芭蕉の足跡ー俳論
去来抄
芭蕉は、『虚栗』跋や俳文「幻住庵記」「許六離別の詞」、紀行文『笈の小文』の冒頭、さらに句合・懐紙の標語や書簡の中などで、断片的に俳諧について述べることはあったが、まとまった形の俳論を残すことはなかった。俳論はむしろ門人たちによって書かれ、その数は三十部を下らない。その中、最もよく芭蕉の考えを伝えるものが、去来の『去来抄』と土芳の『三冊子』である。
去来(1651〜1704)は本名向井平次郎元淵。長崎の産。父元升は長崎聖堂の初代祭酒。兄震軒、弟元成もともに朱子学者。従って去来の俳論の根底には朱子学的論理の存在が指摘される。八歳の時家族とともに京に移り、貞享頃芭蕉に入門、「西三十三カ国の俳諧奉行」と称され、芭蕉の代表的撰集『猿蓑』を芭蕉の指導下に凡兆と共編、またしばしば師を嵯峨野の落柿舎に迎えて教示を受ける。芭蕉没後門人たちが次第に詩風から離れてゆくのを黙視しえず、師説を説き、俳論を戦わせた。その総決算として書かれたのが『去来抄』で、先師評・同門評・故実・修行の四部より成る。宝永元年(1704)ごろ成立。
前二部の草稿本も伝存し、本文は上記の草稿本によった。
行く春を近江の人と惜しみけり
先生が言われるには、「尚白の非難によると、この句の〈近江〉は〈丹波〉にも、また〈行く春〉は〈行く歳〉に置き換えても同じではないか、と言っている。お前はどう解釈するかね」と。
私は「いや、尚白の非難は見当違いです。近江の国は、雪深い丹波と異なり、蘇東坡の詩にも〈山色朦朧〉と詠まれている西湖の美しささながらに、湖水も一面にぼうっと霞み、惜春の情を述べるのに、いかにもふさわしいはずです。さらにこの句は、想像によって詠まれたものではなく、今日、先生がそういう実景に望まれての実感を詠まれたものですから、言葉が動くというようなことは絶対にあり得ません。」と申し上げた。
先生は、「そのとおり、昔の歌人たちも子の近江の国の春光を愛し、去りゆく春を惜しんでその感懐を詠み残している点では、なかなか都の春にも劣らないものなのに(それを〈丹波〉と一緒にするとは)」とおっしゃった。
私は、「先生の今のお言葉に深く感銘いたしました。もし行く歳に際して近江におられたならば、どうして歳の暮れゆくのを惜しむ感懐がおありになりましょうか。また、もし行く春の時節に丹波にいらっしゃったならば、もとより惜春の詩情は浮かばないでしょう。本当に自然の風光が人を感動させ催させる詩情には、古今を通じて不変の真実がございますね」と申し上げた。
すると先生は、
「去来よ、お前はともに芸術について語るに足る者だね」と、たいそうお喜びになったことであった。
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな
海士の家は小海老に混じるいとどかな
(湖畔の漁師の家では、薄暗い土間の片隅のむしろの上に、捕ってきた小海老が山と積まれ、その小海老に混じって、海老に形のよく似たいとどが、侘びしく秋を鳴いていることだ。)
凡兆と二人で『猿蓑』の編集に当たっていたとき、先生が「この二句のうち、どちらか一句を集に入れるように」と言われた。凡兆は「〈病雁〉の句も結構ですが、〈小海老に混じるいとど〉というのは、句の把握・表現の自由で透徹している点といい、素材の斬新さといい、誠に秀逸な句だとおもいます」と言って、入集を希望し、一方、私は、「〈小海老〉の句はなるほど珍しい情景をとらえてはおりますが、そうした素材さえ思いつけば、私にも詠めるでしょう。それに対し、〈病雁〉の句は品格も高く情趣も幽遠で、私などには、とうていこうした高い句境は達成できそうにありません」と言って論争し、ついに両句とも先生にお願いして『猿蓑』に入集することと成った。その後、先生は「〈病雁〉の句を〈小海老〉の句などと同列に扱って、とんでもない議論をしたものだ」とお笑いになった。
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岩端やここにもひとり月の客 去来
(ひとり明月に浮かれて散策していると、岩頭のあたりにもう一人、自分と同じように月に興じている風流人を見つけた。)
先生が京においでになったとき、先生に、
「洒堂はこの句の下五を〈月の猿〉と改めた方がよいとの意見でしたが、私は〈月の客〉の方が優れているだろうと申しました。いかがでしょうか」とお尋ねした。
先生は「〈猿〉とは何事か」と言われて、洒堂の意見を一笑に付されるとともに、「お前はこの句をどういうつもりで作ったのかね」とお尋ねになった。
私は「折からの名月に浮かれて、句を案じながら山野を散策しておりますと、ふと、ある岩の端に腰うちかけて月に興じている、私と同じような風雅の士を見つけた、と言った趣を詠んだつもりでございます」と申し上げた。
すると先生は、「ここにも月の客がいますよ、と月に向かい自分から名乗り出たとする方がどれほど風流の趣が濃いかもしれない。もっぱら自分から名乗り出たとしたがよい。この句は、私ももてはやして、『笈の小文』に書き入れておいたほどだ。」と。
後からよくよく考えてみると、なるほど、風狂の士の面影も彷彿として浮かんで、私の最初の趣向より十倍も優れている。まことに作者である自分自身、その句の真意を知らなかったことに気づいたのであった。
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うづくまる薬罐の下の寒さかな 丈草
(師の病状を心配しながら、薬を煎じる薬罐の傍らにじっとしゃがみ込んでいると、ひとしお冬の寒さが身に沁みることだ。)
先生が大阪で最後の病床に臥しておられたとき、看病に集まった門人たちに、「夜伽」ということを題に句を作るようお勧めになって、「今日以後は、すべて私の死後の句と覚悟せよ。一時も私に相談してはいけない」とおっしゃった。その際、さまざまの句が数多く作られたけれども、その中でこの〈うづくまる〉の一句だけを「丈草、でかしたぞ」とお褒めになった。いかにも、こういう際には、このような悲痛の心情こそ動くべきであろう。わざわざ句作のための感興を催したし、特別の景趣を探し求めたりする心の余裕などあるまい(そのような、ぎりぎりの、つきつめた心情を率直に詠出したからこそ、先生の最後のお褒めにあずかるこのような名句も生まれたのだ)とは、この時つくづく思い知った次第である。
参考文献:尾形仂・著「芭蕉ハンドブック」