選者の選句
選 者 の 選句
ここでは新聞やラジオ、テレビまたは各種全国大会の選者の選んだ俳句を検討してみたい。その選者の大半は芭蕉の「俳句理念」を軸として活躍されていることから、その軸がぶれていないか、を検証してみたい。選者の理念が鮮明になる。ならなければいけない。
「第27回 朝日俳壇賞」
朝日俳壇1/17
2010年の入賞句から、4選者がそれぞれ一句を厳選した年間賞。
大串 章・選 菜の花に月の行方を尋ねけり
〜蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」を下敷きにした一句。
芭蕉も句業の前半は古風を尊び和歌や縁語、また杜甫の漢詩を下敷きにしていたが、後半は「不易流行」「かるみ」の思想を唱えた。連句の時代、蕪村の発句に付句を添えれば、このようになるかもしれない。しかし、俳諧は発句に独立性を持たせることで発展したもの。もちろん「いひおうせて、なにかある」ことが大切であるが・・・。蕪村の句のコピーにすぎない一句が、年間賞に値するとは驚きである。作者はこの色に埋没しないことを祈る。
私にとって俳壇随一の主宰と認じていただけに、真意をはかりかねている。
稲畑汀子・選 寝たふりの狸憎めず罠外す
〜虚子の血筋を引き懸命に尽くす姿には敬服する。しかし、所詮「台所俳句」をひきずっている選者。この句に詩情は全く無い。全てを言わず、言葉を提示して読者の想像力・観賞に委ねるのが詩であり俳句である。17文字の散文にすぎない。かつて祖父が破門した流麗で大らかな杉田久女を思い起こしてほしい。また世襲にこだわらず次期主宰の登場を願う。
金子兜太・選 里芋といふ極上の土食らふ
〜一途に「新しみ」を追求し、自由律を志向。文語と口語の混在を主張しているが、掲句はたまたま文語調。
句は大胆で詩的な高揚が認められるが、叙景の対比と言葉の振るまいで瞬時の「おどろき」を衒う。「土食らふ」が目玉。
長谷川 櫂・選 一本の詩精神として秋桜
〜上五、中七にわたる破調が言葉を引き締める。しかし季語の斡旋は意味不明。蝉、白牡丹などではどうなのか。「として」がやや口語的であるし、理であり詩ではない。文語体にこだわる主宰の選にしては意外。そういえば彼の観念的な句を思い出す。「ごを敷いて我が魂の床と成す」。芭蕉を専ら探求し著書も多いが、はたして芭蕉はこのように持って回った観念臭濃厚な句を推奨するだろうか。標語は標語の分野がある。
※ところで、この文芸欄のどこをみても選者の選評がない。受賞者の喜びの言葉のみ、懸命に努力を積まれているらしく、努力を讃えたい。しかし、何故選ばれたのか?が不明確で喜べるだろうか。年に一度の「選者の主張(色)」を見せるチャンスではないか。選評をおろそかにすれば、このような素人の勝手な解釈も生まれる。俳句文化を牽引する立場の俳人は、結社に限らず公然と国民に俳論を提示する義務があるのではないか。
しかしながら、それなりに選者同士の思惑もありそうだが俳界の未来を案じて(かなり大げさ)また、暇だったので(たいていヒマ)、電話機をつかんだ。
受話器を取り落として、壁との間に首が挟まったりした。
私「もしもーし/朝日新聞/でしょうかね」
相手「はいはいそうで/ございます」
私「一七日の/俳句欄/年間賞の/ことですが」
相手「一体なんで/ございましょう」
私「選者の選評/ないですね」
相手「ございませんね/そうですね」
私「なぜなんですか/ないなんて・・・」
私「読者はつんぼ/さじきです/選者が拒否を/しましたか」
相手「いえいえそうでは/けっしてございません(字余り)」
私「あなたが決めた/ことですか」
相手「いえいえとんでも/ございません」
私「事情はおよそ/わかるけど」
相手「私もそのように感じて(字余り)/いましても/いろいろいろと/ございますので・・・」
相手「もしもーし/失礼ですが・・・」
私「さようなら」
このように会話がそのまま五・七調で進む。なかには字余りもみられるが、如何にこの調べが日本人に染みついているかが伺える。この担当者は、もしかして俳句をなさっているかもしれない。そうであれば携帯の句友に?・・・。
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