林派が行われており、その派の人々と交わったが、談林の低俗と真実味の乏しいのを嫌って、近代生活を取り入れた一風を創始した。
四四歳ではじめて旅に出て、自然の中に閑寂の詩境を発見し、その心こそ俳諧の境地であるとした。今日の俳壇における諸派は、いずれもその精神を汲んだものである。芭蕉の作品は、『笈の小文』『奥の細道』の紀行文が最も有名で、その俳文・俳諧・発句は、門人や後世の人たちによって収録され、『俳諧七部集』(冬の日、春の日、曠野、ひさご、猿蓑、炭俵、続猿蓑)は、その代表的なものである。
新年の部
春立や新年ふるき米五升
           三冊子
四一歳。春が立って新春ともなれば、このわびしい草庵も、さすがに改まった気分がする。瓢(ひさご)の中には旧年に弟子たちが入れてくれた米が、五升ほど詰まっており、まずまず結構な年のはじめである。簡素清貧の味わいを、よく表現している。季語は「春立つ」

蓬莱に聞ばや伊勢の初便
            炭俵
五一歳。正月がめぐってきて、床には蓬莱が飾ってある。この蓬莱を前にして、伊勢神宮では神々しい元日の儀式を思いやるにつけて、伊勢からの初便りを聞きたいものだなあ。季語は「蓬莱」

春の部
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
            野ざらし紀行
四〇歳。あけぼのの頃。網ですくい上げた白魚を見ると、わずか一寸ばかりの白さをあらわしている。「白」をテーマに一句をまとめている。季語は「白魚」                                

山路来て何やらゆかしすみれ草
             甲子吟行
四一歳。「何とはなしに・・・」が初案。大津に至る道。
ふと足もとを見ると、可憐な菫の花が・・・。この小さな命に大きな春が籠められているように思われた。季語は「すみれ草」

辛崎の松は花より朧にて
            甲子吟行・曠野
四一歳。大津にて。「辛崎の松」は近江八景の一つ。有名な神木で、昔から呼び戻される幻覚を覚える。
「朧にて」が眼目。湖岸の桜よりも唐崎の松あたりが、一層濃く水煙に霞んでいるさまで、「にて」という留句に、破格の味わいがある。「朧かな」では優劣を誇示するきらいが強い。状景に似つかわしい表現。「にて」止まりとする芭蕉ならではの作為があったかもしれない。季語は「朧」

行はるや鳥啼き魚の目は泪(なみだ)
              奥の細道
四十六歳。行脚に出発の際の留別吟。門人たちに送られて、奥州への旅の第一歩を印した。頭上を啼き渡る鳥の声、自分は死を覚悟した旅立ち。去りゆく春の哀愁の中、自然まで悲しんでいる感情。季語は「ゆく春」

古池や蛙飛こむ水のおと
              春の日
四十三歳。庵の前の庭をぼんやり眺めていた。荒れたままの池がある。折し も、ポチャンという、静寂を破ったものがある。蛙が一匹飛び込んだのである。この一匹が春のけだるい静寂を動かした。悠久の真実を味得した感懐を得た。季語は「蛙」
 
夏の部
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月
              猿蓑・笈の小文
四十六歳。蛸壺は素焼きの壺で、昼に海底に沈めておき、翌朝早く引き上げる。蛸は須磨の浦の名産である。壺を自分の家と思いこんで眠った蛸のあわれを夏の月明かりに哀愁を感じている。季語は「夏の月」

あらたふと青葉若葉の日の光
                 奥の細道
四十六歳。日光東照宮の「日光」を「日の光」にかけて、かがやく青葉若葉に包まれる東照権現を詠む。「あら」は感動詞。「たふと」は「たふとし」の語幹。芭蕉はさほど権力者の神格化を讃える人ではないが、元禄の世はともかくも徳川氏の治世で太平を謳歌していた。季語は「若葉」

閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声
                 奥の細道
四十六歳。山形県の山寺「立石寺」。境内に岩が多かった。油蝉ではなく、 声のうら返るニイニイ蝉で、あまり多数ではないだろう。季語は「蝉」

秋の部
猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに
                 野ざらし紀行
四十一歳。八月中旬、門人一人を同行して旅に出た。沼津を過ぎて富士川の渡し場にかかったとき、あわれげに泣く捨子を見た。
「猿を聞人」は、猿の鳴き声は古来哀調を帯びているので、断腸の思いをさせ るといって詩歌に詠まれた。「猿を聞人」と敢えて上七にして、自分を客観化し「秋の風」に無情性を漂わせる。芭蕉ならではの表現力であり、驚愕に値す る。季語は「秋の風」

荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)
                  奥の細道
四十六歳。同行の曾良を伴って、越後の出雲崎に着いた。このあたりで得た 想をのちに一句とした。ザザザー・・・と波音のかなたの佐渡島は闇の中。銀河が滝のように降りかかっていた。島を覆い隠す銀河も大いなる自然。荒波も 自然。相まって人間の小さな存在思う。季語「天河」

此秋(このあき)は何で年よる雲に鳥
                   笈日記
五十一歳。逝去の十二日前の句。健康が優れず、めっきりと肉体の衰えを覚 える。空を眺めていると小鳥の群が雲の彼方へ消えて行った。鳥も俺も自然のなかの一瞬の旅人にすぎない。季語は「秋」

冬の部
海くれて鴨のこゑほのかに白し
                 野ざらし紀行
四十一歳。尾張の国、異郷の暮れやすい師走の海。どこからか鴨の声がほの白く聞こえてくる。ほのかに白し鴨のこゑ。とせず、鴨のこゑほのかに白し。として「透明な闇」のデリケートな情感を詠む。季語は「鴨」

旅人と我(わが)名よばれん初しぐれ
                 笈の小文
四十四歳。人は皆、はかない人生の旅人と自分もその一切れと思っているが、現実にしぐれに打たれながら「もしもし旅のお方・・・」と呼びかけてくれたらどんなにいいだろう。ありがたいだろう。季語は「しぐれ」

旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る
                 笈日記
五十一歳。最後の句であるが、いわゆる辞世の句ではない。それだけに作 意が全く感じられない。改まって辞世を詠む意志はなくとも、死を予感していた だろう。「夢は枯野をかけ廻る」には、やり遂げな い無念がにじむ。これは自然の中のほんの一粒の人間の姿でもあった。季語は「枯野」                                 

与謝蕪村
 1716〜1783 摂津国(大阪市)
 農家に生まれた。十七歳で江戸に出て、画や俳諧を学ぶ。十年余の東国放浪の旅のあと一七五一年には京都に住んで、画・俳諧で名声をあげた。文芸的には中興俳壇の巨星とされる。
新年・春の部
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど
                蕪村句集
「小磯の小貝」と頭韻の調べが美しく、「ぬれにけり」との強い響きを避け 「ぬるゝほど」と春雨のかそけさを繊細に描写している。季語は「春雨」

春の夕(ゆうべ) たえなむとする香をつぐ
                蕪村句集
香を焚くのは文人趣味の一つであった。匂いが消え去ろうとするときに、 香を焚き継ぐことで、物憂い春の夕情感があり、「春愁」ともいうべき心の 動きを見る。季語は「春の夕」

菜の花や月は東に日は西に
                蕪村句集
蕪村の代表句。菜の花畑を広角の視界に捕え、その視野のはずれに月と日 を感じとった。画面の構成を狙う画家の目の働きである。季語は「菜の花」

夏の部
ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に
                蕪村句集
まるで碁盤の目のような京都の町を、斜めに線を引くように時鳥が勢いよく飛び去った。画家特有の写生の眼。季語は「ほととぎす」

牡丹散りて打かさなりぬ二三片(にさんぺん)
                蕪村句集
「打ちかさなりぬ」は、花びらの重量感。まさに音まで聞こえそうな立体 感を受ける。季語は「牡丹」

さみだれや大河を前に家二軒
                蕪村句集
子規が賞賛した一句。芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」と比較される。のちに子規は「あつめて」の主観を嫌い、虚子は芭蕉を支持した。季語は「さみだれ」

秋の部
月天心貧しき町を通りけり
                蕪村句集
月は中天にかかって、隈なく冴えわたっている。この貧しい生活のどん 底のあるような家々も、煌々たる月光のの下に美しく照らし渡っている。季語は「月」

山は暮て野は黄昏の薄かな
                蕪村句集
暮れやすい秋の陽は、もう遠くの山を薄墨色にしているが、近くの野に はまだ黄昏の微光が暮れ残っている。遠景を「暮て」、近景を「黄昏」とし見事な遠近法。いっときの明暗の移調ををとらえた。季語は「薄」

冬の部
待人の足音遠き落葉哉
                蕪村句集
当時の恋句とすれば昼ではなく、夜であろう。ともかく人を待つ心の焦 燥、不安、期待の心理を描いた叙情詩。やや焦点に欠ける。季語は「落ち葉」                                

腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな
                蕪村句集
「腰ぬけ」は腰の疾患で立ち上がれない。動きも物言いも緩慢で弱々しい。男にとっては、てきぱき溌剌としているよりは、むしろか弱い仕草に弱い特性がある。蕪村も恐妻タイプ?。季語は「炬燵」

小林一茶
  1763〜1827 信濃の国(長野県)
  三歳の時に母が亡くなり、継母からいじめられ、十五歳で江戸へ奉公に出て 苦労した。一茶の句は、人間と生活を投影し、社会の底辺に生きる人々の困苦を実感のまま描いている。方言・俗語を駆使して、たくましい生気を文化文政 期の俳壇に吹きこんだ。
新年の部
はつ春やけぶり立つるも世間むき
               文化句帖
定職もなく、この頃窮乏の底にあって、精神的に救いがたい状況であった。「世間むき」とは、見せかけの体裁だけの意。季語は「はつ春」

目出度さもちゅう位也おらが春
               おらが春
一茶は五十七歳。この時分は一番幸福な時である。働き者で元気な妻、前 年生まれた子と三人で恙なく新年を迎えた。「ちゅう位」は、いい加減、どっちつかず、ということだ。季語は「春」

春の部
雪とけて村一ぱいの子ども哉
              七番日記
雪国の子供たちにとっては春は待ち遠しい季節である。「村一ぱいの」で、 雪解けとともに、巣立った小鳥のように、一斉に家から飛び出してきた状景が生き生きと見える。季語は「雪」

痩蛙まけるな一茶是に有り
              七番日記
一匹の雌をめぐって、雄同士がはげしい争いをくり広げるが、負けて押し のけられた痩蛙を見て「それ、負けるな一茶がおるぞ」と言って、応援する。このとき、一茶は四十歳を過ぎてまだ妻帯していない。季語は「蛙」

我と来て遊べや親のない雀
              おらが春
一茶は三歳のときに母と死別して、祖母に育てられ、八歳で継母を迎え継子としての不幸せな日を送った。後年になって、当時のみじめだった自分の境涯を追憶して詠んだもの。季語は「雀の子(親のない雀)」

夏の部
やれ打つな蝿が手をすり足をする
              八番日記
一つの弱者にたいする同情の心と、純真な愛情が「やれ打つな」とあわて て制止させたもの。「手をする足をする」では、やや川柳めく感じなので「手をすり足をする」である。季語は「蝿」

大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
              七番日記
妻を迎えたのが翌年五十二歳になってから。一人の気安さから大の字に寝 たところ、涼しさに合わせて「この年でまだ俺はひとり・・・」、じんわりと淋しい気分が襲う。たたみかけるような詠嘆調が、一句全体に響きわたる。季語は「涼しさ」                                
秋の部
稲妻やうつかりひよんとした貌(かお)へ
              七番日記
「稲妻」は稲が実る時期に多く、実らせると言われている。「うつかりひ よん」の擬態語は、一茶の得意技。目前にまざまざとその顔つきが浮かぶ。 内容はないが、擬態語の創作で値打ちを上げた。季語は「稲妻」                                             
寝返りをするぞ脇よれきりぎりす
              七番日記
「寝返りをするぞそこのけきりぎりす」を「脇よれ」と変えている。この 方がはるかに親しみの情が感じられる。雄は「チョンギース」と鳴く。季語は「きりぎりす」
                              
露の世は露の世ながらさりながら
              おらが春
玉のように慈しんでいた長女の「さと」は一年あまりで疱瘡で亡くなった。「露の世」=はかないこの世。仏教観を肯定しながらも、  「さりながら」理屈を越えた悲しみを強調している。季語は「露」

冬の部
年の市何しに出たと人のいふ
             文化句帖
浅草市は、浅草観音の境内に開かれる年の市。「人並みに出る真似したり年の市」と併記されている。掲句の方が趣きがある。併記の句は直截で味わいに欠ける。気分に誘われて、人混みの中をウロウロしていると、それを「何しに出た」と言われると、老いた独り身にはなんともいたたまれない。季語は「年の市」

是がまあつひの栖(すみか) か雪五尺
             句稿消息
五十一歳。故郷を自分の終焉の地と決めた。眼前の雪を眺めて・・・。 「雪五尺」で句が生きた。柏原は豪雪地帯として半年も雪に埋もれる厳しい生活が待っていた。季語は「雪」

正岡子規
 1867〜1902 (愛媛県松山市)
明治二三年、松山藩常磐会宿舎で、内藤鳴雪らと「もみぢ会」を結成、指導的立場に立った。その後「日本」「小日本」の編集に従い、俳句を募って新俳句の鼓吹に努め、蕪村の作に傾倒した。三十年に「ホトトギス」を創刊。翌年にはこれを東京に移し、高浜虚子に編集させた。江戸後期のいわゆる点取り俳諧の宗匠たちが、芭蕉を唱えながらも低俗化した風潮を立て直すべく立ち上がった。季語は使うが感情に任せて面白おかしく詠い点を競う。あまりにも主観に偏った俳諧を軌道修正するには、写生的な蕪村を前面にし芭蕉を否定しなければならない。新聞社の文芸欄(俳句の分類)担当の優位を発揮し、和歌・俳句の革新を提唱し当時の堕落した業俳の姿勢を正した功績は大きい。写生句の宿命、類句の氾濫に頭を痛めた。
晩年は病床にあって、三〇年九月、根岸子規庵で没した。著作「分類俳句全集」「新俳句」「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」など。

柿食へば鐘がなるなり法隆寺

大和は柿の名産地。しかも子規は柿が大好物だったようだ。柿という庶民的な味わいと、法隆寺という知名度が相俟って、この句は人々の間に有名になった。即興的な味わいと軽妙さが備わっている。「柿」(秋) 

鶏頭の十四五本もありぬべし

明治二三年。この年から病牀に臥したままとなる。句作は、回想の句。 「十四五本」は大ざっぱなとらえ方のようであるが、正確に数えることはない。花らしくない鶏頭の姿を読みこんだ句として、傑作とされている。「鶏頭」(秋)                      ほかに
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をととひの糸瓜の水もとらざりき

この三句は絶筆であり。、絶唱である。晩年の芭蕉「旅に病んで夢は枯 野をかけ廻る」、蕪村の「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」がある。「糸瓜」(秋)

いくたびも雪の深さを尋ねけり

明治二九年「病中吟」。雪の降るそとの景色を思いながら、おきて行か れぬ。余命幾ばくもない身を意識している。心情を評言し得ないもどかし い心底を推測する。「雪」(冬)

高浜虚子
 1874〜1959 (愛媛県松山市)
明治二四年、先輩の子規と文通をはじめ、子規を師とした。松山で発行の俳誌「ホトトギス」を東京に移し、子規主宰のもとで発行を担当した。子規没後は、これを主宰した。子規を尊崇していた碧梧桐は、否定形・無季の新傾向俳句に走り、子規が信頼していた虚子は、子規の写生に叙情を加え、昭和以降は「花鳥諷詠」の句風を説いた。事実上、写生と主観のバランスを重視、芭蕉の俳風に引き戻したと言える。名実ともに句界を風靡した。「虚子全集」ほか多数。八十六歳で没。

流れ行く大根の葉の早さかな

昭和三年。九品仏吟行。虚子の代表作。
郊外をそぞろ歩きしていると、ある小川のほとりに出た。橋の上に立って 見下ろすと、流れてきた大根の葉は橋の下をくぐり、たいへんな早さで流れ去った。一つのスナップのように、パッとひらめいた感興。「場」と「脳 裏」が一体となった瞬間。
「大根」(冬)

山国の蝶を荒しと思はずや

昭和二〇年。後書「一四日。年尾、比古来る。小諸山廬」とある挨拶句。虚子の喜びが句のリズムに溢れていて、「荒し」には、山国の空気の中で、蝶の輝きと鋭い羽使いが見えるようだ。この句は相手に呼びかけているが(それが人間でなくても)常に呼びかける気持ちで句作していた(存問)。「蝶」(春)

去年今年貫く棒のごときもの

昭和二五年。「去年今年」は除夜の鐘を聞き終わった後に、去年のこと を思い、また今年のことを思う心を詠む。あわただしく年の去り来る意、である。若い頃は、去年と今年の間には「飛躍」暗示していた。年老いた 今は、ただ淡々とした心境。「貫く棒」のごとく格別節目を感じない。「去年今年」(新年)

春の山屍をうめて空しかり

昭和三四年。いかにも鎌倉の春にふさわしい。句柄が全体としてふわりとして温かく「空し」い。二日後の四月一日、虚子は就寝後、大声を発し以後、意識不明となった。そのとき春雷が鳴りわたった、という。「春の山」(春)


着 地
  今の俳句の成り立ちが、さまざまな時代 背景の中をあるいは淘汰されて生き残ってきたように、俳句の道は「複雑怪奇」。神秘にみちている。これまで述べたことは、俳句を知る立場から言えば、ほんの爪の先の知識に過ぎない。
この章では、ゆっくり俳諧史を探っておきたい。 

1、俳諧史の方法と方向
 
 史とは、常に重層的な実態を持つ。発生した地盤と背景がある。
俳諧が付合方式を持つ連歌の一体であることを重視すれば、発句史よりもこれを 含む連句が中心とならなければならない。
蕪村において、きわめて重要な位置を占める季感中心の客観詠を生み、子規の写 生や虚子の花鳥諷詠論を引き出すのも「発句性」によるものである。
 ところが俳諧は、発句を立句とし、「森羅万象」を読み続ける平句があってこそ完成され、自然人事、古今東西の総体を描きうるのであるから、平句の世界に重点があったことを銘記しなければならない。一句立平句平行時代、明治以降を俳句川柳平行時代とすればよい。
芭蕉は、連歌の退行期に生まれた。「有心」をも加えて、その総合の上に蕉風を樹立し、機知性を薄めて叙情性を回復したのである。これはその時点では一つの方向として認められるが、その晩年の「軽み」の説の根拠は、「猿蓑」的な重くれた世界が「有心」に近づきすぎたことへの反省と捕らえるべきである。
俳諧が俳諧であるためには、「無心の軽み」がなければならず、弟子たちにさえ誤解を招いたその俳風から、俳諧性を取り戻すための発想であった。
 俳界の語は、中国から輸入された。滑稽は俳諧のごときもの、と言う。言語遊技としての比喩や寓言、俗情のうがち、人情描写などを開会の属性とすると、他人を笑わせながらその中で真実を物語るようなものに「俳諧の究極に姿」があろう。
付合とは、他人の作品が与えられ、先ずそれを正しく理解することを条件として、それを屈折させ、一瞬の後に調和させる方法であるから、直接の現実的感動が創作動機とならず、題詠的観念的作品におちる危険を常に内包している。宗祇が知的教養を尊重し、芭蕉が東海道の旅行体験を俳人の資格として挙げたのも、その危険を避けるための要求なのであった。連歌はかならず「上の句を言ひ残して下の句に譲り、下の句にいい果てずして上の句に言はせ、つべきものなり」。また、「言ひおおせて何かある」(芭蕉)の言葉もこのことで、俳句を、余情または象徴文学とするのは、この付合の本質からでたものである。なお、俳諧史が俳諧を求める歩みであるとすれば、次の二つの方向を設定できるかと思う。

その第一は、表現面で俗をとり、素材、内容に民衆生活をとること。この方向は、民衆が参加することによって血肉化する。ともすれば、俗にのめりこもうととするのであるが、そこに新世界の開かれていく積極性を認めたい。下劣放埒へと盲信する俳諧の自然な動きも念頭になければならない。「芭蕉七部集」が民俗学の宝庫とされるのも、この面から蕉風をとらえた実践なのである。
推敲なしで思いを吐き散らす一茶から、多作を誇る近代俳人の句集もこれであり、「原始連歌の即興、統一よりは変化を重んじた連句、談林の矢数俳諧、点取り即吟、各種高点臭の発行」などは量への挑戦に終始した。この辺りから、俳諧の企業家と業俳が誕生していった。職業俳人は収入のために、民衆の嗜好を敏感に察知する迎合が生まれた。

第二の方向は、一句立への道である。
一句立をうながしたものは、付味の変化であった。「親」から「粗」への動き。縁語付から心付へ。ここで平句一句立、発句の独立(完結性)が誕生した。
宗因が古典語と現実を結びつけて意外性を楽しみ、芭蕉が「取合せ論」を説いたのも、誓子がモンタージュ論を展開したのも、すべて「異質な者の同居から、特異な調和をひき出す手法」であった。



2、連歌と俳諧

「筑波問答」 
  かたわに見ゆる春の三日月
  小車の半ばは花に木隠れて     良阿法師

  変わるや歌の心なるらん
      飛鳥川昨日の淵に鳴く蛙   民部郷為藤

宗祇の
「湯山何人百韻」
  薄雪に木の葉色濃き山路かな    肖柏
岩本すすき冬や猫見ん           宗長
松虫は誘はれ初めし宿出でて       宗祇
小夜更けけりな袖の秋風           柏
露寒し月も光や変るらん           長
思ひも馴れぬ野辺の行く末          祇

〜世の転変を自然の景の中に観じ、しみじみと心知る友人を頼む孤独な思 いが気品高い水墨画を思わせる。


3、「竹馬狂吟集」「犬筑波集」と宗祇・守武
芭蕉の存在が俳句史に不可欠であるのと同様に、宗鑑・守武の俳諧の祖であることを確認できる。

「竹馬狂吟集」

袋ぞ二つ空にふらめく
大黒も布袋も鳶につかまれて
恋しやしたやさて如何にせん
我妻の忌日の仏事銭はなし

「犬筑波集」
命知らずとよし言はばいえ
君故に腎虚せんことこそ望みなれ
あったら虎の毛こそはげたれ
さのみなど曽我の十郎ひねるらん
・前句において卑猥な言葉、表現を持って、そのような連想をおこすようにしかけてある。
 ここに、誰にも共通な人間の好色な本性を、何の遠慮もなく赤裸々に示す。従来の公の文学では許されなかったタブーが、平然と破られているのを知る。
時代背景の中で、自由精神の高揚も伺われる。

あるいは、


「竹馬狂言集」 
南無阿弥陀仏と落るかの池
蓮葉の上にのぼれば目が舞ひて
阿弥陀は波の底にこそあれ
南無といふ声のうちより身を投て

「犬筑波集」
小町も尼になりて語らへ
花の色は移りにけりな梅法師
面白さうに秋風ぞ吹く
打ち廻す下手神楽の真葛原
・ここでは歌聖や古歌をからかい

花若どのの姉御恋しも
寺よりもお里の月はゆかしくて
受け太刀になる事そ悲しき
重代のものをも質に置きそめて
・現実社会の僧の堕落や、名家の没落に眼を向ける。

 古典や歌聖の俗化は、伝統精神の無視であって、ひいては現体制に対する不信の念が、笑いを求める中で自然に顔を出していった。
これらは、宗鑑の選と思われるが、遠国にまで知れ渡るほどに流布していた。

「守武千句」
のどかなる風ふくろふに山見えて
目元すさまじ月残る影
・のどかな風の吹く山の端に月がかかっている、という本情のほかに、目元のすさまじい梟という別情が絡み合って、いわば横すべりする重 層な意味を楽しんでいる。 
 前句と付句を二句一章としてはじめて納得される姿。そんな破格を反連歌性、つまり俳諧と考えたものであろう。


4、俳諧独立と貞徳
寛永六年、西武の発起にョ、貞徳を囲んで、京都竹満寺で正式俳諧が興行された。俳諧が「表の文学」として登場したのである。
摘み綿か塗桶形(ぬりおけかたど)りの庭の雪      貞徳    
火鉢召されよ雲の衣手                    西武
天人や寒さをこらへ兼ねるらん               親重
以下百韻(省略)

連歌を志した者も俳諧に移り、「あながち故事の跡を追はず、今様のよしなし言を口に任せて言ひ散らす」(はなひ草)俳諧者が続出する。
連歌の中に、俳諧という別の世界があることを確認し、俳諧であるためには俳言がなければならない、と形式規制が強調されてくる。和連歌で用いない日常流行語の類を連歌形式に投入することによって、雅俗の不協和から滑稽を感じる方法である。
俳諧を独立させたものの、文化人側は連歌への接近を考え、庶民側は生活詩を志向する。


5、俳諧通俗化と宗因風
貞門の進歩派重ョと、連歌の同門として親しんだ談林の総帥西山宗因は、九州の浪人。貞門の格にこだわらぬ自由な俳諧を行った。
付合と意味統一を重視した貞門と対立し、付合感を破壊するとともに、俗語の制限を取り外して生きた風俗描写へ進むことになった。この八方やぶれの新風に、貞門連中は、談林批判を開始した。

同じ拍子にくさめつくさめ
雨だれの落ちくる風や引きぬらん  意楽

付物をスパーク式に引き出すことにより、予期せぬ味を出す興味と結びついて、即吟の風を生み、住吉神社前の西鶴の大矢数で、一昼夜二三五〇〇句の記録を見せる。これは固定化した談林付合が西鶴の内部に蓄積されていた証左であり、談林の末路は目前であった。この頃、貞門の多くは談林に染まっていた。


6、蕉風成立と元禄俳壇
元禄の上昇的新風は、空中分解した、無法と通俗化を苦々しく思い、純正連歌的な世界を目標に、文学観を再建しようとした。「純文学への道」である。それは芭蕉によって大成されたといえる。
元禄初年の頃は景気(景色)付が流行した。その先駆ともいえる芭蕉の句、

枯枝に烏とまりたるや秋の暮

雪の朝独り干鮭を噛み得たり

夜ひそかに虫は月下の栗を穿(うが)つ

従来の表現された作品内容を直接示すのではなく、創作に至るまでの心的過程にまで広げ、そこに俳諧性を見出そうとしていたことがわかる。
貧を詠みながら賤に落ちず、貧楽・孤高の世界に転じる。
また、
腐れたる俳諧犬も食らはずや     芭蕉
ほちほちとして寝(い)ねぬ月      其角
・この連句にも風狂精神を見る。

狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉
・駆け落ちの藪医者に、自己を直喩した滑稽。

蘭の香や蝶のつばさに薫(かをら)す
白芥子に羽もぐ蝶のかたみ哉
牡丹しべ深く分け出る蜂の名残哉
・これらは、挨拶句。女主人の美しさを蝶にたとえ、別れの情を、蝶や蜂に寄せる。比喩に真情を籠める手段を手に入れた。

その蕉風と呼ばれる作品、

春なれや名もなき山の朝霞
 山路来て何やらゆかしすみれ草
・名もなき山、山路のすみれの花。この目立ちもしない自然の営みに 視線を向ける。次の句も同時期である。

古池や蛙飛び込む水の音 

芭蕉が「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、貫通するものは一つなり」と、この考え方は、中世芸道に密着し、無条件にこれを受容したところからはじまっている。
彼の作品には、重苦しい嘆きを主調ととするものが多いとしても、その意図する理想の句境としても即興も滑稽も存在しているのが認められる。
芭蕉は西鶴を「浅ましく下れる姿」と、その句柄を認めなかったが、彼は貞享元年の住吉社大矢数に立ち会い、また元禄元年にも大阪に西鶴を尋ねる。このあたり物にこだわらぬ性格を示すものといえよう。


7、俳諧の大衆化
暁台の「俳諧統合」によってほとんどの俳諧門の宗匠が、若干の貞門・談林系を除き焦門に統合された。しかしそれは偶像化した芭蕉宗で有り、絶対者芭蕉へ他力的にすがる姿でもあった。
蕪村の方は、蕉風前期の高雅な香りを求めたのであるが、次第にその切れ味を失って、温和にそして平明へと移る。この頃から俳諧は特定に俳人の枠を越えて、人々のたしなみ「俳諧ぐらいは普段の教養」通用し、庶民に浸透した。
人と会えば一句。人事万端挨拶代わりの一部になっていた。
このころの俳句、
  春雨は退屈、どことなく倦怠感がある。  
      春雨や物書かぬ身の哀れなる    蕪村
      春雨や猫に踊りを教える子      一茶
      瀧口に燈を呼ぶ声や春の雨      蕪村
      穴蔵の中で物言ふ春の雨        一茶

  また、春雨は煙るような姿を持つ。
      春雨や暮なんとして今日もあり   
      霞より降るぞまことの春の雨   

  これらの多くは嘱目吟ではない。
      春もやや気色整ふ月と梅       芭蕉
      雪解けたばかりの庭や月と梅     蒼糺
ある季語に対する感情と姿勢が、一つの形として定まっている。

 鈴木道彦は、仙台藩医の子。江戸へ出て俳三昧の生活に入った。過去芭蕉にも私淑していた。師匠の没後は、自他共に許す第一人者となった。その多才な点で当代随一の俳人出会った。
      万歳ははたご物食ふ顔もせず
      さす傘の江戸は花見の群にける

 夏目成美は、篤実閑静な信仰心の厚い人。宿阿足なえのためか、線が細く時に観念的な風狂が顔を出す。
      梅が香や燈心かけし軒のつま
      見る人の唇かわく紅葉かな
      名月を追うてひけひけ庭むしろ


 一茶は、我春集にて「心の古みを汲み干さざれば、かの腐れ俳諧となりて、行く行く理屈地獄に苦しびまぬがれざらん」と観念的作品を否定し、自分のことばでの表現を貫いた。   
大根引き大根で道を教へけり
故郷はよるもさはるも茨の花
蓬莱に南無南無といふ童かな
など、芭蕉から蕪村へと受け継がれてきた、発句の本情としての季感を捨てて、季語はもっぱら人情を述べるための素材に用いた。貞門・談林時代の扱い方に近い。極貧の身の上で趣味化する余裕もなかったであろう。

あら玉の年立返る虱かな
美しや障子の穴の天の川
玉棚や上座して鳴くきりぎりす
彼の作品が雑然として落ち着かないのは、このアンバランスに起因する。

俳趣味は国民の手に移り、その上に君臨したのが、天保の三大家である。
鳳朗は「芭蕉葉ぶね」を著した。
   根強く木がらし不二に当たりけり
    朝風を畳にこぼす若葉かな
   白露の果はこぼるるばかりなり
と俗語をもって枯淡を現そうとしているが、技巧とひねりが嫌みとなっている。
 梅室は、
   鵜つかいひの目くばり凄し煙越し
  乳をかくす泥手わりなき田植かな
  二三合蜆にまじるあられかな
 蒼糺は、
  かんこどり草山高き昼の月
   堀たての大根ぬくし山の昼
  凩や日をけづりゆく膝の上
平俗の中に洗練された味がある。ただ、なだらかな調子を主体とするせいか、緊張感に欠ける。


8、子規の俳句革新と新傾向
  子規は、郷里松山でも句に親しんでいた。当時彼の周囲には、旧態依然たる大宗匠たちが、いかめしい堂号を名乗り繁盛していた。業俳(職業俳人)が蔓延していた。俳句を教具とし、さらに宗教化して「神道芭蕉古池教会」なるものを作って大まじめに勢力を伸ばしている。
 芭蕉の偉大性を唱えながら、ほど遠い俳風を実践する結社が存在するのを見れば、当時の流れは今も消えてはいない。
子規は業俳の似非(えせ)俳人に対抗するためには、神格化している芭蕉の句風を否定しなければならないと考えた。当時日本新聞にあった子規は、新聞「日本」に坪内逍遙「心理的写実主義」に啓発され、理論武装して高尚優美を主とする「写生」を発見し喧伝した。
 先ず蕪村に光を当てた。芭蕉の日本的な消極美(古雅・幽玄・沈静)よりも、蕪村を西洋的な積極美(壮大・雄渾・艶麗・奇警)と定義して推奨した。

海を見つ松の落葉の欄にゐる    子規
雪の峰に白帆南にむらがれり     〃
大妓小妓起出でて牡丹日午なり   鳴雪
音たてて丈高き草も焼けにけり   虚子
塔に上る暗きを出でて秋の空   碧梧桐
 
ここには旧派のもつ「ねばり」はみられない。ところで子規の革新運動を強く記憶されているが、旧派も秋声会も新聞や雑誌に選者として活躍している。

子規は、明治三五年五月一九日、
 糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
 をととひの糸瓜の水も取らざりき
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず

を絶筆として息絶えた。
子規の没後、新聞「日本」は碧梧桐が受けついだ。
主観的傾向の強い虚子は、子規の「写生」の平板に不満を抱いていた。「俳諧馬糞」を著し、日本的消極美を説いたが果たぜず、小説に転向した。

碧梧桐は新聞を活用し、生活にもとづく郷土色を、印象的に音調にも重点をおいて表現しようとした。
狂ひ穂の雨に寒しや青すすき   碧梧桐
川面のくれぐれや白き麦埃      乙字
晴天の芭蕉裂けたりはたた神     〃
月あかく生簀の魚を汲む夜か      〃
お祭りは寝祭りじやとて春の雨  井泉水 

この時分から「や」「かな」「けり」の切字を安易に使うことを嫌い、五七五の音律を避けて、
  話頭柚味噌に及べば主経営す     碧梧桐
  ヒソと遊ぶ子寒し月の雫とる        井泉水
 奇跡信ぜずとも教徒なる寒さかな    一碧楼
 これらの破調が自由律を志向してゆき、「新傾向俳句」に拍車がかかる。
 月夜の雲ひえびえと野の四方にありし  朱鱗洞
 土にいけんとする手のひらの美しい種  井泉水
 蝸牛がうまれている              〃
 枯枝ほきほき折るによし            放哉

 俳界のなりゆきを憂えた虚子は、明治四五年俳壇に復帰した。
新傾向の破壊的・虚無的傾向を不満として、「制約あるが故に俳句がある」と定型厳守を宣した。
大正末期の「ホトトギス」の作品、
 
 冬蜂の死にどころなく歩きけり      鬼城  
 夜濯ぎの心やすさよ飛ぶ蛍       水巴
 雁を射て湖舟にも焚くや蘭の秋     蛇笏 
 虫鳴くや我と湯を呑む影法師      普羅 

虚子は、主観を大切にするが、歴史を顧みて極端に観念的傾向を帯びることを恐れて、そのブレーキとして写生を説いた。定型破壊ではなく、破格も了解した。
 
 蝶とまりて草のしなへば飛びにけり   虚子
 落椿の尻すこしあせし紅さかな     石鼎
 リリリリチチリリチチリリと虫       月舟


9、花鳥諷詠と人生探求
 昭和にはいって、いわゆる四s時代が出現した。
大正十五年の客観叙情詠
 
 山焼く火桧原に来ればまのあたり  秋桜子  
 居こぼれて日向ぼこりの尼ぜかな   青畝
 流水や宗谷の門波荒れやまず     誓子
 
このとき「ホトトギス」巻頭をとった、
 
 蟷螂やゆらぎながらも萩の上     素十
 
と四sが出揃う。
このように虚子の唱える「客観写生」にも二つの潮流が息づいていた。
昭和三年、秋桜子の作、
 わたなかや鵜の鳥群るる島二つ
 天霧らむ男峰は立てり望の夜を
 泉湧く女峰の萱の小春かな
 国原や野火の走り火夜もすがら

この年「新人作家論」では、
 時雨るるや目鼻もわずか火吹竹    茅舎
 牡蛎船へ下りる客追ひ廓者       夜半
 あなたなる夜雨の葛のあなたかな  不器男 

 さかのぼって、大正二年の「婦人一〇句集」からはじまる女流俳句が実ってゆく、
 足袋つぐやノラともならず教師妻     久女
 処女二十歳夏痩がなにピアノ弾け しづの女 
 咳の子のなぞなぞ遊びきりもなや     汀女
 美しき緑走れり夏料理           立子
 月光にいにち死にゆく人と寝る    多佳女
 秋の夜は剃刀の刃がくすりと笑ふ     鷹女 

ところで「新興俳句」運動は、虚子が写生説に忠実(過ぎる懸念はあるが)な素十を肯定して、理想を追う秋桜子を否定した態度から表面化し、昭和六年「馬酔木」に〔文芸上の真〕を発表した。
甘草の芽のとびとびの人ならび      素十
一弁の疵つき開く辛夷かな                    同
などの「草の芽」俳句には、近代性などはないと断定。俳句が「詩」であるためには、鍛錬による個性(主観)の輝きが必要であると述べ、秋桜子は「ホトトギス」を離脱した。
「ホトトギス」に残った誓子は、モンタージュ論によって連作を主張した。
   虫界変                  誓子
      蟷螂の蜂を待つなる社殿かな
      蟷螂の鋏ゆるめず蜂を食む
      蜂舐ぶる舌やすめずに蟷螂(いぼむしり)     
      かりかりと蟷螂蜂の顔を食む        

この連作全体を一つの詩型とみなすとき、第二句以下には、季語はわずらわしく、無季定型の方向を辿る。
同門の雲彦の秀作、
 満天の星に旅ゆくマストあり
 しんしんと肺碧きまで海の旅
 幾日はも青海原のあらきシーソー
 甲板と水平線とのあらきシーソー
などが可能性を示した。

階級イデオロギーからの俳句革新論も登場する。社会的・生活的は句をつくっていた栗林一石路は昭和四年の「戦旗」には、
冬空のビルヂングの資本の攻勢を見ろ
地獄ですと若い女工が演壇で泣いている
煙突が黒い血を吹き通しだ
などプロレタリア的題材をとらえ五年「プロレタリア俳句」を創刊したが、形式そのものが封建の遺物で、社会の歴史的発展にして崩壊、一般詩に解消されていった。
   
また、無季基準律によって作られるのが新しい俳句として、第二次大戦の背景の中で、  
一人ヅヅ一人ヅツ敵前ノ橋タワム    三鬼
逆襲ノ女ヲ狙ヒ撃テ
空を撃ち野砲砲身あとずさる      敏雄
戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
落日をゆく落日をゆく赤い中隊     赤黄男

昭和一五年、リアリズム論は共産主義田として、「京大俳句」の平塚・波止・仁智・西東三鬼らが検挙され、翌一六年「俳句生活」の栗林一石路らが一括逮捕され、新傾向俳句は暗い終末を迎えた。
新傾向の中心碧梧桐は、その後一時ルビ俳句を試みたが昭和八年に引退詩、長い生活に終止符を打った。
 その後、人間臭い生活を入れようと狙い「人間探求派」と呼ばれる中村草田男・石田波郷・加藤楸邨らは、花鳥諷詠にあきたらずそれぞれ俳誌を主宰。

      軍隊は近づく音や秋風裡       草田男
      吹起る秋風鶴を歩ましむ        波郷
      かなしめば鵙金色の日を負ひ来    楸邨

「新興俳句」「人間探求」も、常に虚子を相手取って考えられている。


10、第二芸術論以後
昭和二〇年八月の終戦は、紙の統制で休刊を余儀なくされていた各俳誌の復刊と、新興俳句の人々の結集を呼び起こした。昭和二二年六月に、誓子・草田男・草城・松本たかし・波郷・一石路で「現代俳句協会」が発足した。
新興俳句派と人間探求派とが、俳壇の先頭に立ち以後のジャーナリズムの焦点となった。 それぞれが、腰を据えて俳句に取り組みはじめた昭和二一年一一月、「世界」に出たエッセイ「第二芸術」論(繻エ武夫)が、現代俳句を取り上げた。俳句が俳壇以外から批評されたのは初めてであったし、それが文学としての俳句を否定するものであったために、一大論争を巻きおこした。

      防風のここまで砂に埋もれしと    虚子
      囀りや風少しある峠道        無名子

などをあげ、作品のみでは、価値判断できない。それは俳句作品自体、独立芸術となる資格に欠ける。現代的意義などといわず、小品スケッチのような植物的な生を、菊作りと同様に消閑的に楽しむ「芸」(第二芸術)として認めよう。というのであった。彼は、俳句を代表として、日本的な伝統の名に安住する文学界への警告を発したものであった。俳人たちに、俳句の可能性、その性格を根本的に考えさせるに有効な指摘であった。
 ただし、子規も新傾向も俳句の滅亡を案じての挑戦であったし、新興俳句が定型否定を主張した、にもかかわらず、俳句が存続し、近代化の道を歩いてきたという経験と自信が、俳壇をあまり動揺させなかった。
一部人間探求派の草田男は、日本独自の象徴詩を、鑑賞能力もなく愛情も持たぬフランス文学者が、空疎な理想論を展開したもので、欧米に対する卑屈な根性をみせている。芭蕉の示した生の表現を伝統とし、日本象徴詩として完成させるよう進むのみである。とし、赤城さかえは、俳句の将来に対する不安を解決する方法は、社会性を育てることだ。と述べ、麻生磯路は、民衆の文学だから、俳句抹殺論を出すよりは、民衆の情意を入れ、日本的な詩精神を高揚すべきだ、として破壊的な態度をいましめた。
総括して、その指摘が一部当たっていることを認め、通俗的な風流を否定し、一方では、有季定型の自然詩として近代性を獲得しようとする者と、無季定型により、詩をもとめようとする者とにわかれているが、「俳句を存続させるために努力しよう」という点で一致している。 

昭和二二年、井元農一は、「写生説の再検討」で、

蜥蜴殺しなほうてる子に母新た    波郷

を説明。
蕪村の句は、子規が傾倒した蕪村の句は写生というより空想で、観念的情趣の具象化であり、自然を移すものではない。虚子へ流れた写生は誤りだと指摘した。
この頃の作品、

 虚子ひとり銀河と共に西へ行く                  虚子
 雨に獲し白魚の嵩さ哀れなり                 秋桜子
 渓の樹のぬれざるはなし時雨やむ               蛇笏
 美しき印度の月の涅槃かな                   青畝
 麦の出来わるし夕焼美しく                    風生
 空手に拭ふ涙三日や暑気下ろし                草田男
 霜の墓抱起こされしとき見たり                  波郷
 死や霜の六尺の土あれば足る           楸邨
 広島の夜陰死にたる松立てり            三鬼
 獄凍てぬ妻来てわれに礼をなす         不死男
 メーデーの腕組めば雨にあたたかし      一石路
 寒い月ああ貌がない貌がない           赤黄男
 あれを混ぜこれを混ぜ飢餓食つくる妻の天才  夢道

昭和二九年、「風」の同人たち、沢木欣一・金子兜太・赤城さかえらは「社会性俳句」を提唱した。これは素朴な写生・諷詠をきびしく否定する。

       ほうれん草つめたリュックへ妊む妻  兜太
       父の死やふとんの下のはした金    源二

 ただ、無季のみを主張した場合、句が軽くなるし、それを意識的に造形すれば難解に陥る矛盾を常にはらんでいる。

  昭和三八年、禅寺洞の「天の川」をはじめとして九誌が発表され、「口語俳句協会」が発足した。

しずかにうれる稲飛行機みんな地上にあって    禅寺洞
ポケットの裏にひつかかる指春闘はさけられない    比呂
おなら誰も笑わず夜勤の窓が白みはじめる      一男


11、俳句史と俳諧史
俳諧は雅俗の両面をもち、そのからみあいに俳諧史の本体があった。
明治三〇年に新聞「日本」に入社し、子規の影響を受けて「新川柳」を唱えた坂井久良岐・井上・岡田らが「ホトトギス」に相当する、本格川柳「番傘」となって、うがち・滑稽・風刺を伝統とする守旧体制をととのえ、これに不満を持つ近代化勢力が続出。反戦を主張したプロレタリア川柳誌「川柳人」は、

射抜かれて笑って死ぬるまで慣らし         水叫坊
退却が待ち遠しい銃をかついでゐる        仮面坊

などを発表、俳句界より三年前に検挙もされた。
新興俳句が季を捨てたとき、すでに川柳化が始まっている。柳俳併合の呼びかけが川柳側からされるのも、その歴史的劣等感にもよるが、こんな実情をふまえているのである。
俳句の近代化は、俳句の川柳化であるともいえよう。

  それにしても今なお、新傾向や新興俳句が、挫折や消滅を繰り返し、芭蕉発句への回帰を示しているのはなぜだろうか。
子規の書生気質を、生真面目な若者たち、それも文化人を自負する人々に支えられてきた。一代の俳人が、一つの境地を深めるよりは、万年青年として思想に飛びつき、それを古いとして乗り越えようとする新しがりの若者も輩出する。この循環は永遠に続く「芸」の宿命であるが、どの俳風が生き残り人々に「健全な俳句を提供」してゆくのか、 業俳の盛んな今、俳界の試練は続く。
                                         
参考文献 :俳句大観(明治書院)
        :俳句鑑賞入門(金園社)


◎この「一片のつぶやき」は、柩の中まで続きます。次は「芭蕉の足跡・俳論」を予定しています〜

HP;「国民の俳句・童話」
〜てんゆうの誠〜